【本編】今夜もウサギの夢をみる
視覚から惑わせてくる紫色。漂う酒の香りに思わず顔をしかめる。少し大きめの音量でかかっている店内BGMが僕の洞察を鈍らせた。ジャズをこんなにうるさいと思ったのは初めてだ。
上機嫌な兄さんに、肩を組むようにして半ば強引に連れてこられた場所は、繁華街のコンセプトバー。表の看板には『妖艶なウサギたちと運試しはいかが?』なんて信じられないくらいにセンスのない謳い文句がつづられていた。
「シケた面してねェで楽しんでこいよ」
ぐいと兄に肩ごと引き寄せられ、そのまま背中を押されてよろめいた。少しずれた眼鏡を直して顔をあげると、目の前には店のボーイが立っていた。
「あ、あの」
なんて言うのが正解なのかを知らない僕は、ただ格好悪く狼狽えるしかなかった。
「こいつ初めてだから案内してやってくれ」
そう言って兄さんはカウンター席の方へと向かって行った。カウンター内にはウサギの耳をつけた黒い衣装の青年たちがいる。兄さんは、その中にいた水色の髪の男の人に声をかけていた。ああなっては僕が文句を言いに行くことはできない。店員さんや他のお客さんに迷惑だろうし、何より兄さんの楽しみに水を差したくはない。
僕は仕方なく、笑顔のボーイさんに連れられて店の奥へと向かった。
たまには遊びを覚えろと、兄さんに言われたのがきっかけだった。
せっかくお酒を飲めるのだからと色んなお店を教えてもらった。兄さんが飲みたいだけなのだとは分かっていたけれど、兄さんが構ってくれる時間は悪くなかったし、僕自身もお酒に興味がないわけではなかった。一口に居酒屋やバーと言っても色んなお店があって面白かったし。……とはいえ、コンセプトバーという形態のお店に興味を持ったわけでも、知りたいと思ったわけでもない。
こうして知った今も、知れて良かったとは少しも思わない。今日みたいに兄さんに連れてこられなかったら、絶対に縁のない店だろう。
よくもまあ、こんなにもジャズを下品にできたものだと思う。
僕が案内されたのは、半個室と言っても差し支えない、背もたれの高い半円型のソファ席。テーブルの真ん中にはトランプとダイスが置いてある。
「当店は初めてとのことですので、簡単に説明いたします」
そう言って店員がタブレットを取り出した。この店はワンドリンク制で、この時点でチャージ料金が発生していること。キャストと呼ばれる店員のうち一名が側に座って接客を行うこと。接客内容は話し相手、飲み相手になること、テーブルの上にあるトランプ等を使ってレクリエーションをすること。軽いスキンシップは構わないが、無暗に触れてはならないこと。などなどが説明された。
「気になるウサギさんがいたら呼びますので、良かったらプロフィールを見てみてくださね」
「あ、いや……」
この店の世界観に順応できない僕にとっては、この空間はずっと居心地が悪い。誰でもいい、と答えたいところだがウサギの格好をした誰かが隣に座ってお話をしてくれるという接客スタイルも求めていない。助けてくれ、兄さん。
兄さんのいるカウンター席へ行きたい。そう口にしようとしたその時だった。
トレーに飲み物を乗せて慌ただしく通り過ぎる店員が目についた。証明を浴びて金色に見える明るい髪、細身の背丈。僕と年が近そうだったのと、何故か放っておけない雰囲気を感じて、目で追ってしまった。
「今の人は?」
「あのウサギさんは、『あいら』くんですよ。すみません、彼はまだ入店したばかりでプロフィールカードが間に合っていなくて……」
そう言いながら、ボーイがタブレットの画面を手繰る。そこに表示されている人たちには、僕はもう興味はない。
「あの人がいい。あの人を呼んでくれないだろうか」
僕はとにかくこの場をやり過ごそうという思いでいっぱいだった。そして話し相手を選べるなら、あの子がいいと思ったのだ。
「かしこまりました。では最初のお飲み物を……」
僕は最初の注文をして、彼が来てくれるのを待った。
「おれを選んでくれてありがとォ~!」
あまり待たずに、その人は現れた。トレーに乗っているのは今度は僕のドリンクだ。
同席してくれるキャストにも飲み物を奢っても良いらしいので、僕は彼の分も同じものを注文した。
「はいこれ、ご注文のレモンサワーです」
兄以外の人とお酒を飲むのは久しぶりだが、なんとなくソフトドリンクを頼むのでは格好がつかないような気がした。僕の目の前にドリンクを置いた彼が僕の隣に座る。そして、お尻ひとつぶん距離を詰めてきた。大きく手を動かしたら触れてしまいそうな距離。僕は思わず、彼の格好をまじまじと見てしまった。
上半身は派手なリボンとフリルがついている以外は普通のブラウスなのに、穿いているパンツは短く細い脚のラインをタイツのダイヤ柄が強調している。ウサギのしっぽを模しているらしいぽんぽんのついた大きなリボンが腰についていて、その下ではフリルのスカートの形をしたものがお尻を覆うようについている。よく見るとその生地は細かい網のようなものを使っているので透けている。過度に露出しているわけではないのに、何故か目のやり場に困る衣装だなと思った。
「こういうお店は初めて?」
「えっと……そうだよ」
見栄を張ることでもないかと思い、素直に頷く。すると彼も笑った。笑顔がかわいい。不覚にもどきりとしてしまった。
「ふふゥ、実はおれも初めてなんだ」
「え?」
「おれ、この店で働き始めたばっかりだから指名もらうの初めてなの。ありがとねェ」
『あいら』が両手で名刺のようなものを差し出してきた。
「おれは『あいら』って言います。きみは名前は何ていうの?」
その名刺には、彼の写真とSNSのIDが書かれていた。名前を覚えてもらい、次の指名をもらうためのこの店の戦略だろう。
「僕の名前は一彩」
僕は彼の名刺を大事に財布に仕舞う。
「じゃあ、ヒロくんって呼んでもいい?」
「う、うん。君がそう呼びたいならいいよ」
初対面の人にあだ名をつけられる経験は初めてだ。これが彼の営業トークというやつなのだろうか。
僕の警戒心を、彼が少しずつ解いていくのが分かる。僕は油断しないように気を引き締めたが、彼のその場を楽しませようとする言動と仕草に、僕はだんだんと気を許していた。
「ヒロくんは大学生なんだ、おれと一緒だねェ」
『あいら』が僕の注文したレモンサワーを飲む。店員が隣に座って、その店員にも任意でドリンクを注文してあげるというこの店のシステムは、僕にとっては斬新だった。
一時間くらい他愛のない話をして、そのあとはテーブルの上に置いてあるカードやサイコロで簡単な賭け事をして遊んだ。勝った方が負けたほうに何か質問できる、という他愛もないゲームだった。僕は気の利いた質問はできず、しどろもどろになりながら『あいら』が趣味のためにお金が必要で、そのためにこの仕事をしていることを聞き出した。
自分の力でその資金を捻出するためにこのバイトをしているのだという。趣味がなんなのかを聞く前にゲームが終わってしまったけれど、自分に必要なお金を自分で稼いでいるのは素晴らしいなと思った。『あいら』からの質問は、かけている眼鏡は伊達なのかとか、大学では何を専攻しているのか、一緒に来ていた兄さんとは仲がいいのかとか、本当に興味があるのかそうでないのか絶妙なラインにまで及んだ。そう、僕は負け越したのだ。
2時間ほどおしゃべりをして、僕は席を立った。カウンターにいた兄さんに声をかけると「もう帰るのか」と言われたりもしたけれど、こんなところいくらお金があっても足りない。だいたい、今日は兄さんの奢りだし延長はできないだろう。いつのまにか2時間も経っていたと思うくらい、『あいら』との時間は楽しかったけれど。
『あいら』が店の出口まで見送りに来てくれて、兄さんに「この子にしたのかよ」とからかわれた。
これが、僕と『あいら』の出会いだった。最初で最後の、この場限りの邂逅のはずだった。
つづく
上機嫌な兄さんに、肩を組むようにして半ば強引に連れてこられた場所は、繁華街のコンセプトバー。表の看板には『妖艶なウサギたちと運試しはいかが?』なんて信じられないくらいにセンスのない謳い文句がつづられていた。
「シケた面してねェで楽しんでこいよ」
ぐいと兄に肩ごと引き寄せられ、そのまま背中を押されてよろめいた。少しずれた眼鏡を直して顔をあげると、目の前には店のボーイが立っていた。
「あ、あの」
なんて言うのが正解なのかを知らない僕は、ただ格好悪く狼狽えるしかなかった。
「こいつ初めてだから案内してやってくれ」
そう言って兄さんはカウンター席の方へと向かって行った。カウンター内にはウサギの耳をつけた黒い衣装の青年たちがいる。兄さんは、その中にいた水色の髪の男の人に声をかけていた。ああなっては僕が文句を言いに行くことはできない。店員さんや他のお客さんに迷惑だろうし、何より兄さんの楽しみに水を差したくはない。
僕は仕方なく、笑顔のボーイさんに連れられて店の奥へと向かった。
たまには遊びを覚えろと、兄さんに言われたのがきっかけだった。
せっかくお酒を飲めるのだからと色んなお店を教えてもらった。兄さんが飲みたいだけなのだとは分かっていたけれど、兄さんが構ってくれる時間は悪くなかったし、僕自身もお酒に興味がないわけではなかった。一口に居酒屋やバーと言っても色んなお店があって面白かったし。……とはいえ、コンセプトバーという形態のお店に興味を持ったわけでも、知りたいと思ったわけでもない。
こうして知った今も、知れて良かったとは少しも思わない。今日みたいに兄さんに連れてこられなかったら、絶対に縁のない店だろう。
よくもまあ、こんなにもジャズを下品にできたものだと思う。
僕が案内されたのは、半個室と言っても差し支えない、背もたれの高い半円型のソファ席。テーブルの真ん中にはトランプとダイスが置いてある。
「当店は初めてとのことですので、簡単に説明いたします」
そう言って店員がタブレットを取り出した。この店はワンドリンク制で、この時点でチャージ料金が発生していること。キャストと呼ばれる店員のうち一名が側に座って接客を行うこと。接客内容は話し相手、飲み相手になること、テーブルの上にあるトランプ等を使ってレクリエーションをすること。軽いスキンシップは構わないが、無暗に触れてはならないこと。などなどが説明された。
「気になるウサギさんがいたら呼びますので、良かったらプロフィールを見てみてくださね」
「あ、いや……」
この店の世界観に順応できない僕にとっては、この空間はずっと居心地が悪い。誰でもいい、と答えたいところだがウサギの格好をした誰かが隣に座ってお話をしてくれるという接客スタイルも求めていない。助けてくれ、兄さん。
兄さんのいるカウンター席へ行きたい。そう口にしようとしたその時だった。
トレーに飲み物を乗せて慌ただしく通り過ぎる店員が目についた。証明を浴びて金色に見える明るい髪、細身の背丈。僕と年が近そうだったのと、何故か放っておけない雰囲気を感じて、目で追ってしまった。
「今の人は?」
「あのウサギさんは、『あいら』くんですよ。すみません、彼はまだ入店したばかりでプロフィールカードが間に合っていなくて……」
そう言いながら、ボーイがタブレットの画面を手繰る。そこに表示されている人たちには、僕はもう興味はない。
「あの人がいい。あの人を呼んでくれないだろうか」
僕はとにかくこの場をやり過ごそうという思いでいっぱいだった。そして話し相手を選べるなら、あの子がいいと思ったのだ。
「かしこまりました。では最初のお飲み物を……」
僕は最初の注文をして、彼が来てくれるのを待った。
「おれを選んでくれてありがとォ~!」
あまり待たずに、その人は現れた。トレーに乗っているのは今度は僕のドリンクだ。
同席してくれるキャストにも飲み物を奢っても良いらしいので、僕は彼の分も同じものを注文した。
「はいこれ、ご注文のレモンサワーです」
兄以外の人とお酒を飲むのは久しぶりだが、なんとなくソフトドリンクを頼むのでは格好がつかないような気がした。僕の目の前にドリンクを置いた彼が僕の隣に座る。そして、お尻ひとつぶん距離を詰めてきた。大きく手を動かしたら触れてしまいそうな距離。僕は思わず、彼の格好をまじまじと見てしまった。
上半身は派手なリボンとフリルがついている以外は普通のブラウスなのに、穿いているパンツは短く細い脚のラインをタイツのダイヤ柄が強調している。ウサギのしっぽを模しているらしいぽんぽんのついた大きなリボンが腰についていて、その下ではフリルのスカートの形をしたものがお尻を覆うようについている。よく見るとその生地は細かい網のようなものを使っているので透けている。過度に露出しているわけではないのに、何故か目のやり場に困る衣装だなと思った。
「こういうお店は初めて?」
「えっと……そうだよ」
見栄を張ることでもないかと思い、素直に頷く。すると彼も笑った。笑顔がかわいい。不覚にもどきりとしてしまった。
「ふふゥ、実はおれも初めてなんだ」
「え?」
「おれ、この店で働き始めたばっかりだから指名もらうの初めてなの。ありがとねェ」
『あいら』が両手で名刺のようなものを差し出してきた。
「おれは『あいら』って言います。きみは名前は何ていうの?」
その名刺には、彼の写真とSNSのIDが書かれていた。名前を覚えてもらい、次の指名をもらうためのこの店の戦略だろう。
「僕の名前は一彩」
僕は彼の名刺を大事に財布に仕舞う。
「じゃあ、ヒロくんって呼んでもいい?」
「う、うん。君がそう呼びたいならいいよ」
初対面の人にあだ名をつけられる経験は初めてだ。これが彼の営業トークというやつなのだろうか。
僕の警戒心を、彼が少しずつ解いていくのが分かる。僕は油断しないように気を引き締めたが、彼のその場を楽しませようとする言動と仕草に、僕はだんだんと気を許していた。
「ヒロくんは大学生なんだ、おれと一緒だねェ」
『あいら』が僕の注文したレモンサワーを飲む。店員が隣に座って、その店員にも任意でドリンクを注文してあげるというこの店のシステムは、僕にとっては斬新だった。
一時間くらい他愛のない話をして、そのあとはテーブルの上に置いてあるカードやサイコロで簡単な賭け事をして遊んだ。勝った方が負けたほうに何か質問できる、という他愛もないゲームだった。僕は気の利いた質問はできず、しどろもどろになりながら『あいら』が趣味のためにお金が必要で、そのためにこの仕事をしていることを聞き出した。
自分の力でその資金を捻出するためにこのバイトをしているのだという。趣味がなんなのかを聞く前にゲームが終わってしまったけれど、自分に必要なお金を自分で稼いでいるのは素晴らしいなと思った。『あいら』からの質問は、かけている眼鏡は伊達なのかとか、大学では何を専攻しているのか、一緒に来ていた兄さんとは仲がいいのかとか、本当に興味があるのかそうでないのか絶妙なラインにまで及んだ。そう、僕は負け越したのだ。
2時間ほどおしゃべりをして、僕は席を立った。カウンターにいた兄さんに声をかけると「もう帰るのか」と言われたりもしたけれど、こんなところいくらお金があっても足りない。だいたい、今日は兄さんの奢りだし延長はできないだろう。いつのまにか2時間も経っていたと思うくらい、『あいら』との時間は楽しかったけれど。
『あいら』が店の出口まで見送りに来てくれて、兄さんに「この子にしたのかよ」とからかわれた。
これが、僕と『あいら』の出会いだった。最初で最後の、この場限りの邂逅のはずだった。
つづく
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