【ログ】Pixiv短編ログ(全年齢)

 何度もカレンダーを見ては、とある日付が気になってしまう。来週の金曜日。11月27日。そう、自分の誕生日だ。
 藍良は隣に座っている一彩の横顔をちらと見ては、また自分のスマホへと視線を戻した。
 今まで誕生日というのは、藍良にとってはただ年をとるだけの日で、両親がお祝いしてくれて、家でちょっと豪華な食事とケーキが出てくるありふれた日だった。
 しかし今、藍良には一彩という恋人がいる。付き合っている相手のいる初めての誕生日。そう思ったら急に誕生日が気になって仕方が無くなった。
 一彩は当日祝ってくれるだろうか。その日は、どんな風に過ごすのだろうか。そもそも、一彩は藍良の誕生日を知っているのだろうか。そういえば、ちゃんと教えたことは無い気がする。もちろんアイドルとしてのプロフィールには誕生日は明記されているし、リーダーである一彩のもとにはメンバーの個人情報はある程度集められている。だから、知っているはずだけれど。そんな感情がぐるぐると渦巻いている。
 巽とマヨイはまだだろうか。早くこの無言の時間を終わらせたい。藍良はESビルのロビーを行き交う人を眺めながらため息をついた。
 一彩はいつもうるさくて仕方ないくせに、どうして今はとても静かなんだろうか。一彩を横から眺めていると、ふわふわとしたくせ毛に、すっきりと刈り上げたうなじ、片耳のピアスに順番に視線を奪われ、思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
「ねえヒロくん」
「何かな、藍良」
「何か話してよォ、スマホばっか見てないでさァ」
 スマホを見ていたのは藍良も同じなのだが、それはいつも隙あらば藍良を構おうとする一彩が静かだったからだ。大分使いこなせるようになったとはいえ、スマホを熱心に見る一彩は珍しい。
 同じベンチに座っているのに、なんだか二人の間にいつもより距離がある気がする。まるで一彩が、藍良にスマホを覗かれないようにしているみたいに。
「ああ、ごめんよ。調べものをしていたんだ」
「調べもの?」
「うん、実は今度の土曜日に、兄さんと買い物に出かけるんだよ。久しぶりに兄さんと過ごすから、お店などを調べていたんだ」
「ふゥん?」
 兄弟、仲が良いようで何よりだ。その次の週の金曜日は藍良の誕生日なのだが、そっちの把握はしてくれているのだろうか。
 恋人なのだから「それよりおれの誕生日はァ?」と茶化してみてもいいのだが、せっかくなら一彩からその話題を持ちかけてほしいと思う。
「良いお店見つけたら、おれも連れてってよねェ」
 だから藍良は、遠回しなおねだりだけに留めた。誕生日のことを自分から言い出すのは、やはり少し恥ずかしい。
「ウム! それは期待していて欲しいよ」
 一彩が笑顔で肯定したのに安心したころ、自動ドアから巽が入ってくるのが見え、藍良が手を振って呼んだ。今日はALKALOIDの四人でレッスンをする日だ。一彩、藍良、巽が揃えば、マヨイもどこかの壁か天井から姿を現すだろう。



 付き合っているからといって、一彩と藍良は四六時中一緒にいるわけではない。側にいれば遠慮なくスキンシップをしてくる一彩だが、意外と交友関係が広く、藍良の知らないスケジュールで行動している時もある。
 今日はそういう日。一彩が出かけていて暇な日だ。そんな時は藍良は、寮やESビルで親しい友人と待ち合わせて過ごす。
 その日は桜河こはくと待ち合わせた。事務所は違うが、ESアイドルの中でも最年少で同い年、更にはデビュー時期の近いユニット同士ということで何かと縁がある。さらに後から分かったことだが、藍良が昔インターネット上で知り合い仲良くしていた者と同一人物だというのだから驚きだ。そんな経緯でお互いに「ただならぬ縁」を感じている藍良とこはくは、お互いの予定が空いているときは積極的に会っている。
「今日は弟はんと一緒やないん?」
「うん、今日は燐音先輩とおでかけだって」
 待ち合わせ場所に選んだのはセゾンアベニューにあるカフェだ。ESビル内には、ES関係者専用通貨が使える店も多いのだが、知り合いに会う確率が高すぎるので今日は外にした。仕事は好きだが、せっかくの完全オフなので、仕事からは離れて過ごそうと思ったのだ。
「あー、それで燐音はん朝からソワソワしとったんや」
「そうなの?」
 藍良とこはくは、大きなガラス窓から通りが良く見える、開放的な内装が特徴の一角に、向かい合って座っている。木目調のテーブルセットに、飾られている観葉植物がよく合っている。よく手入れされたそれは、店内を彩りながらも隣の席や通りを行き交う人々からの目線から少しだけ隠れさせてくれる。
「ん。弟の前で道に迷うわけにはいかねェっち言うて、何や地図とか見てたで」
「へェ、燐音先輩とヒロくんって、そういうところ似てるよねェ」
 藍良は先日、一彩が熱心にスマホで調べものをしていた様子を思い出した。それからホットティーにスティックシュガーを丸々一本流し入れ、ティースプーンで丁寧にかき混ぜる。糖分で少しとろみの出たホットティーを、一口飲んで溜め息をついた。
「はァ~、来週おれの誕生日なのにさァ、ちゃんと覚えててくれてるかなァ」
「ラブはん今度誕生日なん?」
 思わず出た言葉に、こはくが反応する。ネット上で話していた頃のハンドルネームで呼ばれることについては、もうツッコミを入れるのは止めてしまった。
「あ、ごめん、誕生日アピールしたみたいになっちゃった」
 一彩の前では頑なに話題にするのを避けていたのに、つい口に出てしまった。口を押えたがもう遅く、藍良の仕草を見てこはくは笑ってくれた。
「ええって、わしにも祝わせてや。ラブはんの誕生日、知らずに過ぎてしまうんは残念やわ」
「そ、そう……? えっとね、来週の、27日なんだァ」
 藍良は照れ隠しに、ホットティーに口を付けて顔の下半分を隠す。抹茶と白玉のパフェを食べていたこはくは、細長いスプーンを折りたたんだ紙ナプキンの上に置くと、スマホを取り出してスケジュール帳を開いた。
「ちょうど一週間後やね。ちゃんと覚えとくから、その日はわしからもお祝いさせてや」
「う、うん、ありがと……」
「あの弟はんのことやから、ラブはんの誕生日忘れてること無いんとちゃう? おおかた今日は、燐音はんとプレゼント探しに行ってるかもしれんで」
「そうだといいけどォ……」
 今日は朝『兄さんと出かけてくるよ!』という元気なメッセージが届いて以降、一彩からの連絡はない。普段はこっちが嫌がっても押しかけてくるくせに、こういう日はとことん連絡がないのだ。この落差に振り回されていると認めたくはないが、何度もスマホを見てしまうあたり、とっくに負けているのだろう。
 とはいえ、目の前に話し相手がいるのにスマホばかり見ていては失礼だ。
「おれもパフェ食べようかなァ」
 藍良は鞄にスマホをしまい、今度はテーブルに立て掛けてあるメニューを開いた。



 いよいよ誕生日が数日後の週末へと近づいてきた。
 藍良はESビル内にあるレッスンルームで、ALKALOIDのメンバーとダンスのレッスンを行っていた。マヨイの厳しいレッスンののち、小休憩を許された藍良は汗だくの身体を引きずるようにレッスン室の隅へ向かい、自分の鞄の中からスポーツドリンクを取り出して床に座り込んだ。火照った身体に冷たい床が気持ちいい。
 ドリンクを取り出すために開けた鞄からついでにスマホを取り出す。特に用が無くてもスマホを触ってしまうのは藍良の癖だ。愛読しているニュースサイトを開いて見出しを眺めていると、ふと今日の日付が目にはいった。
 藍良はスケジュールを書き込むのに使っているアプリを開き、学校と仕事以外の予定の書き込まれていない、11月27日の欄を眺める。両親が「誕生日に好きなものを食べなさい」と藍良にお小遣いをくれたことや、当日は祝わせてほしいとこはくに言われたこと等を思い出す。けれど、当然あるものと思っていた一彩との約束がまだ何もないことがずっと気になっていた。
「藍良、今度の金曜日だけれど」
「ひゃあっ」
 藍良の心を読んだかのように、一彩が藍良に声をかけてきた。一瞬、自分の妄想が幻聴を起こしたのかと思ってしまい声をひっくり返してしまう。藍良が顔を上げると、いつの間にか一彩が隣に座っていた。マヨイの個別レッスンは、いつの間にか巽の番になっていた。
「ヒロくん! びっくりしたァ、急に側に来ないでよォ!」
「す、すまない……そんなに驚かれるとは思わなかったから」
「いいけどォ……」
 いま、一彩は今度の金曜日といったか。藍良は胸が高鳴るのを感じ、一彩の次の言葉に期待しているのを自覚する。
 少し緊張しながら、一彩が隣に座れるよう自分の荷物をどかした。
「それで藍良、今度の金曜日は空いているかい?」
「その日は……」
 一彩が藍良のスマホを覗き込むような仕草をしたので、藍良は咄嗟に画面を胸にあてて隠す。別に隠すほどのものは何も見ていなかったのだが、スケジュール帳を開いているのを見られたら自身の誕生日を意識しているようで気まずい。
 けれど一彩は、藍良の様子を見て優しく笑った。
「今度の金曜日は君の誕生日だよ。……まさか忘れてるわけじゃないよね?」
「わ、忘れてないよォ……むしろ、ヒロくんがそのこと聞いてくれるの、待ってたもん」
 忘れているどころか、ずっと意識していた。毎日カレンダーと一彩を見比べては、どんな約束をしてくれるのかとドキドキしていたのだ。それと同時に、もし何も予定が入らなかったらどうしようという不安もあった。
「良かった。その日仕事が終わったら二人で出かけよう。……いいよね?」
「いいに決まってるでしょォ……。どこに連れて行ってくれるのォ?」
 普段の一彩なら、藍良よりも先にALKALOIDの活動がオフの日をおさえて、そのまま藍良の予定も確認してくれるのに、今回に限ってはそうでなかった。今さら一彩以外の者と誕生日の約束をするなんてありえないから、たとえギリギリになっていたって、スケジュールは一彩のために空欄にしておいただろう。
 藍良に出かけ先を聞かれた一彩は、白い頬に朱を差しながら笑った。
「うん……実は夜に、ホテルを予約したのだけど……」
「ホテル……?」
 一彩の言葉に、藍良の鼓動がさらに高鳴った。一彩は藍良の目を見つめて続ける。
「君の誕生日を二人で祝いたいと思ったんだ。……寮ではゆっくりできないだろう?」
「え……あ、えっと……」
 一彩と藍良は現在、寮の部屋が別室に分かれ、それぞれルームメイトがいる。さらには二人ともアイドルであるという立場上、一歩外に出れば自分らの顔を見知っている者にどこで出会うか分からない。人目につかず、二人きりになれる場所というのはなかなか見つからないのだ。
「すまない勝手に……その、迷惑だっただろうか」
「そ、そんな事ない……ちょっとびっくりしただけ……」
 だからこそ一彩はホテルを予約するという行動に出たのだろう。藍良を誘うのが遅れたのは、その計画と予約をしていたからだろうか。
 一彩は藍良の細い指を絡めとって、藍良の手を握った。藍良よりも少し高い一彩の体温が伝わってくる。
「じゃあ今度の金曜、いや……次の日の朝まで空けておいてね」
 一彩の言葉ひとつひとつを丁寧に聴きながら、藍良は頬を染めて頷いた。
「うん……楽しみに、してるからねェ」
 藍良が頷いたのを見て、一彩は安心したように表情を緩めた。そして、握っていた手をそのまま引いて立ち上がる。
「さあ、レッスンに戻ろう藍良」
「え、う、うん……」
 伝えるべきことを伝えるや否や、一彩はレッスンへと気持ちを切り替えた。まだ少しぼうっとしていたかったが、藍良もそれに従って立ち上がる。
 藍良は一彩に手を引かれて、巽とマヨイがレッスンをしている部屋の中央へと戻った。

 それから誕生日までの数日間、藍良はふとした瞬間に、週末の一彩との約束を思い出しては、一人で頬を染める日々が続いた。一彩が強引なのはいつものことだが、まさか藍良の了承を得る前にホテルを予約しているとは思わなかった。友だちの誕生日を祝う作法が分からない、と言っていた頃とは全然違う。
 ホテルへ向かう前に、二人きりで食事をしようとも言われた。まるで恋人同士のようだ。恋人同士なのだけれど。そんな心地で藍良の数日は過ぎていった。
 


 いよいよ誕生日当日になった。藍良はいつもより早起きをして、念入りに肌と髪を整えた。今日はESで、プロデューサー主催の藍良の誕生日パーティーもある。いつも以上に可愛い自分でいなければと、特別な日だけ使う事にしている化粧品を惜しみなく使った。
 そうしているとあっという間に部屋を出る時間になった。登校のタイミングが合う日は、寮の食堂で一彩と朝食をとるのがお約束になっている。早朝から支度をしていたので、ちょうどお腹が空いてきた。
 同室の先輩はもう仕事に出かけたようだ。藍良はルームキーを片手に握り、自室のドアを開けた。
「おはよう藍良! そしてお誕生日おめでとう!」
 廊下に出てすぐ、いつもの元気な挨拶に捕まった。顔を確かめる前に分かる。一彩の声だ。
「お、おはよォ……びっくりしたァ、部屋の前で待ってなくてもいいのに」
 にこにこと笑う一彩は、藍良の姿を眺めているのか、少し顔を傾ける。
「君の特別な日だからね。今日は一段とかわいいよ、藍良」
「あ、ありがと……」
 気合いを入れて支度したとはいえ、それをすぐに言い当てられて気恥ずかしい。藍良は思わず、指で前髪を摘まんで整えた。
「朝食にしよう、藍良」
「うん」
 藍良は一彩に手を引かれ、寮の食堂へと向かう。早朝だからか、それとももう皆仕事に行ってしまったのか廊下は静かだったが、共用スペースに出る前に、藍良は一彩の手を離した。
 今日の朝食はコーヒーとパン。それから一緒にキッチンを使ってハムと目玉焼きを作った。共用スペースの一角で食事を取り、いつものように学校へと向かう。学校へ到着し、昇降口で分かれてそれぞれの教室へ向かうのがいつもの流れなのだが、今日は別れ際に、一彩に両手ほどの大きさの包みを手渡された。
「藍良、これを」
「え、これ何……?」
 思ったより重量のあるそれを、藍良はしっかりと持つ。それはほんのりと温かい。心なしかいい匂いがする気がする。
「うん。君のためにお弁当を作ったんだよ」
「え、お弁当!? これヒロくんが作ったの?」
 上品な紺色の布で包まれた箱は、一人分の大きさの弁当箱のようだった。出来立てなのか、藍良の手のひらをじわりと温めていく。
「そうだよ。だから今日は、購買部で何か買っちゃダメだからね」
「ありがと……」
「じゃあまたお昼にね。迎えに行くから」
「うん……」
 言うや否や、一彩は二年生の教室のほうへと振り返った。一彩はこちらのペースなどお構いなしに、言いたいことを言っていく。
 藍良は一彩と分かれて自分の教室へと入った。今日使う教材を鞄から取り出し、一彩にもらった弁当を鞄の底に大事にしまった。
 てっきり藍良は、一彩からのプレゼントは夜にもらうものなのだと思っていた。むしろ、「ホテルを予約している」こと自体がプレゼントなのだと。まさかホテルに誘われている日に手作りの弁当をもらうとは想像もしていなかった藍良は、朝から面食らってしまった。
 今日はこんな調子で、ずっと一彩に甘やかされるんだろうか。そう思ったら自然と口角が上がって、それから顔が熱くなる。藍良はチャイムが鳴るまで、机に伏せてすごした。

 昼休みは宣言通り一彩が迎えに来た。一彩が迎えに来るのはいつものことなので、最近はクラスメイトも慣れたようだ。
 いつも昼休みに二人で過ごしている空き教室へ向かい、窓際の席で同じ弁当箱を開いた。中身は二人とも同じ内容で、玉子焼きにソーセージ、小さなハンバーグ、野菜炒めと、シンプルかつ充実した内容だった。味が濃いめについているので冷めていても美味しい。これを一彩が自分のために作ってくれたのかと思うと、感動と照れ臭いのとでくすぐったくなる。
 何より一彩の気持ちが籠っているのが嬉しくて、普段は小食の藍良もあっと言う間に食べ切ってしまった。
「美味しかったかい?」
「うん、美味しかったァ……」
 昼食はいつも購買部のサンドイッチやガーデンテラスでの軽食で済ませる藍良は、箱いっぱいに詰まった弁当を食べるのは久しぶりだった。これが一彩の作るお弁当の味か、と感動する。
「ふふ、じゃあ弁当箱は預かるね」
 藍良が完食し空になった弁当箱を、一彩が預かってくれた。何から何まで世話を焼かれてしまっているが、誕生日だからという事なら素直に甘えようと思う。
「それから、はいこれ」
 片付いた机の上に、今度は可愛らしくラッピングされた手のひらほどの大きさの何かが置かれた。
「これは?」
「僕が焼いたクッキーだよ。今日のおやつはそれにしてね」
「えっ! 手作りクッキー!?」
 手作り弁当に続いての不意打ちに、藍良は思わず驚愕をそのまま声に出してしまった。口をぽかんと開けたまま、一彩の前に両手を差し出す。藍良の小さな手のひらに、大事そうに乗せてくれた。
「そうだよ。本当はマシュマロを作ってあげたかったんだけど、それは難しかったからクッキーにしたんだ。口に合うといいんだけど」
「そんな……ヒロくんが作ってくれたものなら、何でも嬉しいよォ……」
 藍良は思わず、その包みを胸に抱いた。あまり力を入れると中のクッキーが割れてしまうかと思ったが、包みの中に薄いプラスチックでできたケースのようなものの感触があたるので、その心配は無さそうだった。
 弁当に続いてクッキーをプレゼントした一彩は満足そうに笑う。
「良かった、今日はESで藍良の誕生日パーティーがあるからね。その前に僕から甘い物をプレゼントしたかったんだよ」
「ヒロくんいつの間にこんなの作れるようになったのォ?」
「お弁当もクッキーも、今朝早起きして作ったんだよ」
「そうじゃなくてェ」
 いつ作ったかではなく、いつ学んだのかを聞きたかったのだが、見事にかわされてしまった。
「ふふ、それは今夜話すよ」
 そう言って、一彩は机の上で藍良の手を握った。残りの休み時間は軽いスキンシップを交わしながら、他愛のない会話をしたり、スマホや雑誌を見せ合ったりして過ごした。
 昼休みが終わるころ、食事でとれてしまったリップをつけなおす時に一彩にじっと見つめられ、藍良は照れ隠しに、そっぽを向いて教室までの廊下を歩いた。

 放課後は、一彩は部活に少し顔を出すと言っていたので藍良は先にESビルへと向かった。藍良の誕生日パーティーの準備の真っ最中である事務所に立ち寄るのは少し気恥ずかしいので、まっすぐ空中庭園へ向かう。日課の自主トレをこなし、おやつに一彩の手作りクッキーを食べることにする。ラッピングを解くと、中からトランプのスートの形をしたクッキーが入ったクリアボックスが出てきた。バタークッキーとチョコレートクッキーだろうか。クリームとブラウンの色がバランスよく入っている。箱を開けると、バターのいい香りがした。藍良はその中のスペードの形のチョコレートクッキーを手に取る。食べるのがもったいない気がしたが、一彩には今日のおやつはこれにするよう言われているので、思い切って食べた。
 ALKALOIDのメンバーの象徴であるスートを一枚ずつ食べてから、藍良は残りのクッキーは大事に鞄にしまった。
 その時、遠くで扉が開く音が聞こえ、空中庭園の入り口に見慣れた人影が見えた。その人物は藍良の良く知る人物だったので、ぱあっと表情を明るくする。
「こはくっち!」
 風に揺れる桜色に向かって、藍良は手を振った。自分の尻と荷物をずらして、ベンチにひとり分のスペースを作る。
「ラブはん、お誕生日おめでとう」
 そう声をかけながら、こはくは藍良の隣に座った。
「もうすぐ事務所でパーティーあるのに、わざわざ探してくれたのォ?」
「せや。スタプロのパーティーに顔出すより、ここ来たほうが早く会えるかな思ってな。それに、パーティー始まってしもたらゆっくりプレゼント渡されへんし」
 こはくはレッスン用のバッグの中から、豪華なラッピングのされた箱を取り出した。お菓子の箱に透明なラッピングフィルムがかけられ、端をきゅっとリボンで飾ったそれを両手で受け取る。
「長いこと名店街うろうろして選んだんや。弟はんみたいに手作りやなくて堪忍な」
 藍良は首を横にぶんぶんと振った後、目を輝かせて喜んだ。
「ありがとうこはくっち! ねえ開けてもいい?」
「ええよ。わしにもよく見せてや」
 藍良はひざの上で、フィルムを止めているリボンを丁寧に解いてフィルムを開く。桃色の箱を開くと、中から正方形に敷き詰められた色とりどりの菓子が出てきた。見た目はクッキーみたいだが、触るとふわふわとしている。
「ギモーヴっちいうらしいねん。ラブはんマシュマロ好きやろ? それと似た感じのもんやって、店の人が言うてたわ」
「へェ~! 美味しそう! 大事に食べるねェ」
 藍良はそれを鞄にしまうために、ラッピングフィルムを大事に畳む。それを見たこはくが、店の人に「お渡し用」でもらったものだと、丁度いい大きさの紙袋を手渡してくれた。その中に、ギモーヴの箱もラッピングフィルムも一緒にしまう。
「ねぇ、なんでおれがヒロくんに手作りのものをもらったって分かったの?」
 さっきまで食べていたクッキーは鞄の中だ。一彩とこはくにはあまり接点がないように思うのだが、何故知っているのだろう。藍良が質問した途端、こはくは「しまった」という表情をしたように見えた。気まずそうに頬を掻いて、藍良から目を逸らす。
「あー、それは多分弟はんに直接聞いた方がええんちゃうかな。わしも偶然知ってしまっただけやし」
 何か知っていることを隠すのは諦めたようで、こはくは素直にそう言った。
「そ、そうなんだ……気になるよォ」
 こはくの様子からそれ以上問うこともできず、藍良は肩を竦める。こはくは堪忍な、と言ってベンチから立ち上がった。
「ほな、わしレッスンに戻るな」
「え、もう?」
「そろそろスタプロのパーティーの時間やろ。弟はんが迎えに来る前に退散するわ」
「そ、そんな風に気を使わなくてもいいのに……」
 こはくは、一彩と藍良が付き合っていることをおそらく知っている。直接確かめたわけでは無いが、この振舞いを見るとおそらく知っているのだ。藍良が申し訳なさそうにしているのを見て安心したのか、こはくがニッと笑う。
「せやったら今度また一緒にどっか遊びに行こ。わしの行きたいとこ付き合ってや」
「うん! ありがとうね、こはくっち!」
 次の約束をもらえて藍良も安心する。一彩という恋人やALKALOIDの仲間、そしてこはくをはじめとする多くの友人たちのことも、大切にしようと藍良は改めて思う。
 これから藍良は、その大勢の人に誕生日を祝ってもらえる。家族以外の人に誕生日を祝ってもらうのは随分久しぶりのように感じた。
 こはくと入れ替わりで一彩が空中庭園に出てきた。スタプロのパーティーの用意が整ったので、一彩が代表して藍良を迎えに来たのだそうだ。
 
 ESでは所属するアイドルの誕生日を、事務所とプロデューサーが主体となって祝う。同じ事務所のアイドルたちや、仲の良いアイドルたちが事務所に集まり、それぞれプレゼントを渡したり、お祝いの言葉を述べたりする。
 藍良の誕生日会ではスタプロのアイドルや藍良の所属するサークルメンバーによるミニライブが行われ、アイドルオタクである藍良にとって最高の誕生日会となった。
 藍良もALKALOIDのメンバーと一曲歌い、沢山のプレゼントと先輩たちからの祝福に囲まれてパーティーを終えた。
 その後、藍良は一彩に手伝ってもらってプレゼントを運んだ。巽が車を借りてこようかと提案してくれたが全力で断り、両手に抱えて寮まで帰る。

 この後は一彩と二人で食事の予定だ。二人一緒に寮を出ていくのは気まずいと藍良が言ったら、待ち合わせ場所はタイムストリートになった。
 藍良は部屋でもらったプレゼントを簡単に整頓してしまった。また明日帰ってきたときにゆっくり眺めようと思う。一彩にもらったクッキーだけは鞄にいれておいた。
 パーティーではしゃいだからか少し汗ばんでいる服を着替え、藍良はインナーを替え、白いパーカーを身に着けた。このパーカーはいつかのデートで、一彩と色違いで買ったお揃いのパーカーなのだけど、一彩は気づいてくれるだろうか。
 リップを塗りなおし、変装のためにキャップを被り、ピンクの伊達メガネをすればお出かけスタイルの完成だ。一彩に今から向かうと連絡して、寮を出る。夜のタイムストリートは大人の街というイメージだから、今からそんな場所で一彩に会うことを思うと少しわくわくした。
 タイムストリートに入ったところで、ショーウィンドウを眺めながら立っている一彩を見つけた。帽子は被っていないけれど縁の大きな眼鏡をかけ、黒いパーカーのポケットから取り出したスマホで時間を確認しているようだった。
「ヒロくん!」
 声をかけて駆け寄る。一彩の服装を近づいて確かめると、やはり、その黒いパーカーは藍良とお揃いのものだった。
「藍良、待ってたよ。……それ、着てきてくれると思ってた」
「ふふ、おれもォ」
 形はありふれたものだが、脇腹のあたりにロゴの入った特徴的なデザインだからあの日買ったパーカーだとすぐ分かる。
「嬉しいけどちょっと恥ずかしいから、早くお店入っちゃお」
「うん、こっちだよ」
 一彩が、藍良のために予約してくれたというレストランに案内してくれた。優しい値段設定で、予約をすれば半個室になっている席に案内してくれる店らしい。十代のデートにおすすめの店だと、雑誌で紹介されていたと一彩が言う。その雑誌は藍良も見たことがあった。確か「お手頃な値段で高級レストラン気分」とか「学生だって、大事なデートははびしっとキメたい!」等という文句で紹介されていた気がする。ドレスコード等はもちろん無い。
 店内はファミレスのような内装だが明かりは少し落としてあり、落ち着いていて静かだ。学生がグループで訪れる店というよりは、雑誌の紹介通りデート用の店という雰囲気がある。
 が案内されたのは大きな窓の側に並ぶ席で、隣の席との間に間仕切りがされ、通路に面している側は座っている者の顔が隠れる程度にゆったりとレースのカーテンが括られていた 
 二人が席につくと店員がガラスのテーブルの上にレースのプレースマットを敷き、それぞれの前にナイフやフォーク等を並べていく。前菜に小皿に乗ったカプレーゼを置いて乾杯用の飲み物の注文を聴くと店員が一度下がる。店員がキッチンのほうへいなくなったのを見届けて、藍良が小声で言った。
「ねえヒロくん、大丈夫? ここほんとに高くないの?」
「大丈夫だよ。藍良は気にしないで」
 お手頃な値段で高級レストラン気分が味わえる店とはいっても、ファミレス価格ではないだろう。メニュースタンドには一彩が予約したらしいコースの案内しかかかっておらず、値段の記載は無い。何から何まで、相手に食事を御馳走することを前提としてセッティングされている。
 このレストランでは「割り勘」という単語はタブーなんだろうなと藍良は思い、大人しくすることにした。
 しばらくして、店員がドリンクと一緒に、最初のメイン料理らしいパスタを持ってきた。
 二人の目の前に、茄子とベーコンのアラビアータとアイスティーが置かれる。店員が会釈をして去ると、一彩がグラスを持ち上げた。
「まずは乾杯だよね?」
 覚えたての作法を確かめるように、一彩は疑問形で言った。藍良は微笑み返して、同じようにグラスを持つ。
「お誕生日おめでとう、藍良」
「ありがとォ」
 カランと音を立てて、二人のグラスがぶつかる。こんな風に乾杯をするのはライブの打ち上げ以来だ。雰囲気のある店で二人きりというのも初めてで、藍良は少し緊張する。
「そろそろタネ明かししてよォ」
「タネ明かし?」
 カプレーゼのチーズをフォークで口に運びながら藍良が言う。ソースの味のついたふわふわのチーズが、藍良の口の中で溶けた。
「……いつのまに、お弁当とかクッキーとか……考えてたのォ?」
「ああ、そのことかい? 実は椎名さんに作り方を教わったんだよ」
「ニキ先輩に?」
 フォークにパスタを絡めとりながら一彩が言う。
「そう。藍良も前に、僕に料理を振舞ってくれたことがあったよね。 だから僕も藍良の好きなものを作ってあげたいと思ってね、お菓子作りを教えてもらったんだ」
 以前、一彩の大好きなハンバーグを作ってあげたいと思って、藍良もニキに料理を教わったことがある。それと同じことを一彩もしていたと言うのだ。確か前に、ルームメイトの葵ひなたと、部活の仲間の南雲鉄虎も一緒にニキにお菓子づくりを教わったとも聞いている。その経験を活かしたということなのか。
「実は先週、兄さんと一緒にでかけていたのも、椎名さんに取り次いでもらうためだったんだ」
「そうだったんだァ」
 こはくが訳を知っているような素振りだったのはそういうことだったのかと、藍良は納得した。燐音とニキのどちらかが、こはくにその話をしたのだろう。
「今日は君の特別な日だし、特別な日には御馳走を食べるものだよね。 だからどうせなら、今日藍良が口にするものは、全部僕と一緒に食べるものがいいなって思ったんだよ」
「サラっとすごいこと言ってない? ヒロくん」
 確かに今日は、今朝から今まで一彩と一緒に食べたものか、一彩が作ったものしか口にしていない。いつもなら購買で昼食を買ったり、おやつにマシュマロを買ったりするのだけれど、今日はそのことが頭からすっかり無くなっていた。
「皆が藍良を祝うし、色んな贈り物をもらうだろうから、 その中で僕が一番でありたかったんだよ」
「心配しなくたって、こんな重たいプレゼント攻撃、ヒロくんしかしないよォ」
「攻撃したつもりは無かったのだけど……その、やりすぎだろうか」
 さっきまで堂々としていたのに、一彩が急にしゅんと肩を落とす。朝からずっと構い倒しているくせに、やりすぎている自覚は無かったのかと思うと笑ってしまう。隙がないように見えて実は藍良には弱い一彩のことが、藍良は好きなのだ。
「ううん、これくらいがヒロくんっぽくていい」
 誰にでも懐いて、誰とでもすぐ友だちになろうとする一彩だから、藍良への愛情表現はしつこくてやりすぎなくらいが丁度いい。そんな一彩に振り回されているのが心地いいのだ。
 その後順番にミニステーキと温野菜のスープが運ばれてきて、最後のデザートプレートには藍良の名前がデコレーションされていた。
 これでもかという程に畳みかけてくる一彩のプレゼントに、藍良は「やっぱりやりすぎかもしれないな」と思いながらも、心から喜んだ。今日だけで一彩にいろいろな食べ物をもらったけれど、どの味もずっと忘れないのだろうなと思う。


 食事の後、会計は当たり前のように一彩がもってくれた。それから二人でホテルへと向かうことになった。ホテルはここから少し離れているというのでバスに乗って向かう。
 着いたホテルは、一階にバーの入っている小さなホテルだった。居室はビジネスホテルより広く、一彩が少し背伸びをして借りてくれたのだという事がすぐに分かる。
 普段仕事で借りるビジネスホテルはツインだけれど、この部屋はダブルだった。ベッドの周りに広めに空間がとってあり、仕事で泊まるだけの窮屈なホテルとは全然違う。鏡台と物書き用の机も別で設置されているし、お風呂にはちゃんと洗い場もある。
「張り切ってこんな部屋借りちゃってさァ」
 照れ隠しに、藍良はそんなことを言った。荷物を置いて部屋を眺めていたら、突然一彩に後ろから抱きしめられた。
「ちょ、ちょっとヒロくん……!」
 藍良はとっさに一彩をたしなめるような言動をとったが抵抗はしなかった。ぎゅうっと抱きしめ直されては力が抜けてしまう。
「ごめん、藍良……今日ずっと、君に触れたくて仕方が無かったんだよ」
 ふわりと、一彩がつけている香水の香りを感じた。ああ、この香りは知っている。一彩と初めて身体を重ねた日に、一彩がつけていたものだ。あれから何度もそういう機会はあったし、何度抱きしめあったか数えきれないけれど。この香りを嗅ぐと、いつでも初めてのあの時へと感情が引き戻される。
「ヒロくん……」
 雰囲気づくりについては、一彩は考えていない。いつも唐突で強引なのに、藍良はすぐ一彩のペースに呑み込まれてしまう。
 途端に心臓が早鐘を打ち、体温が上がった。藍良が身じろぎをして一彩のことを振り返る。そして目を合わせて、笑った。
「やっと二人きりだねェ」
 一彩のふわふわとしたくせっ毛を撫でると、一彩が甘えるような表情をして、頷いた。
「うん……」
 改めて向かい合い、見つめ合った。朝からずっと一緒にいるにもかかわらず、いや、ずっと一緒にいたからだろうか。やっと人目を気にせずに触れ合える空間に来られて、一彩は安心しているようだった。それは藍良も同じで、許されると分かった途端、一彩に触れたくて仕方が無くなってしまう。
 改めて向かい合うと、一彩が藍良の頬を撫で、それから指先で唇に触れられた。淡いコーラルのリップは自分に良く似合うと思って付けているのだが、一彩も気に入ってくれていたようだ。
「ねえ、ヒロく……んっ」
 キスをねだろうとしたら、その前に唇を重ねられた。触れた一彩の唇を軽く食むように藍良もキスを返す。そのまま藍良は一彩の背中を、一彩は藍良の肩や頭を抱き寄せ合う。触れるだけの長いキスをして、ゆっくりと離れた。
「今夜は朝まで、ずっと一緒だよ」
 もう一度ぎゅっと抱きしめられ、藍良は力を抜いて一彩に身を任せる。温かくて、いい匂いがした。
「こんなにたくさん、良くしてもらって……おれ、返せないよォ」
 お弁当に、クッキーに、レストランでの食事に、ホテル。それに、こうして愛してくれることも。誕生日にこんなに満たされたのは初めてかもしれない。
「こうして君が喜んでくれるだけで、一緒にいてくれるだけで、充分お返ししてもらってるよ」
「そ、そォ……?」
 こんなにも尽くされて、愛されて、いつもの藍良なら恐縮してしまうところなのだが、一彩にそうされることは満更でもない。けれど、まったく遠慮しないわけにもいかない。それをどう伝えようか迷っていたら、一彩が藍良の気もちを汲んでくれた。
「じゃあ藍良、今ひとつだけ、僕の我儘を聞いてもらってもいいかい?」
「なぁに? わっ」
 聞き返すと、身体がふわりと浮かんだ。一彩が藍良の事を抱き上げたのだ。そのままお姫様抱っこで、部屋を大きく回ってベッドに連れていかれる。
 柔らかなマットレスの上に大事に寝かされたところで、藍良は意味を理解してかぁっと顔を赤くした。
「ちょ、ちょっと待ってヒロくん、シャワーまだだよォ……」
「ごめん、待てない。……ダメかな?」
 ベッドの上で一彩に組み敷かれ、今にもキスをされそうな距離で見つめられる。藍良は恥ずかしくなって目を逸らしながら、こくこくと頷いた。一彩に懇願されては拒否できない。それに、せっかくいい雰囲気なのだから中断するのも野暮だ。
 藍良は一彩に抱きしめられ、今度は深く口づけられた。一彩の重みで、自身の身体がマットレスに沈んで身動きがとれない。一彩の体温と心臓の音、そして体重を全身で受けているのが心地いい。藍良は一彩とお互いの舌を絡ませあいながら、一彩の纏う香りを感じていた。



 ダブルの部屋とはいえ、ホテルの風呂は二人で入ると少し狭い。一彩と藍良は湯の中でお互いの肩を寄せ合い、身体を温めていた。
「ねェ、ヒロくんのお誕生日は何が欲しい?」
 ぱしゃ、と音を立てて湯を肩にかけながら、藍良が一彩に問う。
「僕の誕生日は、まだ少し先だよ」
「いいのォ、今から考えとかないと」
 備え付けられていた入浴剤はシンプルな石鹸の香りで、藍良は気に入った。浸かっている肌がすべすべになる気がする。
 そんなことを考えながら待つこと数秒、一彩がやっと答えた。
「じゃあ、藍良を一日……独り占めさせてほしいよ」
 一日僕のために空けておいて、と一彩は言った。いつも独り占めしてるくせに、と思いながらも藍良は頷いた。一彩らしい答えだとも思う。一彩は、藍良に物をねだることはあまりないのだ。
「わかった。愛でいっぱいの一日になるように、今から考えておくからねェ」
「ふふ、楽しみにしておくよ」
 藍良は一彩の肩に、甘えるように頭をのせた。身体を洗ってしまったから、いまは一彩の汗の匂いも、香水の香りもしない。けれどその代わり、お互いが同じ石鹸の香りに包まれている。これはこれで嬉しいのだけれど、でも藍良が好きなのはやはり。
「ねえ、お風呂上がったら、今日つけてた香水、つけて」
「え?」
「持ってきてないの?」
「藍良に教えてもらった通り、アトマイザーに入れて持ち歩いているよ」
 香水はつけたてと、時間がたってからでは香りが変わる物が多い。いつでも香りを調整できるよう、香水は持ち歩くようにと教えたのは藍良だ。
「さっすがヒロくん。おれ、あの香り好きなんだァ」
 ロケ先のホテルで初めて身体を重ねたことと、ロケの思い出も相まって、あの香りは藍良にとって特別なものになっていた。
「藍良にも分けてあげようか?」
「……ヒロくんからするあの香りが好きなのォ」
 そう言ってやったら、一彩が分かりやすく頬を染めた。時々見せるこういう初心な反応を、藍良はかわいいと思う。
「夜ふかししたいの。ベッドでおしゃべりしながら」
 今夜は一彩の腕の中で、大好きな香りを感じながら過ごしたい。弁当を食べているときも、クッキーを食べているときも、それからレストランで食事をしているときも。ずっと一緒にいるのに人の目があるところでは触れられないから、今日のようにホテルをとった日は特別だ。
「……わかったよ。せっかく二人きりなのだから、すぐ眠るのはもったいないね」
「そういうこと」
 朝からずっと構われていたのだ。こうなったらとことん、甘えてやろうと思った。次はこんな機会、いつあるか分からない。
 もうすぐ日付が変わり、藍良の誕生日は終わる。けれど、二人の夜はまだまだこれからだ。




おわり
5/8ページ
スキ