千秋と律のアンチエイジング

「どうぞ。」
乙女部の名に恥じない愛らしい顔立ちの編集部員が、お茶と菓子を置いてくれる。
吉野はその顔を盗み見ながら「この人、誰さんだっけ?」と考えていた。

吉野千秋は打ち合わせのために、丸川書店に来ている。
だが生憎打ち合わせの相手である担当編集羽鳥は、前の会議が延びていてまだ来られない。
そこで手が空いている編集部員が、打ち合わせスペースに案内してくれた。
緑茶と和菓子まで出してもらって、吉野はただただ恐縮していた。

それにしても気持ちが悪いのは、どうしてもこの編集部員の名前を思い出せないことだ。
紹介されて自己紹介はしているのだが、あまり接点がないのだ。
羽鳥以外でよく話をするのは、編集長の高野。
そして新人の小野寺律には、何度か修羅場の時に手伝ってもらっている。
だがこの彼はほんの数回しか面識がなく、しかもいつも挨拶程度なのだ。

「よかったら食べてください。これ最近俺がハマっててすごく美味いですよ。」
かの編集部員がニコニコと指さすのは、どら焼きだ。
吉野は「ありがとうございます」と礼を言うと、手を伸ばした。
美味しいったって、所詮どら焼き。
そう思ってパクリとどら焼きをかじった吉野は「わ!」と声を上げた。
その辺のどら焼きとは一味違う。
まろやかな餡の甘みとふっくらした生地のバランスが絶妙だ。

「本当に美味しいですね!」
「でしょう♪」
吉野が感激して声を上げると、彼も嬉しそうに笑った。
その表情は、少年のようにかわいい。

俺、もう若くないのかな。
吉野は内心ため息をついていた。
いくら担当外でも、自分の作品を掲載してくれる雑誌の編集者の名前を忘れるなんて。
若々しい彼の表情を見ていると、ますますそう思ってしまう。

「失礼します。」
不意にノックの後、ドアの外から声がかかった。
開いたドアから顔を覗かせたのは、今度は名前を覚えている編集者だった。
期せずして、どうしても思い出せなかった彼の名前を呼んでくれた。

「木佐さん、新刊のコミックスの件で、至急の問い合わせが来てますよ。」
「あ、ありがとう」
そうだ、木佐さんだ!
吉野はホッとするとともに、部屋を出て行く彼の背中に心の中で詫びていた。
名前を忘れるなんて、年齢以前に社会人としてかなり申し訳ないことだった。
1/3ページ