千秋と律の恋の話

こんにちは、と声をかけられて、小野寺律は顔を上げた。
編集部の前に立っていたのは、吉川千春こと吉野千秋だった。
律はとっさに羽鳥の席を見て、次に高野の席を見た。
吉野の担当は羽鳥であり、羽鳥が不在の時には編集長の高野が応対するだろうと思ったからだ。

だが2人とも席にはいない。
そうだ、この時間は高野と羽鳥は会議に行っているんだと思い至る。
そして木佐と美濃はそれぞれ担当作家との打ち合わせで外出しており、編集部には律しかいない。
律は吉野に応対するために、席を立った。

「こんにちは。今日はわざわざどうなさったんですか?」
「ええと、原稿を届けに来たんですが。。。」
吉野は言葉を濁しながら、羽鳥の席を見た。
律は表面上はにこやかに応じながら、内心は怪訝に思っていた。
どうやら羽鳥に話があるようだが、訪問の約束はしていないらしい。
事前に電話なりメールなりを連絡しておけば、羽鳥は時間を空けるだろうに。

「羽鳥は会議中で社内にいますよ。お呼びしましょうか?」
「い、いや、いいです。ホントにいいです。原稿のついでで、いたらいいかなと思って。」
吉野はますます挙動不審になり、律の疑問も膨らむ。
吉野が自分で原稿を持ってやってくるなど、あまりないことだ。
もっぱら羽鳥が取りに行くか、バイク便だ。

そうしてようやく律は気がついた。
吉野は原稿にかこつけて、羽鳥に会いに来たのだ。
つまり仕事ではないことで、何か話があるのだと。

「お待ちになりますか?あ、やっぱり羽鳥を呼びましょうか?」
「いえ、いいです。帰ります。原稿、羽鳥に渡してください。」
帰ろうとする吉野の背中は、なんだか寂しそうに見えた。
だから律は思わずその背中に「あの」と声をかけた。
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