友達とはキスしない
朝起きた時、一人ではないことが当たり前になってから一夏が過ぎようとしていた。
もうこの星奏館での生活にも慣れたとはいえ、眠りから覚める瞬間というのは誰でも油断している。
「起きて藍良、朝だよ」
「んん……」
なので、白鳥藍良は自分を優しく揺する手とかけられる声に目を開け、その声の主が自分の顔を間近で覗き込んでいることに驚いた。
「って、うわっ! ヒロくん!」
藍良は思わず上ずった声を発してしまった。二段ベッドの下段に上半身を乗り出していた天城一彩は、そんなルームメイトの様子に苦笑する。
「そんなに驚かないで欲しいよ」
「起きた瞬間に顔覗きこまれてたら誰だってビックリするよォ」
「ウム、すまない……気を付けるよ」
藍良は一彩の上半身をベッドの外に押し返して自分も起き上がった。上段に頭をぶつけないようにぺたんと座って、身体と頭がきちんと起きるのを待つ。
「おはよう藍良」
「おはよォ……」
ふあ、とあくびをする藍良に、一彩の手が差し伸べられた。そんなことをしなくても一人で出られる、と思いつつも、藍良はその手を借りてベッドから出た。
そして、部屋に二人以外に誰もいないことに気づいた。部屋の隅にも天井裏にも、人の気配がない。
「あれ、マヨさんは? タッツン先輩はお祈りだよね」
朝いちばん早く起きるのはいつも風早巽で、聖職者である彼は朝のお祈りのために外に出かけるのが日課だ。そしてマヨイはいつも、藍良のベッドを覗き込んでいるか、天井裏か部屋の隅で闇に向かって懺悔をしているのだがどこにも姿がない。
「今日は朝食の当番がマヨイ先輩だからね。藍良が最後だよ」
「うわーごめん、わざわざ待っててくれたんだ」
「マヨイ先輩を手伝っていたら、藍良がなかなか起きてこないから呼びに来たんだ。気にしないで欲しいよ」
同室の三人が起床し、身支度を整え、それぞれの日課や当番へと向かっている間、自分はぐっすりと眠っていたということか。と藍良は少し恥ずかしく思う。一彩に、「藍良は隙が多い」とか「無防備すぎる」とか言われたことがあるけれど、こういうところがそう言わせるのだろうなと思った。
藍良は一彩に先に食卓へ行くように指示して、身支度を始めた。ランドリーから戻ってきたばかりの清潔なシャツとベスト、お気に入りのジーンズを履いていつもの姿になる。
藍良が愛用している洗面カゴをひとつ持って共用の洗面所へ行き、誰もいないことを確認してその一つを使う。この建物を利用しているもう一つのユニットは、ここで寝泊まりすることはほとんど無いようだけれど、鉢合わせるのは少し気まずい。
持ってきたカゴの中には藍良の洗面用具が入っている。夜寝る前と、朝起きてからのスキンケアが、藍良のアイドルとしての日課だ。
ヘアバンドで髪を上げ洗顔をする。お気に入りの化粧水をきちんとつけてからヘアバンドを外し、髪を櫛で整えた。
最後の仕上げにお気に入りのピアスをつけ、首にマグネループをする。そうすれば、アイドル白鳥藍良の私服バージョンの完成だ。
「藍良」
「うわァ!」
満足げに鏡を眺めていたら不意に声をかけられ、藍良はまたしても悲鳴を上げてしまった。振り返れば、洗面所の入り口から一彩がこちらを見ていた。
「い、いつからいたのヒロくん」
「藍良が顔を洗っているあたりからだよ」
「声かけてよねェ」
一彩はいつも気配がない。死角から話しかけられるとほぼ百パーセント驚いてしまう。ならせめて声の大きさを落としてくれないかと思っているのだが、一彩の溌剌とした物言いが気持ちがいいのも事実だしそれも個性なので、わざわざ否定はしない。
「あまりに手際がいいから、見惚れてしまったんだよ」
「まぁ毎日やってるからねェ。どう?かわいい?」
たった今完成したアイドルをカメラにお披露目するように、藍良が鳥の子色の髪を耳にかける仕草をして見せる。一彩はそれを見て、屈託のない笑顔で言った。
「藍良はいつもかわいいよ」
「あっそう、ありがと」
半分冗談なのに一彩はいつもまっすぐに褒めてくれる。藍良は自分がアイドルとしてどう見えているのかを意識して身支度をしているのだが、一彩の誉め言葉は藍良の内面を褒めてくれているような気がして、分かりやすく照れてしまう。
「藍良」
「え、な、なに?」
名前を呼ばれたと思ったら、突然一彩に腕を引かれ、抱きしめられた。気づいたときには一彩の体温に全身を包まれていた。一彩の独特な出自がそうさせるのか、一彩の髪や肌からは不思議な匂いがする。『ヒロくんの匂いだ』と思ってしまった瞬間、藍良は顔が沸騰するように熱くなるのを感じた。
「待って! だめ!」
反射的に一彩を突き放すと、一彩が困惑した表情をした。何故拒絶されたのか分からないといった表情。この男に「普通」や「常識」は通用しない。
「あ、えっと、藍良……」
「い、いきなり何するのォ!」
「すまない。その、人前ではこういう事をしたらいけないと言われたから、今ならいいのかと思って」
「二人きりならいつでも良いものでもないからねェ!」
出会った瞬間から距離が近い一彩は、突然このような行動に出ることがあるけれど、最近は特に脈絡が無い。感極まってとか、人込みを避けたいとか、そういうきっかけも何もなく突然抱き寄せられるのは困る。
「そ、そうなのか……難しいな」
「ヒロくんは何でこういう事をするんですかァ」
照れくさいのを少しごまかすように、藍良は説教をするような口調と仕草で一彩を睨む。一彩はふむ、と顎に手をあてて考える仕草をした。
「ええっと……うまく、言えないんだけど。藍良に触れていると元気が出るんだよ。だから、今日一日アイドル活動に励むための力を、藍良にもらいたいと思ったんだ」
考えながら話しているのに、恥ずかしげもなくそう言い切った。
けれど一彩自身もこの説明で納得がいっていない様子だ。少し顔を赤らめているように見えるのは気のせいだろうか。一彩のその表情に、藍良の中の変なスイッチが入りそうになる。
「何でそういうかわいいこと言うのォ!」
アイドルオタクである藍良は、目の前にいる人の外見や言動、プロフィールなどを総合して瞬時に分析してしまう癖がある。そのアイドル脳がたった今目の前にいるこの男をかわいいと評価してしまった。
曲がりなりにもアイドルである一彩は一般人が「整っている」と思う顔面の基準を軽くクリアしており、そんな顔が藍良の目の前で笑ったり困ったりしているのは心臓に悪い。
「えっ、かわいいのは僕じゃなくて藍良だよ!」
「そういうのいいからァ! 普段はデリカシーの無い野生児のくせに! そんな顔でそんなこと言って! 何!? ギャップ萌え狙いなの!?」
ツッコミと照れ隠しと怒りとが混ざった複雑な感情で、藍良は一彩の胸を叩いた。細身ながら筋肉質の一彩には全然効いていないのだろうが、叩かないと気が済まない。普段は一彩のことをアイドルとしてではなく、同じユニットの仲間や友達として見ているのだけれど、ふとした瞬間に「ヒロくんもアイドルなんだな」と思ってしまうと、藍良のオタクスイッチが入ってしまうのだ。
「言っている意味がよく分からないんだけど、藍良を怒らせてしまったことは分かったよ。……ごめん」
その気になれば藍良の弱弱しい攻撃などすべて避けられるだろうに、一彩は甘んじて受け入れながら、藍良が取り乱す理由を探るような眼をしている。
「分かってないくせに謝っても意味ないからねェ」
「ウム……精進するよ」
伝わっていないのはいつものことだが、今回も一彩の頭に浮かぶはてなマークを確認して、藍良は一彩に「分かってもらう」のを諦めた。
一彩が「デートをしよう!」と言って藍良と二人で出かけたあの日以来、一彩は二人きりになると藍良との距離を詰めてくるようになった。一彩はもともと人との距離感が近いしスキンシップも多いのだけれど、それを「人前ではやるな」と注意したのを「二人きりならよい」と判断してしまったらしい。
だからといって、藍良が一人になったのを狙ったように抱きしめられるのが普通とは思わない。
一彩の故郷では普通のことなのだろうか。
「ヒロくんはさァ」
「ん?」
「おれのこと好きなのォ?」
スキンケア用品を籠の中に片付けながら、藍良はそう聞いてみた。
「もちろん! 僕は藍良が大好きだよ」
すると、思った通りの答えが返ってきた。天城一彩とはそういう男だ。どうやら自分がおかしなことをしている自覚が無いらしい、と藍良はあからさまにため息をついた。
藍良のため息の意味を問う一彩をなだめながら、二人で食堂へと向かう。ALKALOIDの四人がそろうと、ともに朝食を食べた。
*
本日の予定は、午前と午後に二時間ずつのダンスレッスンだ。曲目が増えてきたので、覚える振り付けもどんどん増える。
今は、一彩がマヨイの指導で曲全体のステップの運びを確認していた。
基本的なターンやステップはほぼ完璧。難しいステップやアクロバティックな動きも、天城一彩にかかればその日のうちに習得してしまう。
藍良は、マヨイに大げさに褒められながら次々と振り付けをマスターしていく一彩を眺めながらため息をついた。
幼いころから身体を鍛えている一彩に、身体的な能力で劣るのは仕方がないのかもしれないが、やはり悔しい。そして、曲に合わせて難しいステップを軽やかにこなし一曲踊りきる一彩を見ていると、自分もアイドルであることを忘れて魅入ってしまう。
「はい、そこまで!」
一彩の指導をしていたマヨイがパンッと手を叩くと、その後ろで巽が音楽を止めた。そしてほぼ同時に一彩が最後に決めたポーズのまま静止する。
すべてが一瞬のうちに止まり、レッスン室が静まり返った。一彩は、息一つ乱れていない。
「す、すごーいヒロくん!」
最初に静寂を破ったのは藍良だった。一彩の動きに魅入ってしまい、思わず拍手を贈った。藍良の拍手で張りつめていた空気が緩み、全員が顔を見合わせて笑った。
「かっこよかったよ! さすがヒロくん、ダンスは完璧だねェ」
藍良は預かっていたタオルを一彩に渡す。一彩はそれを受け取って少々の汗を拭きながら笑った。
「藍良に褒められると嬉しいよ。でも、ダンスはという事は、他は褒めてもらえないのかい?」
「うっ……他もすごいけどォ、おれが全部負けてるみたいでイヤだから他は褒めない」
一彩は、ALKALOIDが結成されたころはアイドルの「ア」の字も知らないような男だった。それなのに、ダンスのセンスは抜群にあった。ダンスの、というよりも、お手本を見てそれを自分のものにするのに慣れているという感じだ。
そういう部分は、格闘技からの応用が利くのだろうかと、藍良は思う。ダンスのセンスと格闘技のそれが直結するのかはわからないが、少なくとも鍛えられた体幹は役に立っているだろう。それは一彩の並大抵でない努力あってこそだということは、藍良にもわかる。
「ふふ、でも藍良さんの言う通り、一彩さんはますますダンスの技術を上げましたね。俺たちの中で一番といってもいいでしょうな」
巽も上品に拍手をしながら、一彩を褒めた。
「ありがとう。マヨイ先輩の指導のおかげだよ」
一彩には休憩はあまり必要ないようなので、マヨイはすぐに次のレッスンへと移るようだ。音響機材のそばに立っている巽を呼ぶ。
「では今の曲のサビの部分、一彩さんと巽さんの位置が代わるところを合わせましょうか」
「はい。藍良さん、音楽をお願いしてもいいですか?」
「任せてェ」
巽に代わって、藍良が機材のそばへと寄ってスマホを構えた。もうしばらく、自分は仲間のダンスを眺めている時間があるようだ。自分のレッスンも楽しいけれど、人のレッスンを見ているのもまた楽しいのだ。
「二人の後は藍良さんですからね」
そんな藍良の心を見透かしたようにマヨイが言う。
「はぁい、お手柔らかにお願いします~」
レッスン中のマヨイは普段の姿とはだいぶギャップがある。いつもは部屋の隅に小さくなって何かに怯え、声をかけると第一声で謝り倒してくるような人なのだが、こうして振り付けの指導をしている時は毅然として見える。
レッスン内容はなかなかに厳しく、藍良は毎回、一曲通すまでにくたくたにさせられるのだ。
一彩と巽がお互いのパートを合わせながら踊る目まぐるしい展開でも、マヨイの声かけは的確で鋭い。藍良にはよく出来たように見えるステップですらマヨイからはストップがかかって、藍良は慌てて音楽を止める。
この後は自分があの指導を受ける番だと思うと、気が引き締まった。
*
午前と午後のレッスンに打ち合わせ、そして日々の生活に必要な買い出しなどの活動を順番にこなすだけで、一日があっという間に終わっていく。
藍良は、珍しく食事を完食した。夕食の当番だった巽は、偏食の藍良が食べやすいようにとメニューを工夫したつもりだったのだが、今日に限っては心配がいらなかったようだ。
「はふぅ~、今日も疲れたァ」
夕食を食べながらでも打ち合わせを行っていたので、部屋に帰ってきてやっと藍良は一息つくことができた。ラグの上にへたり込む藍良に、巽が声をかける。
「お疲れ様でした藍良さん。お風呂先にどうぞ」
「うん、ありがとォ……」
藍良は立ち上がるのが億劫になる前にと、さっさと風呂の用意をした。着替えやシャンプーなどを持って立ち上がる。
旧館の風呂は共用なのだが、ALKALOIDの四人は急いでいない限りは順番に風呂に入ることにしている。
「あれ、ヒロくんは?」
部屋の隅でライブ音源を確認しているマヨイの姿と、身の回りの衣類などを整頓している巽の姿はあるが、一彩の姿がどこにもない。今思えば、夕食は一緒に食べたのにこの部屋には戻ってこなかった。
「一彩さんは腹ごなしに少し走ってくると言っていましたな」
巽が説明すると、藍良は呆れと感心が混ざったような声を出した。食堂から部屋へ戻る途中、一人抜けて外へ行ってしまったらしい。
「うへぇ、体力バカ……」
体力が有り余っているのだろうか。藍良も自主練習を積極的にするタイプではあるが、今日は練習もハードだったのでそんな気分にはなれない。
藍良は巽の言葉に甘えて、先に風呂を済ませた。髪を乾かして戻って来たころ、ちょうど一彩が帰ってきたところだったらしく、廊下で会った。よく見ると汗だくなので、どうやらしっかり走ってきたようだった。
「ヒロくんお帰りィ」
「藍良、ただいま。巽先輩がお風呂の順番を譲ってくれたんだよ」
「そりゃあそんだけ汗かいてたらねェ」
先に寝るね、と言って藍良はひらひらと手を振り部屋へともどった。
藍良は本日のレッスンでかなり疲れていたので、全員が風呂に入り終わるのを見届ける前に、眠ってしまった。いつもなら、寝る前にみんなと少しのおしゃべりをするのを楽しみにしているのだが、今日は睡魔には勝てなかった。
*
そして真夜中。藍良は、妙な寝苦しさで目が覚めた。何か重たいものが体の上に乗っているような、そんな感覚だった。
一瞬、金縛りにでも遭っているのかと思って肝が冷えたが、どうやら体は動くようだ。
「え、待って」
そして、覚醒した意識と暗闇に慣れた目が、この重さの正体を突きとめるのにそう時間はかからなかった。この独特な匂いと体温には身に覚えがありすぎる。
一彩が、藍良のベッドに入ってきて眠っているのだ。そして、一彩の片腕が藍良を抱き寄せるように乗っている。
「ちょっと、ヒロくん」
藍良はできるだけ小声で、一彩に声をかけた。けれどぴくりともしない。いつもなら藍良が夜中に部屋を抜け出そうとするだけですぐに気付いて声をかけてくるくせに、なんで今に限ってすやすやと寝ているのだろう。
「ねぇ、自分のベッドで寝てよォ」
一彩のベッドは上段なのだから、下段にある藍良のベッドに間違えて入ってきた訳ではないだろう。
寝返りを打って一彩に背を向けると、一彩が反応した。一彩が背中から抱きついてきて、より身体が密着する。
「暑いってばァ……」
一彩の体温、一彩の匂い、それからお風呂の石鹸の香り。その全部を全身で感じて、藍良は心臓がドキドキと高鳴るのを感じた。
最近の一彩はおかしい。もともとおかしな行動をとる人だけれど、最近は特に変だ。そして、藍良自身も自分がおかしくなっているような気がした。一彩に触れられて、何故こんなにも心臓か高鳴るのだろう。
「藍良……」
「ひ、ヒロくん……」
起きてくれたらしい一彩の吐息がうなじにあたる。部屋が暗いせいで、一彩が名前を呼ぶ声がやけに脳に響く。藍良はなんとか一彩の腕から抜け出して、朝と同じようにベッドの上にぺたんと座った。顔が熱い。身体も。藍良は自分で自分の身体を抱きしめるようにして俯いた。
「ねぇ、お願いだから、自分のベッドで寝て……」
声が震える。一彩が怖いのではない。自分が自分でなくなったみたいに、身体が火照って心臓が高鳴ることに戸惑っているのだ。
「藍良、ごめん……君にそんな顔をさせるつもりは……」
一彩は、藍良の目尻に浮かんでいる涙を指で拭う。そうされて初めて、藍良は自分が泣いていることに気づいた。
「なんで、こんなことしたの……」
「……さっき、お風呂から上がったばかりの藍良から、とてもいい香りがしたから……触れてみたいって、思って」
一彩が律儀に、正直に話すものだから、藍良も思考を手放せない。気分を損ねたふりをして突き放せればどれだけ楽だろうかと思う。
「でも、あの時僕は走ってきたばかりで汗をかいていたから……部屋に戻った時には藍良は寝ていたし……」
「それでベッドに入ってきたってことォ……?」
悪気のない者を無下に突き放すことも藍良にはできない。けれど、一彩の行動の意味について問うには、藍良の引き出しには足りないものが多すぎる。
「ヒロくん、おかしいよ……。友達なら、こんなこと普通しないよォ」
だからせめて、これだけは伝われと思ったことを精一杯口にした。この涙は一彩のことが嫌で流しているものではなくて、ただ戸惑っているだけなのだと。
一彩の常識が藍良の常識と違っていて普通ではないことだけは知ってほしかった。
そして、藍良の胸が早鐘のように高鳴ることも、きっと普通ではない。
「藍良、ごめん……また僕は間違えてしまったみたいだね」
一彩は藍良が泣き止むまで、何度も謝った。その度に藍良は「大丈夫だから」と返したのだが、止めようとするほど流れる涙にその説得力はなかった。
*
次の日、藍良は朝食の時に一彩と一言も口を利かなかった。怒っているわけでも、不機嫌なわけでもないのだが、一彩の顔を見ることができない。
昨夜、一彩が突然自分のベッドに入ってきたことには驚いた。一彩はこれまで突拍子もない行動をいくつもしてきたので、今更驚くことはないだろうと思っていたのだけれど。藍良が特に戸惑っているのは、昨夜、一彩の腕の中で自分が泣いてしまったことだ。確かに驚いたけれど、何も泣くことは無かったのではないかと自分でも思う。
一彩が戸惑いながら何度も何度も謝ってくれたことを思い出すと、こちらが申し訳なくなってしまう。いつものように、笑ってツッコミを入れるか、適当に追い払えばよかったのに。できなかった。
一彩に触れられると、自分の身体が自分のものではなくなるみたいで、それが怖いのだ。一彩が自分に触れたがる理由、そして、彼の行動にいちいち早鐘を打つ自分の心臓と、突然流れた涙の理由。そのことを考えたくなくて、藍良は今朝からずっと一彩を避けていた。
「藍良さん、ストップです」
音楽に合わせて惰性で動いていた身体は、音楽が突然停まってからも数秒、動いた。パンッと鳴らされたマヨイの手のひらの音にはっとなる。レッスン中なのに、意識がどこかへ飛んでいたようだ。
「ごめん、マヨさん……」
レッスンを中断された理由に心当たりのある藍良は、まず謝った。マヨイは藍良のその反応を見て安心したように笑う。どうして停められたのか分かっているのなら、話が早いといった感じだ。
「どうかしたのですか?」
「な、何でもないよォ……」
何かあったと思ったからマヨイはストップをかけたのだ。しかし、藍良が話をはぐらかすのでは得るものが何もない。マヨイは少し考える様子を見せた後、隣のスペースで違うパートの練習をしている巽と一彩に声をかけた。
「……一彩さん、巽さんすみません。しばらくお二人で続けてもらえますか」
藍良が顔を上げて二人のほうを見ると、一彩と目が合った。一彩も、藍良を心配するような眼をしていた。巽は笑顔で頷く。
「はい」
「分かったよ」
それに同調する一彩の抑揚の無い声を聞いた後、藍良はマヨイに促されてレッスン室の外へと出た。
誰もいない廊下のベンチに二人並んで座り、マヨイは藍良の顔を覗き込む。
「あの、藍良さん……私の、勘違いだったら申し訳ないんですけど、昨夜一彩さんと何かありましたか?」
「え?」
突然核心に触れられ驚いた藍良が顔を上げると、目が合ったことにマヨイが少々怖気づいたように見えた。
「あ、す、すみません……その、今朝からずっと、藍良さんが一彩さんのことを避けているように、見えるものですから……」
「そんなことないよォ」
相談に乗ってくれようとしているのに、どこか頼りなく見えるところがマヨイらしい。藍良はとりあえずははぐらかしてみながら、何と言葉にしようか考えた。
どうすれば無難にこのカウンセリングを逃れられるだろうかと思っていたら、藍良が何も言わないならと思ったのか、マヨイが次の句を打った。
「……あの……実は昨夜なんですが……」
藍良はどきりとした。しまったと思った。マヨイがあの部屋で起きたことをすべて把握している可能性が高いという事を、藍良は失念していたのだ。
「一彩さんと、その、ベッドで何か揉めていましたよね……」
「マヨさんまた覗いたのォ?」
マヨイは夜な夜な藍良のベッドを覗いて寝顔を眺めるという趣味がある。変な目で見られることに抵抗があるとはいえ、今のところ実害はないので藍良は諦めていた。
同じユニットのメンバーに、かわいいと思われていることに悪い気はしないし、そもそもマヨイのこの癖は彼自身のアイデンティティに深く根付いているものであるので、矯正するのにも骨が折れそうで手が付けられない。
度が過ぎると一彩や巽に強めに窘められることをマヨイも弁えているので藍良もある程度は妥協していたのだ。
「すみませ……ええっと、正確には覗こうとしたら一彩さんが入っていくのが見えたので昨晩は遠慮しました……」
「毎日遠慮してねェ」
「ヒィすみませんッ」
夜中に人の寝顔を覗くのが趣味であるマヨイに、昨夜のことがバレていないはずがないのだ。藍良は観念してため息をついた。
「はぁ~、まああれだけ騒いでたら気付かれるよねえ。多分、タッツン先輩にも」
「ええ……おそらく」
藍良は廊下をぐるりと眺め、誰もいないことを確認する。
「ちょうどいいから相談するよォ……聞いてくれる?」
「は、はい……私でよければ……」
藍良は、最近の一彩の行動について、ほとんどのことをマヨイに話した。大抵のことはマヨイも知っていることだったが、藍良が言葉にすることで事実として整理ができるといった聞き方をしていた。
一彩が藍良に触れてくることが多くなってきたということ。人前ではやるなと注意したら、人気の無いところでは必ずと言っていいほどに何かが起きるということ。
そして、一彩に抱きしめられた時に一彩の肌や声から感じる、何かがあること。
最近起きたことを一通り話して、藍良はベンチの上で膝を抱えて俯いた。
「ヒロくんって……おれのこと好きなのかなァ……」
言葉にすると、顔が熱くなった。藍良は顔を上げてマヨイの反応を伺うと、マヨイが恍惚とした表情をこちらに向けていた。
「あぁッ、その照れながらもちょっと自惚れている表情、イイですねぇ」
そして藍良は逆にすんと真顔になる。
「真面目に話してるんだから聞いてねェ」
「は、はい、スミマセンッ!」
おろおろと謝るなら言わなければいいのに、と思うのだが、マヨイは心の衝動を口に出さずにはいられない性分らしい。
しかし根は真面目な人ではあるので、挙動不審に泳がせている瞳の奥では、ちゃんと藍良のことを考えてくれている。
「その……一彩さんの行動の意味は、一彩さんにしか分かりませんし、本人に聞くわけにはいかないのでしょうか……」
「ええ……」
何か適確な考察でも聞けるのかと思っていた藍良は、割と単純な提案をされて拍子抜けをする。それが顔に出ていたのか、マヨイが慌てて補足をした。
「あくまで私自身の考えなんですけど、確かに一彩さんの行動は目に余るものがあります。私が言うのもなんですけど」
目に余る、のあたりで律儀にツッコミを入れようとしていた藍良は、そのあとに続いた言葉を聞いて引っ込んだ。
「一彩さんも思春期ですし……なんていうか、気持ちは分からなくもないですし……」
「マヨさん、真面目に言ってるんだよねそれェ」
「うぅ、真面目ですけど私が言うと脱線しますねぇ」
自覚があるなら改めればいいのにと思うのだが、アイドルとしてはこういう個性があったほうがキャラが立つのだろうな、と藍良も冷静になってしまった。
「私たちであれこれ推測しても、それが正解かどうかは分かりません。……結局は、一彩さん本人に聞くしかないかと」
「だよねェ……」
「ちなみに私が藍良さんのベッドを覗くのは、藍良さんのキュートな寝顔を愉しみたいからです」
「それは普通にイヤ」
力説するマヨイをぴしゃりと窘めてから、藍良は改めて考える。
誰もいないところでわざわざ誰かを抱きしめる理由なんてひとつしかないじゃないか。そう思ったら、また膝に顔を俯けたくなった。
「酷なことを言ってしまいますが、このままではレッスンに支障が出ます。……それは、藍良さんにとっても本意ではないでしょう」
「そうだね……。先輩たちに迷惑かけるわけにもいかないしねェ」
ただでさえ、自分が気を抜けば皆の足を引っ張ってしまうと思っている藍良は、少しの時間でも惜しんで練習をするべきなのだ。こうしてマヨイが指導をしてくれる貴重な時間を無駄にするわけにはいかない。
もちろん、こうして相談に乗ってくれている時間も、決して無駄ではないのだけれど。
「はい。お二人がゆっくり話せる時間を作れるようにしてみますから。今日のところは、レッスンに集中してくださいね」
「はぁい、マヨさんは厳しいなァ」
藍良は今日、やっと笑った。一日ぶりくらいに頬の筋肉を使ったような気がしてぎこちなかったけれど、上手く笑えているような気がした。
つづく
もうこの星奏館での生活にも慣れたとはいえ、眠りから覚める瞬間というのは誰でも油断している。
「起きて藍良、朝だよ」
「んん……」
なので、白鳥藍良は自分を優しく揺する手とかけられる声に目を開け、その声の主が自分の顔を間近で覗き込んでいることに驚いた。
「って、うわっ! ヒロくん!」
藍良は思わず上ずった声を発してしまった。二段ベッドの下段に上半身を乗り出していた天城一彩は、そんなルームメイトの様子に苦笑する。
「そんなに驚かないで欲しいよ」
「起きた瞬間に顔覗きこまれてたら誰だってビックリするよォ」
「ウム、すまない……気を付けるよ」
藍良は一彩の上半身をベッドの外に押し返して自分も起き上がった。上段に頭をぶつけないようにぺたんと座って、身体と頭がきちんと起きるのを待つ。
「おはよう藍良」
「おはよォ……」
ふあ、とあくびをする藍良に、一彩の手が差し伸べられた。そんなことをしなくても一人で出られる、と思いつつも、藍良はその手を借りてベッドから出た。
そして、部屋に二人以外に誰もいないことに気づいた。部屋の隅にも天井裏にも、人の気配がない。
「あれ、マヨさんは? タッツン先輩はお祈りだよね」
朝いちばん早く起きるのはいつも風早巽で、聖職者である彼は朝のお祈りのために外に出かけるのが日課だ。そしてマヨイはいつも、藍良のベッドを覗き込んでいるか、天井裏か部屋の隅で闇に向かって懺悔をしているのだがどこにも姿がない。
「今日は朝食の当番がマヨイ先輩だからね。藍良が最後だよ」
「うわーごめん、わざわざ待っててくれたんだ」
「マヨイ先輩を手伝っていたら、藍良がなかなか起きてこないから呼びに来たんだ。気にしないで欲しいよ」
同室の三人が起床し、身支度を整え、それぞれの日課や当番へと向かっている間、自分はぐっすりと眠っていたということか。と藍良は少し恥ずかしく思う。一彩に、「藍良は隙が多い」とか「無防備すぎる」とか言われたことがあるけれど、こういうところがそう言わせるのだろうなと思った。
藍良は一彩に先に食卓へ行くように指示して、身支度を始めた。ランドリーから戻ってきたばかりの清潔なシャツとベスト、お気に入りのジーンズを履いていつもの姿になる。
藍良が愛用している洗面カゴをひとつ持って共用の洗面所へ行き、誰もいないことを確認してその一つを使う。この建物を利用しているもう一つのユニットは、ここで寝泊まりすることはほとんど無いようだけれど、鉢合わせるのは少し気まずい。
持ってきたカゴの中には藍良の洗面用具が入っている。夜寝る前と、朝起きてからのスキンケアが、藍良のアイドルとしての日課だ。
ヘアバンドで髪を上げ洗顔をする。お気に入りの化粧水をきちんとつけてからヘアバンドを外し、髪を櫛で整えた。
最後の仕上げにお気に入りのピアスをつけ、首にマグネループをする。そうすれば、アイドル白鳥藍良の私服バージョンの完成だ。
「藍良」
「うわァ!」
満足げに鏡を眺めていたら不意に声をかけられ、藍良はまたしても悲鳴を上げてしまった。振り返れば、洗面所の入り口から一彩がこちらを見ていた。
「い、いつからいたのヒロくん」
「藍良が顔を洗っているあたりからだよ」
「声かけてよねェ」
一彩はいつも気配がない。死角から話しかけられるとほぼ百パーセント驚いてしまう。ならせめて声の大きさを落としてくれないかと思っているのだが、一彩の溌剌とした物言いが気持ちがいいのも事実だしそれも個性なので、わざわざ否定はしない。
「あまりに手際がいいから、見惚れてしまったんだよ」
「まぁ毎日やってるからねェ。どう?かわいい?」
たった今完成したアイドルをカメラにお披露目するように、藍良が鳥の子色の髪を耳にかける仕草をして見せる。一彩はそれを見て、屈託のない笑顔で言った。
「藍良はいつもかわいいよ」
「あっそう、ありがと」
半分冗談なのに一彩はいつもまっすぐに褒めてくれる。藍良は自分がアイドルとしてどう見えているのかを意識して身支度をしているのだが、一彩の誉め言葉は藍良の内面を褒めてくれているような気がして、分かりやすく照れてしまう。
「藍良」
「え、な、なに?」
名前を呼ばれたと思ったら、突然一彩に腕を引かれ、抱きしめられた。気づいたときには一彩の体温に全身を包まれていた。一彩の独特な出自がそうさせるのか、一彩の髪や肌からは不思議な匂いがする。『ヒロくんの匂いだ』と思ってしまった瞬間、藍良は顔が沸騰するように熱くなるのを感じた。
「待って! だめ!」
反射的に一彩を突き放すと、一彩が困惑した表情をした。何故拒絶されたのか分からないといった表情。この男に「普通」や「常識」は通用しない。
「あ、えっと、藍良……」
「い、いきなり何するのォ!」
「すまない。その、人前ではこういう事をしたらいけないと言われたから、今ならいいのかと思って」
「二人きりならいつでも良いものでもないからねェ!」
出会った瞬間から距離が近い一彩は、突然このような行動に出ることがあるけれど、最近は特に脈絡が無い。感極まってとか、人込みを避けたいとか、そういうきっかけも何もなく突然抱き寄せられるのは困る。
「そ、そうなのか……難しいな」
「ヒロくんは何でこういう事をするんですかァ」
照れくさいのを少しごまかすように、藍良は説教をするような口調と仕草で一彩を睨む。一彩はふむ、と顎に手をあてて考える仕草をした。
「ええっと……うまく、言えないんだけど。藍良に触れていると元気が出るんだよ。だから、今日一日アイドル活動に励むための力を、藍良にもらいたいと思ったんだ」
考えながら話しているのに、恥ずかしげもなくそう言い切った。
けれど一彩自身もこの説明で納得がいっていない様子だ。少し顔を赤らめているように見えるのは気のせいだろうか。一彩のその表情に、藍良の中の変なスイッチが入りそうになる。
「何でそういうかわいいこと言うのォ!」
アイドルオタクである藍良は、目の前にいる人の外見や言動、プロフィールなどを総合して瞬時に分析してしまう癖がある。そのアイドル脳がたった今目の前にいるこの男をかわいいと評価してしまった。
曲がりなりにもアイドルである一彩は一般人が「整っている」と思う顔面の基準を軽くクリアしており、そんな顔が藍良の目の前で笑ったり困ったりしているのは心臓に悪い。
「えっ、かわいいのは僕じゃなくて藍良だよ!」
「そういうのいいからァ! 普段はデリカシーの無い野生児のくせに! そんな顔でそんなこと言って! 何!? ギャップ萌え狙いなの!?」
ツッコミと照れ隠しと怒りとが混ざった複雑な感情で、藍良は一彩の胸を叩いた。細身ながら筋肉質の一彩には全然効いていないのだろうが、叩かないと気が済まない。普段は一彩のことをアイドルとしてではなく、同じユニットの仲間や友達として見ているのだけれど、ふとした瞬間に「ヒロくんもアイドルなんだな」と思ってしまうと、藍良のオタクスイッチが入ってしまうのだ。
「言っている意味がよく分からないんだけど、藍良を怒らせてしまったことは分かったよ。……ごめん」
その気になれば藍良の弱弱しい攻撃などすべて避けられるだろうに、一彩は甘んじて受け入れながら、藍良が取り乱す理由を探るような眼をしている。
「分かってないくせに謝っても意味ないからねェ」
「ウム……精進するよ」
伝わっていないのはいつものことだが、今回も一彩の頭に浮かぶはてなマークを確認して、藍良は一彩に「分かってもらう」のを諦めた。
一彩が「デートをしよう!」と言って藍良と二人で出かけたあの日以来、一彩は二人きりになると藍良との距離を詰めてくるようになった。一彩はもともと人との距離感が近いしスキンシップも多いのだけれど、それを「人前ではやるな」と注意したのを「二人きりならよい」と判断してしまったらしい。
だからといって、藍良が一人になったのを狙ったように抱きしめられるのが普通とは思わない。
一彩の故郷では普通のことなのだろうか。
「ヒロくんはさァ」
「ん?」
「おれのこと好きなのォ?」
スキンケア用品を籠の中に片付けながら、藍良はそう聞いてみた。
「もちろん! 僕は藍良が大好きだよ」
すると、思った通りの答えが返ってきた。天城一彩とはそういう男だ。どうやら自分がおかしなことをしている自覚が無いらしい、と藍良はあからさまにため息をついた。
藍良のため息の意味を問う一彩をなだめながら、二人で食堂へと向かう。ALKALOIDの四人がそろうと、ともに朝食を食べた。
*
本日の予定は、午前と午後に二時間ずつのダンスレッスンだ。曲目が増えてきたので、覚える振り付けもどんどん増える。
今は、一彩がマヨイの指導で曲全体のステップの運びを確認していた。
基本的なターンやステップはほぼ完璧。難しいステップやアクロバティックな動きも、天城一彩にかかればその日のうちに習得してしまう。
藍良は、マヨイに大げさに褒められながら次々と振り付けをマスターしていく一彩を眺めながらため息をついた。
幼いころから身体を鍛えている一彩に、身体的な能力で劣るのは仕方がないのかもしれないが、やはり悔しい。そして、曲に合わせて難しいステップを軽やかにこなし一曲踊りきる一彩を見ていると、自分もアイドルであることを忘れて魅入ってしまう。
「はい、そこまで!」
一彩の指導をしていたマヨイがパンッと手を叩くと、その後ろで巽が音楽を止めた。そしてほぼ同時に一彩が最後に決めたポーズのまま静止する。
すべてが一瞬のうちに止まり、レッスン室が静まり返った。一彩は、息一つ乱れていない。
「す、すごーいヒロくん!」
最初に静寂を破ったのは藍良だった。一彩の動きに魅入ってしまい、思わず拍手を贈った。藍良の拍手で張りつめていた空気が緩み、全員が顔を見合わせて笑った。
「かっこよかったよ! さすがヒロくん、ダンスは完璧だねェ」
藍良は預かっていたタオルを一彩に渡す。一彩はそれを受け取って少々の汗を拭きながら笑った。
「藍良に褒められると嬉しいよ。でも、ダンスはという事は、他は褒めてもらえないのかい?」
「うっ……他もすごいけどォ、おれが全部負けてるみたいでイヤだから他は褒めない」
一彩は、ALKALOIDが結成されたころはアイドルの「ア」の字も知らないような男だった。それなのに、ダンスのセンスは抜群にあった。ダンスの、というよりも、お手本を見てそれを自分のものにするのに慣れているという感じだ。
そういう部分は、格闘技からの応用が利くのだろうかと、藍良は思う。ダンスのセンスと格闘技のそれが直結するのかはわからないが、少なくとも鍛えられた体幹は役に立っているだろう。それは一彩の並大抵でない努力あってこそだということは、藍良にもわかる。
「ふふ、でも藍良さんの言う通り、一彩さんはますますダンスの技術を上げましたね。俺たちの中で一番といってもいいでしょうな」
巽も上品に拍手をしながら、一彩を褒めた。
「ありがとう。マヨイ先輩の指導のおかげだよ」
一彩には休憩はあまり必要ないようなので、マヨイはすぐに次のレッスンへと移るようだ。音響機材のそばに立っている巽を呼ぶ。
「では今の曲のサビの部分、一彩さんと巽さんの位置が代わるところを合わせましょうか」
「はい。藍良さん、音楽をお願いしてもいいですか?」
「任せてェ」
巽に代わって、藍良が機材のそばへと寄ってスマホを構えた。もうしばらく、自分は仲間のダンスを眺めている時間があるようだ。自分のレッスンも楽しいけれど、人のレッスンを見ているのもまた楽しいのだ。
「二人の後は藍良さんですからね」
そんな藍良の心を見透かしたようにマヨイが言う。
「はぁい、お手柔らかにお願いします~」
レッスン中のマヨイは普段の姿とはだいぶギャップがある。いつもは部屋の隅に小さくなって何かに怯え、声をかけると第一声で謝り倒してくるような人なのだが、こうして振り付けの指導をしている時は毅然として見える。
レッスン内容はなかなかに厳しく、藍良は毎回、一曲通すまでにくたくたにさせられるのだ。
一彩と巽がお互いのパートを合わせながら踊る目まぐるしい展開でも、マヨイの声かけは的確で鋭い。藍良にはよく出来たように見えるステップですらマヨイからはストップがかかって、藍良は慌てて音楽を止める。
この後は自分があの指導を受ける番だと思うと、気が引き締まった。
*
午前と午後のレッスンに打ち合わせ、そして日々の生活に必要な買い出しなどの活動を順番にこなすだけで、一日があっという間に終わっていく。
藍良は、珍しく食事を完食した。夕食の当番だった巽は、偏食の藍良が食べやすいようにとメニューを工夫したつもりだったのだが、今日に限っては心配がいらなかったようだ。
「はふぅ~、今日も疲れたァ」
夕食を食べながらでも打ち合わせを行っていたので、部屋に帰ってきてやっと藍良は一息つくことができた。ラグの上にへたり込む藍良に、巽が声をかける。
「お疲れ様でした藍良さん。お風呂先にどうぞ」
「うん、ありがとォ……」
藍良は立ち上がるのが億劫になる前にと、さっさと風呂の用意をした。着替えやシャンプーなどを持って立ち上がる。
旧館の風呂は共用なのだが、ALKALOIDの四人は急いでいない限りは順番に風呂に入ることにしている。
「あれ、ヒロくんは?」
部屋の隅でライブ音源を確認しているマヨイの姿と、身の回りの衣類などを整頓している巽の姿はあるが、一彩の姿がどこにもない。今思えば、夕食は一緒に食べたのにこの部屋には戻ってこなかった。
「一彩さんは腹ごなしに少し走ってくると言っていましたな」
巽が説明すると、藍良は呆れと感心が混ざったような声を出した。食堂から部屋へ戻る途中、一人抜けて外へ行ってしまったらしい。
「うへぇ、体力バカ……」
体力が有り余っているのだろうか。藍良も自主練習を積極的にするタイプではあるが、今日は練習もハードだったのでそんな気分にはなれない。
藍良は巽の言葉に甘えて、先に風呂を済ませた。髪を乾かして戻って来たころ、ちょうど一彩が帰ってきたところだったらしく、廊下で会った。よく見ると汗だくなので、どうやらしっかり走ってきたようだった。
「ヒロくんお帰りィ」
「藍良、ただいま。巽先輩がお風呂の順番を譲ってくれたんだよ」
「そりゃあそんだけ汗かいてたらねェ」
先に寝るね、と言って藍良はひらひらと手を振り部屋へともどった。
藍良は本日のレッスンでかなり疲れていたので、全員が風呂に入り終わるのを見届ける前に、眠ってしまった。いつもなら、寝る前にみんなと少しのおしゃべりをするのを楽しみにしているのだが、今日は睡魔には勝てなかった。
*
そして真夜中。藍良は、妙な寝苦しさで目が覚めた。何か重たいものが体の上に乗っているような、そんな感覚だった。
一瞬、金縛りにでも遭っているのかと思って肝が冷えたが、どうやら体は動くようだ。
「え、待って」
そして、覚醒した意識と暗闇に慣れた目が、この重さの正体を突きとめるのにそう時間はかからなかった。この独特な匂いと体温には身に覚えがありすぎる。
一彩が、藍良のベッドに入ってきて眠っているのだ。そして、一彩の片腕が藍良を抱き寄せるように乗っている。
「ちょっと、ヒロくん」
藍良はできるだけ小声で、一彩に声をかけた。けれどぴくりともしない。いつもなら藍良が夜中に部屋を抜け出そうとするだけですぐに気付いて声をかけてくるくせに、なんで今に限ってすやすやと寝ているのだろう。
「ねぇ、自分のベッドで寝てよォ」
一彩のベッドは上段なのだから、下段にある藍良のベッドに間違えて入ってきた訳ではないだろう。
寝返りを打って一彩に背を向けると、一彩が反応した。一彩が背中から抱きついてきて、より身体が密着する。
「暑いってばァ……」
一彩の体温、一彩の匂い、それからお風呂の石鹸の香り。その全部を全身で感じて、藍良は心臓がドキドキと高鳴るのを感じた。
最近の一彩はおかしい。もともとおかしな行動をとる人だけれど、最近は特に変だ。そして、藍良自身も自分がおかしくなっているような気がした。一彩に触れられて、何故こんなにも心臓か高鳴るのだろう。
「藍良……」
「ひ、ヒロくん……」
起きてくれたらしい一彩の吐息がうなじにあたる。部屋が暗いせいで、一彩が名前を呼ぶ声がやけに脳に響く。藍良はなんとか一彩の腕から抜け出して、朝と同じようにベッドの上にぺたんと座った。顔が熱い。身体も。藍良は自分で自分の身体を抱きしめるようにして俯いた。
「ねぇ、お願いだから、自分のベッドで寝て……」
声が震える。一彩が怖いのではない。自分が自分でなくなったみたいに、身体が火照って心臓が高鳴ることに戸惑っているのだ。
「藍良、ごめん……君にそんな顔をさせるつもりは……」
一彩は、藍良の目尻に浮かんでいる涙を指で拭う。そうされて初めて、藍良は自分が泣いていることに気づいた。
「なんで、こんなことしたの……」
「……さっき、お風呂から上がったばかりの藍良から、とてもいい香りがしたから……触れてみたいって、思って」
一彩が律儀に、正直に話すものだから、藍良も思考を手放せない。気分を損ねたふりをして突き放せればどれだけ楽だろうかと思う。
「でも、あの時僕は走ってきたばかりで汗をかいていたから……部屋に戻った時には藍良は寝ていたし……」
「それでベッドに入ってきたってことォ……?」
悪気のない者を無下に突き放すことも藍良にはできない。けれど、一彩の行動の意味について問うには、藍良の引き出しには足りないものが多すぎる。
「ヒロくん、おかしいよ……。友達なら、こんなこと普通しないよォ」
だからせめて、これだけは伝われと思ったことを精一杯口にした。この涙は一彩のことが嫌で流しているものではなくて、ただ戸惑っているだけなのだと。
一彩の常識が藍良の常識と違っていて普通ではないことだけは知ってほしかった。
そして、藍良の胸が早鐘のように高鳴ることも、きっと普通ではない。
「藍良、ごめん……また僕は間違えてしまったみたいだね」
一彩は藍良が泣き止むまで、何度も謝った。その度に藍良は「大丈夫だから」と返したのだが、止めようとするほど流れる涙にその説得力はなかった。
*
次の日、藍良は朝食の時に一彩と一言も口を利かなかった。怒っているわけでも、不機嫌なわけでもないのだが、一彩の顔を見ることができない。
昨夜、一彩が突然自分のベッドに入ってきたことには驚いた。一彩はこれまで突拍子もない行動をいくつもしてきたので、今更驚くことはないだろうと思っていたのだけれど。藍良が特に戸惑っているのは、昨夜、一彩の腕の中で自分が泣いてしまったことだ。確かに驚いたけれど、何も泣くことは無かったのではないかと自分でも思う。
一彩が戸惑いながら何度も何度も謝ってくれたことを思い出すと、こちらが申し訳なくなってしまう。いつものように、笑ってツッコミを入れるか、適当に追い払えばよかったのに。できなかった。
一彩に触れられると、自分の身体が自分のものではなくなるみたいで、それが怖いのだ。一彩が自分に触れたがる理由、そして、彼の行動にいちいち早鐘を打つ自分の心臓と、突然流れた涙の理由。そのことを考えたくなくて、藍良は今朝からずっと一彩を避けていた。
「藍良さん、ストップです」
音楽に合わせて惰性で動いていた身体は、音楽が突然停まってからも数秒、動いた。パンッと鳴らされたマヨイの手のひらの音にはっとなる。レッスン中なのに、意識がどこかへ飛んでいたようだ。
「ごめん、マヨさん……」
レッスンを中断された理由に心当たりのある藍良は、まず謝った。マヨイは藍良のその反応を見て安心したように笑う。どうして停められたのか分かっているのなら、話が早いといった感じだ。
「どうかしたのですか?」
「な、何でもないよォ……」
何かあったと思ったからマヨイはストップをかけたのだ。しかし、藍良が話をはぐらかすのでは得るものが何もない。マヨイは少し考える様子を見せた後、隣のスペースで違うパートの練習をしている巽と一彩に声をかけた。
「……一彩さん、巽さんすみません。しばらくお二人で続けてもらえますか」
藍良が顔を上げて二人のほうを見ると、一彩と目が合った。一彩も、藍良を心配するような眼をしていた。巽は笑顔で頷く。
「はい」
「分かったよ」
それに同調する一彩の抑揚の無い声を聞いた後、藍良はマヨイに促されてレッスン室の外へと出た。
誰もいない廊下のベンチに二人並んで座り、マヨイは藍良の顔を覗き込む。
「あの、藍良さん……私の、勘違いだったら申し訳ないんですけど、昨夜一彩さんと何かありましたか?」
「え?」
突然核心に触れられ驚いた藍良が顔を上げると、目が合ったことにマヨイが少々怖気づいたように見えた。
「あ、す、すみません……その、今朝からずっと、藍良さんが一彩さんのことを避けているように、見えるものですから……」
「そんなことないよォ」
相談に乗ってくれようとしているのに、どこか頼りなく見えるところがマヨイらしい。藍良はとりあえずははぐらかしてみながら、何と言葉にしようか考えた。
どうすれば無難にこのカウンセリングを逃れられるだろうかと思っていたら、藍良が何も言わないならと思ったのか、マヨイが次の句を打った。
「……あの……実は昨夜なんですが……」
藍良はどきりとした。しまったと思った。マヨイがあの部屋で起きたことをすべて把握している可能性が高いという事を、藍良は失念していたのだ。
「一彩さんと、その、ベッドで何か揉めていましたよね……」
「マヨさんまた覗いたのォ?」
マヨイは夜な夜な藍良のベッドを覗いて寝顔を眺めるという趣味がある。変な目で見られることに抵抗があるとはいえ、今のところ実害はないので藍良は諦めていた。
同じユニットのメンバーに、かわいいと思われていることに悪い気はしないし、そもそもマヨイのこの癖は彼自身のアイデンティティに深く根付いているものであるので、矯正するのにも骨が折れそうで手が付けられない。
度が過ぎると一彩や巽に強めに窘められることをマヨイも弁えているので藍良もある程度は妥協していたのだ。
「すみませ……ええっと、正確には覗こうとしたら一彩さんが入っていくのが見えたので昨晩は遠慮しました……」
「毎日遠慮してねェ」
「ヒィすみませんッ」
夜中に人の寝顔を覗くのが趣味であるマヨイに、昨夜のことがバレていないはずがないのだ。藍良は観念してため息をついた。
「はぁ~、まああれだけ騒いでたら気付かれるよねえ。多分、タッツン先輩にも」
「ええ……おそらく」
藍良は廊下をぐるりと眺め、誰もいないことを確認する。
「ちょうどいいから相談するよォ……聞いてくれる?」
「は、はい……私でよければ……」
藍良は、最近の一彩の行動について、ほとんどのことをマヨイに話した。大抵のことはマヨイも知っていることだったが、藍良が言葉にすることで事実として整理ができるといった聞き方をしていた。
一彩が藍良に触れてくることが多くなってきたということ。人前ではやるなと注意したら、人気の無いところでは必ずと言っていいほどに何かが起きるということ。
そして、一彩に抱きしめられた時に一彩の肌や声から感じる、何かがあること。
最近起きたことを一通り話して、藍良はベンチの上で膝を抱えて俯いた。
「ヒロくんって……おれのこと好きなのかなァ……」
言葉にすると、顔が熱くなった。藍良は顔を上げてマヨイの反応を伺うと、マヨイが恍惚とした表情をこちらに向けていた。
「あぁッ、その照れながらもちょっと自惚れている表情、イイですねぇ」
そして藍良は逆にすんと真顔になる。
「真面目に話してるんだから聞いてねェ」
「は、はい、スミマセンッ!」
おろおろと謝るなら言わなければいいのに、と思うのだが、マヨイは心の衝動を口に出さずにはいられない性分らしい。
しかし根は真面目な人ではあるので、挙動不審に泳がせている瞳の奥では、ちゃんと藍良のことを考えてくれている。
「その……一彩さんの行動の意味は、一彩さんにしか分かりませんし、本人に聞くわけにはいかないのでしょうか……」
「ええ……」
何か適確な考察でも聞けるのかと思っていた藍良は、割と単純な提案をされて拍子抜けをする。それが顔に出ていたのか、マヨイが慌てて補足をした。
「あくまで私自身の考えなんですけど、確かに一彩さんの行動は目に余るものがあります。私が言うのもなんですけど」
目に余る、のあたりで律儀にツッコミを入れようとしていた藍良は、そのあとに続いた言葉を聞いて引っ込んだ。
「一彩さんも思春期ですし……なんていうか、気持ちは分からなくもないですし……」
「マヨさん、真面目に言ってるんだよねそれェ」
「うぅ、真面目ですけど私が言うと脱線しますねぇ」
自覚があるなら改めればいいのにと思うのだが、アイドルとしてはこういう個性があったほうがキャラが立つのだろうな、と藍良も冷静になってしまった。
「私たちであれこれ推測しても、それが正解かどうかは分かりません。……結局は、一彩さん本人に聞くしかないかと」
「だよねェ……」
「ちなみに私が藍良さんのベッドを覗くのは、藍良さんのキュートな寝顔を愉しみたいからです」
「それは普通にイヤ」
力説するマヨイをぴしゃりと窘めてから、藍良は改めて考える。
誰もいないところでわざわざ誰かを抱きしめる理由なんてひとつしかないじゃないか。そう思ったら、また膝に顔を俯けたくなった。
「酷なことを言ってしまいますが、このままではレッスンに支障が出ます。……それは、藍良さんにとっても本意ではないでしょう」
「そうだね……。先輩たちに迷惑かけるわけにもいかないしねェ」
ただでさえ、自分が気を抜けば皆の足を引っ張ってしまうと思っている藍良は、少しの時間でも惜しんで練習をするべきなのだ。こうしてマヨイが指導をしてくれる貴重な時間を無駄にするわけにはいかない。
もちろん、こうして相談に乗ってくれている時間も、決して無駄ではないのだけれど。
「はい。お二人がゆっくり話せる時間を作れるようにしてみますから。今日のところは、レッスンに集中してくださいね」
「はぁい、マヨさんは厳しいなァ」
藍良は今日、やっと笑った。一日ぶりくらいに頬の筋肉を使ったような気がしてぎこちなかったけれど、上手く笑えているような気がした。
つづく