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それじゃ、行くぞ。
阿部隆也は隣に立つ相棒に小さく声をかける。
相棒の三橋廉は、阿部の言葉にしっかりと頷いた。

阿部と三橋は、最近オープンしたばかりのレストランの前にいた。
本店はパリ、そしてローマとニューヨークにも店舗がある。
そして先日、ついに東京にも初進出した。
阿部と三橋は、そんな世界的人気の超有名レストランに食事に来たのだった。

ドレスアップは必須だ。
阿部はきっちりとブランド物のスーツ姿で、靴や腕時計なども高級品でまとめている。
三橋は同じくブランドのワンピースで、アクセサリーをふんだんに付けていた。
ネックレス、ブレスレット、指輪にイヤリング、どれも高価なものだ。
高級レストランのサービススタッフは、まず客の服装を見る。
だから2人とも、文句のつけようのない格好で来たのだ。
そこそこ金があり、高級レストランには慣れている。
そんな雰囲気を演出するためだ。

予約していた阿部ですが。
阿部は店に入ると、案内役のスタッフにそう告げた。
おそらく彼はメートル・ド・テル。
日本語では給仕長、英語ではフロアマネージャー、つまりフロアのサービスを取り仕切る者だ。
彼は一瞬で2人の服装をチェックする。
そして次の瞬間には満面の笑みを浮かべて「いらっしゃいませ、阿部様」と恭しく頭を下げた。
とりあえずは合格らしい。
案内されたのは窓際、この店の中ではかなりいい席だ。

予約の時に、料理はすでに決めている。
だから今日、実際に選ぶのはワインとデザートだ。
でも阿部は「おまかせします」と告げる。
今日は店側の渾身のサービスを見せてもらうのが、目的だからだ。

三橋は何も言わずに、ただニコニコと頷いているだけだ。
ほっそりした身体やすんなりした足を強調する、ミニのワンピース姿。
そして背中まで垂らした長い髪、濃すぎない程度のメイク。
スタッフから見れば、エスコートされた恋人に見えるだろう。

だが三橋がニコニコ笑っているだけなのは、切実な理由がある。
女性を装っているが、三橋は正真正銘、男なのだ。
体型が細身であることと、童顔であることを利用して、エクステとメイクで女に化けている。
だが声だけは誤魔化しようがないので、黙っているのだ。

これは別に、三橋が好き好んでしているわけではない。
高級レストランなら、カップルで行くのが基本だからだ。
阿部よりも三橋の方が、女に化けやすい。
それだけの理由で、三橋はドレスアップして、女以上の女を演じている。

こうして2人は、食事を開始した。
本格的なフランス料理のコースは、とにかく長い。
前菜から始まって、サラダ、スープ、パンで口をリセットして、魚料理。
ここで一度口直しのソルベ、この店ではシャーベットが出た。
コース料理に慣れていない日本人なら、ここで腹が膨れてしまう者も多い。
だが阿部と三橋は平然と、肉料理、そして口の雰囲気を変えるためのチーズを食べる。
さらにフルーツ、デザート、最後にコーヒーとプチフールと呼ばれる小さなケーキ。
ガッツリとしたコース料理を、しっかりと味わった。

2人は終始笑顔で、食事を楽しむ様子を演じた。
店のスタッフたちには、ラブラブなカップルに見せるだろう。
だがそんな2人の実際の会話は、まったく甘くない。
この店の味について、真剣に意見を交わしていたのだ。
もちろんスタッフが会話の聞こえる位置まで近づくと、すかさず話題を変えていたが。

前菜、サラダ、は。わ、悪く、なかった。
だけどスープはちょっと、塩が強いかな。
魚、お肉も。思った、ほど、美味しく、ない。
ああ。全体的に味は悪かねーけど、値段と釣り合ってるかってーと疑問だな。
でも、サービス、は、いい!
ああ、給仕は丁寧だし、感じはよかったな。

2人はこんな感じで、味について、意見を出し合っていた。
そう、阿部と三橋の仕事はリサーチャー。
つまりグルメガイドの覆面調査員だ。
こうして有名なレストランをいくつも回り、味をチェックをするのだ。
月曜から金曜の昼と夜の食事はすべてこれに当てられる。

素性は絶対にバレてはいけないことになっている。
友人にも家族にも、仕事内容をもらしてはいけない。
これは契約書にも明記されており、万が一バレたら即解雇だ。
そこまで完璧に隠すことで、店側にも絶対に悟られない。
だからこうしてごく自然に、この店のありのままの味と雰囲気がチェックできる。

だがそんな秘密の仕事であるからこそ、その認知度は低い。
現に阿部と三橋が所属するグルメガイド「らーぜ」には、常に応募が殺到している。
だけど実際、半端な仕事ではないのだ。
高級レストランは、たまにいくからいいのだ。
日に2回、しかも週5日なんて、もう食事をするのがつらくなる世界だ。
実際、半数以上は、リサーチャーになっても続かずに辞めていく。
また身体を壊して、辞めざるを得ないモノだって少なくない。
ハイカロリーな食事は、身体をジワジワと蝕むのだ。
そんな中で阿部と三橋はコンビを組んで、長くこの仕事を続けていた。

明日、の、は、何、だっけ?
店を出た三橋は開口一番、そう聞いた。
阿部が「昼は中華。夜はイタリアンだ」と答える。
そうこれから帰宅しても今日の報告書をまとめて、明日回る店のデータを頭に入れる。
本当にリサーチャーは楽じゃない。

じゃあ、また明日。
阿部はそう告げると、三橋は残念そうな顔をする。
おそらく三橋は、この後、阿部を食事に誘うつもりだったのだろう。
大食いで、フランス料理のコースを片づけた後、ラーメンを軽く平らげてしまう男なのだ。
だから阿部は先んじて、さっさと先手を打ったのだ。
三橋の胃袋に合わせていたら、確実に内臓を悪くする。

阿部は三橋に手を振ると、夜の街を歩いていく。
三橋には内緒で、この後に行かなければならない場所があるのだ。
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