四月の馬鹿
朝のミーティングが終わったカウカウファイナンスの事務所は水を打ったように静まり返っていた。
「社長、今日でこの会社辞めさせてください。今までお世話になりました」
キッパリとそう告げた柄崎を、社員全員が異世界の生き物を見るような目で見つめている。誰もが己の頭と耳を疑いながらも固唾を飲んで見守っているのは、キッと眉を寄せ真っ直ぐに立つ柄崎本人ではなく、右腕から突然の辞意を突きつけられた社長、丑嶋馨の能面のような顔付きだった。
「いやなんつぅか、他にやりたいこと出来たンすよね。彼女候補とも今良い感じに進んでるし、そろそろ身ぃ固めても良いかなァとか思いまし、てッ!」
丑嶋と向き合ったままニヤニヤと軽薄な態度で話し続ける柄崎の言葉が突如途切れる。不意に伸びた丑嶋の手が柄崎の胸ぐらを掴み喉元を締め上げたのだ。
「てめぇ何言ってンだ」
凍てついた事務所の中を丑嶋の声が這う。先程までヘラヘラ喋り続けていた柄崎の喉から細く高い笛のような音が鳴った。
「なァ、おい柄崎。何言ってんだって聞いてんだけど」
丑嶋の手は柄崎の首元を絞めるように益々力が込められ、柄崎は陸にうちあげられた魚のように口を開閉させている。爪先立ちになったスニーカーが床を擦り不快な音を立てた瞬間、我に返った高田が割って入った。
「社長! 一旦落ち着いてください」
「黙ってろ」
高田の静止を遮ったまま丑嶋は柄崎の顔面スレスレに顔を近づける。
「柄崎、それ本気で言ってんのか」
「うそです……。社長、嘘ですから」
柄崎が丑嶋の腕に縋りながらか細い声を振り絞る。その声を聞いた途端、丑嶋の手が離れ柄崎は一気に床に崩れ落ちた。すぐに高田がしゃがみこみ柄崎に「柄崎さん、大丈夫ですか」と声をかけ、苦しげな咳を繰り返す背中をさすってやる。
「ふうん。あ、そ」
高田の優しい介抱を上から眺める丑嶋の声からは先程までの怜悧な激情は感じられない。そして「朝からくだらねぇこと言ってんじゃねェぞ、柄崎」丑嶋は心底どうでも良さそうな様子でそう吐き捨てた。
「すいません、丑嶋社長……。今日エイプリルフールだし、なんかこういう冗談言ってもいいかなと思って」
高田の手を借りて立ち上がった柄崎が捩れた襟元を正しながら丑嶋に弁明した。
「アホみてぇなこと考えてる暇あんならさっさと仕事しろ」
「すみません。その通りですね。本当に、すみませんでした」
すっかりしょげてしまった柄崎の肩を、無言で近付いてきた加納の拳が軽く叩く。高田やマサル、小百合の前で丑嶋に詰められたことよりも親友に気遣われたことの方が余程堪えた様子だった。丑嶋はそんな柄崎の事など眼中に無い態度で
「高田、悪かったな。今度柄崎が焼肉奢るってよ。ああ、全員か。全員に奢んだよな、柄崎」
と放言した。
「え!? あ、いえ、はい。奢ります! 奢らせてください」
慌てて追従する柄崎を無視した丑嶋は悠然とした態度でデスクに向かい、椅子に腰をおろす。微かに軋んだ椅子の音と、社長のいつも通りな態度によって事務所内はようやく安堵の空気で充たされた。
「他の誰が辞めたとしても柄崎さんに限って辞めることは無いと思ってましたし、何より今日の日付を考えたらすぐ分かりましたが案の定でしたか。それでも驚きましたよ」
そっと添えてくれていた手で遠慮がちに柄崎の肩に触れたあと、高田が穏やかに口を開く。
「悪かったな、高田。皆も悪かった、まさかあそこまで冗談通じねぇとは思わなかったからよぉ」
言い訳がましく口にした柄崎の言葉を加納が窘める。
「お前がアホすぎるンだよ。社長の気持ち考えろ」
咎められた柄崎は唇を尖らせていじけた素振りを見せる。
「そうッスよ、柄崎さん。いっつも自分から丑嶋社長のこと追っかけまわしてんだから、今更一抜けは無いでしょ」
マサルの無邪気さを「うるせぇ」と一蹴し、柄崎は唇を尖らせた。
先程まで曇っていた顔が明るくほどけ、おどけた素振りをする柄崎を見てやっと場の空気が溶けていく。カウカウファイナンスはようやく普段通りの業務へと戻った。
その日は随分立て込んだ一日になった。
朝早くから客は途切れず、新規の身分証審査には不備や不自然さが目立つ。回収に向かわせた社員からは競合店やケツ持ちとのトラブルを報告され、社員は皆一日中奔走しては仕事をこなしていた。それでも全てを捌くことは出来ず、結局残業となってしまった。事務所には回収を終えて書類をまとめるマサルと新規客のデータ入力を黙々とこなす小百合が残っていたが二人とも不平をこぼすことなく、目の前の山をひとかきひとかき手で崩すように業務をこなしている。
─日付けが変わるまでには全員帰してやらねぇとな。
社員の仕事を見守りながら丑嶋は一日の決済表を眺め、チェック欄に判を押して息をついた。今回収に出ている三人の売上も、大きな問題は無いと見て良いようだ。やっとの思いで部下に声をかける。
「小百合、マサル。書類と名簿終わったら帰っていいぞ。今日は大変だったろ。お疲れさん」
「はーい。ちょうど今終わったので私は帰りますね。柄崎さんと加納さんと、あと高田さんは? まだ戻りませんけど」
「あ、そうだ社長。さっき高田さんに電話したら回収手こずってるって言ってたんすよ。大丈夫ですかね? なんなら俺行きますけど」
「いや、ちょうど加納が近くで回収してたから応援頼んでおいた。アイツらなら大丈夫だろ。何かあったら俺が行く。柄崎のアホもそろそろ帰ってくんだろ」
「そうっすか。じゃあ俺も終わったしひとまず帰りますけど、手が足りなかったら呼んでください。すぐ行くんで。お疲れ様っした」
帰り支度を済ませ事務所を出る社員を見送り、丑嶋は大きく息を吐いた。と同時に高田からの着信が鳴る。雲隠れしていた債務者をようやく捕え回収出来たので今すぐ事務所に戻ると言う。勤勉な部下に労いの言葉をかけると、丑嶋はそのまま帰宅を促してやった。直帰の許しを得た高田は電話口で丁寧に礼を述べ、すぐ近くにいるらしい加納にも丑嶋の言葉を伝えたようだ。「加納さんもこのまま帰るとのことです。社長、お疲れ様でした」「丑嶋社長、お疲れ様でした」高田の声の後ろから加納の微かな低音が重なった。優秀な社員の挨拶を電話口で見送り電話を切る。
液晶が光るスマホを机に伏せ、丑嶋は背もたれに体を押し付け眼鏡を外した。硬く凝る眉間を指の腹でグッと押す。一日の疲労をため息で逃がそうとするが、脳裏には朝の会話がへばりついて離れなかった。
会社を最小人数で回しているのは必然に拠るものだ。法の外に生きる人間として、悪戯に社員を増やすのはリスクにしかならない。だからこそ今の社員が必要不可欠で、誰が欠けても支障が出る。
理由はそれだ。だからこそ自分はあれほど憤ったのだと、思いたかった。しかし違う。他ならぬ己自身が、理由はそんなことでは無いと告げていた。
浮ついた態度の柄崎が放った嘘が、朝の冷えた空気よりも丑嶋の脳を冷やし、柄崎のあの言葉こそが、丑嶋の精神を掻き乱し曇らせたのだ。そしてそれを認めたくない意固地なプライドが今朝の態度に現れたのだ。
回収業務をこなしながら、丑嶋は途切れぬ耳鳴りのように一日中あの言葉を考え続けていた。もしも、あの台詞を言ったのが別の人間ならば、自分はきっと、いや、決してあんな態度はとらなかつた。そう思うと丑嶋の心は泥のように重く淀んでいく。自分の中のあの男がどれほどの存在なのかが嫌でも自覚させられる思いだった。
(もしも本当にあいつが俺から離れたいと言ったら、その時はどうすればいい。嘘なんかじゃなく、本当に辞めたいと。結婚したいと。そう告げられたら、俺はどうしたい)
深く沈みこんでいく思考が威勢の良い扉の開閉音で途切れる。
「ただいまぁ。っと、お、丑嶋社長お疲れ様です」
天井を睨みながら思索にふけっていた丑嶋に、回収を終え戻ってきた柄崎が声をかける。幾ばくか滲む戸惑いは今朝のやりとりの名残りなのだろう。正直な柄崎の声音が丑嶋の胸を更に掻き毟る。そんな態度を取るくらいなら初めからくだらぬ慣習になど乗るべきでは無い。そうだ、全てはこの男の軽薄さのせいだ、自分はそれにこそ怒っているのだ。まるで小学生が教科書を音読するように己の気持ちを肉体のうちで唱えてから、丑嶋は柄崎を迎えた。冷たい声だった。
「おう」
たった一言だけの素っ気ない社長の声に柄崎は顔を曇らせ、俯いたままで席に戻る。朝の赦しが未だ遂げられていないと感じた柄崎は微かに口を尖らせて不満そうに眉を寄せ目を細めている。一刻も早く帰りたいのだろう。いつもなら帰社と共に脱ぐ上着が今日はそのまま着られている。焦れる気持ちと裏腹に仕事は残っていて、柄崎は無言のまま回収袋の金を書類と照らし合わせ、時折電卓を叩く。(いつもなら煩いくらい話しかけてくるくせによ)先程の自分の態度を棚に上げて、丑嶋は柄崎の横顔をジッと見つめた。素知らぬ顔でペンを走らせる柄崎はこちらを気にする素振りなど見せないままだ。妙に拗れた態度が気に食わず、悶々とする胸を宥めるために丑嶋は勢いに任せて口を開く。
「おい、柄崎」
「はい」
デスクに座り一日の売上を纏めていた柄崎が躾の行き届いた犬のように振り向いた。微かに強ばった表情を見ていると自分でも抑えきれない程に腹の奥が渦巻くような感覚に襲われる。思いついたままに出した言葉に二の句が告げない。静まり返った事務所に時計の音だけが響く。
「……お前が本気で辞めたいって言うならよ」
「いや、だからあれは……」
「黙って聞け」
聞き分けのない子を諭すような、そしてウンザリしたような顔で取り繕う柄崎を言葉で遮り、丑嶋は席を立つ。少しだけ体を引き丑嶋の動作を注意深く見守る柄崎の傍に立って、まぁるい目を覗き込んだ。照明を反射して煌めく瞳を丑嶋の影が覆うと柄崎の呼吸が少しだけ速くなる。
「もしも、お前が本気で辞めたいって言うならよ」
言葉を切った丑嶋を柄崎が不安げに眺めた。規則的な秒針の音が肉体や空間ごと時間を刻んでいくようだ。
息が交わる距離まで近付いても柄崎はちっとも逃げてくれない。柔らかく稚い獲物の血肉を差し出されたような気分が、丑嶋を酷く興奮させる。戸惑ったように丑嶋を見詰める柄崎の頬を両手で挟んで固定した。一瞬詰まった息を追うように、柄崎の厚い唇に歯を立てる。驚いて仰け反る柄崎の後頭部に手を回し逃げられないよう力を込めると、見つめあったまま今度はゆっくり唇に舌を這わせ丑嶋は
「必ず後悔させてやるよ」
と囁いた。
「社長、今日でこの会社辞めさせてください。今までお世話になりました」
キッパリとそう告げた柄崎を、社員全員が異世界の生き物を見るような目で見つめている。誰もが己の頭と耳を疑いながらも固唾を飲んで見守っているのは、キッと眉を寄せ真っ直ぐに立つ柄崎本人ではなく、右腕から突然の辞意を突きつけられた社長、丑嶋馨の能面のような顔付きだった。
「いやなんつぅか、他にやりたいこと出来たンすよね。彼女候補とも今良い感じに進んでるし、そろそろ身ぃ固めても良いかなァとか思いまし、てッ!」
丑嶋と向き合ったままニヤニヤと軽薄な態度で話し続ける柄崎の言葉が突如途切れる。不意に伸びた丑嶋の手が柄崎の胸ぐらを掴み喉元を締め上げたのだ。
「てめぇ何言ってンだ」
凍てついた事務所の中を丑嶋の声が這う。先程までヘラヘラ喋り続けていた柄崎の喉から細く高い笛のような音が鳴った。
「なァ、おい柄崎。何言ってんだって聞いてんだけど」
丑嶋の手は柄崎の首元を絞めるように益々力が込められ、柄崎は陸にうちあげられた魚のように口を開閉させている。爪先立ちになったスニーカーが床を擦り不快な音を立てた瞬間、我に返った高田が割って入った。
「社長! 一旦落ち着いてください」
「黙ってろ」
高田の静止を遮ったまま丑嶋は柄崎の顔面スレスレに顔を近づける。
「柄崎、それ本気で言ってんのか」
「うそです……。社長、嘘ですから」
柄崎が丑嶋の腕に縋りながらか細い声を振り絞る。その声を聞いた途端、丑嶋の手が離れ柄崎は一気に床に崩れ落ちた。すぐに高田がしゃがみこみ柄崎に「柄崎さん、大丈夫ですか」と声をかけ、苦しげな咳を繰り返す背中をさすってやる。
「ふうん。あ、そ」
高田の優しい介抱を上から眺める丑嶋の声からは先程までの怜悧な激情は感じられない。そして「朝からくだらねぇこと言ってんじゃねェぞ、柄崎」丑嶋は心底どうでも良さそうな様子でそう吐き捨てた。
「すいません、丑嶋社長……。今日エイプリルフールだし、なんかこういう冗談言ってもいいかなと思って」
高田の手を借りて立ち上がった柄崎が捩れた襟元を正しながら丑嶋に弁明した。
「アホみてぇなこと考えてる暇あんならさっさと仕事しろ」
「すみません。その通りですね。本当に、すみませんでした」
すっかりしょげてしまった柄崎の肩を、無言で近付いてきた加納の拳が軽く叩く。高田やマサル、小百合の前で丑嶋に詰められたことよりも親友に気遣われたことの方が余程堪えた様子だった。丑嶋はそんな柄崎の事など眼中に無い態度で
「高田、悪かったな。今度柄崎が焼肉奢るってよ。ああ、全員か。全員に奢んだよな、柄崎」
と放言した。
「え!? あ、いえ、はい。奢ります! 奢らせてください」
慌てて追従する柄崎を無視した丑嶋は悠然とした態度でデスクに向かい、椅子に腰をおろす。微かに軋んだ椅子の音と、社長のいつも通りな態度によって事務所内はようやく安堵の空気で充たされた。
「他の誰が辞めたとしても柄崎さんに限って辞めることは無いと思ってましたし、何より今日の日付を考えたらすぐ分かりましたが案の定でしたか。それでも驚きましたよ」
そっと添えてくれていた手で遠慮がちに柄崎の肩に触れたあと、高田が穏やかに口を開く。
「悪かったな、高田。皆も悪かった、まさかあそこまで冗談通じねぇとは思わなかったからよぉ」
言い訳がましく口にした柄崎の言葉を加納が窘める。
「お前がアホすぎるンだよ。社長の気持ち考えろ」
咎められた柄崎は唇を尖らせていじけた素振りを見せる。
「そうッスよ、柄崎さん。いっつも自分から丑嶋社長のこと追っかけまわしてんだから、今更一抜けは無いでしょ」
マサルの無邪気さを「うるせぇ」と一蹴し、柄崎は唇を尖らせた。
先程まで曇っていた顔が明るくほどけ、おどけた素振りをする柄崎を見てやっと場の空気が溶けていく。カウカウファイナンスはようやく普段通りの業務へと戻った。
その日は随分立て込んだ一日になった。
朝早くから客は途切れず、新規の身分証審査には不備や不自然さが目立つ。回収に向かわせた社員からは競合店やケツ持ちとのトラブルを報告され、社員は皆一日中奔走しては仕事をこなしていた。それでも全てを捌くことは出来ず、結局残業となってしまった。事務所には回収を終えて書類をまとめるマサルと新規客のデータ入力を黙々とこなす小百合が残っていたが二人とも不平をこぼすことなく、目の前の山をひとかきひとかき手で崩すように業務をこなしている。
─日付けが変わるまでには全員帰してやらねぇとな。
社員の仕事を見守りながら丑嶋は一日の決済表を眺め、チェック欄に判を押して息をついた。今回収に出ている三人の売上も、大きな問題は無いと見て良いようだ。やっとの思いで部下に声をかける。
「小百合、マサル。書類と名簿終わったら帰っていいぞ。今日は大変だったろ。お疲れさん」
「はーい。ちょうど今終わったので私は帰りますね。柄崎さんと加納さんと、あと高田さんは? まだ戻りませんけど」
「あ、そうだ社長。さっき高田さんに電話したら回収手こずってるって言ってたんすよ。大丈夫ですかね? なんなら俺行きますけど」
「いや、ちょうど加納が近くで回収してたから応援頼んでおいた。アイツらなら大丈夫だろ。何かあったら俺が行く。柄崎のアホもそろそろ帰ってくんだろ」
「そうっすか。じゃあ俺も終わったしひとまず帰りますけど、手が足りなかったら呼んでください。すぐ行くんで。お疲れ様っした」
帰り支度を済ませ事務所を出る社員を見送り、丑嶋は大きく息を吐いた。と同時に高田からの着信が鳴る。雲隠れしていた債務者をようやく捕え回収出来たので今すぐ事務所に戻ると言う。勤勉な部下に労いの言葉をかけると、丑嶋はそのまま帰宅を促してやった。直帰の許しを得た高田は電話口で丁寧に礼を述べ、すぐ近くにいるらしい加納にも丑嶋の言葉を伝えたようだ。「加納さんもこのまま帰るとのことです。社長、お疲れ様でした」「丑嶋社長、お疲れ様でした」高田の声の後ろから加納の微かな低音が重なった。優秀な社員の挨拶を電話口で見送り電話を切る。
液晶が光るスマホを机に伏せ、丑嶋は背もたれに体を押し付け眼鏡を外した。硬く凝る眉間を指の腹でグッと押す。一日の疲労をため息で逃がそうとするが、脳裏には朝の会話がへばりついて離れなかった。
会社を最小人数で回しているのは必然に拠るものだ。法の外に生きる人間として、悪戯に社員を増やすのはリスクにしかならない。だからこそ今の社員が必要不可欠で、誰が欠けても支障が出る。
理由はそれだ。だからこそ自分はあれほど憤ったのだと、思いたかった。しかし違う。他ならぬ己自身が、理由はそんなことでは無いと告げていた。
浮ついた態度の柄崎が放った嘘が、朝の冷えた空気よりも丑嶋の脳を冷やし、柄崎のあの言葉こそが、丑嶋の精神を掻き乱し曇らせたのだ。そしてそれを認めたくない意固地なプライドが今朝の態度に現れたのだ。
回収業務をこなしながら、丑嶋は途切れぬ耳鳴りのように一日中あの言葉を考え続けていた。もしも、あの台詞を言ったのが別の人間ならば、自分はきっと、いや、決してあんな態度はとらなかつた。そう思うと丑嶋の心は泥のように重く淀んでいく。自分の中のあの男がどれほどの存在なのかが嫌でも自覚させられる思いだった。
(もしも本当にあいつが俺から離れたいと言ったら、その時はどうすればいい。嘘なんかじゃなく、本当に辞めたいと。結婚したいと。そう告げられたら、俺はどうしたい)
深く沈みこんでいく思考が威勢の良い扉の開閉音で途切れる。
「ただいまぁ。っと、お、丑嶋社長お疲れ様です」
天井を睨みながら思索にふけっていた丑嶋に、回収を終え戻ってきた柄崎が声をかける。幾ばくか滲む戸惑いは今朝のやりとりの名残りなのだろう。正直な柄崎の声音が丑嶋の胸を更に掻き毟る。そんな態度を取るくらいなら初めからくだらぬ慣習になど乗るべきでは無い。そうだ、全てはこの男の軽薄さのせいだ、自分はそれにこそ怒っているのだ。まるで小学生が教科書を音読するように己の気持ちを肉体のうちで唱えてから、丑嶋は柄崎を迎えた。冷たい声だった。
「おう」
たった一言だけの素っ気ない社長の声に柄崎は顔を曇らせ、俯いたままで席に戻る。朝の赦しが未だ遂げられていないと感じた柄崎は微かに口を尖らせて不満そうに眉を寄せ目を細めている。一刻も早く帰りたいのだろう。いつもなら帰社と共に脱ぐ上着が今日はそのまま着られている。焦れる気持ちと裏腹に仕事は残っていて、柄崎は無言のまま回収袋の金を書類と照らし合わせ、時折電卓を叩く。(いつもなら煩いくらい話しかけてくるくせによ)先程の自分の態度を棚に上げて、丑嶋は柄崎の横顔をジッと見つめた。素知らぬ顔でペンを走らせる柄崎はこちらを気にする素振りなど見せないままだ。妙に拗れた態度が気に食わず、悶々とする胸を宥めるために丑嶋は勢いに任せて口を開く。
「おい、柄崎」
「はい」
デスクに座り一日の売上を纏めていた柄崎が躾の行き届いた犬のように振り向いた。微かに強ばった表情を見ていると自分でも抑えきれない程に腹の奥が渦巻くような感覚に襲われる。思いついたままに出した言葉に二の句が告げない。静まり返った事務所に時計の音だけが響く。
「……お前が本気で辞めたいって言うならよ」
「いや、だからあれは……」
「黙って聞け」
聞き分けのない子を諭すような、そしてウンザリしたような顔で取り繕う柄崎を言葉で遮り、丑嶋は席を立つ。少しだけ体を引き丑嶋の動作を注意深く見守る柄崎の傍に立って、まぁるい目を覗き込んだ。照明を反射して煌めく瞳を丑嶋の影が覆うと柄崎の呼吸が少しだけ速くなる。
「もしも、お前が本気で辞めたいって言うならよ」
言葉を切った丑嶋を柄崎が不安げに眺めた。規則的な秒針の音が肉体や空間ごと時間を刻んでいくようだ。
息が交わる距離まで近付いても柄崎はちっとも逃げてくれない。柔らかく稚い獲物の血肉を差し出されたような気分が、丑嶋を酷く興奮させる。戸惑ったように丑嶋を見詰める柄崎の頬を両手で挟んで固定した。一瞬詰まった息を追うように、柄崎の厚い唇に歯を立てる。驚いて仰け反る柄崎の後頭部に手を回し逃げられないよう力を込めると、見つめあったまま今度はゆっくり唇に舌を這わせ丑嶋は
「必ず後悔させてやるよ」
と囁いた。
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