ミルクにスミレ

 今日はヒロくんのお部屋の先輩たちはお仕事で出掛けているらしい。部屋に呼ばれる時、その前置きがつくようになったのは付き合い始めてからだ。それは、「今なら二人きりになれるよ」という合図でもある。
 ちょっとだけ浮かれてしまったけれど、呼ばれた理由は勉強会。もうすぐ期末テストがあるから、赤点を取らないようにとヒロくんが勉強を教えてくれると言った。赤点とってアイドル活動をする時間が減るのもイヤだし、ヒロくんと遊ぶ時間が減るのもイヤ。
 ヒロくんに勉強を教えてもらえば、一緒にいる時間も増えるし良いことづくめ。最近のおれは勉強に対する意欲がとても高い。
 ソファじゃなくて床にクッションを置いて座り、ローテーブルに教科書とノートを広げる。教科書を片手に解説してくれるヒロくんの横顔、おれのノートをなぞるヒロくんのペン先と手の形。それらに見惚れてしまうくらい、おれはヒロくんにハマってしまっているらしい。
「藍良、ちょっと集中力が切れているね。休憩にしようか」
「え? う、うん……ごめんねェ」
 ぼーっとしていたのは勉強に飽きたからじゃなくて、ヒロくんを見ていたからなんだけど。恥ずかしくてなんとなく言えなかった。
 ヒロくんは立ち上がってキッチンへ向かう。部屋に備え付けられているキッチンは、料理好きの先輩とスイーツ作りが趣味の先輩の影響なのか、調理道具が充実している。ヒロくんがミルクパンでホットミルクを作ってくれた。マグカップに注いでレンジでチンする以外の作り方を初めて目の前で見た。勉強道具をどけたテーブルに、今度は耐熱ガラスのボウル型のティーカップが置かれ、その隣にはスミレの砂糖漬けの入ったシュガーポットが置かれた。それはいつか、おれがお土産に渡したものだった。ヒロくんは小さなトングでスミレの花びらを一つずつ掴んで、コロコロとカップの底へ転がしていく。そしてその上からそっとミルクを注いだ。透明なカップの中で、スミレがミルクに浮き沈みしている。そうしながら、真っ白だったミルクが紫がかった水色へと染まった。
「綺麗」
 思わずそんな感想が出た。
「おれ、紅茶に入れたことしかなかった」
 二人分のスミレの砂糖漬け入りホットミルクを用意して、ヒロくんは改めておれの隣に腰を下ろす。
「僕も最初は紅茶で試したのだけど、思いつきでやってみたらミルクにも合うなと思ったんだよ」
 ミルクを青く染めながらくるくると回るスミレの花びらを、二人で見つめる。
「それに、こうやって青く染まるのも珍しくて楽しいんだ」
 いただきます、と呟いてヒロくんがカップを手に取る。不思議な色のミルクを口にする横顔におれの視線は釘付けになる。カップの中で踊っていた花びらが、ヒロくんの口の中に吸い込まれていくのを目で追った。
「花まで食べちゃうの?」
「ん? これはこういうものではないの?」
 ヒロくんが唇を軽く舐めながら、花びらの減ったカップを見下ろす。おれの頭の中に、懐かしい光景が浮かんできた。母親が紅茶に入れてくれたスミレと、庭に咲いていたスミレ。おぼろげな記憶の中に、その紫色だけが鮮明に思い出される。
「あ、そっか……。おれ、小さい頃に庭に咲いてたスミレをそのまま食べちゃったことがあってさ。それがすごく苦くて、お母さんにも怒られたんだよね。スミレには毒もあるんだよって」
 庭のスミレは砂糖漬けにするために育てていたわけではなさそうだったのに、幼いおれにとっては甘いお菓子の畑に見えていた。おれの口の中に、あの時のなんとも言えない苦い味が蘇ってくる。
「後から、毒があるのは葉っぱか根っこだから、花は食べても大丈夫だって知ったんだけど、苦かったことがずっと頭に残ってて、それ以来砂糖漬けもお茶に入れて、花びらは残してたんだ」
「そうなんだね。僕は何も考えずに呑み込んでいたよ。藍良にもらったものだから勿体なくてね」
 おれは自分のぶんのホットミルクを飲んでみた。スミレから溶け出した砂糖で甘くなっている。美味しい。試しに浮かぶ花びらを口に含んで一緒に咀嚼してみた。確かに苦くない。むしろ噛むとさらに甘いものが染み出してくる。
 美味しい、と思ったのが顔に出たのだろう。ヒロくんが安心したように笑った。そしてシュガーポットから、花びらが五枚綺麗に揃っているものを取り出して手のひらに乗せる。
スミレの鮮やかな紫色が、砂糖によってふわふわと淡くなっているのがかわいい。ヒロくんはそれを丸ごと口に放り込んだ。
「藍良」
「えっ」
 不意にヒロくんがおれの肩を抱き寄せてキスをしてきた。
頭を両手で抱えられて逃げられない。驚いている隙にヒロくんの舌がおれの口の中に入ってくる。一緒に、ころんと何かが転がってきた。それが何かはすぐに分かる。さっきヒロくんが食べたスミレだった。
「んっ……ぅ……」
 甘い。砂糖で甘ったるくなったスミレの香りが口の中から鼻へ抜けてくらくらしてくる。ヒロくんは、最後に蓋をするみたいに、ちゅっと唇をつまむようなキスをして離れた。
「な、何するの……」
口の中のスミレはとっくに溶けていた。おれはそれを飲み込んでヒロくんに聞く。頬どころか身体が熱い。急になんてことしてくれるんだ。
「とある喜劇では、スミレは恋の媚薬として登場するらしいよ」
「……は?」
 無理やりキスなんてしておいて、けろっとした顔でヒロくんが言う。
「藍良がこれをお土産にくれたとき、箱に書いてあったんだ」
「し、知らない。そんなつもりで渡したんじゃないもん」
 なんだそうなのか、とヒロくんがいたずらっぽく笑う。
「それで、僕のこと好きになった?」
 この日は全然、勉強は捗らなかった。


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