金曜日にキスするひいあい

⑤空中庭園


 扉を開けると、外の冷たい空気が肌を撫でた。季節はすっかり秋だ。空中庭園の花壇には、夏までとは違う種類の花々が咲いている。
 花たちの眠りを邪魔しない程度に設置されている街灯たち。その灯りのひとつに、僕が探している影があった。
 良く知っている曲に合わせて踊る、良く知っている姿。練習着のシャツに汗を滲ませて、藍良がダンスの振入れをしていた。藍良を驚かせないように持っていたペットボトルを軽く振ってわざと音を立て合図する。ダンスの動きと汗で乱れた前髪の間で、藍良と目が合った。
「お疲れ様、藍良」
 藍良が曲の終わりと同時に大きく肩で息をつく。ベンチに飲み物を置いて、藍良にタオルを差し出した。
「ヒロくん。ありがと……うわっ」
 藍良が伸ばしてきた手にはタオルを乗せず、僕は洗いたてのふわふわのそれで藍良の頭を包んで汗をぬぐった。
「汗かいてる。風邪を引いちゃうよ」
「んむぅ~自分でできるからァ」
 両手で頬を挟むと藍良がかわいい反応をする。そのままタオルを奪われて、藍良が一歩逃げた。
「レッスン室を借りればいいのに」
 こんな寒いところで練習していては体調を崩してしまう。最近の僕たちはレッスン室を借りられるくらいには仕事をしているし、いくら無料だからといって人目もある空中庭園で練習する必要はない。
 けれど藍良は一人で練習するときはよく空中庭園にいる。
「たまにここで練習してるの。初心にかえれるから」
 その理由を聞くのは初めてではない。でも、つい口出しをしてしまう。空調や音響の整ったレッスン室の方が練習ははかどるはずだし、僕も安心なのだけれど。
「ここで踊ってるとね、レッスン室も借りれなかった駆け出しだったころを思い出すんだよねェ」
 何事も初心を忘れずにいることは大切だし、それを思い出すための場所や物を大切にする気持ちもよく分かる。だから僕は、先ほど藍良に会いたくて連絡をしたとき「空中庭園にいる」との返信を見て懐かしいような、愛おしいような、言葉にしがたい感情が湧いてきた。
「僕はここに来ると、君に救われた時のことを思い出すよ」
 夜の空中庭園で二人静かにしていると、藍良の言う「駆け出しのころ」に兄さんとすれ違って落ち込んでいた時のことを思い出す。藍良が僕を探しに来てくれて、その小さな身体で背負って連れ帰ってくれた。
「ああ、そんなこともあったねェ」
 ベンチにかけてあった練習着の上着を藍良の肩にかけてあげる。並んでベンチに腰かけて、藍良の息が整うのを待った。
 あの時もこんな空だった。今はあの時と違って暑くないけど、季節が巡ってもここに藍良と一緒に居られることが嬉しい。
 心配と怒りと安堵がないまぜになったあの時の藍良の表情が、ずっと脳裏に焼きついて忘れられない。
「ねえ藍良、キスしていい?」
 唐突にそう呟いてしまったけれど、意外にも藍良は頬を染めて俯いた。てっきり一度は怒られると思ったんだけど。
「……周りに人いない?」
「誰もいないよ」
 君を想う気持ちが伝わったかな。それとも藍良も、あの夜を思い出して浸ってくれていたかな。やっぱりこの場所は特別な場所だ。
 僕は藍良が顔を隠しているタオルをどけて、赤くなっている頬を撫でる。汗で濡れたまつ毛を街灯が照らしていて、とても綺麗だった。
 そして藍良が顔をこちらに向けて目を閉じてくれたのと同時に、僕らは唇を重ねた。他に誰の気配も無いことをいいことについ抱きしめてしまったけれど、藍良もそれに応えてくれた。
「帰ろう、身体が冷えてしまうよ」
 そう言いながらも藍良の背中に両腕を回したままの僕を、藍良が「じゃあ放してよ」と笑って窘める。
 僕は藍良の荷物を持って、空いている手で藍良の手を握る。そのまま、人のいないところではこっそり手を繋いで帰った。




おわり
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