永遠なるもの

 「なぁ、あれどこやったっけ」
 「ああ、あそこでしょ。処方箋ンとこ」
 そう言われてゆっくりと立ち上がった丑嶋は、腰から背筋に走った不穏な痛みに一瞬動きを止めてからのっそりと食卓脇のケースに向かって歩き出す。そのまま棚と向かい合い、引出しの二段目を開けるとしばし睨めっこの様相で覗き込んだのち、手を伸ばして中身を漁ると独り言の延長のような声で「あった」と呟いてから戻ってきた。
 「あ。馨さん、ついでに」
 戻り足の夫に向かって柄崎が手を伸ばすと眠たげな声の丑嶋が「ン」と短い返事を返し、棚の上の老眼鏡を取ってからコタツに籠りきりの伴侶に体を向ける。「寒くならねぇうちに散歩行くぞ」と声をかけると柄崎は
 「散歩! 行こ行こ」
 弾む声を上げた。はしゃぐ男の肩に手を置き、慎重に身を屈め白髪の頭頂部に口付けてから空に向かって花開くように待ちわびている、そのカサついた掌に老眼鏡を置いた。すっかり筋肉は落ちたが、老境を迎えなお頑健な丑嶋の肉体は未だ頼もしい。が、時折どこか重そうでなんだかアンバランスだ。のんびりと儀式めいた口付けを頭のてっぺんに授けられた柄崎は、丑嶋の体重に押された自分の体がまたしても縮んでしまったような錯覚を起こし思わず笑ってしまう。
 「馨さん、散歩と言えばこの間新しい自販機出来たでしょ。あの坂の下んとこ。今日あそこまで行こ。コンポタ買いたい」
 「コンポタの時期か。どうりで寒いわけだよな」 
 「靴新しいやつだから転ばないようにしないと」
 「お互いな」
 そう言いながらコタツ布団を捲って隣に収まる丑嶋を横目に見つつ柄崎は老眼鏡をかける。それから眉間に力を込めてテレビを睨みつけると画面を指さし呟いた。
 「コイツの名前なんだっけ」
 冷めたコーヒーを啜っていた丑嶋はテレビなど今気付いたというように顔を上げ、興味なさげな顔で眺めながらもムッと下唇を尖らせて沈思した。
 「馨さん、ね。これ。コイツ。コイツ知ってんだよなぁ、この間見たよな? コイツの映画。なんかあの、アイドルだった子と山登って山頂で別れる映画。誰だっけな……。知ってんだよ、出てんだよな、ここまで」
 ここまで! とおでこの辺りまで手をかざして独りごちる柄崎を見ながら丑嶋は眉間に寄った皺をさらに深めて唸った。
 「そこまで出てたらもう出てんじゃん。あれだろ、洗剤のCMにも出てるだろ、コイツ」
 丑嶋の突っ込みを無視して柄崎はやにわに「そうそう! ソイツだソイツ」と沸き立つ。結局思い出せていないのに既に答えは得たと言わんばかりだ。
 「あの洗剤使ったことねぇけどどうなンだろう。今度あれにしてみようかな……。あ! そういやあれだ、あれ買ってこないともう無いじゃん」
 とりとめのない会話の主題は役者の名前のことなどとうに置き去りにして日常に根ざしていく。
 「あれはこの間買い置きしたろ。ティッシュんとこに入ってる」
 出てこぬ役者の名と未だ格闘中の丑嶋は必死に脳の引き出しをさぐっているようで、しかつめらしい顔でそう答えたあと諦めたようにテーブルに置いた手を突っぱねて天を仰いだ。
 「駄目だ、全然出てこねェわ」
 心底悔しそうに言う丑嶋を一瞥したあと柄崎がヒヒッと笑う。
 「馨さん、俺ら今いくつだっけ」
 妙に嬉しそうな声で聞いてくる夫を訝しげに眺めてから丑嶋は答える。
 「71だろ。それよりお前も考えろよ」
 散歩の前には思い出してぇ、と呟く真剣な眼差しの丑嶋を瞳に映してから柄崎は益々大きく笑う。ちっとも真面目に取り合わない夫にムッとした丑嶋が嗄れた声で恨み言を言った。
 「お前が聞いてきたのになに笑ってんの。っつうかそんな笑ってっと噎せるぞ。肺炎になんぞ。ジジイなんだからよ」
 何がそれほど可笑しいのか、今やテーブルに突っ伏して肩を震わせている柄崎にお茶の入ったカップを勧めながらそう言うと、柄崎は「ハガッ」と奇妙な音を立てながらより一層大笑した。愛する伴侶の突然の抱腹絶倒に丑嶋はだんだんと不審感を募らせる。
 「なに? 怖ぇんだけど」
 ヒーヒーと割れた笛のような音をたて涙を流しながら笑う柄崎はまたもや夫を無視して質問を重ねた。
 「俺らが初めて会ったのっていつでしたっけ」
 はぁ? と漏れる声は呆れを隠せず、明らかに怪訝そうな顔のままの丑嶋がそれでもきちんと答えた。
 「小学生ん時には会ってたろ。まぁ、ちゃんと出会ったのは中学ん時だけどよ。っつうか本当なんなの? ボケたの? 別にボケても関係ねぇけどいきなり過ぎない?」
 笑い過ぎて案の定噎せかけている柄崎の背中を擦りつつ目の前にカップを差し出すと、柄崎は息を乱しながら受け取って一口二口じっくりと飲み干したあとにハァ、と大きく一息ついてから「だってさ」と口を開いた。老いた重たい瞼は笑みに細められ、深い笑い皺が複雑な樹皮のようで美しかった。
 「俺ら本当ジジイになったんだなって」
 と微笑んだ。
 残存する笑いから来る涙が目の縁を煌めかせていて、丑嶋はティッシュを数枚引き抜くと折りたたんでからそれを拭ってやる。
 「それがなに?」
 未だ笑みを引きずる柄崎が丑嶋の手に触れながらフフ、と息を漏らす。大人しく目元を拭われながら、丑嶋の大きな手に浮かんだシミを愛おしそうになぞって柄崎は口を開いた。
 「昔のことはこんなすぐ出てくんのに最近の芸能人の名前はちっとも出て来ねぇとか本当ジジイじゃん! ……そんだけ一緒にいんですね、俺ら」
 拭い終えたティッシュを丸めながらゴミ箱に狙いを定めていた丑嶋の手が止まる。昔に比べて掠れた声が、昔と変わらぬ温度で丑嶋を満たした。手の中のティッシュを握り直してもう一度狙いを定め勢いよく投げる。丸まったティッシュはゴミ箱の端に弾かれ床に転がった。
 「あー、残念!」
 頬杖をついて丑嶋の投擲を見守っていた柄崎がちっとも残念じゃなさそうな声でニヤつくが、丑嶋は気にもしない様子で柄崎に向き直り、おもむろに柄崎の顔面近くにグッと顔を寄せた。
 「お前は一生俺から離れねぇんだろ。昔言ってたじゃん。忘れちゃった? これからもずっと一緒なんだから益々ジジイになんだぞ、俺ら」
 皺の寄った頬を優しく指で挟んでから告げると、柄崎はまたもや可笑しくて堪らないといった様子で声を上げた。
 「ほら! やっぱ昔のことはすんなり出てくんだよな」
 そう言うと丑嶋の指に手を重ねて、真っ直ぐに愛する男を見つめ柄崎は穏やかに微笑んだ。
 「一生一緒。ちゃんと覚えてますよ」
 頬を包む丑嶋の指は昔とそっくり同じなのに、かつてと比べ随分と骨張っている。その指が、確かに重ねたふたりの年月を柄崎に教えてくれる気がした。
 丑嶋と変わらぬ、カサついて皺だらけの己の指を、柄崎は涙が出るほど嬉しく感じる。
 頬を摘む老いた手に思わず顔を擦り寄せそっと掌に口付けると、丑嶋は幸福な猫のように目を細め、恭しく柄崎の唇にキスをし祈るように額を合わせた。互いの老眼鏡の縁が当たり、カチッと微かな音を立て、丑嶋が穏やかに口を開いた。
 「一生一緒じゃ足んねぇな。この次生まれた時も、お前は絶対俺と一緒になんの。わかった?」
 強欲で遠慮の無い言葉は、しかし目眩を覚えるほどに甘やかで、柄崎はその敬虔な音に酔いしれる思いだった。
 「はい。これからもその先も、ずっと一緒にいましょうね」
 柄崎の答えを胸の奥深くに大事に大事にしまい込むと、丑嶋は重なる体温に誓いを立てるように愛する人に口付けた。
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