友達とはキスしない

 その日の夜、一彩は星奏館の台所に向かって、無言で、真顔で料理をしていた。
 肉をぶつ切りにし、野菜をざくざくと切る、非常に豪快な手つきだがその表情に抑揚は無い。今は台所に一人でおり、話す相手もいないのだから無言でいることは普通だ。しかし、一彩も最近は機嫌が良いと自分の持ち歌が鼻歌にでるくらいにはなっていた。
 それが今日は、鼻歌どころか背中に影が落ちている。廊下からそっと一彩の姿を伺った巽は、台所に彼以外の人物がいないのを確認すると声をかけた。
「一彩さんの料理はシンプルですな」
 巽は、調理台のボウルの中に山積みになっている肉と野菜を見て言った。繊細とは言い難いその現場に、一彩は苦笑する。
「あまり凝ったものを作れなくて、いつも同じもので申し訳ないよ」
 故郷では一通りの料理は習ったのだけれど、都会の台所と調理道具にはまだ慣れないと一彩はよく言っている。
「いえ、シンプルなものほど身体にいいものです。俺は好きですよ」
 この台所には電子レンジやオーブン、ミキサー、蒸し器など大抵の料理をこなせる設備や道具が整っている。しかし、一彩が使うのはいつも包丁とまな板、そしてフライパンだ。時々鍋も使うけれど、真夏に鍋はあまり活躍しない。
 手伝いましょう、と言って巽は料理を進める一彩の隣で、使用済みの調理器具の洗い物を始めた。
「ありがとう、巽先輩」
 一彩が礼を言うと、それ以降は少し静かな時間が過ぎた。一彩が肉と野菜を炒める音と、巽が立てる流しの水音だけが響く。
「一彩さん、少しいいですかな」
「もちろんだよ、巽先輩」
 あとは肉に火が通ったら味付けをして皿に盛り付けるだけだ。肉と野菜を別々に炒めているところに、一彩のこだわりを感じる。
 巽は洗ったばかりの食器を拭きながら、一彩に聞いてみた。
「一彩さんは、最近何か考え込んでいるように見えるのですが、俺では相談に乗れませんか」
「そんな風に見えるかな。……特に、思い当たることは無いんだけど」
 言いながら、明らかに一彩は目を伏せた。友には嘘はつかないと言っている一彩らしく、ごまかすのが苦手なのだ。
「このところ、一彩さんと藍良さんを見ていて気になることがありましてな」
 一彩が話すつもりがないのならと、巽の方から話に突っ込んだ。少々強引だが、四人が同室で過ごしている環境では、なかなか二人で話す時間はとれない。
「一彩さんは最近、少し……藍良さんとの距離を詰めすぎではないでしょうか」
 巽はまな板と包丁をふきんで丁寧に拭いて戸棚へと戻す。扉を閉めるときにバタン、と響いた音が想定以上に大きくて、巽はおっと、と焦った声を出す。
「やっぱりそうなのかな……。実は、藍良にも言われたよ。……普通じゃないって」
 一彩は、昨夜の藍良の様子を思い出した。故郷ではよく大人たちの目を盗んで兄の寝床にもぐりこんだものだったし、親は子を守るように添い寝するのが当たり前だった。だから一彩は、廊下ですれ違った藍良の香りが頭から離れずに、誘われるようにベッドに忍び込んでしまったのだ。
「いつからだろう、藍良を見ているとなんだか……とても触れたくて仕方がなくなるんだよ」
 後で思い返せば夜這いのような行いだったと反省した。下心は無かったのだと言っても、信じてもらえる可能性のほうが低い。
「藍良は小さくて、かわいらしくて、守りたいって思うよ。だから……泣かせてしまった時は焦った」
 フライパンの上で良い焼き色を付けた肉を、一彩は四人分の皿に盛りつけた。塩と胡椒だけで味付けをしたシンプルなそれは見た目だけでも食欲をそそる。
「自分でも、この感情が何なのかわからないんだよ。……こうして離れている今も、藍良に触れたいよ」
 僕はどうしようもないね、と言って一彩は肩をすくめた。故郷で兄や親に甘えていた時とは違う衝動。一彩にとって、初めて抱く感情のような気がした。
「巽先輩。……友達を好いて抱きしめることは、間違っているのかな」
 盛り付け終わった料理をテーブルに並べ、することがなくなると、一彩はテーブルの前に棒立ちした。いつも姿勢の良い一彩らしくなく俯いている。
 巽はそんな一彩に伝わるよう、大袈裟に首を横に振る仕草をした。
「いいえ、とても素敵なことだと思いますよ」
 一彩は顔を上げた。すがるような、答えを待つような表情をしていた。しかし、聖職者であっても神ではない巽は、彼の求めるお告げのようなものを口にすることはできない。己の中にある言葉を拾い集めて、彼を諭すための教示を紡ぐ。
「ですが、藍良さんにとってはどうでしょうか」
「藍良にとって……」
「誰かにとっては正しいことでも、他の誰かにとっては正しくないことがあります」
 先にも、一彩が正しいと思って行った行為で、藍良を怒らせることはよくあった。時には傷つけ泣かせてしまったこともある。
 昨夜の藍良の表情は、あの時の藍良に似ていた。初めてALKALOIDとして振り付けを合わせた、あの時の藍良に。
「そうだね……僕はそれを学んだつもりで、分かっていなかったよ」
 また自分は独りよがりに行動して、人を傷つけてしまった。自分はこんなにも人の傷みを解りたいと思っているのに上手くいかない。
「分からないなら、藍良さんと一緒に考えればいいんです。藍良さんの話にも耳を傾けて考えれば、悪いようにはなりませんよ」
「ありがとう巽先輩。……藍良と話してみるよ」
 曇っていた一彩の表情がいくらか明るくなった。巽もそれに安心して笑顔でうなずく。
「はい。近いうちに、二人でゆっくり話せる時間を作りましょう」
 さあ、食事が冷めないうちに、と巽がポンと手を叩いて、一彩に気持ちの切り替えを促した。一彩は頷いて、皆のために茶を用意した。
 巽が二人を呼びに行くと、夕食の席にALKALOIDの四人がそろう。いつも通りの、夕食の時間が始まった。



 藍良がマヨイと、一彩が巽と話してからは、四人は元と同じ雰囲気へと戻った。一彩と藍良も、お互いの表情を伺うようなぎこちなさはあるものの、普段通りのやりとりが出来ていた。
 しかし、一彩と藍良の間にある問題が解決したわけではないので、マヨイと巽が宣言通り「二人がゆっくり話せる時間」を作ってくれた。
 マヨイは「ESビル内にある自室の様子を見てくる」と言って藍良に目配せをし、巽も「実家の教会に顔を出してくる」と言って、レッスン後に夕食も食べずに出かけてしまった。
 タイミングよく二人同時に部屋を空けるのは不自然だが、そうされることに心当たりがありすぎる一彩と藍良は、おとなしく先輩二人を見送った。
 一彩と二人きりになると間がもたないので、二人はさっさと順番に風呂を済ませた。
 藍良は風呂上がりの寝間着姿で、ぺたぺたと寮の廊下を歩く。人気のない旧館の廊下は暗く、自分達ALKALOIDの部屋からのみ明かりが漏れている。今日はこの建物には、一彩と藍良の二人しかいない。
 先に風呂を済ませた一彩が部屋にいるはずだ。藍良は緊張していた。先ほどはマヨイや巽に便乗して「おれも実家に顔出そうかなァ」なんて言いたくもなったのだけれど、せっかく二人が作ってくれた時間だ。覚悟を決めなければならない。
 自室に入るだけなのに神妙な面持ちで、藍良は部屋のドアを開けた。
「藍良」
 一彩は、二つある二段ベッドの間に置いてあるローテーブルのそばに座っていた。藍良が部屋に入ってくると、一彩が立ち上がる。
「いいよ、座って……ヒロくん」
 二人は、テーブルを挟んで、向かい合って座った。まるでこの時間から打ち合わせをすることが決まっていたみたいなやりとりだった。一彩が目を泳がせ、言葉を選ぶようにゆっくりと切り出す。
「藍良、今日はその……巽先輩が、僕らが二人きりで話せるようにって、席を外してくれていて……」
「……知ってる。マヨさんもそう」
 だからちゃんと話さなきゃね、と言って藍良はふぅ、と深呼吸をした。藍良はじっと、一彩を見た。ヒロくんから話して、という意味の視線を感じ取ってくれたらしく、一彩がうなずく。
「藍良、この間は、その……申し訳なかったよ。藍良の気持ちも考えず、行動してしまった」
「もう気にしてない……って言ったら、嘘になっちゃうけど」
「僕が気にしてしまっているんだよ。……聞いて欲しいんだけど、いいかな」
「うん……」
 一彩は、テーブルの上で指同士を絡ませながら、話すために息を細く吸った。藍良はそれを聞くために息を呑む。
「僕はこのところ、変なんだよ。藍良のことが、かわいくて仕方がないんだ」
「は、はぁ?」
 どんな話が飛び出してくるのか、予想ができていたわけではないのだが、あまりにも藍良の想定と離れていたので思わず声を上ずらせてしまった。
「今もこうして、藍良と話しているのが嬉しいんだ。できれば抱きしめたいくらい」
「あの……」
「でも藍良をまた泣かせてしまうわけにはいかないから」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってヒロくん!」
「ウム、なにかな」
 待てと言われてピタリと待つ忠実な飼い犬のように、一彩が大人しくなる。藍良は額に手を当てて項垂れた。
「すごいこと言ってるって、自覚ある?」
「すごいかどうかは分からないけれど、僕の正直な気持ちだよ」
 一彩が言い切るので、藍良は余計に頭を抱えた。
 てっきり、故郷では友のベッドに侵入するのに許可はいらないとか、単なる好奇心で触れてみたとか、そういう謎の行動基準の話をされるのかと思っていた。
 けれど今、一彩は自分のことをかわいいから抱きしめたのだと説明しなかったか。
「巽先輩に、僕がそうしたくても、藍良は違うかもしれないって言われたんだ」
 やはり、マヨイが藍良にそうしてくれたように、巽は一彩の話を聞いてくれていたらしい。一彩なりに今日まで色々と考えたようだ。
「僕にも、人にされて嫌なことはある。だから軽率だった。……すまないよ、藍良」
 一彩の感性は独特で、藍良の常識からは考えられないような行動をすることがあるけれど、間違えたと思ったときは人の忠告を素直に受け入れられるのが一彩の魅力だ。
 一彩は、その碧い瞳を藍良にまっすぐ向けた。一彩の瞳はいつも強く内側から光を放っていて、目を合わせるだけで引き込まれそうだ。
「でも、これだけは信じて欲しいよ。僕は、決して藍良を傷つけるつもりは無いんだよ」
 曇りの無い純粋な瞳で、瞳と同じように純粋な想いを伝えられ、藍良は迷わずに頷いていた。
「うん……それはずっと分かってるから、大丈夫」
「そうか……」
 藍良も、驚いただけで嫌だったわけではない。むしろ、ここ数日は一彩のことで思考を支配されていた。『デート』の日以降、二人きりになると一彩に抱きしめられることを、その体温を期待してしまっている自分がいたのも事実だと思う。
 人混みや車の往来、ちょっかいをかけてくる人物から、一彩が守ってくれることに、気をよくして甘えていたとも思う。
「話を聞いてくれて良かった。藍良に嫌われたんじゃないかって、不安だったから」
 一彩が安心したように笑った。やっと笑ってくれて藍良もほっとしたのだけれど、これで話が終わりというわけではないだろう。まだ、説明してもらっていないことが沢山ある。
「あのさァ、変なこと聞くんだけど……」
「な、何だい」
 藍良は、かぁっと顔が真っ赤になるのを感じた。けれど、言いかけた以上言い切らなければならない。でないと、自分も納得ができないのだ。
 どくどくと高鳴る心臓が体中に熱い血液を巡らせているような気がする。藍良は深呼吸をして、思い切って聞いてみた。
「ヒロくんは……おれのこと好きなの?」
「もちろん、好きだよ!」
 腹をくくって聞いた藍良は、身構えていた分あっさりとした答えに拍子抜けをする。だめだ、この男は藍良の質問の意図を理解していない。 
「……どういう意味で?」
「意味? 友達を好きになるのに意味があるのかい?」
 この期に及んでまだ藍良のことを『友』と呼ぶ一彩に納得がいかない。一彩が藍良に触れてくる時の体温や力加減は、単なる挨拶のハグではないのに。それくらい、こういった事の経験のない藍良にもわかる。
「あのさァ、言ったよね、友達ならあんなことしないって。ヒロくんの言ってることは、友達だと成立しないのォ」
「じゃ、じゃあどうすれば成立するのかな」
「だから、その……こ、恋人として、とか……」
「恋人……?」
「だからァ! おれのこと恋人として好きなのかって聞いてるのォ! 言わせないでよバカ! 自分の気持ちなんだからさァ!」
 話しながら、藍良も自分の身体がどんどん火照っていくのを感じていた。行動してきたのは一彩が先だし、問いただしているのは自分だけれど、藍良の方も一彩のことを意識していることに気づいてしまった。
 一彩のことを『そんな風』に見たことも、考えたこともなかったけれど、今思えばずっと前から一彩のことを近く感じていた。もしかしたら、初めて会ったあの時から少しずつ何かが始まっていたのかもしれないとさえ思った。
 出会ったばかりとは思えないほど気の置けない会話ができたし、ズレた常識で暴走しがちな一彩には、自分がついていなければと自惚れたりもしていたのだ。
 その一彩は今、藍良に投げかけられた問いについて考え込んでいる。そしてしばらくして、ぼそりとつぶやいた。
「……そうか」
「ヒロくん……?」
 何を納得したのか聞かせてほしくて、藍良は名前を呼んで続きを促す。すると今度は一彩が、顔を赤くして藍良から目を逸らした。
「初めてのことだったから、分からなかったけど……。もしかしたら、この気持ちは恋……なのかな」
「乙女か! ああもうどういう立場なのおれェ!」
 自分に感情を向けている相手に、その感情が恋かどうかを自覚させるなんて、そんな変な話があってたまるかと思いながらも、今その状況になってしまっている。
 好きなアイドルが出演しているからと、藍良はいくつもの恋愛ドラマを見たことがあるけれど、こんな展開は藍良のライブラリには存在しない。
 おろおろと目を泳がせて頬を染めている一彩を前に、藍良は肩を竦めて笑った。こうなってしまったらもう、恥ずかしいついでに全部聞いてみようと思った。
「ヒロくんは、おれにキス、できる?」
 今この場で思いつく、証明の方法はこれしかない。
「え……キス、って、口づけのことかな」
「そう」
「ぼ、僕と藍良が……?」
 狼狽えている一彩のことを、藍良もかわいいと思ってしまう。こんな風に照れる一彩の表情はレアだなと、藍良のアイドルオタクの部分で感じてしまっておかしくなって笑いそうになる。この様子だと、キスの意味はちゃんと解っているようだ。
「友達なら、キスはしないでしょ。ヒロくんの故郷では違うの?」
「……違わないよ。口づけは、愛すると決めた人とするものだよ」
 そう言うと、一彩はもう一度藍良の目をまっすぐに見て、言った。
「だから、何かを確かめるために、そんなことをする訳にはいかないよ」
「じゃあどうやって答えを出すの」
 一彩の藍良への感情は、友としての感情なのか、それとも恋人としての感情なのか。それが分からなければ、先輩たち二人がわざわざこの時間を作ってくれた意味がない。これから藍良が一彩にどんな態度をとっていいのかも分からない。
 けれど、今更ただの友達には戻れないのだろうなと、この時点で藍良も悟っていた。
「……答えなら、もう出たと思う」
 一彩が言った。そして、テーブルの上で所在なげにしている藍良の手を、握った。
「どうやら僕は、君に恋をしているみたいだよ、藍良」
「ヒロくん……」
 藍良は、一彩のこの言葉をずっと聞きたかったような、そんな気がした。心にじわりと、あたたかなものが広がっていく。
「初めてのことばかりで、どうしていいのか分からなかったけど。僕が君に触れたい、君を抱きしめたいと思うのは、僕が君のことを恋人として好きだからなんだね」
 一彩がゆっくりと立ち上がって、藍良のそばにやってきて座る。二人の間に障害物がなくなって、一彩の距離がぐっと近くなった。
「君と一緒に考えていたら分かったよ。誰かを愛するってこんな気持ちなんだ」
 一彩がもう一度藍良の手を握りなおした。きっと今一彩は藍良のことを抱きしめたくて仕方がないのだろう。藍良も、一彩の体温に触れたいと思ってしまっている。
 でも一彩は、ここできちんと藍良が答えるまで待ってくれているのだ。
「だから……藍良も同じ気持ちなら、僕の恋人になって欲しいよ」
 すぐそばで顔を覗き込まれる。油断していると額や肩が触れそうだ。一彩の匂いがする。
「そうしたら、僕は君に、キスができるから」
 今度は、藍良が問いただされる番だった。こんな風に心臓が高鳴るその意味を、藍良だってたった今自覚したようなものなのだ。
「ヒロくんは、ずるいよ……そうやっておれに正直に言わせようとするんだ」
「……僕が先に言ったのだから、藍良の気持ちも聞かせて欲しいよ」
「う……ぅ……お、おれ……」
「うん」
 優しく包み込むような眼差しを見つめ返しながら、藍良は夢でも見ているかのような心地で応えた。
「おれも、ヒロくんのことが、好き」
 言ってから、急に照れくさくなってしまった。
「た、多分……?」
「た、多分じゃキスするわけにはいかないよ藍良!」
 衝動的に抱きしめられそうになった藍良は慌てて一彩の肩を押し返した。しかしこれでは話が先へ進まない。
「ああもう、好きです! 大好き! 恥ずかしいの分かってよォ!」
 藍良は自分のベッドから枕を掴んで、自分を守るように抱きしめた。枕で隠した顔が熱い。恥ずかしい。自分が一彩に対してこんな感情を抱いているなんて、こうして自覚するまで知らなかった気がする。一体この熱と興奮はどこにしまってあったのだろう。
「本当に? 藍良も僕のことが好き? 友達としてじゃなくて……?」
「……友達なら、こんなにドキドキしないもん」
 しばらく二人とも黙り込んで、藍良の心臓の音だけがやけに大きく聞こえるような気がした。そして、一彩の手がそっと藍良の髪に触れて、藍良が顔を上げる。枕から覗いた顔は今まで見せたことないほどに真っ赤になっているのだろう。
 一彩が愛おしそうにこちらの顔を見つめている。 
「藍良、僕はいま、藍良がかわいくて仕方がないよ」
「ヒロくんはどうしてそういうことをサラッと言うかなァ」
「これでも、緊張しているんだよ」
 一彩は、自分と藍良の間にある枕を、藍良の手からそっと取り除いた。そして、藍良の肩を抱き寄せて、額を寄せ合う。
「愛しているよ、藍良」
「お、おれも……大好き、ヒロくん」
 目の焦点が合わないほど近くで見つめ合い、藍良は覚悟を決めて目を閉じた。藍良の唇に、温かくて柔らかいものが触れるのに、そう時間はかからなかった。
 藍良の肌が、心が、一彩の体温と匂いで満たされた。一彩の体温は不思議だ。触れた瞬間から、ずっと前からこうされたかったのだと錯覚させる。まだ出会って二か月も経っていないはずなのに、長年の恋が実り、心を湛えるような心地だった。

 とても長い時間、そうしていたように思う。唇が離れて顔を見合わせてからも、キスの余韻が消えない。
「ヒロくん、その……おれ達これから、お付き合いをするってことで、いいの?」
「うん。僕からもよろしくお願いするよ」
 離れたくないのか、一彩の腕が藍良の背中に回って、しっかりと抱きしめられた。藍良もそれに甘えながら、かろうじて残っている意識の冷静な部分でしっかりとくぎを刺す。
「おれたちアイドルだから……付き合っていることは、ファンの皆には内緒だからね」
 アイドルであり、アイドルオタクである藍良は、アイドルの恋愛沙汰のナイーブさは知っている。応援したいと思う反面、少々さみしい気持ちになるのがファン心理だ。ようやく自分らにも応援してくれるファンがついてき始めているのだから、その人たちを裏切るような真似はしたくない。アイドルは、ファンでいてくれる皆を楽しませる存在だからだ。
 何より、アイドルである『天城一彩』という存在を、自分だけが独り占めするわけにはいかない。
「分かったよ、藍良。人目があるところでは、ダメなんだよね」
 けれど、こうして自分に向けられている好意を、たっぷり浴びてみたいと思うのも事実だった。
「そうそう、でも大丈夫かなァ……。おれたちが急に距離とるのも変だし、ファンのみんなはおれたちが仲良くしてると喜んでくれるんだよねェ。ヒロくんにその加減ってできるのかな」
 藍良が半ば自分に言い聞かせるようにそう捲し立てると、一彩がくすくすと笑ったのが肌で伝わった。今こんな話をしてはムードが台無しだなと、藍良もつられて笑う。
「……その辺は任せてもいいかい?」
「う、うん……そうだね。とりあえず、先輩たちには報告しよっか……」
「分かったよ。……藍良」
「なに?」
 一彩が抱きしめていた腕を緩めて、もう一度藍良の顔を覗き込んだ。
「もう一度、キスをしてもいいかな」
 優しい表情と、甘い声。それは、アイドルである彼ではなく、天城一彩個人としての言葉だった。
「うん……」
 だから藍良も、白鳥藍良としてそれに応えた。


「どうしよう、藍良」
「なに?」
 何度目かのキスのあと、一彩が藍良のことをもう一度抱きしめて言った。
「……もうすぐ先輩たちが帰ってくるころなのに、離れ難いよ」
 藍良の髪に頬擦りをしながら一彩が言う。少し前まで子犬がじゃれてくるようだと思っていた一彩のスキンシップも、もう意味が変わってしまった。
「うぅ、おれはそろそろ勘弁してほしい……! ドキドキしすぎて変になりそうだからァ……!」
「ふふ、分かったよ藍良。これからいくらでもできるしね」
「んもー、そういう事言わないでェ!」
 二人は結局、巽とマヨイが帰ってくるまで、広い部屋の真ん中で肩を寄せ合って座っていた。
 世話焼きの先輩二人は、一彩と藍良の表情を見て安心したように笑ってくれた。
 藍良はその夜は、一彩に絶対に自分のベッドで寝ろと釘を刺し、穏やかな気分でベッドに入った。一彩が少し面白くなさそうな顔をしていたのが少しうれしくて、上がる口角を布団で隠した。


 同じ部屋で眠る恋人になったばかりの一彩と、頼りになる先輩ふたりの気配を感じながら、藍良は気分よく眠りについた。
 明日からは、これまでと違う毎日が始まる気がする。




おわり
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