千秋と律のアブない夜

「俺とラブホテルに行ってくれませんか?」
思いもよらない相手からそう言われて、律は目を剥いた。

小野寺律は、どうしたものかと思案していた。
今日は帰りたくない。
もっと正確に言えば、隣人と会いたくないのだ。
彼はきっと律のことを待ち伏せているはずだから。
だから律は一度は部屋の前まで戻ったものの、またマンションを出てしまったのだ。

どこに行こうかと思うと、行き場所に困ってしまう。
一番安易に思いつくのは実家だ。
だが帰れば、母親はとにかくうるさく話しかけてくるだろう。
挙句の果てに未だに両親の中では婚約者である杏との仲に、口を出してくるに決まっている。
24時間営業のファミレスにでも行こうか?
でもそうすれば一晩中グルグルと悩んでしまいそうだ。
1人でカラオケも何だか虚しいし、ネットカフェも好きではない。
迷った末、結局律は会社に戻ることにした。
仕事をしていた方が、何も考えずに済むと思ったからだ。

「あれ?小野寺さん?」
会社の最寄駅まで電車で戻り、駅を降りたところで声をかけられた。
ちょうど会社の方から現れたのは、月刊エメラルドの人気作家。
吉川千春こと吉野千秋だ。
こんな時間まで、羽鳥と打ち合わせでもあったんだろうか?
律は微笑を浮かべると「こんばんは」頭を下げた。
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