第3話「ノスタルジー」

「お、お待たせ、しました!」
訓練場に響くその声に、隊員たちが咆哮を上げる。
だが三橋がその剣幕にビビっているのを見て、郁は申し訳ない気分になった。

図書隊の業務は実に過酷だ。
本を守るために、血を流しながら戦う。
良化隊の実力行使、または館内での犯罪、そして隊内の権力抗争。
時に心を折られ、くじけそうになりながらも、前に進まなければならない。
そんな中、隊にとっては実に些細、だが図書特殊部隊にとっては切実な事件が起こった。

それは特殊部隊用の備品倉庫にある大型冷蔵庫の故障だった。
ここには常に隊員たちの水分補給用の水やスポーツドリンクが大量に冷やしてある。
過酷な訓練の後、冷たい水分をゴクゴクと身体に流し込んで潤すのだ。
それが冷やせないのは、地味につらい。

もちろん冷蔵庫を買いかえれば、それで解決する話である。
だが申請書を出して、経費として認められるというプロセスを踏まなければならない。
つまり簡単に新しいものが届くわけではないのだ。
暑い夏の最中、訓練の後に冷たい飲み物がない。
最初はまぁしばらくの間我慢すればなどと思っていたが、それはジワジワと隊員たちを追いつめていた。

そんな隊員たちを救ったのは、思いも寄らない人物だった。
隊員食堂の「レンちゃん」こと三橋である。
最初に三橋に助けを求めたのは、郁だった。
何しろ隊員食堂には、食材を保存する大型冷蔵庫がいくつもある。
その片隅で、隊員たちの飲み物を冷やせないだろうかと。

残念ながら、その答えはノーだ。
物理的には全然可能なのだが、ここでも組織の建前が優先される。
隊員食堂は民間の業者に委託し運営される、別会社なのだ。
一部の隊員のために便宜を図るとなると、余計な問題になりかねない。
図書隊には多くの隊員がおり、残念ながら足を引っ張ったり、派閥争いのネタを捜す者も少なくないのだ。

「それ、なら。こーゆうの、どう、かな?」
がっかりする郁に、三橋は新たな案を提示してくれた。
それが飲み物の出前サービスだ。
最近始めた弁当の出前は好評だった。
それに新メニューという形で、飲み物を追加したのだ。
それならば三橋と食堂のおばちゃんたちの裁量で出来る。
それに一応料金が発生するから、特定の隊員に便宜を図ったなどとツッコミも入れられない。

即日のうちに、それは全隊員に伝達された。
そして翌日、特殊部隊の訓練時に三橋が出前を運んできたのだ。
昔懐かしい金属の大きなヤカンが10個、その中には氷をたっぷり入れた麦茶。
そしてスポーツドリンクを入れた大きなウォーターサーバも10個。
さらに落としても割れないプラスチックのカップも大量に添えられている。

「おぉぉ!」
「これは、ありがたい!」
「命の水だぁぁ!」

特殊部隊の屈強な男たちは咆哮を上げながら、三橋に駆け寄る。
正確には三橋が押していた台車に載せられた飲み物たちにだ。
まさに「ドドド」と擬音がつきそうな勢いに、三橋は怯えた表情になった。
水分に餓えた男たちは、はっきり言って野獣と変わらない。

「レンちゃん!ありがとぉぉ~!」
ガバガバとスポーツドリンクや麦茶を貪る男たちの中から、顔を出したのは郁だった。
この出前の注文主である郁に、三橋は「毎度、ご注文、ありがと、ございます」と頭を下げる。
そして注文伝票を差し出すと、郁は受け取って「笠原郁」と署名をした。
これらは月末にまとめて、代金を振り込むことになっている。

「ありがとう。本当に助かった。」
堂上がすかさず郁の横に並び、三橋を労ってくれる。
三橋は「いえ!こちら、こそ、です!」ともう1度頭を下げた。
飲み物は店で買うよりは少々割高であり、隊員食堂としてもなかなか良い商売なのだ。

「あとで、食器、取りに、来ます!」
三橋がクルリと踵を返すと、背後から「助かった」「すごく美味い」などと声がかかった。
郁が「みなさん、レンちゃんにお礼!」と声を張る。
すると男たちは「ありがとうございました!」と濁声のハーモニーを奏でた。

「こ、こちら、こそ。毎度、ありかと、ございます。」
男たちの声にビクンと身体を震わせた三橋は、もう1度振り返ると頭を下げた。
そして全員の視線が注がれていることに照れ、真っ赤になりながら小走りで去っていった。

程なくして冷蔵庫は新しくなり、切実な危機は去った。
だが隊員食堂に飲み物の出前注文は、続けられた。
隊員たち曰く「なぜか出前の飲み物の方が美味いから」。
だけど郁は「ヤカンに麦茶」がオッサン隊員たちのノスタルジーを誘ったのだと思っている。
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