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阿部、隆也、さん、ですね?
三橋は書類に書かれた名前を読み上げると、相手の顔を見た。
どうやらここに来たのが不本意らしい阿部は「はぁ、まぁ」と覇気のない返事をした。

三橋廉は有名スポーツジムのインストラクターをしている。
アスリートの育成や健康な体作りを掲げる普通のジムとは違う。
ずばりダイエットに特化したジムだ。
高い料金をいただく代わりに、決められた期日にしっかりと痩せていただく。
マンツーマンで限界まで運動をさせて、食事のメニューまで管理する徹底したものだ。

三橋はジムのカウンセリングルームと呼ばれる部屋で、1人の会員と向かい合っていた。
本日入会したばかりの若い男性だ。
入会申込書によると、名前は阿部隆也。
年齢は偶然にも、三橋と同じだ。
そしてここに来る会員の御多分に漏れず、ウエストにも顔にもぽってりと肉がついている。
事前の身体測定によると、身長は180センチ弱、体重はあと少しで3桁の王台に乗る。

痩せたい、理由、は、何、ですか?
三橋は決められている定型の質問を投げかけた。
具体的な目的があれば、それでいい。
さほど明確なものがないなら、こちらから理由づけをする。
ダイエットは誘惑との戦いだ。
はっきりとした目標を掲げることが、誘惑を退けて頑張るエネルギーになるのだ。

痩せないと、婚約破棄されるんだ。
阿部は憮然とした表情で、そう答えた。
それを聞いた三橋は思わず「え?」と聞き返した。
配偶者や恋人に痩せろと言われたからという理由は、さほど珍しくない。
だが「痩せないと婚約破棄」は、初めて聞いた。

そ、そ、それは、大変、ですね。
三橋は思わずそう応じたものの、その後の言葉に迷った。
すると阿部は「ハァァ」とため息をつく。
そして暗い表情で三橋を見ながら、重い口を開いた。

婚約者は今、仕事の関係でアメリカにいるんだ。
3か月後に帰国するんで、それまでに30キロ落としたい。
阿部は浮かない表情のまま、そう言った。
どうやらそれ以上の説明はしたくないらしい。

わかり、ました!
30キロ、は、大変、ですが、一緒に、が、頑張り、ましょう!
三橋は勢いよく宣言すると「フヒ」と笑った。
それを見た阿部が、一瞬驚いたような顔になる。
だがすぐに元の不機嫌さに戻り「よろしくお願いします」と頭を下げた。

そしてそこからは定型のルーティーンになった。
まずはジムに案内して、一通り器具の説明をしながらデータを取る。
現在の阿部の身体能力を把握したうえで、今後のメニューを作るのだ。

そしてもう1度カウンセリングルームに戻ると、日常生活に関する注意事項の説明だ。
基本は規則正しい生活を心がけること。
ジムに来られない場合に自宅で出来るトレーニングの方法。
そして食事は糖質を落とすことを心がける。
食べてもいいもの、ダメなものを説明して一覧表を渡し、初日は終了だ。

では、次、は、明日、ですね。お待ち、して、ます!
三橋は頭を下げて、阿部を見送った。
今でさえかなりの数の会員を受け持っており、1人増えた負担は大きい。
それでも痩せたいと願う会員たちのためにできることをする。
それが三橋のポリシーだ。

驚いた顔は、ちょっと可愛かったかな。
三橋は概ね不機嫌だった新会員の顔を思い浮かべて、そう思った。
一緒に頑張ろうと声をかけたときに、阿部はなぜか驚いたような顔になったのだ。
その表情はちょっと幼く見えて、不機嫌な顔とのコントラストに驚いた。

これが世にいうギャップ萌え?
三橋はふとそんなことを思ったが、何をバカなことをブンブンと首を振った。
相手は同じ男なのだし、そもそも婚約者がいるという話だ。
三橋は阿部が婚約破棄をされないために、彼の体重と体脂肪を落としてやればいいだけだ。

よし、メニュー、組む、ぞ!
三橋は1人、そう意気込むと、測定したばかりの阿部のデータに目を落とした。
そしてここから三橋と阿部の戦いが始まったのだった。
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