道しるべ
「お、ハクモクレンだ」
回収からの帰り道、突如立ち止まり呟いた柄崎に丑嶋が聞き返した。
「なにそれ」
「知りません? あの花、白木蓮って言うんすよ」
ピッと伸ばした腕がブロック塀の向こうに生えた木を指し示している。頼りなさげに見える細い枝先から悪ふざけじみた大きな花が天に向かって綻びていた。
立ち止まったままこちらを振り向いた柄崎は、伸ばした手をしきりに動かしては「社長わかりました?」「あの塀の向こうの木っすよ!」「あれあれ! あの白いやつ」と何故かしら嬉しそうに話し続けている。親しみやすい笑みで得意そうに話す柄崎のそういった仕草は、丑嶋の胸の内を奇妙に波打たせるのだった。胸骨の中をグッと握られたような息苦しさを払うように丑嶋は素っ気ない素振りで柄崎に応えた。
「うるせえな。分かったよ。あれだろ、あの花咲いてる木」
言うなり柄崎を置いて歩を進める丑嶋を柄崎が早足で追いかける。
「母ちゃんに昔教えて貰ったんすよ。母ちゃん結構植物とか詳しいンすよね」
「お前ん家いつも花あるもんな。この間も見たわ。なんか丸っこい、花びらいっぱいあるやつ」
「ラナンキュラスっすね」
隣を歩く柄崎がまっすぐ前を向いたまま答えた。
聞きなれない言葉が耳の中を滑り降りてきて、視界が一瞬白く光った気がした。魔法の言葉を言われたような気がして歩みが止まる。
「なに?」
「ラナンキュラスです」
二歩前で立ち止まった柄崎がこちらに向き直り笑顔で答えた。夕闇の気配が立ち込める住宅街の道端で、柄崎だけが陽の光を纏ったように薄く光って見える。その光が暖かな熱をもたらしてくれることを、丑嶋は苦しくなるほど知っていた。
どこかの家から煮炊きの匂いが漂ってきて、丑嶋は何故か泣きそうになった。
「好きですか? 花」
立ち止まったきり動かない丑嶋に近寄り、柄崎はそっと微笑んだ。
「俺も結構好きなんです。あとは、まぁタンポポとか朝顔とか……。あ! チューリップ! とか……あと桜とか、桔梗! 社長、桔梗知ってます? まぁそんくらいしか知らねぇけど」
「……知らねぇよ」
「紫色ですげぇ綺麗なんすよ。今度見たら教えますね」
まぁるい頬で綺麗に笑んだ柄崎が丑嶋を見上げたまま話す。なんてことの無い会話なのに、なにかとても重大な告白を受けたように思えて丑嶋の心臓はどういう訳か跳ねた。
「社長はなんでも知ってっから、俺がなんか教えてやれるのって珍しいッスね」
得意気な顔でそう言うと今度は柄崎が丑嶋を置いて歩を進める。
丑嶋は兎が食べられる植物を知っている。きっと柄崎以上に正確に知っているだろう。時事に関しても恐らく丑嶋の方が深く関心を持っている。金のことも、世の中の汚濁に塗れた仕組みのことも柄崎より知っている自負がある。
なのに、時折なにも知らないような気持ちになる。
柄崎の口から何気なく零れる言葉が、丑嶋に新たな世界を見せてくれるのだ。それは新しいゲームであったり、外国の俳優であったり、若手の芸人であったりしたが、全て等しく柄崎から与えられた知識だった。それらは丑嶋にとってまるで雲間からさす光のように感じられるものだった。
「社長! どうしたんすか」
先を行く柄崎は背後の夕陽に溶けるように輪郭がぼやけている。強い希求が丑嶋を動かす。
大股で、決して悟られぬように急ぎ足で近付いて立ち止まる柄崎の腕をそっと掴んだ。指先から伝う温もりが境界線を無くしていく。
「さっきの、もう一回教えろ」
「ん? ラナンキュラス?」
鼻の奥がジワッと熱くなり視界が霞みかけ、丑嶋は慌てて目を閉じる。
「……あとは?」
「白木蓮?」
強い西日を背に受ける柄崎と違い、煌々と陽を浴びる自分の情けない顔は柄崎の目にはっきり映っているだろう。しかし柄崎はなにも言わずに向き合うと、丑嶋の肩に手を置いた。
「社長、今日帰ったら一緒に映画観ましょう」
「……お前が前に言ってたやつ?」
「そう。そんで、社長が好きな花の話しましょう」
「花……。お前が言ったやつくらいしか知らねぇよ」
「じゃあこれからも沢山俺が教えます。色んな花、二人で知っていきましょうね」
閉じた目の縁にはきっと誤魔化しようのないものが滲んでいる。みっともなくて恥ずかしいはずなのに、柄崎になら見られても構わないと思った。
「腹減ったしなんか買って帰りましょうか。俺、先歩いてるんで後から来てください」
果てのない優しさに溺れるようだ。丑嶋はギュッと瞑ったままの目を開けて前を歩く柄崎の背中を見た。暮れなずむ道の先で、やはりこの男だけが光って見える。
ゆっくりとその背を追いかける丑嶋に、柄崎の声が響いていた。
──あれはラナンキュラス、あれが白木蓮。二人で、知っていきましょうね。
回収からの帰り道、突如立ち止まり呟いた柄崎に丑嶋が聞き返した。
「なにそれ」
「知りません? あの花、白木蓮って言うんすよ」
ピッと伸ばした腕がブロック塀の向こうに生えた木を指し示している。頼りなさげに見える細い枝先から悪ふざけじみた大きな花が天に向かって綻びていた。
立ち止まったままこちらを振り向いた柄崎は、伸ばした手をしきりに動かしては「社長わかりました?」「あの塀の向こうの木っすよ!」「あれあれ! あの白いやつ」と何故かしら嬉しそうに話し続けている。親しみやすい笑みで得意そうに話す柄崎のそういった仕草は、丑嶋の胸の内を奇妙に波打たせるのだった。胸骨の中をグッと握られたような息苦しさを払うように丑嶋は素っ気ない素振りで柄崎に応えた。
「うるせえな。分かったよ。あれだろ、あの花咲いてる木」
言うなり柄崎を置いて歩を進める丑嶋を柄崎が早足で追いかける。
「母ちゃんに昔教えて貰ったんすよ。母ちゃん結構植物とか詳しいンすよね」
「お前ん家いつも花あるもんな。この間も見たわ。なんか丸っこい、花びらいっぱいあるやつ」
「ラナンキュラスっすね」
隣を歩く柄崎がまっすぐ前を向いたまま答えた。
聞きなれない言葉が耳の中を滑り降りてきて、視界が一瞬白く光った気がした。魔法の言葉を言われたような気がして歩みが止まる。
「なに?」
「ラナンキュラスです」
二歩前で立ち止まった柄崎がこちらに向き直り笑顔で答えた。夕闇の気配が立ち込める住宅街の道端で、柄崎だけが陽の光を纏ったように薄く光って見える。その光が暖かな熱をもたらしてくれることを、丑嶋は苦しくなるほど知っていた。
どこかの家から煮炊きの匂いが漂ってきて、丑嶋は何故か泣きそうになった。
「好きですか? 花」
立ち止まったきり動かない丑嶋に近寄り、柄崎はそっと微笑んだ。
「俺も結構好きなんです。あとは、まぁタンポポとか朝顔とか……。あ! チューリップ! とか……あと桜とか、桔梗! 社長、桔梗知ってます? まぁそんくらいしか知らねぇけど」
「……知らねぇよ」
「紫色ですげぇ綺麗なんすよ。今度見たら教えますね」
まぁるい頬で綺麗に笑んだ柄崎が丑嶋を見上げたまま話す。なんてことの無い会話なのに、なにかとても重大な告白を受けたように思えて丑嶋の心臓はどういう訳か跳ねた。
「社長はなんでも知ってっから、俺がなんか教えてやれるのって珍しいッスね」
得意気な顔でそう言うと今度は柄崎が丑嶋を置いて歩を進める。
丑嶋は兎が食べられる植物を知っている。きっと柄崎以上に正確に知っているだろう。時事に関しても恐らく丑嶋の方が深く関心を持っている。金のことも、世の中の汚濁に塗れた仕組みのことも柄崎より知っている自負がある。
なのに、時折なにも知らないような気持ちになる。
柄崎の口から何気なく零れる言葉が、丑嶋に新たな世界を見せてくれるのだ。それは新しいゲームであったり、外国の俳優であったり、若手の芸人であったりしたが、全て等しく柄崎から与えられた知識だった。それらは丑嶋にとってまるで雲間からさす光のように感じられるものだった。
「社長! どうしたんすか」
先を行く柄崎は背後の夕陽に溶けるように輪郭がぼやけている。強い希求が丑嶋を動かす。
大股で、決して悟られぬように急ぎ足で近付いて立ち止まる柄崎の腕をそっと掴んだ。指先から伝う温もりが境界線を無くしていく。
「さっきの、もう一回教えろ」
「ん? ラナンキュラス?」
鼻の奥がジワッと熱くなり視界が霞みかけ、丑嶋は慌てて目を閉じる。
「……あとは?」
「白木蓮?」
強い西日を背に受ける柄崎と違い、煌々と陽を浴びる自分の情けない顔は柄崎の目にはっきり映っているだろう。しかし柄崎はなにも言わずに向き合うと、丑嶋の肩に手を置いた。
「社長、今日帰ったら一緒に映画観ましょう」
「……お前が前に言ってたやつ?」
「そう。そんで、社長が好きな花の話しましょう」
「花……。お前が言ったやつくらいしか知らねぇよ」
「じゃあこれからも沢山俺が教えます。色んな花、二人で知っていきましょうね」
閉じた目の縁にはきっと誤魔化しようのないものが滲んでいる。みっともなくて恥ずかしいはずなのに、柄崎になら見られても構わないと思った。
「腹減ったしなんか買って帰りましょうか。俺、先歩いてるんで後から来てください」
果てのない優しさに溺れるようだ。丑嶋はギュッと瞑ったままの目を開けて前を歩く柄崎の背中を見た。暮れなずむ道の先で、やはりこの男だけが光って見える。
ゆっくりとその背を追いかける丑嶋に、柄崎の声が響いていた。
──あれはラナンキュラス、あれが白木蓮。二人で、知っていきましょうね。
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