【後日談02】追いかけて、重なる -feeling-

 同室の先輩たちが出払っている部屋で、おれはいつの間にかお気に入りのクッションを思いきり抱きしめていた。隣に座っているヒロくんが「綿が潰れてしまうよ」と窘めてくれて初めてそれに気が付いた。
 知り合いが出演しているドラマを見るのは、どうにも恥ずかしい気持ちになる。今まではアイドルが出演するドラマや番組をテレビでただわくわくしながら観ていただけなのに。
 たった今まで目の前のテレビで視聴していたのは、ヒロくんが初主演を務めているドラマの第一話。ヒロくんにこの仕事が舞い込んだ時期から考えるとようやくオンエアという感じだ。楽しみにしていたけれど、ヒロくんの隣で本人の演技を観るのって変な感じ。
 ESの他のアイドルたちのお仕事はいくら仲良しのアイドルのものでもファン目線になって観ることができるのに、ヒロくんのはなんだか違う。タッツン先輩のドラマやマヨさんの雑誌の特集を見た時もこんな気持ちになるから、おれにとってALKALOIDは、もうアイドルである前に「身内」なんだなと思った。特にヒロくんとはお付き合いをし始めたところだし。どういう顔で、このドラマを見ればいいのだと正直思う。
 ヒロくんが出演しているのは、少女漫画が原作の青春恋愛ドラマ。ヒロインと幼馴染の男の子が高校入学時に再会するところから始まる学園モノ。ヒロくんとともに主演を務めるのは、今モデルとしても注目されている新人の女優さん。
 ティーンズ向けのラブコメだから、第一話はわりとベッタベタな展開。幼い二人の回想シーンと現在の二人の様子が交互に描かれ、最初はお互いを覚えていないフリをしていたのを白状するシーンで終わる。ここから多分、いや確実に恋が始まっていくんだろうなっていう、そんな第一話だった。
「ど、どうだったかな?」
「ほえ?」
 ぼーっとドラマのエンディングを眺めていたおれは、唐突にかけられた質問に間抜けな返事をしてしまった。振り向くと、少し気まずそうにもじもじしているヒロくんと目が合う。そんな、ご飯を期待するわんちゃんみたいな目で見られても。おれはおかしくなって噴き出してしまった。
「すごく良かったよォ。ちゃんとヒロくんだったし、ヒロくんじゃないみたいだった」
「そ、それはどういう意味?」
「ヒロくんらしい演技だったってこと。初主演とは思えないくらい」
 素直に褒めてやると、ヒロくんはぱぁっと表情を明るくした。本当、こういう屈託のないところは見習わないとなと思う。
「本当? 嬉しいな」
「あ、でもおれはドラマに出たことないから、あんまり偉そうなこと言えないけど……」
「ううん。藍良に褒めてもらえるのが一番嬉しいよ」
 ヒロくんがくすぐったそうに笑った。「一番嬉しい」という言葉に、おれの心臓がとくんって鳴ったのが分かる。ああまた、ヒロくんの気持ちに近づいた。そんな感じがした。
 おれとヒロくんのお付き合いは、ヒロくんからの告白をきっかけに始まった。
 おれだってヒロくんのことを好きだけど、ヒロくんの気持ちに押されたり引っ張られたりして、ちょっとだけ浮かれてOKした感じは正直あった。恋人としての「好き」をおれはまだ、よく知らない。ただ、あの日ヒロくんの告白を受け入れたあのステージで、ヒロくんの隣を誰にも譲りたくないと強く思ったのも本当。
 これからはおれも、ヒロくんの想いに応えていかなくちゃ。そう思うんだけど。
 おれを見つめるヒロくんの目が、心の底から「大好きだよ」って伝えてきて、敵わないなあって思う。おれも負けないくらい、ヒロくんのことを大好きになりたい。
「ヒロくんは自分の実力をもう少し信用しなよォ。何でもできるくせに、さらに人に肯定させるなんてゼイタクだよォ」
「だ、だって……藍良の感想を楽しみにしていたから。君に一番に褒めて欲しいと思ったんだよ」
「うぐゥ……」
 ヒロくんの光のオーラにあてられて、おれは思わず唸ってしまった。何で、何でそんなお預けされたわんちゃんみたいな顔するの。
 なんでもできて、頭がいい天才のヒロくんが、おれなんかを好きだと言ってくれて、おれの言葉にいちいち浮かれたり落ち込んだりして。こんなの、どっちがゼイタクなんだか。
「もう一回観よ」
「え?」
「ドラマ。良いと思ったところにコメントしながら観てあげる」
「ウム! よろしくお願いするよ!」
 おれ達は録画したドラマを最初から見て、おれがヒロくんの演技について思ったことを伝えてあげた。おれがヒロくんのためにしてあげられることがあるのは、素直に嬉しい。

 ◇◇◇

 ヒロくんのドラマの第一話が放送されてから数日後。
「お、お邪魔しまァす……」
 おれは小さい声でそう言って、そっと星奏館の他の寮室に入った。通い慣れた部屋も、いつも招き入れてくれる人がいないと途端に「他人の部屋」になる。
 ドアを開けてくれたのは、ピンクのパーカーにリラックスできそうなスウェットのズボン姿の葵ひなた先輩。
「いらっしゃい白鳥くん。そんな緊張しなくていいよ? いつも来てるじゃん」
「そ、そうですけどォ」
 おれは何となく入口でもじもじしてしまう。そんなおれを見て、ひなた先輩が笑った。
「まあ今日は一彩くんは一日いないけどね~」
 そう言って、ひなた先輩がソファテーブルにお茶を出してくれた。玄関先で済む用事なのに、来客用の支度がされていることにおれは驚く。
「えぇ、おれ漫画借りに来ただけですよォ!」
 お構いなく! と顔の前で手をぶんぶん振ったら、いつの間にかひなた先輩が背中に回ってぐいぐいと部屋の中へと押し込んできた。
「部屋に来た後輩をそのまま帰せないよ~! 俺にも先輩ヅラさせてね!」
「は、はい……」
 そう言われてしまうと、お言葉に甘えるしかない。
 ヒロくん、椎名先輩、そしてひなた先輩が暮らす部屋。そのソファに座らせてもらったおれの目の前には、お茶とクッキーと、十数冊の漫画本。漫画本は、ヒロくんがよく使っているのを見かけるエコバッグに入っていた。
 それはヒロくんが出演しているドラマの原作になっている少女漫画だ。ヒロくんが自分で購入して演技の参考にしているものらしい。
 ドラマの第一話を見て、続きの展開……つまり今後有り得る恋愛シーンが気になったおれは、ヒロくんに原作を貸して欲しいと頼んだ。本当は自分でも買おうと思ってたんだけど、ドラマの第一話放送直前に本屋さんに行ったせいで、ちょうど一巻が売り切れていたのだ。「今ひなたくんに貸しているから、頼んでおくよ」とヒロくんに言われたので、受け取りに来たというわけ。それだけなのに、目の前には美味しそうな紅茶とクッキーが置かれている。
「このクッキー、昨日椎名先輩と一緒に焼いたんだよ。一彩くんも途中参戦してくれてね」
「昨日も帰り遅かったんですか?」
「一彩くん? うん。今週からドラマの終盤の撮影が始まったんでしょ? ゆうたくんとも連絡とりづらくてさ~」
「ゆうた先輩の演技もすごく良かったです」
 ヒロくんが演じる男子高校生の親友であり、理解者として登場する名脇役ポジション、それがゆうた先輩が演じるキャラクターだった。前髪をおでこの上でピンでとめているかわいい系で生意気な男の子。昔掲載雑誌で行われた人気投票でそのキャラクターは二位だったそうだ。ちなみに一位がヒロくんが演じている幼馴染で、三位がヒロイン。
 ゆうた先輩は、明るく素直な物言いの裏に何か含みがあるような、そんな底知れなさを感じさせる演技が上手い、と思う。おれがそんなことを言える立場じゃないけれど、ひなた先輩は弟を褒めてもらえたのが嬉しいのか、ぽんと手を叩いて喜んでくれた。
「だよねぇ! ゆうたくんを褒めてもらえると嬉しくなっちゃうな」
 ほれほれ苦しゅうない、とひなた先輩がクッキーを足してくれた。時々時代劇の役人みたいな言動するよなあ、この人。

「第一話の感じからすると、多分今回のドラマはこのあたりが最終回になるんじゃないかなぁ」
 そう言ってひなた先輩は袋から半分だけ漫画本を出して、七巻か八巻あたりを指差した。
「その辺だと、ヒロインと幼馴染の子はどうなってるんですか?」
「それはネタバレでしょ」
「ですよねェ」
 ドラマの最終回をそこに調節するなら、その辺が最初の佳境なんだろうな。
「人気ありそうだし、後半もドラマ化してほしいなあ。ゆうたくんが忙しくなるのは寂しいけど活躍しているのを見るのは嬉しいしね」
 ひなた先輩はそう言って、単行本の後半のあたりを一冊手に取ってぱらぱらと捲る。全部で十五巻くらいだろうか。それならセカンドシーズンまで制作して完結させたほうがおさまりがいい気もする。その場合ヒロくんがその役を続けるに決まってるし、少女漫画の最終回のお約束の展開で、主役の二人がくっつくことになったり、しないかな。いや、普通するでしょ。
「そうだ白鳥くん」
「え? はい!」
 ぐるぐると考え事をしていたせいで、おれはひなた先輩に唐突に名前を呼ばれて肩をびくっとさせてしまった。何を言われるのかと思ったら、先輩は目の前のクッキーとキッチンを順番に指差して言う。
「残ってる材料でまたクッキー焼いてるんだけど、焼きあがったらデコってかない?」
 ひなた先輩が指差した先を見ると、いつか椎名先輩が持ち込んだと聞いていた大きなオーブンが稼働していた。
 おれはクッキーづくりの一番楽しいところだけを、たっぷり堪能させてもらって自室に帰った。今日も遅くに帰ってくるだろうヒロくんが食べてくれるかなって思って、トランプのスートを描いたクッキーをひなた先輩に預けた。
 その夜、ヒロくんから律儀にお礼のメッセージもあって、ヒロくんの帰宅時間をだいたい知ることもできた。やっぱり夜の撮影がある日はだいぶ遅く帰ってくるらしい。

 ◇◇◇

 次の日、おれは授業の休み時間にヒロくんが出演しているドラマが漫画のどこまでを描くのかを検索しまくっていた。ひなた先輩は七巻~八巻あたりまでだって予想してたけど、七巻のラストにどうしても気になるシーンがあるのを見つけたのだ。あのシーン、もう撮影したのかな。
 ヒロくんに直接聞けばいいんだけど、それを聞くということは、おれとヒロくんに関わることで、考えないフリをしていた部分に向き合う事になる。ヒロくんの考えを聞くのが少し怖いし、何より恥ずかしい。
 おれはヒロ君の名前とヒロイン役の女優さんの名前を並べて検索しようとして、候補にあがる検索ワードを見て固まってしまった。
 
『キスシーン』

「藍良!」
 おれはびくっとなって、咄嗟にスマホの画面を切り替えた。振り返るとヒロくんが教室の入口で手を振っていた。おれは慌てていないフリをしながら普通を装い立ち上がる。そういえば、今は昼休みだった。
「わざわざ迎えに来なくていいって言ったでしょォ」
「ごめんね。お腹が空いて待ちきれなくて」
 そう言って片手をおれの方に差し出すヒロくん。学校ではダメ、とおれは窘めて、ヒロくんと一緒に購買部へと向かった。
 今日は、ヒロくんが新しくなったらしい焼きそばパンを食べてみたいと言っていた。少し出遅れたから並んでしまったけど、新作だからと多く入荷してくれていたのか、焼きそばパンは問題無く買えた。おれもせっかくなので同じものを買う。食べたかったものが食べられないとヒロくんは大袈裟に落ち込むので安心する。
 おれたちは昼食をとるため、校舎を背にガーデンスペースを見渡せるように日陰に腰かけた。ある程度人の気配があるから浮かないし、程よく二人で過ごしている気分になれるので、おれたちはよくここで昼食をとっている。
 すぐ近くに空き教室もあるんだけど、そんなところに二人きりでいたら「いかにも」って感じだし、見つかった場合気まずいからこれくらいが丁度いい。
「すごく美味しそうだよ! 早く食べよう!」
 そう言って、ヒロくんは焼きそばのたっぷり挟まったパンを頬張る。綺麗な顔と、大きな口を開けて焼きそばパンを食べるギャップに口角が上がってしまった。
「ちょっとラブいかもォ」
「ん?」
「何でもなァい」
 おれも自分の分の焼きそばパンを食べる。ソースの塩分は気になるけれど、一応アイドルであるおれたちのことを考えて、素材には拘っているらしい。麺も糖質オフのやつなんだとか。前の焼きそばパンに詳しくないから分からないが、いろんなところがパワーアップしているんだろう。ちなみに味はちゃんと美味しい。ソースの香りと紅ショウガの香りがつんと鼻に抜けた。多めに入っているキャベツの食感も心地いい。
「うん、おいし~い!」
 さすが夢ノ咲学院の焼きそばパン。挟むパンにもこだわっていて美味しい。ヒロくんも隣でもぐもぐと美味しそうに食べている。一緒に買った牛乳と小さなサラダはいつの間にか無くなっていた。
 そんなヒロくんの食べっぷりを横で見ているだけでお腹いっぱいになる。そして、やっぱりこのサイズの焼きそばパンはおれにはちょっと多いかも。
「ねェヒロくん。食べきれないから、食べて……?」
 おれは苦手な食べ物をこっそり食べて貰う時みたいに、小声でヒロくんにお願いした。ここではタッツン先輩もマヨさんも見ていないから小声になる必要はないんだけど、残り物を人に食べてもらう手前、堂々と押し付けるわけにもいかない。
「いいの?」
「うん」
 ヒロくんは、おれが半分食べた焼きそばパンを躊躇わず頬張った。
 おれはヒロくんのもぐもぐと動くほっぺと横顔を眺めながら、昨日読んだ少女漫画のことを思い出していた。ひなた先輩の予想通り、またはネットでも噂されている通り、今回のドラマ化で映像になるのが七巻・八巻のあたりまでだとしたら。そのあたりの話には物語の最初の佳境、山場といって良い出来事がある。ヒロインとその相手、つまりヒロくんが演じる男の子との距離がぐっと縮まるシーン。演じている本人や関係者に、公表されていない情報を聞くのは御法度だ。職権乱用だ。それは、アイドルファンのアイドル失格の行為だ。だからおれは、ちょっとカマをかけてみることにした。
「漫画、読んだよォ」
「ありがとう! 面白かった?」
「うん。面白かった。あの男の子をヒロくんが演じてるっていうのがまだ不思議な感じ」
「そうだね。僕も演技があの子らしくなるよう研究しているよ」
 おれは、ぐっと息を呑み込んだ。
「後半とかけっこうすごいシーンがあるけど、ヒロくんはドキドキしないの?」
「え? どういう意味?」
 ヒロくんがおれの分のやきそばパンをもぐもぐしながらこちらを見る。
「だ、だから。……相手の女優さんカワイイじゃん」
 おれ、カマかけるの下手か。結局ほぼストレートに聞いてしまったが、ヒロくんはふむふむと真面目な顔をしていた。
「ああ、そういう……。そうだね、他人に触れるのに躊躇しないといえば嘘になるけど、ドラマのほとんどは演技だから。例えば口づけなどは本当に触れたりはしないらしいよ」
「へ、へえ……」
「かめらわーく? というやつでそれっぽく見せるらしい。どうするのか興味深いよ」
 本当にキスする現場だってあるはずなんだけど。それは置いておいて。
 この口ぶりだと、どうやらまだ例のシーンは撮影に入っていない? おれはちょっとだけ安心した。が、フリとはいえやっぱりキスシーンあるんだ。知ってたけど、分かってたけど、複雑だ。
「口づけとは、結婚を決めた相手とするものだと思っていたけれど、少女漫画を読んでいると僕の常識はズレているのだなと思うよ」
「……いや、多分ヒロくんのほうが正しい時もあると思う、けど」
 あれ、おれたち付き合ってるんだよね。何でこういう話になってヒロくんはおれとのキスを意識しないわけ? おれがおかしいんだろうか。いや……。
「どうしたの? 藍良」
「う、ううん……何でもない。今夜も撮影だよね、頑張ってね!」
 ヒロくんはおれのこと好きなはずなのに、おれとキスしてみたいとか思ったりしないんだろうか。
「ありがとう。今日は夜間のシーンをまとめて撮る予定だから、帰りは遅くなると思うよ」
「了解」
 おれのそんな疑問なんて知らないんだろうまっすぐな瞳と声で、ヒロくんは今夜の予定を教えてくれた。
 夜間のシーンってことは、例のシーンではないな。確かあのシーンは昼間だったし……。ああもう、おれの方が意識してるみたいじゃん!
 おれはモヤモヤした気持ちを払うために、午後はいつもより授業に集中した。

 ◇◇◇

 第一話が好評だと続編の制作がすぐに決まることがあって、それによって終盤の展開をちょっと変えたりすることがあるらしい。そんなことを昔何かのドラマの裏話で聞いたことがあった。ヒロくん出演のドラマ、第一話が放送するような時期になってもまだ終盤の撮影が終わっていないのはそういう事情なんだろうか。
 でも、そろそろ時間の問題だよねェ。例のシーンの撮影はまだっぽいところが、まだ救いだ。一体何の救いだと言うのか。
「藍良さん、集中してください!」
「は、はァい!」
 考え事をしていたら次のステップの入りが少し遅れたらしい。ミラーの前に立っているマヨさんの横には焦るおれの顔が映っていた。そして、ミラー越しにヒロくんと目が合う。視界の端ではタッツン先輩もこちらを気にしてくれている気がした。うぅ、カッコ悪いところ見られちゃった……。
 レッスンに集中しないと。ドラマの撮影があっても、雑誌のグラビアの仕事があってもヒロくんはレッスンを休まない。おれだって、写真集が発売したばっかりだからって油断しないんだからねェ!
 おれは力強く、でも雑にならないようにというマヨさんのアドバイスを意識しながら練習用の曲を踊り切った。

「大丈夫? 藍良」
 休憩時間に、ヒロくんが心配そうな顔でおれにタオルを手渡してきた。レッスンルームの端っこでバテていたおれは、ヒロくんから受け取ったそれを被る。髪が汗で濡れているのと、それを包むふわふわのタオルが気持ちいい。
「うん……ごめん。ちょっと寝不足なだけ」
 昨日は寝る前に考え事をしてしまって上手く寝られなかった。考えていたのは、ヒロくんのこと。付き合い始めて少し時間が経っているのに、何で今になってこんなにヒロくんのことを考えてしまうのか。原因は絶対に、ドラマと原作の少女漫画のせいなんだけど。
 ヒロくんがおれの顔を覗き込んで来る。下がり眉に上目遣いで。……こいつ、自分のファンがネットでざわざわしてるのを知ってるのか?「天城一彩の初キスシーン」とか「一彩 キス 本当にする?」とかで検索されてるんだぞォ!
 そして不本意ながらおれも、そのことを気にしまくっている。
 そんなことも知らないで、ヒロくんはおれの頭をタオルの上からぽんぽんと撫でて、少し離れたところで休憩しているタッツン先輩とマヨさんを振り返った。
「皆、聞いて欲しい話があるんだ。……藍良は休みながらでいいからね」
「うん、何?」
 おれが顔を上げると、タッツン先輩とマヨさんが集まってきた。レッスン室は広いのに、四人で端っこに丸くなる。
 ヒロくんは自分の鞄の中から書類を取り出して、四人が膝を突き合わせている床に置いた。一応この部屋にも会議用の折り畳みテーブルとパイプ椅子があるんだけど、おれが床にへたり込んでいるのでそれに合わせてくれているんだろう。
 ヒロくんが見せてくれたそれは企画書だった。おれもよく知っている番組名が目に飛び込んで来る。それは、ESのアイドルが順番に出演している旅ロケ企画だった。
 ヒロくんが仕事の概要を簡単に説明してくれた。それにタッツン先輩とマヨさんが補足の説明をしてくれる。
「皆で泊まりのロケに行けるってことォ?」
 おれはその膨大な情報量の中から、呑気に楽しそうなところだけを口にした。ヒロくんがニコニコと笑う。
「そうだよ」
「わァい! よくこんな仕事取ってきたねェ!」
 えらいえらい、とおれはヒロくんの頭を撫でる。ヒロくんは嬉しそうに笑った。ALKALOIDの皆で旅ロケ。仕事だってことを忘れそうなくらい楽しみ。
「僕の希望を強く通してくれたのはプロデューサーだよ」
「ふふ、一彩さんが俺の助言なしで仕事の話を進めてくれるようになって嬉しいですな」
 タッツン先輩も、ヒロくんの頭を撫でる。それを見たマヨさんも遠慮がちにヒロくんの頭をちょいちょいと撫でていた。
 皆に順番に頭を撫でられているヒロくんを見ていたらおれも噴き出してしまった。
「新しい仕事の話聞いたら気合入っちゃった~。マヨさんもう一曲!」
「いいんですか?」
 おれの体調を気遣ってくれているのか、マヨさんが首を傾げる。ヒロくんが大袈裟に心配するから、マヨさんにまで心配かけちゃってるじゃん。
「大丈夫。今日はこの後予定無いから」
 おれが顔の前で握りこぶしを二つ作ると、マヨさんがいつもの下がり眉の笑顔で頷いた。
「分かりました。じゃあ三曲通しで一回だけやりましょうか」
「一曲って言ったのに!」
 そうツッコミを入れたものの、おれはさっきまで少し重たかった身体が嘘のように軽くなっているのを感じた。やっぱりおれは、アイドルとしての仕事が好きみたい。ALKALOIDの皆と、仕事とはいえ小旅行に行けるのも楽しみ。
 マヨさんがレッスン中に必ず一回はやる「三曲通し練習」はアイドルとしての体づくりに役立っている。雰囲気が違う曲を続けて踊る技術と、疲れてきてもブレない体力が鍛えられる。
 疲れるけど、マヨさんが助言のために曲を一時停止することもないから、気にせずノリノリで踊れるところが実は好きだ。あとでまとめて改善点を指摘されることはあるけれど。
 踊っている時は夢中で楽しかった。でもやっぱり寝不足の身体は最後のほうは悲鳴をあげていた。今日は帰ったら余計なことを考えずにさっさと寝ないとねェ。

「医務室で休もう。藍良」
 レッスンの後、ヒロくんが更衣室でそう声をかけてきた。おれはロッカーの中に忘れ物をしていないか確認して、ぱたんと扉を閉める。
「え? いいよォ別に。大丈夫だから……」
 寝不足といっても徹夜したわけじゃないし、寮はすぐそこなんだから歩いて帰れる。そう思って遠慮したけど、ヒロくんが心配そうに手をぎゅっと握ってきた。
「僕はこの後、事務所で打ち合わせがあるから寮まで送れないんだ。だから、後で迎えに来るから医務室に居て欲しい」
 ヒロくんの肩越しにタッツン先輩とマヨさんを見ると、うんうんと頷いていた。
「俺が送ってもいいんですが、一彩さんはご自分で送りたいんですよね」
「ご、ごめんね巽先輩。藍良を、独り占めしてしまって」
「ふふ、いいんですよ。その代わり、寮についたらちゃんと連絡してくださいね」
 おれとヒロくんの関係を知っている先輩達は、分かりやすく気を遣ってくれる。「あとは二人でごゆっくり」と退散すること自体を楽しんでいるようにも見える。
「一彩さんが打ち合わせをしている間は、私が天井裏から藍良さんを見守っていますねぇ……」
 マヨさんのそれは遠慮したいが。
「わ、わかった……」
 おれはヒロくんの目を見て、頷いた。
 大袈裟に甘やかされるのは、悪い気はしない。

 打ち合わせは一時間ほどで終わるらしい。おれはヒロくんにESビルの医務室へと連れてこられた。普通はアイドルに何かあればすぐに病院に連れていかれるので、この医務室は主に仮眠に使われている。今は誰も居ないみたいだから、おれは遠慮なく一番奥のベッドに横になった。ヒロくんがしっかりカーテンを閉めていったから、丁度いい感じに暗い。
 どうせ寝るなら寮の部屋に帰ってぐっすり朝まで寝たいんだけど、ヒロくんがそうさせてくれないからここに居るしかない。
 おれは念のため、スマホのアラームを一時間後にセットして目を閉じる。ホテルのベッドみたいにふかふかな寝具に包まった。
 思考が自由になるといつも考えてしまうことを、また考え始める。そういえば、あの少女漫画のキスシーンは学校の保健室だったな。貧血で倒れたヒロインに説教を垂れながら男の子が保健室に連れていくシーン。ベッドに寝かせた女の子に男の子が思わずキスをして、女の子に怒られるベタなラブコメ。
 カメラワークで本当にキスしてるように見せるらしいとヒロくんは言ってたけど、寝てる女の子に俯くところを背中から撮ればそれっぽく見えるか……と考えてちょっと安心した。
 安心したら眠くなって、いつの間にか眠っていた。

 そっとカーテンが開かれる音で、おれは目を覚ました。
「藍良、具合はどう?」
 ヒロくんの声にもぞもぞと起き上がろうとしたら、丁度スマホのアラームが鳴る。
「大丈夫だって。ヒロくんがおれのお世話したいだけなんでしょ。付き合ってあげたんだからねェ」
 漏れ出るあくびを手で押さえながら、おれは起き上がってベッドの上で座った。下半身はまだ布団の中だから、ヒロくんが病人を見舞いに来たみたいになっちゃってる。
「ふふ、そうだね。でも藍良と二人きりにもなりたかったんだよ」
 ヒロくんがベッドの横に椅子を寄せて座り、おれの頭を撫でてきた。あれ、迎えに来てくれたんじゃないの。ヒロくんが来たら一緒に帰るんだと思ってたんだけど。おれのことを覗き込んでくるヒロくんの顔がやけに近い。
 医務室の窓から見える月明りが逆光になって、ヒロくんの表情はよく見えない。でも、その目がまっすぐおれのことを見つめているのはよく分かった。
「ヒロくん、……近い」
 おれが言うと、ヒロくんははっとしておれから離れる。姿勢よく椅子に座りなおしたヒロくんは、少し顔を赤らめていた。
「どうしよう、今僕は……藍良に良くないことをしたいと思ってしまったよ」
 目を逸らすヒロくん。おれは心当たりがあって、背中からベッドの上にもう一度倒れて、掛け布団で顔を半分隠した。
「……やっぱり撮影は体育祭の話までですかァ」
 布団に声が籠ったけど、ヒロくんにはちゃんと聞こえたみたいだった。
「え? あっ……」
 ヒロくんが気まずそうに目を泳がせる。これから撮影する予定のシーンと今の状況を重ねていることを、態度で白状していた。
「撮影の練習みたいに、するわけにはいかないね」
 ヒロくんが困ったように笑う。そのまま誤魔化すように撮影の時のエピソードを語りだそうとしたけれど、おれが止めた。
「……いいよ、してよ」
「えっ」
 おれが言うと、ヒロくんが驚いた顔で固まった。
 ここ数日、おれはヒロくんのドラマのこの先の展開で頭がいっぱいなんだ。いい加減、何とかしてほしい。
 おれは布団から片手を出して、ヒロくんの膝のあたりに手を伸ばす。ヒロくんがおれの手を握ってくれたのを強く握り返して、おれはヒロくんの目を見つめた。
「どう考えてもおれが先でしょ」
 仕事だと分かってても、フリだけだと分かっていても、どこぞの女優におれのヒロくんのファーストキスを取られてたまるか。
 驚いていたヒロくんが不意に笑って、ベッドに寝ているおれのことを抱き起こしてくれた。暗い部屋にも月明りにも目が慣れて、今度はヒロくんの顔が良く見えた。
「僕の初めては、いつもきみが教えてくれるね」
「……当たり前でしょ、バカ」
 強がってみたけれど、おれにとっても初めてのキス。上手にできたかは分からないけれど、ヒロくんの唇が遠慮がちに触れているのははっきり分かったし、心臓はばくばく言っていた。背中に回された腕が優しく抱き寄せてくれていて、どうにか自分がどんな姿勢をしているのかを自覚できた。
 この瞬間、おれの気持ちがヒロくんに追いついて、重なったのが分かった。

 ◇◇◇

 ヒロくんの熱烈なアピールに押され、引っ張られ、おれはヒロくんと付き合うことになった。おれだってヒロくんのことが好きで、一緒にいると楽しくて安心すると言ったって、ヒロくんのそれには敵わない。そう思っていたんだけど。
 ヒロくんと初めてのキスをしたあの日から、おれの気持ちに変化があったみたいだった。具体的にどう変わったのかは言葉にできないけれど、なんだか気持ちが晴れやかで、何もしていないのに勝手に楽しくなっている自分がいた。そして、ヒロくんからちょっとした連絡があるだけで、舞い上がってしまう自分も。
 ベッドに落ちているおれのスマホが光って、ヒロくんからのメッセージの受信を知らせてくれていた。開いてみると「おはよう藍良。大好きだよ!」と元気な文章が届いていた。嬉しい。少女漫画のヒロインが楽しいことがあると無意味に踊ったりしてるけど、その気持ちが今なら分かる。今は部屋に先輩たちも居ないし、本当に踊っちゃおうか。
 好きな人が自分のことを好きでいてくれるって、こんなに嬉しいんだ。おれは今更それを理解したし、付き合い始めてから初めてのキスをしたあの日まで、ヒロくんにその嬉しさを実感させられてなかったかもしれないと思うと悔しいし申し訳ない。これからはヒロくんも、いっぱいいっぱいおれに愛される喜びを知ってもらわないとねェ。
 おれはメッセージに返信しようとして、すぐにそれを止めた。通話ボタンを押してスマホを耳にあてる。
 どうしたの? と聞いてくれるヒロくんの声。おれはすぅっと息を吸い込んで、ヒロくんの元気に負けないように言った。

「おはようヒロくん。おれもだ~い好き!」


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