【本編】今夜もウサギの夢をみる
藍良の仕事が終わるまでの時間を潰すのは容易だった。駅近くの本屋ならこの時間でも営業している。しかし、手に取った本の内容に集中することはできなかった。
閉店時間に追い出されるように本屋を出た僕は、藍良に指定されたコンビニに向かう。
思い切って、藍良に店の外で会いたいと伝えたら、今日の仕事の後はどうかと言われた。面倒ごとをさっさと済ませたいだけかもしれないし、日を改めるのが煩わしいからわざわざ仕事の後にしたのかもしれない。それでも、藍良が僕のために時間を作ってくれたのが嬉しかった。
深夜だから、終電に余裕を持って送ろうと思うとあまり時間はない。何を話そう、どこで何をして過ごそう。心の準備をする時間はあまり無かった。
「おーい、ヒロくーん」
待ち侘びた声にはっとして顔を上げると、藍良の鳥の子色の髪が視界に映る。長い前髪のかかった瞳は僕のことを不思議そうに見上げてくる。
「あ、藍良……ごめん、お仕事お疲れ様」
「外から手振ったのに、ぼーっと突っ立ってるんだもん」
「少し緊張していて」
コンビニの店内の明るい照明の下で見る藍良は、どこにも紫色を纏っていなかった。深緑色のジャケットを着て紺色のマフラーに深く顔を埋めている。ふと、それ以外にいつもと違うことに気づいて、僕は藍良の額のあたりに手を翳した。
「藍良って、こんなに小さかったっけ……?」
「店ではヒールとウサ耳で盛ってるから」
藍良がふてくされたように顔を赤らめる。かわいい。少しの間だけど、藍良を独り占めできるのが嬉しかった。
「僕はこっちの方が好きだな」
「そォ? じゃあ今度から厚底じゃない靴にしよっかなァ」
藍良は軽い足取りでコンビニ店内を踊るように歩き、ガムを一つレジへと持って行った。買ってあげると言うと、これくらい自分で買うからと断られてしまった。
「で、これからどこ行くの?」
コンビニを出て、藍良が僕の顔を覗き込む。店で隣同士で座っている時にはあまり感じない身長差をより感じて、僕はどきりとした。
「えっと、この時間でも入れる良い店を知ってるから……」
「言っとくけど、変なトコ連れ込んだらぶっ飛ばすから」
「ちゃんとしたお店だよ! 駅前に兄さんとよく行くバーがあるんだ」
君に出会ってからは一度も訪れていないのだけれど、と心の中で呟いて、僕は店の名前を検索したスマホの画面を見せた。
その店は大通りから裏道に入ってすぐという、アクセスのしやすさと静かさが人気のバー。暗めの照明とゆったりとした音楽が、一日の終わりに癒しの時間をくれる。……と、兄さんが言っていた。
このバーは、兄さんがパチンコに居酒屋にと僕を連れまわした後、最後に寄ることが多い場所。少しの時間、ゆっくりと話をするのにはうってつけの店だ。
「うわ、雰囲気がカッコいい店」
店内に入った瞬間、藍良が僕だけに聞こえる声でそういった。今日ばかりは色んな店に僕を連れまわしてくれた兄に感謝する。
僕たちはカウンター席の端に並んで座る。バーテンダーが、低いがよく通る声で来店を歓迎してくれ、細長いメニュー表を手渡してくれた。僕はあらかじめ決めておいた注文をして、メニュー表を側に置いた。
「普段からこういうお店によくくるの?」
藍良が、カウンターの向こうに並んでいるカラフルな酒瓶を興味津々に眺めながら言う。藍良の働いている店にも同じような設備はあるだろうけれど、この反応は専らホール担当だからだろうか。
「うん。兄さんが飲み会好きな人で、僕もよく誘われるから」
「ああ、だから最初の来店のときお兄さんと一緒だったんだねェ」
僕は笑ってそれを肯定する。兄さんも時々あの店には行っているようだけれど、兄さんにとっては「よく行く店のひとつ」であり、来店ペースはほどほどらしい。僕がここまで夢中になるとは思っていなかったようだ。今では僕のほうがあの店のシステムに詳しく、それをよく兄にからかわれる。それを藍良に話すと笑ってくれた。淡い照明に照らされる藍良の横顔がかわいらしくて見惚れていたら、僕たちの前にカクテルが2杯置かれた。
片方はレモンが飾られた黄金色のカクテル。もうひとつは藍良にと頼んだ、さくらんぼ入りの桃色のカクテル。見た目がかわいらしいというだけの理由で、予め目をつけておいた。
「じゃあ、乾杯」
お互いのグラスを軽くぶつける。レモンの黄色とさくらんぼの赤のコントラストが綺麗で、悪くない。
「初めての店外デートだねェ」
藍良がそう言っていたずらっぽく笑って、不意を突かれた僕は顔がかっと熱くなるのを感じた。変な顔をしそうになるのをごまかすように、僕はカクテルを一口飲む。藍良もそれを見て、自分に出されたカクテルを一口含んだ。その様子を、僕は横目で盗み見る。中に入っているさくらんぼが転がって、藍良の唇に触れる。
そのひとつひとつの所作から、目が離せない。あのお店ではない別の場所で藍良といるということだけで、僕の頭はいっぱいだった。
「……これ、アルコール入ってない」
一口飲んで、藍良が不思議そうにグラスを眺める。
「ノンアルコールカクテルだよ。ただのさくらんぼジュースだから、安心して飲んでね」
お店でお客さんに付き合って飲んでるだろうし、実際僕もさっき一緒にレモンサワーを飲んだ。藍良がどれくらいお酒に強いのかは分からないけれど、僕なりに気を遣ったつもりだった。すると今度は藍良のほうが頬を赤らめて、何故か悔しそうに額に手をついて項垂れた。
「はァ~、ヒロくん絶対モテるでしょォ」
「そ、そんなこと無いよ」
今その話題になるとは思ってもいなかった僕は、咄嗟に否定することしか出来ない。
なんでこんな、いや、うーん、と何やらぶつぶつ言いながらも、藍良は僕の選んだカクテルを飲んでくれている。何かに迷うようにグラスの中を転がるさくらんぼ。酔う心配が無いと分かって安心したのか、藍良のジュースはもう半分ほどまで減っていた。
「お客さんとお店の外で会うの初めてだから、一応警戒してたんだけどねェ」
藍良が僕の目の前で自分のグラスを掲げて、僕とそれを見比べるような目をした。僕から見ると、さくらんぼが藍良を装飾しているように見える。お店では紫色の衣装を纏っていることが多いけれど、きっと赤も似合うのだろうなと思う。
「なのにノンアルとか出してくるんだもんなァ、ちょっとは下心とかないわけ?」
「それはその……誘った以上は無いと言ったら嘘になるけど、僕はこうして君が外で会うことに了承してくれただけでも、夢みたいなことだと思ってるから……」
気恥ずかしいのに、視線を外せない。フルーツカクテルの甘酸っぱい香りが、酔いとともに僕の意識に滲んでくる。
「……この後の予定は?」
「え? 終電までに……君を駅に送ってから帰る……」
「ほらァ、そういうとこ!」
真面目に答えたのに、藍良は噴き出した。ちょっとだけ心外に思っていたけれど、グラスの細いステムを指でくるくるといじりながら、藍良がほっと息をついたのが分かった。
「拍子抜けしたけど安心したなァ。おれ、ヒロくんのこと信用するね」
藍良がもう一度グラスを傾け、今度は転がっているさくらんぼごと口の中に吸い込んだ。
どうやら僕は、藍良の警戒心を少しだけ解くことができたらしい。藍良の仕事モードじゃないリラックスした笑顔を見ることができた気がして、僕は嬉しくなった。
「ふふ、ありがとう。グラスが空になったけど、何か飲む?」
「じゃあ、同じのをもう一杯」
それから藍良は、気を許してくれたのか自分のことをよく話てくれた。お店で聞いた話もあったが、より深堀りした内容を教えてくれた。
実家から大学に通っていること、趣味にお金がかかるから親に迷惑をかけないように今の仕事を始めたこと。
僕が「コンセプトバーで働くことについて反対されなかったのか」と聞いてみたら、藍良は図星なのか苦笑いをした。
実のところ、最初は少し反対されたという。コスプレをする以外は普通の店だなどと強く主張してなんとか説得したらしい。
小さいころからかわいい服にあこがれがあり、堂々とかわいらしい衣装を着られることに魅力を感じること。また、趣味のためにお金がいることを論点として説得したら、藍良の趣味や好みに理解のある母親が折れてくれたらしい。
外泊をしないこと、大学の勉強をおろそかにしないこと、就活を優先すること、等々の条件で認めてもらったそうだ。
藍良の趣味については『お金がかかること』意外は教えてもらえなかったが、藍良が話の途中で『推し活』という言葉を滑らせたのでだいたいどんな趣味なのかは察しがついた。しかし、藍良が夢中になっている『推し』については誰なのかは教えてもらえなかった。
もう少し仲良くなったら教えてもらえるだろうか。藍良の好きなもののことをもっと知りたい。
「そろそろ帰ろうか。駅まで送るよ」
「うん」
ジュースは空になって、さくらんぼは転がることができなくなって底に留まっていた。藍良はそれを細い指先で摘まみ上げる。お行儀が悪いよと窘めようとしたら、藍良は自分のそれじゃなく僕の唇にそれを押し付けてきた。「え」と声を出そうとして開いたところに押し込まれる。口の中に、甘いさくらんぼの味が転がり込んできた。
当然のことに僕は反応できずに固まってしまった。時間が止まったようなのに、口の中には甘い香りがじわりと広がっていく。
「サービス」
そう言って笑って、藍良が僕の唇に触れた指をぺろっと舐める。
「あ、ありがとう……」
「ウチの店じゃこんなことしないから、期待しないでよねェ」
僕はうまく言葉を返せなくて、口の中のさくらんぼを噛熟すことしかできなかった。悔しいような、藍良のペースに巻き込まれるのが嬉しいような複雑な気持ちになる。切ない興奮で体温が上がるのだけははっきりと分かった。
勝ち誇ったように笑う藍良の笑顔が、これまで見たなかで一番綺麗で、かわいらしかった。それはきっと藍良にとってはいつもと変わらない笑顔で、変わったのは僕のほうなのだと自覚した。
藍良にとって僕が、都合のいいお客さんで、藍良に転がされているだけなのだとしても。
ああ、僕はどうしようもなく、君が好きだ。
夢から覚めるどころか、ますます惹かれてしまっていた。
つづく
閉店時間に追い出されるように本屋を出た僕は、藍良に指定されたコンビニに向かう。
思い切って、藍良に店の外で会いたいと伝えたら、今日の仕事の後はどうかと言われた。面倒ごとをさっさと済ませたいだけかもしれないし、日を改めるのが煩わしいからわざわざ仕事の後にしたのかもしれない。それでも、藍良が僕のために時間を作ってくれたのが嬉しかった。
深夜だから、終電に余裕を持って送ろうと思うとあまり時間はない。何を話そう、どこで何をして過ごそう。心の準備をする時間はあまり無かった。
「おーい、ヒロくーん」
待ち侘びた声にはっとして顔を上げると、藍良の鳥の子色の髪が視界に映る。長い前髪のかかった瞳は僕のことを不思議そうに見上げてくる。
「あ、藍良……ごめん、お仕事お疲れ様」
「外から手振ったのに、ぼーっと突っ立ってるんだもん」
「少し緊張していて」
コンビニの店内の明るい照明の下で見る藍良は、どこにも紫色を纏っていなかった。深緑色のジャケットを着て紺色のマフラーに深く顔を埋めている。ふと、それ以外にいつもと違うことに気づいて、僕は藍良の額のあたりに手を翳した。
「藍良って、こんなに小さかったっけ……?」
「店ではヒールとウサ耳で盛ってるから」
藍良がふてくされたように顔を赤らめる。かわいい。少しの間だけど、藍良を独り占めできるのが嬉しかった。
「僕はこっちの方が好きだな」
「そォ? じゃあ今度から厚底じゃない靴にしよっかなァ」
藍良は軽い足取りでコンビニ店内を踊るように歩き、ガムを一つレジへと持って行った。買ってあげると言うと、これくらい自分で買うからと断られてしまった。
「で、これからどこ行くの?」
コンビニを出て、藍良が僕の顔を覗き込む。店で隣同士で座っている時にはあまり感じない身長差をより感じて、僕はどきりとした。
「えっと、この時間でも入れる良い店を知ってるから……」
「言っとくけど、変なトコ連れ込んだらぶっ飛ばすから」
「ちゃんとしたお店だよ! 駅前に兄さんとよく行くバーがあるんだ」
君に出会ってからは一度も訪れていないのだけれど、と心の中で呟いて、僕は店の名前を検索したスマホの画面を見せた。
その店は大通りから裏道に入ってすぐという、アクセスのしやすさと静かさが人気のバー。暗めの照明とゆったりとした音楽が、一日の終わりに癒しの時間をくれる。……と、兄さんが言っていた。
このバーは、兄さんがパチンコに居酒屋にと僕を連れまわした後、最後に寄ることが多い場所。少しの時間、ゆっくりと話をするのにはうってつけの店だ。
「うわ、雰囲気がカッコいい店」
店内に入った瞬間、藍良が僕だけに聞こえる声でそういった。今日ばかりは色んな店に僕を連れまわしてくれた兄に感謝する。
僕たちはカウンター席の端に並んで座る。バーテンダーが、低いがよく通る声で来店を歓迎してくれ、細長いメニュー表を手渡してくれた。僕はあらかじめ決めておいた注文をして、メニュー表を側に置いた。
「普段からこういうお店によくくるの?」
藍良が、カウンターの向こうに並んでいるカラフルな酒瓶を興味津々に眺めながら言う。藍良の働いている店にも同じような設備はあるだろうけれど、この反応は専らホール担当だからだろうか。
「うん。兄さんが飲み会好きな人で、僕もよく誘われるから」
「ああ、だから最初の来店のときお兄さんと一緒だったんだねェ」
僕は笑ってそれを肯定する。兄さんも時々あの店には行っているようだけれど、兄さんにとっては「よく行く店のひとつ」であり、来店ペースはほどほどらしい。僕がここまで夢中になるとは思っていなかったようだ。今では僕のほうがあの店のシステムに詳しく、それをよく兄にからかわれる。それを藍良に話すと笑ってくれた。淡い照明に照らされる藍良の横顔がかわいらしくて見惚れていたら、僕たちの前にカクテルが2杯置かれた。
片方はレモンが飾られた黄金色のカクテル。もうひとつは藍良にと頼んだ、さくらんぼ入りの桃色のカクテル。見た目がかわいらしいというだけの理由で、予め目をつけておいた。
「じゃあ、乾杯」
お互いのグラスを軽くぶつける。レモンの黄色とさくらんぼの赤のコントラストが綺麗で、悪くない。
「初めての店外デートだねェ」
藍良がそう言っていたずらっぽく笑って、不意を突かれた僕は顔がかっと熱くなるのを感じた。変な顔をしそうになるのをごまかすように、僕はカクテルを一口飲む。藍良もそれを見て、自分に出されたカクテルを一口含んだ。その様子を、僕は横目で盗み見る。中に入っているさくらんぼが転がって、藍良の唇に触れる。
そのひとつひとつの所作から、目が離せない。あのお店ではない別の場所で藍良といるということだけで、僕の頭はいっぱいだった。
「……これ、アルコール入ってない」
一口飲んで、藍良が不思議そうにグラスを眺める。
「ノンアルコールカクテルだよ。ただのさくらんぼジュースだから、安心して飲んでね」
お店でお客さんに付き合って飲んでるだろうし、実際僕もさっき一緒にレモンサワーを飲んだ。藍良がどれくらいお酒に強いのかは分からないけれど、僕なりに気を遣ったつもりだった。すると今度は藍良のほうが頬を赤らめて、何故か悔しそうに額に手をついて項垂れた。
「はァ~、ヒロくん絶対モテるでしょォ」
「そ、そんなこと無いよ」
今その話題になるとは思ってもいなかった僕は、咄嗟に否定することしか出来ない。
なんでこんな、いや、うーん、と何やらぶつぶつ言いながらも、藍良は僕の選んだカクテルを飲んでくれている。何かに迷うようにグラスの中を転がるさくらんぼ。酔う心配が無いと分かって安心したのか、藍良のジュースはもう半分ほどまで減っていた。
「お客さんとお店の外で会うの初めてだから、一応警戒してたんだけどねェ」
藍良が僕の目の前で自分のグラスを掲げて、僕とそれを見比べるような目をした。僕から見ると、さくらんぼが藍良を装飾しているように見える。お店では紫色の衣装を纏っていることが多いけれど、きっと赤も似合うのだろうなと思う。
「なのにノンアルとか出してくるんだもんなァ、ちょっとは下心とかないわけ?」
「それはその……誘った以上は無いと言ったら嘘になるけど、僕はこうして君が外で会うことに了承してくれただけでも、夢みたいなことだと思ってるから……」
気恥ずかしいのに、視線を外せない。フルーツカクテルの甘酸っぱい香りが、酔いとともに僕の意識に滲んでくる。
「……この後の予定は?」
「え? 終電までに……君を駅に送ってから帰る……」
「ほらァ、そういうとこ!」
真面目に答えたのに、藍良は噴き出した。ちょっとだけ心外に思っていたけれど、グラスの細いステムを指でくるくるといじりながら、藍良がほっと息をついたのが分かった。
「拍子抜けしたけど安心したなァ。おれ、ヒロくんのこと信用するね」
藍良がもう一度グラスを傾け、今度は転がっているさくらんぼごと口の中に吸い込んだ。
どうやら僕は、藍良の警戒心を少しだけ解くことができたらしい。藍良の仕事モードじゃないリラックスした笑顔を見ることができた気がして、僕は嬉しくなった。
「ふふ、ありがとう。グラスが空になったけど、何か飲む?」
「じゃあ、同じのをもう一杯」
それから藍良は、気を許してくれたのか自分のことをよく話てくれた。お店で聞いた話もあったが、より深堀りした内容を教えてくれた。
実家から大学に通っていること、趣味にお金がかかるから親に迷惑をかけないように今の仕事を始めたこと。
僕が「コンセプトバーで働くことについて反対されなかったのか」と聞いてみたら、藍良は図星なのか苦笑いをした。
実のところ、最初は少し反対されたという。コスプレをする以外は普通の店だなどと強く主張してなんとか説得したらしい。
小さいころからかわいい服にあこがれがあり、堂々とかわいらしい衣装を着られることに魅力を感じること。また、趣味のためにお金がいることを論点として説得したら、藍良の趣味や好みに理解のある母親が折れてくれたらしい。
外泊をしないこと、大学の勉強をおろそかにしないこと、就活を優先すること、等々の条件で認めてもらったそうだ。
藍良の趣味については『お金がかかること』意外は教えてもらえなかったが、藍良が話の途中で『推し活』という言葉を滑らせたのでだいたいどんな趣味なのかは察しがついた。しかし、藍良が夢中になっている『推し』については誰なのかは教えてもらえなかった。
もう少し仲良くなったら教えてもらえるだろうか。藍良の好きなもののことをもっと知りたい。
「そろそろ帰ろうか。駅まで送るよ」
「うん」
ジュースは空になって、さくらんぼは転がることができなくなって底に留まっていた。藍良はそれを細い指先で摘まみ上げる。お行儀が悪いよと窘めようとしたら、藍良は自分のそれじゃなく僕の唇にそれを押し付けてきた。「え」と声を出そうとして開いたところに押し込まれる。口の中に、甘いさくらんぼの味が転がり込んできた。
当然のことに僕は反応できずに固まってしまった。時間が止まったようなのに、口の中には甘い香りがじわりと広がっていく。
「サービス」
そう言って笑って、藍良が僕の唇に触れた指をぺろっと舐める。
「あ、ありがとう……」
「ウチの店じゃこんなことしないから、期待しないでよねェ」
僕はうまく言葉を返せなくて、口の中のさくらんぼを噛熟すことしかできなかった。悔しいような、藍良のペースに巻き込まれるのが嬉しいような複雑な気持ちになる。切ない興奮で体温が上がるのだけははっきりと分かった。
勝ち誇ったように笑う藍良の笑顔が、これまで見たなかで一番綺麗で、かわいらしかった。それはきっと藍良にとってはいつもと変わらない笑顔で、変わったのは僕のほうなのだと自覚した。
藍良にとって僕が、都合のいいお客さんで、藍良に転がされているだけなのだとしても。
ああ、僕はどうしようもなく、君が好きだ。
夢から覚めるどころか、ますます惹かれてしまっていた。
つづく