君のにおい
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いつもは少しやり過ごしていれば忘れる寂しさが、溶けない氷のように胸に残った。人混みでいるはずのない男を探しては、ため息をつく日々が続いた。連絡先は知ってる。でも、どうしても、会いたいだけで連絡できない。会いたい、と素直に言ったら、もう二度と会えなくなるような気がして。
憂鬱な体を引きずって階段を上ると、嗅ぎ慣れたタバコの香りが鼻をついた。いよいよ匂いにも幻覚を感じるようになったのかと頭を抱えながら足を運ぶと、玄関先に座り込む黒い男がいた。
「次元。」
幻かと思った。会いたくてたまらなかった愛おしい男は、鍵を忘れた子供のように膝を抱えてうずくまり、缶コーヒーに吸い殻を落としている。こちらに気づくと、いたずらっ子のようにニィ、と笑った。
「よォ。」
「よぉ、じゃないよ。急に…。」
「電話、繋がらなかったからな。」
慌ててカバンの中の端末を確かめれば、なるほど電池が切れていた。そんなことにまで頓著しなくなっていた自分に呆れる。とりあえず彼をうちに入れて、部屋が散らかり放題になっていることに気がついた。
「忙しかったのか?」
「ああ…うん、まぁ、そんなところ。」
あんなに甘えたくてたまらなかったのに、いざ本人を目の前にすると気持ちがねじ曲がってしまって素直になれない。本当は頰を綻ばせて、広い背中をぎゅっと抱きしめたかったのに、私の口角はほっぺたで道に迷ってしまったし、自分の二の腕をぎゅっと握りしめるので精一杯だ。あまりに急だったのだ。心の準備ができてない。
「お前タバコ吸うんだったか?」
「え?」
彼が指し示す先には、テーブルに出しっぱなしにしていたウィスキーと灰皿。あちゃあ。何と説明しよう。逡巡していくうちに頰が熱くなってくる。言えない。匂いが恋しかったなんて。彼は帽子を傾けて、不思議そうに眉間にシワを寄せている。
「何だよ。」
「それは、たまたま、ちょっと吸いたくなっただけで、その…別に、習慣的な喫煙じゃないよ。」
「フン。」
関心があるのかないのかわからない返事をして、彼はネクタイを緩めた。
「今日はどうしたの?」
「ん?」
「急に来るから。」
「そうだな…。」
彼は慣れた手つきで食器棚からショットグラスを二つ取り出し、注いだ。一つを私に差し出して来る。断り切れずに受け取って、グラスをぶつけると、チン、と乾いた音がした。一口含んで、琥珀色のそれをくるくると回して眺め、満足そうに目を細めてから、彼は続けた。
「会いたい、だけで来るのは迷惑か?」
不意な甘いささやきに言葉を失った。おへその下あたりがぎゅっと締め付けられるようなこそばゆさに包まれる。
「…ず、」
「ず?」
「ずるい…次元…。」
「あぁ?」
ウィスキーをクイ、と傾け、やっぱり慣れないその味にちょっとむせてしまう。
「なぁ、こっち来いよ。」
ソファに深く腰掛けた彼が腕を広げる。何だか素直になれなくて、でも彼にくっつきたい気持ちには逆らえなくて、腕からは離れた位置に膝とショットグラスを抱えて座った。
「急に来たのを怒ってんのか?」
「それは…私の充電切れが悪いし。」
「どうしたんだよ、お前。」
「わかんない。甘え方、忘れちゃったみたい。」
「そりゃあいい。」
私の膝とお腹の間に、彼が頭をねじ込んで来た。
「次元、猫みたい。」
「俺にだってそういう気分の時くらいあんの。」
髭を指に絡ませてくるくると撫でると、本当に猫のように彼の喉がぐるぐると音を立てた。彼は私のお腹に顔を押し当てて、ふかふかと息をする。熱い息がくすぐったい。長い髪に指を滑り込ませる。
不意に、彼のお腹のあたりで光るネクタイピンが、かつて私がプレゼントしたものだと気づく。
「これ、使ってくれてるんだ。」
んー、とも、あー、ともつかない返事がお腹に響く。テーブルの上の潰れたタバコの箱を眺めながら、気づかぬ間にこんなに彼のそばにいられたことに気づいた喜びに、少し気持ちが素直になる。
「タバコ…ね、時々吸っちゃうの。次元の匂いが恋しくて。」
「お前…。」
「うん?」
「それは、ずるいだろ。」
「お互い様でしょ。」
彼の伸ばした手が私のうなじに回った。優しく引き寄せられて、唇が重なる。ウィスキーを口に含んだ時よりも熱く体が火照った。
***