今夜もウサギの夢をみる【眼鏡×バニー】
世間は夏休み。藍良の通う大学も夏季休講に入った。
しかし、中学生を相手に塾のアルバイトをしている一彩は今こそが忙しい。
一日時間をとってのデートは難しいので、ビデオ通話をしたり、藍良のバイト先に送ってもらったりして二人の時間を過ごしていた。
今日も夕方から駅で待ち合わせて、藍良の出勤時間に合わせて二人で店に向かう予定だった。けれど待ちきれなくなった藍良は、いつもより早く家を出て一彩のバイト先の塾まで来てしまった。
スマホで時間を確認する。中学生の高校受験対策の夏季講習は今頃最後の時間割を終える頃のはず。藍良は塾の出入口が見える、街道沿いの公園のベンチで一彩のことを待った。
しばらくして塾の方が騒がしくなる。授業を終えたすがすがしい顔で中学生たちが出てきた。自転車に跨ったり、近くのバス停に向かったりと各々の方法で帰路についていた。
「天城先生の授業、ほんと分かりやすいよねぇ」
藍良の目の前を通り過ぎた女子生徒達が、一彩のことを噂していた。思わず聞き耳を立てる。
「わたし高校もここの塾に通うつもりなんだけど、天城先生は今年で終わりなんだって」
「えー、残念。そっか、大学四年生なんだっけ」
「天城先生に褒めてもらえないなら勉強頑張れなーい」
「わかるー」
セーラー服のプリーツスカートを揺らしながら、女の子たちが笑い合う。その後ろ姿を眺めながら、藍良は頬を少し膨らませた。手元のスマホで、一彩にメッセージを送った。
「藍良、待ち合わせは駅じゃなかった?」
十数分後、一彩が慌てて塾から出てきた。スマホひとつで皆の「天城先生」を呼び出せることに藍良は少し優越感を覚える。
いつものビリジアンのシャツに眼鏡という上品な服装。すらりとした背筋を今は藍良のために曲げてこちらを見つめている。
「待ちきれなくて来ちゃったァ」
藍良は立ち上がり、一彩のことを見上げながら手を握る。眼鏡の奥の瞳を甘えた目で見つめてみたら、一彩が焦ったように目を逸らした。
「ちょっと待って、ここはまだ生徒たちが居るから……」
一彩が握り返した手をそのまま引いて、駅の方へと速足で向かう。少し赤くなっている横顔を見て、藍良は口角を上げた。
塾の最寄り駅から、藍良のバイト先の最寄り駅まで二人で電車で向かう。電車が走り出し、同じ車両内に中学生らしい年頃の客が居ないのを確認して、藍良は一彩の肩に頭を乗せた。
「藍良の顔を見たら、仕事の疲れなんて忘れてしまったよ」
一彩がそう言って、肩に乗った藍良の頭に自分の頭を乗せて来る。
「でしょォ? おれは今から仕事だから、充電させてねェ」
膝の上で手を握る。指を絡めると、一彩の手が緊張したようにぴくっと反応した。でも、すぐにその手を握り返してくれた。
店のキャストと客という立場で始まった関係だけれど、今は自分のほうが一彩に夢中になっているのかもしれないと、藍良は自覚していた。誰かを求めて、求められるのがこんなに心地いいなんて。
電車は十分ほどかけて藍良が働く店のある町まで二人を運ぶ。
普段はお互いの大学や自宅からこの駅に集まって、藍良が出勤するまでの時間にちょっとしたデートをする。今日は藍良が先に一彩のことを迎えに行ったが、ここからはいつもの流れだ。
改札を出ると、一彩が藍良に手を差し出してくれる。藍良はそれに抱き着くように腕を絡めた。
ファミレスで軽食をとって腹ごしらえをし、駅の周りの店などを見ながら散歩をする。何か特別なことをするには短すぎる時間だけれど、二人はこの時間をいつも楽しみにしている。
◇◆◇◆
そして、藍良の出勤時間。一彩は店の正面出入り口から客として、藍良は裏口からキャストとして店内に入る。
日没はまだ遅い。夕日の影にある裏口に藍良が向かうのを見届けようと立ち止まったが、藍良の手は離れるのではなく一彩の腕を強く引いてきた。
「ヒロくん、こっち」
「え、でもこっちは……」
「いいから」
従業員用の入り口がある店の裏手。つまり建物の影に一彩は連れ込まれてしまった。どういうつもりかと藍良に問おうとした瞬間、藍良が振り返って肩に触れてきた。急に距離を詰められ思わず彼の背中に手を回して受け止める。
「キスして」
「えっ」
「お仕事頑張るから、キスして」
戸惑っている間に藍良の両腕が首に絡んできて引き寄せられる。突然大胆な行動に出られると一彩は弱い。脳が混乱しているうちに、藍良のペースに巻き込まれてしまう。
それでも藍良は一彩の方から触れることを譲ってくれて、自分から唇を押し付けてはこなかった。一彩は息を呑んで目を閉じる。
遠慮がちに唇を触れさせると、わずかに触れ合った部分から伝わる体温がもどかしくて気が急いてしまう。藍良が舌先でねだるように一彩の唇をなぞってきて、油断した隙に舌先が触れた。ぬるりとした感覚に震えたらその先は一瞬だった。お互いの熱を探るように深く絡んで、強くお互いを求め始める。
「んっ……ふぁ……」
声にならない音が藍良の喉で鳴っている。舌が絡み合う音が直接脳に響いてくる。思考が蕩けて、このままこの場に崩れてしまいたくなる。
「ふぁ……」
唇が離れた瞬間の顔は、惚けて二人とも少し間抜けかもしれなかった。藍良が一彩の頬を撫でる。力が抜けてとろんとした瞳とふにゃっとした笑顔に一彩は完全に屈してしまった。
「お店ではいろんな人に良い顔するけど、一番はヒロくんだからね」
「……そうじゃないと困る」
顔が真っ赤になっているのが自分でも分かり、思わず目を逸らす一彩。藍良が満足そうにしているのが悔しい。
「ふふゥ、……ねェ、もう一回」
両手で一彩の顔を挟んで振り向かせ、今度は藍良から唇を奪った。
◇◆◇◆
ジャズにしてはボリュームの大きい店内BGMと、酒と香水の匂いが混ざった空間。その非日常感が、一彩の頭を切り替えてくれた。
ここに入れば自分はただの客。藍良は店のキャストで、藍良を独り占めする時間はしばらくお預けだ。
「ヒロくんいらっしゃいませェ」
ウサギの耳に、フリルがたっぷりと揺れるブラウス。化粧で長所を強調し、さらに肌を整えた藍良にはシンプルなピアスだけで充分。一彩はカウンター席で、かわいらしいウサギに変身した藍良を迎えた。
「今日もかわいいね、藍良」
最近は散々伝えている言葉も、ここでは客としての常套句に成り下がる。それでも言葉に含まれている本気は藍良にだけは伝わっているから、一彩は迷わず伝えた。
「ヒロくん、何飲むゥ?」
「好きなのを選んでいいよ」
「じゃあ、今夜はレモンサワーで乾杯ね」
カウンターでドリンクを作る手際も大分よくなった。ソファで接客してもらっていた時に比べると、カウンターを隔てる分少し距離が空いているけれど、そんなことは気にならないくらい一彩は満たされていた。
むしろ以前より穏やかにこの店で過ごせている気すらある。
「はァい、お待たせしましたァ」
藍良が二人分のレモンサワーを作って、片方を一彩に渡す。
酒とレモンの香りと炭酸の音が、特別な時間を演出し日常を塗り替える。最近は頻繁に店に通っているはずなのに、随分久しぶりのように思った。
以前よりずっとお店以外で過ごす時間が増え、これからはこの紫色の空間で向かい合う時間のほうが希有になっていくのだろう。
だから今夜はここで、あえてひと時の夢を見るのだ。
「かんぱァい」
「うん、乾杯」
二人は、カウンター越しにグラスを軽くぶつけ合った。目を合わせて微笑み、同時にグラスに口をつけた。
乾杯はうさぎの君と 終
しかし、中学生を相手に塾のアルバイトをしている一彩は今こそが忙しい。
一日時間をとってのデートは難しいので、ビデオ通話をしたり、藍良のバイト先に送ってもらったりして二人の時間を過ごしていた。
今日も夕方から駅で待ち合わせて、藍良の出勤時間に合わせて二人で店に向かう予定だった。けれど待ちきれなくなった藍良は、いつもより早く家を出て一彩のバイト先の塾まで来てしまった。
スマホで時間を確認する。中学生の高校受験対策の夏季講習は今頃最後の時間割を終える頃のはず。藍良は塾の出入口が見える、街道沿いの公園のベンチで一彩のことを待った。
しばらくして塾の方が騒がしくなる。授業を終えたすがすがしい顔で中学生たちが出てきた。自転車に跨ったり、近くのバス停に向かったりと各々の方法で帰路についていた。
「天城先生の授業、ほんと分かりやすいよねぇ」
藍良の目の前を通り過ぎた女子生徒達が、一彩のことを噂していた。思わず聞き耳を立てる。
「わたし高校もここの塾に通うつもりなんだけど、天城先生は今年で終わりなんだって」
「えー、残念。そっか、大学四年生なんだっけ」
「天城先生に褒めてもらえないなら勉強頑張れなーい」
「わかるー」
セーラー服のプリーツスカートを揺らしながら、女の子たちが笑い合う。その後ろ姿を眺めながら、藍良は頬を少し膨らませた。手元のスマホで、一彩にメッセージを送った。
「藍良、待ち合わせは駅じゃなかった?」
十数分後、一彩が慌てて塾から出てきた。スマホひとつで皆の「天城先生」を呼び出せることに藍良は少し優越感を覚える。
いつものビリジアンのシャツに眼鏡という上品な服装。すらりとした背筋を今は藍良のために曲げてこちらを見つめている。
「待ちきれなくて来ちゃったァ」
藍良は立ち上がり、一彩のことを見上げながら手を握る。眼鏡の奥の瞳を甘えた目で見つめてみたら、一彩が焦ったように目を逸らした。
「ちょっと待って、ここはまだ生徒たちが居るから……」
一彩が握り返した手をそのまま引いて、駅の方へと速足で向かう。少し赤くなっている横顔を見て、藍良は口角を上げた。
塾の最寄り駅から、藍良のバイト先の最寄り駅まで二人で電車で向かう。電車が走り出し、同じ車両内に中学生らしい年頃の客が居ないのを確認して、藍良は一彩の肩に頭を乗せた。
「藍良の顔を見たら、仕事の疲れなんて忘れてしまったよ」
一彩がそう言って、肩に乗った藍良の頭に自分の頭を乗せて来る。
「でしょォ? おれは今から仕事だから、充電させてねェ」
膝の上で手を握る。指を絡めると、一彩の手が緊張したようにぴくっと反応した。でも、すぐにその手を握り返してくれた。
店のキャストと客という立場で始まった関係だけれど、今は自分のほうが一彩に夢中になっているのかもしれないと、藍良は自覚していた。誰かを求めて、求められるのがこんなに心地いいなんて。
電車は十分ほどかけて藍良が働く店のある町まで二人を運ぶ。
普段はお互いの大学や自宅からこの駅に集まって、藍良が出勤するまでの時間にちょっとしたデートをする。今日は藍良が先に一彩のことを迎えに行ったが、ここからはいつもの流れだ。
改札を出ると、一彩が藍良に手を差し出してくれる。藍良はそれに抱き着くように腕を絡めた。
ファミレスで軽食をとって腹ごしらえをし、駅の周りの店などを見ながら散歩をする。何か特別なことをするには短すぎる時間だけれど、二人はこの時間をいつも楽しみにしている。
◇◆◇◆
そして、藍良の出勤時間。一彩は店の正面出入り口から客として、藍良は裏口からキャストとして店内に入る。
日没はまだ遅い。夕日の影にある裏口に藍良が向かうのを見届けようと立ち止まったが、藍良の手は離れるのではなく一彩の腕を強く引いてきた。
「ヒロくん、こっち」
「え、でもこっちは……」
「いいから」
従業員用の入り口がある店の裏手。つまり建物の影に一彩は連れ込まれてしまった。どういうつもりかと藍良に問おうとした瞬間、藍良が振り返って肩に触れてきた。急に距離を詰められ思わず彼の背中に手を回して受け止める。
「キスして」
「えっ」
「お仕事頑張るから、キスして」
戸惑っている間に藍良の両腕が首に絡んできて引き寄せられる。突然大胆な行動に出られると一彩は弱い。脳が混乱しているうちに、藍良のペースに巻き込まれてしまう。
それでも藍良は一彩の方から触れることを譲ってくれて、自分から唇を押し付けてはこなかった。一彩は息を呑んで目を閉じる。
遠慮がちに唇を触れさせると、わずかに触れ合った部分から伝わる体温がもどかしくて気が急いてしまう。藍良が舌先でねだるように一彩の唇をなぞってきて、油断した隙に舌先が触れた。ぬるりとした感覚に震えたらその先は一瞬だった。お互いの熱を探るように深く絡んで、強くお互いを求め始める。
「んっ……ふぁ……」
声にならない音が藍良の喉で鳴っている。舌が絡み合う音が直接脳に響いてくる。思考が蕩けて、このままこの場に崩れてしまいたくなる。
「ふぁ……」
唇が離れた瞬間の顔は、惚けて二人とも少し間抜けかもしれなかった。藍良が一彩の頬を撫でる。力が抜けてとろんとした瞳とふにゃっとした笑顔に一彩は完全に屈してしまった。
「お店ではいろんな人に良い顔するけど、一番はヒロくんだからね」
「……そうじゃないと困る」
顔が真っ赤になっているのが自分でも分かり、思わず目を逸らす一彩。藍良が満足そうにしているのが悔しい。
「ふふゥ、……ねェ、もう一回」
両手で一彩の顔を挟んで振り向かせ、今度は藍良から唇を奪った。
◇◆◇◆
ジャズにしてはボリュームの大きい店内BGMと、酒と香水の匂いが混ざった空間。その非日常感が、一彩の頭を切り替えてくれた。
ここに入れば自分はただの客。藍良は店のキャストで、藍良を独り占めする時間はしばらくお預けだ。
「ヒロくんいらっしゃいませェ」
ウサギの耳に、フリルがたっぷりと揺れるブラウス。化粧で長所を強調し、さらに肌を整えた藍良にはシンプルなピアスだけで充分。一彩はカウンター席で、かわいらしいウサギに変身した藍良を迎えた。
「今日もかわいいね、藍良」
最近は散々伝えている言葉も、ここでは客としての常套句に成り下がる。それでも言葉に含まれている本気は藍良にだけは伝わっているから、一彩は迷わず伝えた。
「ヒロくん、何飲むゥ?」
「好きなのを選んでいいよ」
「じゃあ、今夜はレモンサワーで乾杯ね」
カウンターでドリンクを作る手際も大分よくなった。ソファで接客してもらっていた時に比べると、カウンターを隔てる分少し距離が空いているけれど、そんなことは気にならないくらい一彩は満たされていた。
むしろ以前より穏やかにこの店で過ごせている気すらある。
「はァい、お待たせしましたァ」
藍良が二人分のレモンサワーを作って、片方を一彩に渡す。
酒とレモンの香りと炭酸の音が、特別な時間を演出し日常を塗り替える。最近は頻繁に店に通っているはずなのに、随分久しぶりのように思った。
以前よりずっとお店以外で過ごす時間が増え、これからはこの紫色の空間で向かい合う時間のほうが希有になっていくのだろう。
だから今夜はここで、あえてひと時の夢を見るのだ。
「かんぱァい」
「うん、乾杯」
二人は、カウンター越しにグラスを軽くぶつけ合った。目を合わせて微笑み、同時にグラスに口をつけた。
乾杯はうさぎの君と 終