【本編】今夜もウサギの夢をみる

 ライブのあとの豪雨で電車が止まり、タクシーには長蛇の列。それならばホテルだと思って動いたはいいが、やはり皆考えることは同じ。
 駅の近くの安いカプセルホテルやビジネスホテルから埋まっていき、どこも満室になっていた。僕らと同じようなずぶ濡れの人たちでロビーが混雑していると、それだけで部屋を借りるのは絶望的だと判断できた。
 天気予報は夕方から雨だと言っていた。僕はライブに影響があるかだけを気にしていて、その後のことを考えていなかった。しかし、電車を止めるほどの豪雨になるとはここにいる皆も予想していなかっただろう。
 割高になってしまうが、カプセルやビジネス以外のホテルも検討しなければならないだろうか。僕が一泊数万のホテルの空室情報を検索していたら、同じようにスマホを見ていた藍良が「こっち!」と突然僕の手を引っ張った。

◇◆

「よかったァ、部屋空いてて。あはは、すごい部屋だねェ……」
 藍良が見つけてくれたのは、まるでどこか異国の城を連想させる華美な内装のホテルだった。外から見た時は普通のホテルに見えたのに、料金プランに「休憩」と「宿泊」とがあるのを見た瞬間僕はそこが何なのかを悟った。いわゆるラブホテルである。
 後で分かったことだが、やはりラブホテルの類にも雨を逃れようとした客が殺到し安いところから満室になっていたようだ。藍良がワンランク高いホテルに早めに目を付けて走ったのが良かったようで、僕達はギリギリのところで部屋を借りることができた。
 まず僕にラブホテルで雨宿りをするという発想が無かった。藍良の判断に感心すると同時に、そのホテルに入る本来の目的を意識して脳が混乱した。
「とりあえず濡れた服を着替えないと……」
 しかし今は、雨風をしのげる部屋にたどり着いた安堵の方が大きかった。僕はバスルームに向かい、備え付けのタオルを複数枚手に抱える。ガウンが二着かかっていたのでそれも借りることにした。ガラス張りの風呂場を横目に部屋に戻ると、藍良が物販で購入したものをソファテーブルの上に並べている。
「グッズ全然濡れてなくてよかったァ」
「藍良、それもいいけどまず髪を拭いて」
 僕はバスタオルとガウンをひとつずつ藍良に渡し、自分もタオルで頭を拭きながら部屋の設備を一通り確認する。
 天蓋つきの豪華なベッドに、やけに充実したアメニティ。ドールハウスのような内装なのに、何故かカラオケが設置されている。
 クロゼットの中にハンガーと室内干し用の簡易ヒーターを発見した僕は、藍良にこれで服を乾かそうと提案した。
「ヒロくん先にお風呂入っちゃいなよォ」
「え、これから帰る方法を考えるんじゃないの?」
「えぇ? 泊まるんじゃないのォ?」
 確かに僕は、ロビーの端末で「宿泊」を選択した。しかしそれは「休憩」を選んだ場合満室になった時に延長ができないとの注意書きがあったからだ。この雨ならすぐに満室になるのは予想できた。豪雨の中外に放り出されるよりは宿泊料金を全額支払った方が良いと考えてのことだった。
 時間はまだ夕食時。終電までに電車が通常運行に戻る可能性は充分にある。
 雨に濡れた身体を温めるのに風呂を使うのには賛成だけれど、藍良はすでに部屋で寛ぐモードに入っているように見えた。
「せっかくお金払ったんだからゆっくりして行こうよォ」
「藍良、外泊は親に禁止されてるって言ってなかった?」
「こんな時に融通利かない親じゃないから。今事情を説明してるとこ」
 藍良は何やらスマホで文章を打っている様子だった。確かに、一泊分の料金を支払っておいてすぐに退室するのは勿体ないが、藍良のこの警戒心の無さを喜んでいいのか心配していいのか分からない。とりあえず、今日藍良と一緒にいるのが僕で良かったと思う他無い。
「……わかった、お風呂溜めてくるね」
 とりあえず僕は、これからどうするかよりも今何をするかを考えることにした。まずは冷えた身体を温めることが先決。
 僕はガラス張りの風呂の中に入り、お湯を溜めるために備え付けのリモコンを操作する。冷えただろうから高めの41℃に設定して、丸い形の浴槽にお湯が溜まっていくのを確認。ふとリモコンについている「ライト」というボタンが気になって押してみると、浴槽全体がピンクに光った。そんな機能がついていると知らなかった僕は突然のことに驚き慌ててライトを消した。が、浴室の入り口の方で藍良の笑う声が聞こえた。
「あはは、ほんとにあるんだお風呂が光る機能! 初めて見たァ! ふふ、あははっ」
 ……見られていた。
 藍良が楽しそうなのは何よりだけれど、僕はそれどころではない。むしろこの状況で何故藍良が狼狽えていないのか不思議だった。僕のことを余程信頼しているのか、それとも甘く見ているのか。
「ねぇねぇヒロくん、お風呂一緒に入るゥ?」
「……入らない。先に入っていいよ藍良」
 多分、後者だなと思った。
 ここが普通のホテルだったら、藍良と同じ部屋で一晩を過ごせることをそれなりに喜んで、格好悪くもドキドキしながら楽しく過ごしたのかも知れない。
 逆に、ここがいかにもそういう目的の場所で、あらゆるお膳立てがされすぎているせいで、雰囲気に流されたくないと強く思ってしまう。

 ライブ後のハイテンションで、ふざけているのか本気なのか分からない言動を繰り返す藍良を宥めて風呂に押し込み、僕は部屋のテレビをつけて天気予報を確認する。雨は一晩中振り続けるようで、電車は間もなく運転再開の見込み。しかし映像には、運行に支障が出ている駅のホームに人が詰め込まれている様子が映っていた。
 確かにちょっと良いホテルの部屋を借りてしまった今、これからあの中に飛び込もうとはなかなか思わないのも分かる。
 仕方ない、今夜はここで藍良と雨宿りをしよう。
 藍良が使っているシャワーの音と、ニュースの無機質なアナウンスが静かに響く部屋を、僕は見渡す。いかにも「そういう気分」を盛り上げるためにすべてが整った部屋。藍良が一通り設備を確認したのか、それとも最初からそうなっていたのかは分からないが、僕は色のついた余計な照明を消して回った。
「お風呂上がったよォ」
「ウム……」
 あまり長くない時間が経って、藍良が風呂場から出て来る気配がした。僕に気を遣って早めに上がってくれたのだろうが、今日の藍良の妙なテンションを警戒して僕は顔を上げられなかった。ソファに座っている僕の後ろに藍良の気配が移動する。
「……変なことしないから目を合わせてよォ」
 拗ねた声に焦って振り返ると、ガウンをしっかり着込んだ藍良が立っていた。シャンプーだろうか、強い香りがする。熱めのお風呂で火照ったのか顔が赤く、濡れた髪をタオルで拭く仕草がやけに艶やかに見えて、やはり僕にとっては刺激が強く、目を逸らしてしまった。
「ヒロくんって本当に真面目ェ」
 まあそこがいいんだけどね、と言って藍良が隣に座る。意気地なしとでも言いたいんだろう。構わない。僕は絶対にこの場の雰囲気に流されたりしない。後で後悔するのは、きっと藍良のほうだから。

 藍良と交代で、今度は僕が風呂場を使う。備え付けのシャンプーの甘ったるい匂いが鼻についた。
 シャワーを浴びながら、僕は何度かガラス越しの脱衣所の方を振り返る。僕は自分で、藍良が入ってくるのを警戒しているのか、期待しているのかよく分からない。
 藍良が一通り遊んだのか、紫色に光ったままになっている浴槽にそのまま浸かった。白いタイルが張り巡らされた浴室は、点いた明かりでぼうっと紫色に染め上げられている。いつも藍良に会うお店の雰囲気に似ていると思った。最初はこの色を下品だなどと思ったっけ。

 僕は特に何事もなく普通にお風呂で身体を温め、ガウンを身につけ部屋に戻る。藍良は部屋にあったタブレットで飲食のメニューを眺めている。
 藍良が自分の衣類をハンガーにかけ、側で簡易ヒーターを点けてくれていたので、僕もそれに倣ってシャツとジーンズをかけた。
 さっきまで二人が着ていたものが壁にかけられ、今は藍良と同じガウンを身に纏っていることになんとも言えない気恥ずかしさを覚える。しかし藍良は上機嫌で足をぷらぷらさせながらソファで寛いでいる。
「本当に泊まるんだよね?」
「今更帰る方が大変じゃない? ヒロくんは明日はお休み?」
 藍良がタブレットのページを手繰る。このホテルは部屋で食べられる料理も自慢だとフロントで案内があったっけ。雨のせいで材料が届かず頼めないものもあると、急ごしらえの手書きの張り紙がエレベーターに貼ってあったのを僕は何故かよく見ていた。
「まあ、そうだけど……」
「おれもバイトは夕方からだから、泊まって朝帰っても問題無いよォ」
 僕はスケジュールの心配をしているのではないのだけれど。藍良は平気なのだろうか。僕が君のことをどういう目で見ているのか、自覚が無いはずがないのに。
「それに何だかわくわくしない?」
「何、が?」
 わくわく、という僕の中には無い単語が飛び込んできて思わず聞き返す。
「大雨の中二人で走ってさ、やっとホテル見つけてこうやって泊まる感じ」
 そう言って、藍良が楽しそうに笑う。
「非日常感っていうの? 友達とこういうことするの、ちょっと憧れてたかもォ」
 友達という言葉で釘を刺されたが、状況が状況だけにその釘も頼りない。
「それは確かに、そうかもしれないよ。君と一日過ごしたいと言ったのも僕だし……」
「でしょォ? だから帰るのはなし。突っ立ってないでさァ、ごはん食べようよォ!」
 藍良がソファの隣をぽんぽんと叩いて、座れと促してくる。僕は遠慮して少し離れて座ったが、藍良がお店でそうするみたいに、お尻一つ分座る位置をずらして詰めてきた。
「何食べるゥ? ご飯食べながら物販で買った円盤の鑑賞会しよォ」
 藍良が肩を寄せて、僕にタブレットを渡してくる。僕が食事を選んでいるといつの間にか藍良がタブレットを覗き込むように僕の肩に頭を乗せてきた。僕はそれをあまり意識しないようにタブレットのぺージを手繰り、食事を選ぶ。
 正直、ライブは長丁場だったしその後雨の中走り回ったのでお腹は空いている。メニューは洋食が中心。さすが食事に力を入れているだけあって、どれも美味しそうだった。
 結局僕はオムライスを、藍良はカルボナーラを注文。それから二人分のサラダ。飲み物を選ぶ際に藍良がいくつかお酒を注文するのを、僕は止められなかった。
 注文からしばらくして、部屋に食事が届いた。ガウン姿でどうやって受け取るのだろうと思っていたが、この部屋は扉がふたつ続いていて、食事は廊下に続く扉と部屋に入るための扉の間に置いてあった。インターホンが鳴って扉を開ける頃には、運んできた人の気配は全くしなくなっていた。なるほど、こういうホテルではこうやって食事が運ばれてくるのか……と必要なのか分からない知識を得る。

 それから僕たちは、一緒に夕食を食べながら藍良が物販で購入したらしい映像を鑑賞した。それは今日ライブで間近で見たアイドルたちの紹介映像と、アルバム楽曲のミュージックビデオが収録されたものだった。
 藍良はそれを見ながらはしゃぐのかと思っていたけれど、疲れているのかお酒に酔ったのか、ずっと僕にもたれたまま動かず、じっとその映像を眺めていた。僕はというと、さっきから距離が近い藍良を意識するあまり映像の内容は頭に入ってこなかった。
 そして、映像が終わっても藍良は動かなかった。いつもなら解説が始まるところなのに。僕は眠たいのかと思って藍良に声をかけた。
「藍良、そろそろ眠らないと」
「……うん」
 藍良が立ち上がって洗面所へ行ったので、僕はその間にベッドを整える。ブランケットは一枚しかないのかとベッドの周りの棚を開けたら、枕がもう二つとブランケットがもう一つ入っていた。僕はそれらをソファに持っていき、自分の寝床を整える。そして藍良と一緒に、僕も歯磨きをした。

「ねェヒロくん。一緒に寝よォ……」
 ソファに座って寝る体勢を整えていた僕に、藍良がとんでもないことを言い放った。
 僕は焦って、藍良の肩を掴む。
「ダメだよ藍良。そんなことを言っちゃいけない」
 藍良は僕の手を振りほどいて、僕の胸にもたれかかってくる。シャンプーの甘ったるい香りと藍良の吐息を感じて、鼓動が高鳴った。
「ええ~、ソファで寝たらヒロくん風邪ひいちゃうよォ」
「この部屋は温かいから大丈夫だよ」
 努めて冷静に、僕が必死で思考を逸らそうとするのに構わず、藍良が甘えた声で僕の名前を呼ぶ。

「ヒロくん」

 君だけの、僕だけの呼び方で。その瞬間、僕はかっと体温が上がるのを自覚した。そして、藍良をソファの上に押し倒していた。
「藍良!」
「え?」
 どさっと鈍い音を立てるのを聞いて、強く押してしまったことを少し後悔する。
 状況を呑み込めていないのか、藍良は僕の下できょとんとしている。僕の影が藍良の上に落ちていたが、藍良の表情に焦りが見え始めるのがよく分かった。
「……さっきからどういうつもり?」
「な、何……?」
 藍良が逃げようとするので、僕は彼の両手を掴んでソファに縫い付ける。
「僕が君に気があるのを分かっていて、こういうことをしているの?」
 ぐっと力をこめると、痛いのか藍良の表情が歪む。それでも僕は止めなかった。言わなくてはと思った。
「僕はその気になれば君をどうにかしてしまえるんだよ?」
 藍良は僕を勘違いしている。きっと、僕のことを買い被っている。そうじゃなかったら、甘く見すぎている。
「君は僕を信用してくれて、その上でからかっているつもりなんだろうけど、僕だってこんな風に煽られ続けたらどんな気を起こすか分からないよ。……僕は、君の望まない行いを押し付けたくない」
 大好きな君が目の前にいて、二人きりで、油断した態度をとられて、君のほうから触れられて、それで平気でいられるような奴じゃない。
「もし君を傷つけてしまったら、僕は自分で自分を許せないよ……。お願いだから、不必要に煽るのはやめてくれ」
 藍良の目を見て真剣に伝えた。けれど、だんだん不安そうな、怯えたような表情になっていく藍良を、見ていられなくなった。
「僕の気を引きたいだけなら、こんなことしなくても大丈夫だよ」
 絞り出すようにそう伝えると、藍良の吐息が震え、小さく声が漏れた。

「ごめん、なさい……」

 藍良が謝罪の言葉を呟いたので、僕ははっとして藍良の手を放した。いったいどれくらいの時間、僕は藍良を押さえつけていたのだろう。
 焦って、しかしゆっくり背中を抱き起こして座らせてあげる。藍良は俯いた。長い前髪に表情が隠れて見えない。
「僕の方こそ、ごめんね。……手、痛くなかった?」
 藍良が俯いたまま首を横に振った。
 僕は思わず、藍良の頭を撫でていた。これくらいなら、触れても許されるだろうか。少し赤くなった手首を見てひどく後悔する。
 待っていたら、藍良が何度か深く呼吸をしてやっと言葉を発してくれた。
「おれ、こんな風に誰かと一日一緒に居て、泊まりで遊ぶの初めてでさ。浮かれちゃってた」
 ゆっくり、藍良が話し始めてくれて僕はいくらかほっとする。僕が思っていることを一方的にぶつけてしまった分、今度は藍良に話して欲しいと思って息を呑んだ。
「あとね、今日だけじゃない。ヒロくんがおれに会いにお店に通ってくれるのが嬉しくて、おれに夢中になってくれるのが嬉しくて、気持ち良かったの。だから調子に乗っちゃった……ごめんなさい」
 藍良が顔を上げて、僕の顔を見る。
「ヒロくん、おれのこと嫌いにならないで」
「ならないよ。……どうしてそう思うの?」
 目には涙が溜まっていて、僕の心がぎゅうっと痛くなった。ああ、こんな顔をさせたいんじゃないのに。
「だって、ヒロくん……今日ちょっとだけつまんなそうだった」
「え?」
 そう言われる心当たりが無いわけではなかったから、僕は少し焦る。藍良が鼻をすすりながら続けた。
「ライブ、おれのために当ててくれて、でも本当はあんまり興味ないの知ってる。今日だって横ではしゃぐおれにちょっと引いてたでしょ」
「そ、そんなこと……」
「分かるよ」
 藍良が笑った。眉を下げて、目尻から涙を流しながら笑うのを見るのは初めてだった。
「おれね、昔からこうなんだ。おれがドルオタだって分かると皆離れていくの。最初は自分もアイドル好きなんだーとか、藍良の好きなもの教えてよーとか言って近づいてくるくせに、いざおれがライブに行こうとか、鑑賞会しようって誘ったら「そういうつもりじゃなかった」とか言って離れていくの。じゃあどういうつもりなんだよってさァ」
 自虐か呆れか諦めか。藍良の笑う声は震えていた。
「おれ、好きな物を共有できる友達、いないんだァ」
 僕がソファに運んできた枕を、藍良がひざで抱える。まるで小さな子どもの藍良がそこにいるように見えた。
「だからヒロくんがプライベートでもご飯に誘ってくれて、おれの好きなアイドルに興味もってくれて、自分でCD買ってライブに応募までしてくれて、本当に嬉しかったの」
 僕ばっかり、藍良に夢中なんだと思っていた。僕だけが藍良を繋ぎとめようと必死なんだと思っていた。
 反省とも後悔ともつかない複雑な想いで、僕は無言で続きを促すことしかできない。
「だから今日は、ヒロくんに引かれないように、あんまりはしゃぎすぎないようにって最初は思ってたの。でもダメだった。……だって大好きなんだもん、アイドルが」
 けれど、君は君で葛藤していたんだ。大好きなものを人に教えること、自分の趣味を共有することを。
「絶対引かれたと思ったから、焦っちゃったの。……恥ずかしいこといっぱいしたよね、ごめん」
 藍良がガウンの袖で涙をぬぐう。僕はその手を捕まえて、握った。藍良が驚いて僕の顔を見る。涙で濡れた頬が綺麗だった。
「僕は、君のことをもっと知りたいと思ったから、アイドルのことを勉強したんだよ」
 藍良が言っていることは正直図星だった。けれど、つまらなかったわけじゃないということは、伝えないといけない。
「ライブチケットに応募したのだって、君の喜ぶ顔が見たかったからだよ。それに、チケットを当てたら君が振り向いてくれるかも……とも思った」
 僕はテーブルの上にあったティッシュで、藍良の涙を拭いた。藍良は呆然と僕の顔を見つめている。
「僕は藍良の好きな物を教えてもらえて、君が楽しいと思う時間を共有してもらえて嬉しかったよ」
 藍良の頬が紅潮して、また瞳が潤んだ。そして今度は頬を膨らませる。
「じゃあなんで、ライブのあと全然ライブの感想言わないの」
 ぷぅ、と唇を尖らせる藍良。泣かせておいてゲンキンだが、かわいいと思ってしまった。
「絶対喋りまくってるおれに引いてたでしょ」
「そ、そうじゃなくて。その……」
 僕は観念して、全部言葉にすることにした。
「……嫉妬、したんだ」
「え?」
 僕自身まだうまく感情を言語化できていなかったのに、この時はなぜかすっと言葉が出てきた。
「嫉妬したんだよ。アイドルに。……君をあんなにも夢中にさせる、彼らに」
 多分、素直に気持ちを言葉にしてくれる藍良を見て、自分の気持ちも整理されたのかもしれない。
「だからって君を嫌いになったりしない。するわけないよ」
 むしろ、と言いかけてやめた。これ以上は藍良には負担だろう。
 ようやく藍良の肩から力が抜けたのが分かった。安心して、もらえたんだろうか。
「……じゃあ、これからもお店に来てくれる?」
「もちろん」
 目を見て、真剣に伝える。言葉を選ぶ間があったのには、気づかないふりをした。
「外でも一緒にご飯してくれる?」
「こちらからお願いするよ」
 藍良がやっと、ちゃんと笑ってくれた。今日は藍良のいろんな表情を見ることができたけれど、やっぱり笑った顔が一番好きだ。
「……ありがと、ヒロくん」
「僕は君にとって一番のお客さんだって、自惚れてもいいかな」
「うん。だってヒロくんはおれの初指名のお客さんだもん」
 思わず握っていた手が、僕の手を握り返してくれた。
「やっぱり一緒に寝よ、ヒロくん」
「……さっきの話を聞いていたかい? 藍良」
 呆れて笑ってしまう。でも、藍良も笑っていた。
「だって、尚更ヒロくんのこと大事にしなきゃって思ったんだもん。風邪なんて引かせられないでしょ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 僕が言うと、「何それ」と藍良が笑った。


 その夜、僕たちは同じベッドで、手を繋いで眠った。緊張して眠れないかと思ったけれど、藍良と体温を共有していると不思議と安心してすぐに眠ることができた。
 まどろみの中、僕は頭の中で今日のことを振り返る。色々ありすぎて疲れていて、また藍良と本音を伝えあえて安心したのか、形のない思考がもやもやと、形になる前に意識を手放した。

「友達」「お客さん」

 そんな言葉を繰り返して、僕たちはお互いの想いに気づかないふりをしているんだと思う。
 けれど、今はそれでいい。



つづく
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