ミルクにスミレ
大きなガラスの器の底に、一彩は座っていた。ガラス越しに透ける景色は真っ白。頭上からぽた、ぽたと雫が落ちてきたと思ったら、それが一筋の白い柱になって器の中へと注がれ始めた。器の底に、白が溜まっていく。
それはミルクだった。一彩の身体が白に少しずつ沈んでいく。ここから出なくては溺れてしまう、と咄嗟に思った。
慌てて器の外を目指す。濡れたガラスは滑って上手く登れない。
焦り始めて、鼓動が早くなる。もう一度登ろうと顔を上げたとき、一彩の目の前に手が差し伸べられた。見上げれば、藍良が微笑んでいた。必死でその手を掴もうと自分の手をも伸ばす。
やっとの思いで掴んだそれはひとつのスミレに変わっていて、一彩はスミレを掴んだまま、再び器の底へと落ちた。
一彩の身体が、また白に沈んでいく。
◇◇◇
目が覚めた時には酷い汗をかいていた。なんて夢だ、と思わずかすれた声で呟く。まだ起きるには早い時間だったけれど、一彩はシャワーを浴びることにした。
同室の二人はまだ就寝中だが、アイドルという職業柄、食事や風呂の時間で互いに迷惑をかけあうことについては了承済だった。とはいえ一彩はなるべく物音を立てないようにしながらシャワー室へ行き、ミルクを被ったような妙な感覚が残る身体を洗い流した。
風呂を出て、一彩はタオルで髪を拭きながらそっと居室に戻り、鏡台にあるドライヤーを回収して洗面所へ戻る。
部屋に誰もいない時は遠慮なく鏡台で身支度をするのだが、今は寝ている二人を起こす訳にはいかないので洗面所で髪を乾かすことにした。
髪に熱風をあてながら、一彩は昨日のことを思い出していた。昨日は藍良と二人で街へ出かけ、一日買い物を楽しんだ。藍良との二人きりの「デートもどき」に浮かれて帰寮した一彩は、たまたま藍良の部屋に先に帰ってきていた天祥院英智から、藍良の個人の仕事についての話を聞いた。
それは、同じアイドルユニットの仲間として大変誇らしく喜ばしい知らせだった。しかし、一彩個人の感情としてはとても複雑だった。
藍良に来た仕事は、簡単に言えば写真集の撮影だった。とある出版社が藍良のSNSのパフォーマンスを高く評価し、フォトブックの発行を提案してきたのだ。藍良は快諾し、英智は先方に前向きな返事をするという。おそらくこの仕事は実施が決まるだろう。
アイドルとして輝くことを一番の喜びとしている藍良にとって、ムック本で特集されることはかなり大きな前進となる。さらに、一週間もESを離れての大がかりな撮影になるらしい。一彩の心はざわついていた。
置いていかれてしまう、と直観的に思ってしまった。
ALKALOIDのリーダーとして、皆を引っ張っていかなければとは思っている。皆のまとめ役としては至らないけれど、ダンスやパフォーマンスについては褒めてもらえる。一彩のパフォーマンスを見て、羨ましそうに唇を尖らせる藍良はかわいらしいし、ついてきてくれるのが嬉しかった。
けれど今度はどうだ。藍良が、なんだか手が届かない場所へ行ってしまうような気がして焦る。
一週間。一週間とは、どれくらいだろう。
一彩が身支度を終えるころ、同室の椎名ニキと葵ひなたも目を覚まして、各々の予定の準備を始めた。ニキが作ってくれた朝食を三人で囲む。今日の朝食はトーストにサラダ、コーンポタージュだった。サラダには細長く刻んだハムも乗っていて栄養バランスも考えられている。
「僕は今夜、シナモンでバイトっすから夕飯は自分で用意してくださいっす」
二人の目の前にバターやジャムを置きながらニキが言う。
「はーい! いつもありがとうございます」
ひなたが元気よく返事をする。その隣が静かなのに違和感を覚えたひなたが一彩の方を向いた。一彩がスプーンを片手にスマホを触っていると、二人の視線を感じたのか顔を上げた。
「一彩くん珍しいね。食事中のスマホはお行儀悪いよ~?」
「ご、ごめんなさい」
咄嗟にテーブルにスマホを伏せる一彩。焦ったような様子に、ひなたが首を捻った。
「何か気になることでもあったの?」
「ウム……藍良のSNSを見るのが癖になってて」
一彩が、目の前に温かいコーンポタージュを引き寄せる。中央に浮いているクルトンがスープを吸って沈みそうになっていた。
「藍良くん更新マメっすもんね~。燐音くんが、弟さんの様子探ってるっすよ」
「あはは、おれもゆうたくんのこと気になっちゃうから分かる~」
一彩はかぁっと顔を赤くして、いただきますと小さく呟いて沈みかけているクルトンをスプーンで掬い上げた。
食前に失礼を働いたと反省した一彩は食器を洗う役目を買って出て、ニキが使用した調理道具と一緒にすべて綺麗に洗った。ニキは食事のあと、すぐに着替えてESへ、ひなたは大きな荷物を持ってテレビ局へ。一彩は二人を送り出してから、ベッドに座って改めてスマホに向き合った。慣れた手つきで藍良のSNSを開く。ALKALOIDの仲間たちとのレッスンの様子や、藍良が見たものや食べたものの写真が並んでいる。その中には、一彩の写真もあった。どれも見たことあるものばかりで、新しいものは上がっていない。アプリを閉じる前にもう一度更新をかけたら、そのタイミングで新しい写真が投稿された。それは星奏館の共用のキッチンで、紫乃創と一緒に朝食を囲んでいる写真だった。その写真を見た瞬間、一彩は思わず居室を飛び出し、食堂へ向かっていた。藍良がそこに居るなら会いたいと思った。また、共用スペースで食事をとるなら誘って欲しいとも思ってしまった。焦りで高揚する奇妙な感情に浮足立ちながら食堂へとたどり着くが、そこに藍良の姿は無かった。写真の投稿から時間は経ってないはずなのにと不思議に思いながら、寮室の並ぶ棟へと戻り、一彩は自分の部屋へは帰らずに藍良の部屋を訪れた。藍良に会いたいと思って部屋を飛び出したのだから、それが達成されないと部屋へは帰れない。
時間を確認する。まだ朝は早いが、常識を疑われるような時間ではない。インターホンを鳴らすと、部屋のドアが開いて英智が顔を出した。
「やあ、天城くんおはよう。昨日ぶりだね」
目の前には、藍良に仕事の話を持ち掛けた人物がいる。一彩にとっては事務所の先輩かつ上司にあたる人物だが、今は仕事をくれた有難さよりも、藍良に長期の出張を伴う撮影をもちかけたことに対する複雑な心情を引きずってしまう。目を合わせて話をするものの、心がぐらついた。
「おはよう、天祥院先輩。……藍良は、居るだろうか」
「うん。今は多分シャワーじゃないかな。僕もさっき起きたところでね」
どうぞ、と言って英智は一彩を中へと招き入れてくれた。昨日と同じようにソファに通され、お茶を出してもらった。部屋の奥は照明が落とされており、そこのベッドでもう一人寝ているらしいのが分かった。
「朔間くんは昨晩は深夜まで仕事だったみたいだから、寝かせておいてあげてね」
一彩の視線の先を一緒に追って英智が言った。奥にある黒を基調とした調度品で統一されたベッドは朔間零のものだ。
「白鳥くんに何か用かい?」
「ああ、いや……今日はALKALOIDのレッスンがあるから、一緒に行こうと思って」
一彩は嘘でも本当でもあることを言った。この人は、何もかもを見透かしてしまうような瞳をしているから、何か話すたびに少々警戒してしまう。藍良はこんな人物と同室で毎日顔を合わせて平気なのだろうかと心配にもなった。しかし本人はトップアイドルである二人と同室になったことに大騒ぎをしていたので、一彩の心配するところとはズレていたが。
「天祥院先輩、藍良の写真の仕事なんだけど、あれはどうなったのかな」
仕事の話なら、藍良を待たずとも英智に聞けば話が早い。もともとこの人が持ってきた仕事だ。英智はポケットからスマホを取り出して通知を確認すると、何もせずにまたそれをポケットへとしまった。
「今朝がた先方に連絡を入れたから、追って日取りの連絡があると思うよ」
何もせずにスマホをしまったところを見れば、その連絡とやらはまだなのだろう。
「そうか……」
「白鳥くんが不在なのは不安かな」
「それは、もちろん」
やはりこの人には分かってしまうようだ。一彩は揺れる心を誤魔化すように、紅茶を一口含む。
「僕は、仲間が大きな仕事を手に入れたことを、まずは喜ぶべきだと思うけれどね」
その通りだ、と一彩は思う。口にした紅茶が、少し苦かった。
洗面所のほうから聞こえてきていたドライヤーの音が止んだので振り返ると、部屋着姿の藍良が出てきた。Tシャツにハーフパンツというラフな格好。油断した姿。
「あれェ、ヒロくんが何でここに居るのォ?」
「いや、えっと……藍良の書き込みを見て、食堂にいると思って出てきたんだけど」
君が見つからなかったから部屋に来てしまった、というところは省略したが、藍良には伝わったようだった。
「あー、今朝アップした写真のこと? あれは別日に撮ったやつだよォ」
話しながら藍良はキッチンで自分の朝食の用意を始める。といってもロールパンにバター、野菜ジュースという簡単なもので、一彩が手伝おうと立ち上がった時には用意が終わっていた。
「そ、そうなのか」
藍良が奥に詰めてと手のひらで促し、一彩の隣に座る。朝食はそれだけで足りるのかと言う質問は、これまでに何度もしているので言わない。しつこいと怒られるのは嫌だった。
「プライベートなことは、リアルタイムでアップしないようにしてるの。一緒に写ってる人に迷惑かけちゃうでしょォ」
最近はSNSに上げる写真に写りこんでいる情報から、写っている人物の行動パターンやクセなどを割りだされることがあるらしいと藍良は説明する。ついでに、仕事のスケジュールも細かく書き込んだらダメだよと釘を刺された。
「そういうものなのか。勉強になったよ」
「ふふ、白鳥くんはそのへんきちんとしていて助かるよ」
藍良のSNS談義を聴きながら荷物の用意をしていた英智が、うんうんと頷いた。
「それじゃあ僕は外で朝食をとるから行くね。天城くんはゆっくりしていくといい」
ノートパソコンの入った大きな鞄を持って、英智が部屋の玄関に立つ。
「はァい、行ってらっしゃい」
「ありがとう、天祥院先輩」
英智が出かけていくと、藍良は食べ終わった食器を片付けるために一度席を立ち、戻ってくると今度は一彩の隣ではなく自分のベッドに座った。ベッドサイドのテーブルに鏡を立てて、前髪をピンで止める。
「で、ヒロくんは何の用なのォ?」
「え?」
「おれのこと、探してたんでしょ?」
「えっと……」
まさか藍良の顔が見たかっただけ、なんて言えるわけもなく、一彩は言葉を探して迷った。他に話題を持ち合わせていないので、先程英智と話していた内容を藍良に引き渡すように言った。
「昨日の写真集のお仕事のことが気になって。藍良に話を聞きたかったんだ」
「話って。まだ前向きな返事をしただけで何も決まってないよォ。今は向こうのお返事待ち」
「そうか……」
どうしてだろう。藍良に仕事が来たことは喜ばしいことなのに。何故か素直に喜べない。心にもやもやとしたものがずっと蟠っていた。
どこにも行って欲しくない。そばにいて欲しい。でも、アイドルとして輝く藍良を見ていたい。頭の中で自分の感情に名前をつけようとするけれど、どれもしっくり来なかった。
「なるべく迷惑かけない日程にしてもらうから」
「迷惑だなんてそんな。僕も撮影があるし、藍良も行っておいでよ」
「うん、ありがとォ」
これは本心であり、嘘じゃない。それなのに、何で言うたびに心がズキズキと痛むのだろうか。
一彩は紅茶を飲み終え、ティーカップを流しですすぐ。席を立ったついでに、おもむろに藍良のベッドに座ってみた。藍良の隣で、藍良の仕草を眺める。
藍良は手際よくスキンケアをして、髪を整えていく。藍良が手櫛を髪に通すたびに見える白い首筋やうなじにドキリと心臓が跳ねる。藍良が部屋着にしている薄手のTシャツの下には細く柔らかな肢体が隠れているのを想像して、一彩は下唇をそっと噛んだ。やはり何かおかしい。同じ部屋で着替えたことも、一緒に風呂に入ったこともあるのに、どうして今更こうなってしまったのだろう。
かわいい。手を伸ばして触れてみたい。抱きしめてみたい。今まで出来ていたことができない。そんなことを考えていたら、ぼーっと藍良のことを見つめてしまっていたらしい。
「ちょっとォ、ヒロくん」
「な、何?」
遠慮なく注がれる視線に痺れを切らした藍良が、真っ赤になってこちらを睨む。
「さっきからおれのことジロジロ見すぎ! 用事が無いなら自分も部屋に戻って準備してきなさい!」
「う、ウム! ごめんね、わかったよ!」
一彩は慌てて立ち上がり、自分の部屋へと戻ることにした。玄関のドアを開ける時に部屋の奥の暗闇から「若いのぅ」という呟きが聞こえてきた。一彩は自分の顔が赤くなっている自覚があったため、室内を振り返ることができなかった。
◇◇◇
英智には咄嗟に言い訳してしまったが、ALKALOIDのレッスンがあるのは本当だった。今日は四人での基礎練習。しばらくライブの予定は無いため、各々の仕事をこなしながら基礎の確認と技術の向上を目指す。新しい技をマヨイに教えてもらえるのもいつもこのタイミングだ。
「膝を安定させて、下半身がぶれないように」
マヨイ一人に他の三人が向き合って、彼の動きを模倣する。
「そのまま上半身を前、後ろ、前、後ろ。……藍良さん、足が動いていますよ」
「はい!」
マヨイの身体は、関節はどうなっているのかと思うほど柔軟で、口で説明しながらも美しい動きを再現する様子に思わず見惚れる。一彩は、マヨイの動きを自身の身体で確認しながら、隣に立つ藍良の動きを鏡越しに盗み見ていた。
「背中を反らすのではなく、胸を張って肩を後ろに。そうです」
誰よりも一生懸命な藍良だが、同時に不器用で、ダンスの技の習得には四人のなかでは一番苦労する質だった。
「次は左右いきます。右、左、右、左」
下半身を固定して腰に両手を当て、上半身だけを前後左右に動かす動き。これもやはり、藍良は苦戦していた。
「藍良さん、下半身が引っ張られていますよ」
「はい!」
「巽さんは後半少々ブレてきますので注意してください」
「わかりました。慣れない動きは表情も硬くなってしまいますな」
そういって、巽が笑う。その姿を見て、他の三人もほっとしたように表情を綻ばせた。
「少し休憩して、あとで下半身の筋トレと、体幹のトレーニングをしましょう」
巽と藍良はレッスン室の端にある椅子に座り、タオルで汗を拭いたりドリンクを飲んだりして休憩をした。しかし一彩だけは、ドリンクを飲んだ後すぐに部屋の中央に戻る。一人で今日習った動きを確認していた。
「一彩さんは今日のステップは問題無さそうでしたね」
「ウム。面白い動きだね!」
習った動きが自分のものになる感覚が嬉しくて、一彩はマヨイに向かって大きく頷いた。
「では一彩さん、音楽に合わせて踊ってみましょうか」
マヨイがダンス練習用の音楽をかける。感情を邪魔しないリズムのみの音源なので、一彩はそれに合わせて今日習ったステップを確認する。
「前、後ろ、右、左……」
マヨイが声をかけながら正面で一彩の手本となる。
「そのまま肩をぐるっと。そうです一彩さん」
八小節分の動きを指示し、それを繰り返すように言うとマヨイは動きをやめて手拍子をする。
結局一彩は三人が見ている前で、休憩をとるのも忘れて一通り踊り切った。
「ほんとヒロくんはダンスは完璧ィ」
拍手をする巽の横で、藍良がドリンクのストローを咥えたまま唇を尖らせる。
「ありがとう、嬉しいよ藍良!」
「一彩さん、『ダンスは』と言われているところにツッコミは入れなくていいんですか?」
「他も頑張るよ!」
藍良の横で巽が苦笑する。しかし一彩は、藍良に褒められたところだけを受け取って喜んでいた。
その後も基礎練習や筋トレ等を続け、レッスン室を借りている時間が終了となる。手分けして使った物を片付け、床に散った汗をモップで拭きとる。
片付けが終わり、各々の荷物を整理しているところに、藍良がマヨイに声をかけた。
「マヨさん、この後時間あったら今日のところ教えてェ」
藍良の甘えた態度に頼られ甲斐を刺激されるのは一彩もよくわかる。マヨイも快く承諾していた。
「ええ、いいですよ。空いているレッスン室があるか聞いてきましょうか」
「いいよォ、空中庭園の端っことかでいいから。……マヨさんが良ければ、だけど」
もじもじと俯く藍良を見て、マヨイが一彩と巽を振り返る。巽が一彩に目配せしてきたので、一彩はウムと頷いた。
「レッスン室、借りてもいいよ藍良」
「いいの? お金かかっちゃうけど……」
藍良はやはり、共通のリッドルで自分のためにレッスン室を借りてもらうことに遠慮していた。
「もちろんだよ。僕も練習に参加していいかい?」
それなら自分も練習に参加して、藍良の遠慮が少しでも和らげばと思った。
「うん。ありがとう、ヒロくん」
この時一彩は、藍良の瞳が一瞬揺れたこと、巽とマヨイが心配そうに目線を交わし合ったことに気づかなかった。
◇◇◇
藍良のフォトブック撮影の日程が決まった。英智は一週間と言っていたがそれは念を入れて長めに伝えただけだったようで、実際に組まれた日程は週末を含む四泊五日。初日と最終日はほぼ移動ということだったので安心する。しかし、藍良に会えない日が丸三日も続くというのはめったにないことで、一彩は動揺していた。
その日は学校で空手部の練習があったのだが、部長の南雲鉄虎に集中できていない事を指摘されたのをきっかけに早退を申し出た。何かあったのかと心配する鉄虎に簡単に事情を説明する。一彩と藍良の仲の良さ、とくに一彩が藍良に入れ込んでいる様子を目の当たりにしている鉄虎は、納得すると同時にさらに心配してくれた。それ以上心配をかけないためにも、一彩は笑顔を作って挨拶をして、空手部の稽古場をあとにした。
予定よりも早く学校を出ることになった一彩は、制服に着替えてバスケ部が使っている体育館へと向かう。今日は一緒に帰る約束をしていたから、藍良はまだ部活をしているはずだった。体育館に近づくと、たん、たんとボールの跳ねる音が聞こえた。まだ部活中なら別の場所で時間をつぶそうと思ったのだが、覗いてみると、その音をさせているのは藍良ひとりだけだった。誰も居ない体育館の真ん中で、体操着の上にバスケのユニフォームを着た藍良が、床にボールを跳ねさせてはキャッチをするのを繰り返していた。
「藍良」
「あれ、ヒロくんもう部活終わったの?」
「うん」
一彩は肯定だけして、余計なことは何も言わなかった。藍良のことを考えていて集中力を欠いたなんて伝えたら、藍良の負担になってしまう。
「今日はバスケ部の皆は?」
「さっきまで先輩たちがいたんだけど、さっき帰ったよォ」
藍良の言う「先輩たち」とはTricksterの明星スバルと衣更真緒、そして流星隊の高峯翠のことだ。アイドルとして多忙な身でありながら、部活にも顔を出してくれる良い先輩だと聞いている。
「おれはヒロくんが部活終わるまで待ってようと思ってたんだけど、こんなに早いなら体育館閉めて待ってればよかった」
すぐ片付けるから待ってて、と言って藍良がボールを拾ったが、何かを思いついたのか、見つめていたボールを一彩に向かって放り投げた。咄嗟にキャッチして首を傾げる一彩に、藍良が言う。
「ねェ、ちょっとバスケやってみない?」
意外な提案だった。部活よりもアイドル活動を優先したい気持ちが他よりも強い藍良が、一彩をバスケに誘ってくるとは思わなかった。
「いいの? 体育の授業でしか、やったことがないけれど」
「いいのォ、ちょっと付き合ってよ」
藍良がそう言うなら断る理由はない。一彩はボールを藍良に投げ返すと、体育館の端に鞄を置いて、制服のネクタイを外してシャツを脱ぎ、上半身は黒のタンクトップ姿になる。シューズはダンス練習用のを履いて、藍良の目の前に戻った。
「バスケのルールは分かるよね。一対一の勝負だよ」
「藍良からボールを奪って、あの網籠に入れればいいんだよね」
「だいたいそんな感じ。ボールを持ったまま歩いちゃダメだからね」
そう言って、藍良がたんたんとボールを床に叩いてはキャッチするのを繰り返し始めた。その感覚が段々と短くなっていき、藍良は腰を低くしてドリブルの体勢になる。一彩も両手を広げて藍良の動きをじっと観察した。ルールを身体で覚えるのには苦労したが、体育の授業では真白友也と協力して、双子の息の合ったプレーといい勝負をしたのだ。
藍良がすっと息を吸ったのが聞こえて、一彩は藍良が向かおうとする先に手を伸ばし、彼の手と床の間からボールを弾くように奪う。そのままドリブルをしてゴール前まで走り、見事にシュートを決めた。もともと運動神経で藍良が一彩に勝てるわけでもなく、一彩の呑み込みの速さや柔軟性は他でもない藍良が良く知っている。
多分、勝とうと思って挑んだ勝負じゃない。一彩が二回、三回とゴールを決めて申し訳なく思ってきたころには、藍良も何かを諦めたような表情をしていた。
「やっぱヒロくんはすごいなァ、何でもできて」
二人で体育館の隅に座り込むと、藍良が未開封のペットボトルの水を出してくれた。一彩はそれを有難くもらう。一口もらって隣を見ると、藍良は遠くを見るような目をしながら、口に水を流し込んでいた。
一度くらい手を抜いて、藍良にゴールのひとつでも決めさせてあげられたら良かったのかもしれないが、勝負事で手を抜くのは相手への最大の無礼であると刷り込まれている一彩にとってそれは無理なことだった。鬼ごっこのような遊びでさえ全力で挑んで、圧勝してしまうのだから周りはおそらく面白くないだろうなと思う。
「藍良だってすごいよ。アイドルのこと何でも知ってて」
「それは好きが高じただけ」
藍良の自己肯定感の低さから来る弱気な発言は今に始まったことではないが、それには他でもない自分自身も影響していると思うと胸が苦しかった。けれど、誰にも言えないけれど、それと同時に安心もしていた。
藍良よりも出来る何かがあることが、一彩自身の心の支えだった。藍良にすごいと思ってもらうこと。藍良に頼られることで安心していた。だから。
「写真の仕事だって、もらったじゃないか」
それを口にすると、心が苦しくなった。一彩がどんなに努力しても頑張っても、『アイドル』であることについては藍良に追いつけない。追いつくのは簡単じゃないだろう。正しいアイドルらしさを徹底して全速力で走ったって、それは藍良から学んだものなのだから、同じやり方でずっと前から走り続け、自分を磨き続けている藍良に追いつけるはずがないのだ。
それに気づいた時、藍良はきっともっと輝く。アイドルとして成功する。それを分かっていながら、自分は藍良の背中を押せないでいる。大空を羽ばたく幸せを教えてやりたいのに、鳥かごの鍵を外せないのだ。それは、ただのエゴなのに。
「実はね、写真のお仕事……緊張してるんだァ」
藍良が弱音を吐いた。応援したい気持ちは確かにある。けれど藍良が自分に弱音を吐いてくれて、ほっとしているのも事実。
「僕に手伝えることがあれば言ってほしい。相談に乗るのは下手かもしれないけど、話を聞くだけならできるから」
自分はなんてずるいんだろうと、思った。寄り添って、同情して、藍良を地上に繋ぎとめてしまっている。
「ありがと。でも、ヒロくんに甘えてばっかりでもいられない。おれだって、出来るんだって思いたいから」
藍良はそう言って、もう一度ボールを持って立ち上がる。ゴールの前に立って深呼吸をして、藍良は額の前でボールを構え、投げた。そのボールがゴールをくぐらなかったのは、おそらく自分のせいなのだと一彩は思う。下唇を噛んだ。
「帰ろ、ヒロくん」
藍良は一彩を振り返って笑った。一彩は、上手く笑えなかった。
◇◇◇
いよいよ藍良が撮影に出かける、その前日となった。その日もいつも通り学校があり、一彩はESから発行される雑誌に載るらしい、インタビューの仕事のために早退をしていた。現在撮影中のドラマの特集に、主演としてのコメントが載るのだ。明日からまた集中して撮影が始まるので、藍良が居ない時間を忙しさで紛らわせそうなところは都合が良かった。
インタビューは事前に聞かれる内容を資料でもらっていたので、ALKALOIDの他の三人に相談して用意した模範解答をメモしてお守りにして挑んだ。資料にないことを聞かれたときは戸惑い、答えた内容によってインタビュアーをも困らせたけれど、概ね上手くいっただろう。
一彩はインタビューに使用した会議室を出る。レスティングルームでジュースをもらい、一人用のソファ席に座った。鞄から台本を取り出して、明日からの撮影スケジュールを確認する。台本はもう頭に入っているが、他にすることも無いので一通り目を通した。明日からの撮影では、主人公とヒロインにトラブルが続き、すれ違う佳境のシーンを集中して撮ることになっている。明るいシーンが少なくより繊細な演技が求められるだろう。原作の少女漫画の該当シーンを台本と読み比べて研究し、びっしりと演技プランを書き込んだ台本は常に持ち歩いているのもあって既に折れ目や読み癖がついていた。
時計を観るともうすぐ夕方。藍良が学校を終えて帰寮する時間だ。台本の読み込みで時間をつぶした一彩は、ドリンクを飲み終えたカップを捨てて、星奏館へと帰ることにした。
星奏館に戻り、学校と仕事の荷物を部屋に置いた一彩は藍良の部屋に向かったが、部屋には誰もいなかった。共用スペースも見てみるが藍良の姿はない。スマホでメッセージを送ってみるが既読にならない。
まだ学校から帰っていないのだろうか。それとも。
一彩は思い当たることがあって、必要最低限の荷物だけを持ってESビルへと戻った。
ビルの屋上、関係者には「空中庭園」と呼ばれるそこを、一彩は訪れた。レッスン室がなかなか借りられなかった時はALKALOIDの皆でよくここを利用した。特に藍良は一人になりたいときや自主練習をしたい時に、よくここを利用している。
空中庭園に出ると、まず西の空に橙色が沈んでいくのが見えた。そして手入れされた草木の間から、藍良の姿を見つける。
ベンチと花壇のあるちょっとした広場で、スマホから流れる音楽に合わせて踊っていた。どうりでメッセージに気づかないわけだと思う。
「藍良」
音楽が止まったタイミングで、一彩は声をかけた。
「ヒロくん。もうお仕事終わったの?」
言いながら、藍良はスマホを手に取る。その時一彩からのメッセージに初めて気づいたようで、探させてごめんと謝られた。
「藍良こそ、明日からロケだから今日はオフのはずだよね」
「緊張して落ち着かなくてさ、自主練してたんだァ。撮影の仕事してる間に、ヒロくんに置いて行かれたらイヤだし」
「……僕は藍良を置いて行ったりしないよ」
「ヒロくんに待っててもらってるおれじゃ嫌なの」
ねぇ教えて、と言って藍良がマヨイにもらった音楽をかけた。それは、先日練習した時に使っていたダンスの練習用の音源だった。その時に習ったのは確か、上半身と腰のアイソレーション。一彩は了承すると、藍良の隣で一緒に踊った。
一彩はマヨイがしてくれたように、いち、に、さん、し、と声かけをする。藍良は動きを再現するのに集中していて、少しも笑えていなかった。
動きを完全に習得して、ステージで笑う余裕がないといけないのにと、藍良は焦っている。
「藍良は華奢だから、軽やかなダンスの方が向いているんじゃないかな」
「分かってる。得意不得意とか、持ち味とかはひとそれぞれだもんね。でも、せっかく習ったのに出来ないのは嫌なの」
ダンスは大きく体を動かすよりも、「固定」する方が難しいのはやってみるとよく分かる。身体の軽い藍良は、下半身を固定したまま上半身を大きく動かすのが苦手なようだった。
けれど、習得できていない動きをダンスに取り入れるほど振付師も鬼ではない。そんなことを一彩は思ったが、それを伝えたところで藍良が納得するはずがないのも分かっていた。
「せっかく内緒で練習してたのに、ヒロくんが来ちゃうんだもん。おれってそんなに分かりやすいかなァ」
「僕は藍良のことなら、何でも分かるよ」
「内緒で練習して、驚かせてやろうと思ったのに」
結局教えてもらっちゃった、と言って藍良は笑った。
一彩は一度ビル内に戻り、水を買って戻って来て藍良に手渡した。藍良は礼を言ってそれを受け取る。
藍良がベンチに座ったので、一彩も一緒に休憩をする。明日から藍良が出かけてしまうのが信じられないくらい、いつも通りの光景だった。
「ヒロくんは、明日からのおれの仕事、上手くいくと思う?」
「え?」
一彩の不安や寂しさを読み取ったかのように、藍良が呟いた。不安を吐露するように、地面を見つめて一彩に語り掛けてくる。
「ひとりで仕事するの、初めてじゃないけど……でも、こんなに大きなお仕事は初めてなの。だからすごく不安で」
「藍良なら、大丈夫だよ」
「本当にそう思ってる?」
藍良がこちらを覗き込んでくる。どくん、と心臓が大きく鳴って全身が波打った気がした。藍良の瞳を、まっすぐ見ることができない。不安なのは、一彩も一緒だった。けれど藍良の感じているそれとは別の不安だった。
「もちろん。僕が一番、藍良のことを応援しているつもりだよ」
藍良は少し視線を揺らしたあと、少し声を小さくして続ける。
「実はね、今回のムック本がうまくいったら、本格的な写真集を出版しないかって話もあるの」
内緒ね、と言って藍良が唇の前で人差し指を立てる。一彩の心は、先ほどからずっと揺れっ放しだった。藍良が、どんどん先に行ってしまうような気がした。藍良が失敗なんてするはずない。藍良の今回のフォトブックは絶対に売れる。藍良の撮る写真に写るアイドルはみんな魅力的だ。もちろん藍良自身の写真もそうだ。自分という素材の活かし方は、藍良が一番理解している。
「おれにもやっと、おれだけの強みができそう。ヒロくんに負けない、おれだけの武器が」
藍良が自信をつけようとしている。それは一彩にとっても、ALKALOIDにとっても素晴らしいことだ。応援したい。背中を押したい。でも、そばにいてほしい。
「不安もいっぱいあるけど、すごくわくわくもしてるの。緊張してるのか興奮してるのか分からないくらい」
不安そうな表情から一転して、藍良が笑った。藍良の笑顔はかわいい。笑ってくれると嬉しい。でも今は、その笑顔が遠くなってしまうようで、見ていられなかった。
「だから落ち着かなくて、ここで身体動かしてたんだァ」
藍良が、一彩が買ってきた水を半分ほど飲み終わった。そして蓋をしたボトルを、バッグにしまっていた。
「ヒロくんにお話したら落ち着いた、ありがと」
バッグに消えていくボトルは、話はこれで終わりという合図のように見えた。水がなくなるまでは話していられると、勝手に思っていたのは自分だけだった。
やっぱり自分はずるいと思う。話を聞いてあげるふりをして、藍良に頼られる自分を演じているんだ。水を買って渡したのだって、藍良ともう少しだけここで、二人きりで居たかったからだった。
「じゃあ帰ろうか、ヒロくん。明日の準備もしなきゃだし」
藍良が、鞄を持って立ち上がる。
嫌だ。行かないで欲しい。そばにいてほしい。自分の一番近くで、一番かわいい笑顔で。
誰にも、渡したくない。藍良には「僕」がいなくては。
そう思ったら、ビル内に帰ろうとする藍良の背中を抱き寄せていた。
「え……?」
藍良が戸惑うように、小さく声をあげた。一彩はぎゅっと、背中から縋るように抱きしめる。これは挨拶代わりのハグとは違うことは自分でもよく分かっていた。腕の回し方も、力の入れ方も。まるで藍良を繋ぎとめようとしているかのようだと、何故か他人事のように思った。自分は藍良を、どうしてしまうのだろう。どうなれば納得するんだろう。
「どうしたの、ヒロくん……?」
一彩が普通ではないことを、藍良も感じ取ったようだ。沈黙が落ちる。一彩は、腹の中にずっと隠していた想いが込み上げるのを、もう抑えられなかった。
「……好きだ、藍良」
藍良の耳元で、一彩は言葉を絞り出した。足元に、藍良の鞄が落ちる音がした。
「……ヒロくん?」
藍良が聞き返しているが、どんな表情をしているか分からない。どんな表情をしていても構うものか。もう、この想いをぶつけるしか藍良を繋ぎとめる方法を知らない。
「藍良が、好きなんだ」
「ちょちょちょっと待って、何言ってるの」
藍良の両手が、自分の両腕を頼りなく掴んだ。それは戸惑いか拒絶の意味なのは分かっていたから、振りほどかれないようにしっかりと抱く。
一彩に力では敵わないことを改めて悟ったのか、藍良の両手から力が抜けた。
「……何で、今なの?」
藍良が震える小さな声で、呟く。一彩は、自分の心臓が強い力でぎゅっと握られるような苦しさを感じた。
「ヒロくんの気持ちは、その……嬉しいけど。今のおれ達にとって、その気持ちは足を引っ張るだけだよ」
藍良の声が、今にも泣き出しそうに震えている。ああ、自分は最低だ。
「ごめん、ごめん……藍良」
藍良の大切な時に、身勝手な想いを一方的にぶつけてしまっている。
「ヒロくんはさ、おれをどうしたいの」
触れて、抱きしめて、それから。
「おれにどうなって欲しいの」
アイドルとして輝いて、ずっと隣で一緒に笑っていて。
心の中では答えられるのに、言葉にできなかった。口にした途端、全部が嘘になるような気がした。
「ヒロくんは、おれがアイドルとして成功するの、嬉しくないの?」
嬉しいよ。嬉しくないはずがない。一番喜んでいるのはきっと僕だ。
「チャンスなんだよ。おれは一番、ヒロくんに応援してほしいのに」
分かってる。君が大きく羽ばたくための千載一遇のチャンスだ。一番応援している。君にとっての一番は、なんだって僕じゃなきゃ嫌だ。
「いつまでも、ヒロくんの足を引っ張るおれじゃ嫌なんだよ」
藍良は足を引っ張ってなんかない。僕が、僕が藍良を。
何ひとつ声にならない。どれも、今の自分には言う資格がない。全部本当の言葉なのに、口にすれば簡単に消えてしまいそうだった。
「ヒロくん」
なにも言わない一彩に、藍良がそっと語り掛ける。一彩の腕が緩んだのを気取られて、藍良がするりと一彩の腕を抜けた。
「ごめんヒロくん、おれ……先に帰るね」
藍良は足元に落ちた鞄を慌てて拾って、走っていってしまった。
藍良の問いに何ひとつ上手に答えられないまま、一彩はひとり空中庭園に取り残された。
◇◇◇
藍良が逃げるように帰ってしまってからも、一彩はしばらく空中庭園にいた。先ほどまで藍良と並んで座っていたベンチに一人で腰かけて、すっかり夜になってしまった景色を眺めていた。
夜の街は明るく、色んなものが見えるけれど、何を見ても何の感想も浮かばなかった。
ただただ、藍良を追いかけることの出来なかった自分を悔いていた。追いかけたところで、何をどう伝えればいいのかも、分かっていないくせに。
「一彩さん」
かけられた優しい声に顔を上げる。それは、巽の声だった。
「皆さん心配していますよ」
目を合わせると、巽は驚いたように目を丸くして、そしてまた直ぐに柔らかく笑ってくれた。最低限の手荷物だけいれてきたのだろう小さなバッグの中からタオルを出して、差し出してくれた。それは、クリーム色の柔らかなタオルだった。濡れた頬に夜風が冷えて、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「藍良さんに、一彩さんがここにいるから迎えに行って欲しいと言われましてな」
一彩と藍良がすれ違った時、いつも間を取り持ってくれるのは巽やマヨイだ。一彩は、頭を撫でてくれる巽の手のひらの感触にほっとしながら、タオルに顔を埋める。
「藍良さんが、ちゃんと帰ってこい、皆に心配かけるなと言っていましたよ」
じわりと、またタオルを濡らす感覚。巽が、一枚の紙を一彩に差し出した。
「それから、藍良さんからこれを預かりました」
それは小さな手紙のようだった。折りたたまれたそれを開くと、藍良がいつも使っているメモ用紙に、藍良の文字で一言綴られていた。
『帰ったらちゃんと話そうね』
一彩はそのメモを大事に畳んで、ぎゅっと握った。その拳を額に当てて俯く。
「巽先輩……」
込み上げる涙は、下唇を噛んだだけでは止まらなかった。
「僕はまた……間違えてしまったみたいだよ」
つづく
それはミルクだった。一彩の身体が白に少しずつ沈んでいく。ここから出なくては溺れてしまう、と咄嗟に思った。
慌てて器の外を目指す。濡れたガラスは滑って上手く登れない。
焦り始めて、鼓動が早くなる。もう一度登ろうと顔を上げたとき、一彩の目の前に手が差し伸べられた。見上げれば、藍良が微笑んでいた。必死でその手を掴もうと自分の手をも伸ばす。
やっとの思いで掴んだそれはひとつのスミレに変わっていて、一彩はスミレを掴んだまま、再び器の底へと落ちた。
一彩の身体が、また白に沈んでいく。
◇◇◇
目が覚めた時には酷い汗をかいていた。なんて夢だ、と思わずかすれた声で呟く。まだ起きるには早い時間だったけれど、一彩はシャワーを浴びることにした。
同室の二人はまだ就寝中だが、アイドルという職業柄、食事や風呂の時間で互いに迷惑をかけあうことについては了承済だった。とはいえ一彩はなるべく物音を立てないようにしながらシャワー室へ行き、ミルクを被ったような妙な感覚が残る身体を洗い流した。
風呂を出て、一彩はタオルで髪を拭きながらそっと居室に戻り、鏡台にあるドライヤーを回収して洗面所へ戻る。
部屋に誰もいない時は遠慮なく鏡台で身支度をするのだが、今は寝ている二人を起こす訳にはいかないので洗面所で髪を乾かすことにした。
髪に熱風をあてながら、一彩は昨日のことを思い出していた。昨日は藍良と二人で街へ出かけ、一日買い物を楽しんだ。藍良との二人きりの「デートもどき」に浮かれて帰寮した一彩は、たまたま藍良の部屋に先に帰ってきていた天祥院英智から、藍良の個人の仕事についての話を聞いた。
それは、同じアイドルユニットの仲間として大変誇らしく喜ばしい知らせだった。しかし、一彩個人の感情としてはとても複雑だった。
藍良に来た仕事は、簡単に言えば写真集の撮影だった。とある出版社が藍良のSNSのパフォーマンスを高く評価し、フォトブックの発行を提案してきたのだ。藍良は快諾し、英智は先方に前向きな返事をするという。おそらくこの仕事は実施が決まるだろう。
アイドルとして輝くことを一番の喜びとしている藍良にとって、ムック本で特集されることはかなり大きな前進となる。さらに、一週間もESを離れての大がかりな撮影になるらしい。一彩の心はざわついていた。
置いていかれてしまう、と直観的に思ってしまった。
ALKALOIDのリーダーとして、皆を引っ張っていかなければとは思っている。皆のまとめ役としては至らないけれど、ダンスやパフォーマンスについては褒めてもらえる。一彩のパフォーマンスを見て、羨ましそうに唇を尖らせる藍良はかわいらしいし、ついてきてくれるのが嬉しかった。
けれど今度はどうだ。藍良が、なんだか手が届かない場所へ行ってしまうような気がして焦る。
一週間。一週間とは、どれくらいだろう。
一彩が身支度を終えるころ、同室の椎名ニキと葵ひなたも目を覚まして、各々の予定の準備を始めた。ニキが作ってくれた朝食を三人で囲む。今日の朝食はトーストにサラダ、コーンポタージュだった。サラダには細長く刻んだハムも乗っていて栄養バランスも考えられている。
「僕は今夜、シナモンでバイトっすから夕飯は自分で用意してくださいっす」
二人の目の前にバターやジャムを置きながらニキが言う。
「はーい! いつもありがとうございます」
ひなたが元気よく返事をする。その隣が静かなのに違和感を覚えたひなたが一彩の方を向いた。一彩がスプーンを片手にスマホを触っていると、二人の視線を感じたのか顔を上げた。
「一彩くん珍しいね。食事中のスマホはお行儀悪いよ~?」
「ご、ごめんなさい」
咄嗟にテーブルにスマホを伏せる一彩。焦ったような様子に、ひなたが首を捻った。
「何か気になることでもあったの?」
「ウム……藍良のSNSを見るのが癖になってて」
一彩が、目の前に温かいコーンポタージュを引き寄せる。中央に浮いているクルトンがスープを吸って沈みそうになっていた。
「藍良くん更新マメっすもんね~。燐音くんが、弟さんの様子探ってるっすよ」
「あはは、おれもゆうたくんのこと気になっちゃうから分かる~」
一彩はかぁっと顔を赤くして、いただきますと小さく呟いて沈みかけているクルトンをスプーンで掬い上げた。
食前に失礼を働いたと反省した一彩は食器を洗う役目を買って出て、ニキが使用した調理道具と一緒にすべて綺麗に洗った。ニキは食事のあと、すぐに着替えてESへ、ひなたは大きな荷物を持ってテレビ局へ。一彩は二人を送り出してから、ベッドに座って改めてスマホに向き合った。慣れた手つきで藍良のSNSを開く。ALKALOIDの仲間たちとのレッスンの様子や、藍良が見たものや食べたものの写真が並んでいる。その中には、一彩の写真もあった。どれも見たことあるものばかりで、新しいものは上がっていない。アプリを閉じる前にもう一度更新をかけたら、そのタイミングで新しい写真が投稿された。それは星奏館の共用のキッチンで、紫乃創と一緒に朝食を囲んでいる写真だった。その写真を見た瞬間、一彩は思わず居室を飛び出し、食堂へ向かっていた。藍良がそこに居るなら会いたいと思った。また、共用スペースで食事をとるなら誘って欲しいとも思ってしまった。焦りで高揚する奇妙な感情に浮足立ちながら食堂へとたどり着くが、そこに藍良の姿は無かった。写真の投稿から時間は経ってないはずなのにと不思議に思いながら、寮室の並ぶ棟へと戻り、一彩は自分の部屋へは帰らずに藍良の部屋を訪れた。藍良に会いたいと思って部屋を飛び出したのだから、それが達成されないと部屋へは帰れない。
時間を確認する。まだ朝は早いが、常識を疑われるような時間ではない。インターホンを鳴らすと、部屋のドアが開いて英智が顔を出した。
「やあ、天城くんおはよう。昨日ぶりだね」
目の前には、藍良に仕事の話を持ち掛けた人物がいる。一彩にとっては事務所の先輩かつ上司にあたる人物だが、今は仕事をくれた有難さよりも、藍良に長期の出張を伴う撮影をもちかけたことに対する複雑な心情を引きずってしまう。目を合わせて話をするものの、心がぐらついた。
「おはよう、天祥院先輩。……藍良は、居るだろうか」
「うん。今は多分シャワーじゃないかな。僕もさっき起きたところでね」
どうぞ、と言って英智は一彩を中へと招き入れてくれた。昨日と同じようにソファに通され、お茶を出してもらった。部屋の奥は照明が落とされており、そこのベッドでもう一人寝ているらしいのが分かった。
「朔間くんは昨晩は深夜まで仕事だったみたいだから、寝かせておいてあげてね」
一彩の視線の先を一緒に追って英智が言った。奥にある黒を基調とした調度品で統一されたベッドは朔間零のものだ。
「白鳥くんに何か用かい?」
「ああ、いや……今日はALKALOIDのレッスンがあるから、一緒に行こうと思って」
一彩は嘘でも本当でもあることを言った。この人は、何もかもを見透かしてしまうような瞳をしているから、何か話すたびに少々警戒してしまう。藍良はこんな人物と同室で毎日顔を合わせて平気なのだろうかと心配にもなった。しかし本人はトップアイドルである二人と同室になったことに大騒ぎをしていたので、一彩の心配するところとはズレていたが。
「天祥院先輩、藍良の写真の仕事なんだけど、あれはどうなったのかな」
仕事の話なら、藍良を待たずとも英智に聞けば話が早い。もともとこの人が持ってきた仕事だ。英智はポケットからスマホを取り出して通知を確認すると、何もせずにまたそれをポケットへとしまった。
「今朝がた先方に連絡を入れたから、追って日取りの連絡があると思うよ」
何もせずにスマホをしまったところを見れば、その連絡とやらはまだなのだろう。
「そうか……」
「白鳥くんが不在なのは不安かな」
「それは、もちろん」
やはりこの人には分かってしまうようだ。一彩は揺れる心を誤魔化すように、紅茶を一口含む。
「僕は、仲間が大きな仕事を手に入れたことを、まずは喜ぶべきだと思うけれどね」
その通りだ、と一彩は思う。口にした紅茶が、少し苦かった。
洗面所のほうから聞こえてきていたドライヤーの音が止んだので振り返ると、部屋着姿の藍良が出てきた。Tシャツにハーフパンツというラフな格好。油断した姿。
「あれェ、ヒロくんが何でここに居るのォ?」
「いや、えっと……藍良の書き込みを見て、食堂にいると思って出てきたんだけど」
君が見つからなかったから部屋に来てしまった、というところは省略したが、藍良には伝わったようだった。
「あー、今朝アップした写真のこと? あれは別日に撮ったやつだよォ」
話しながら藍良はキッチンで自分の朝食の用意を始める。といってもロールパンにバター、野菜ジュースという簡単なもので、一彩が手伝おうと立ち上がった時には用意が終わっていた。
「そ、そうなのか」
藍良が奥に詰めてと手のひらで促し、一彩の隣に座る。朝食はそれだけで足りるのかと言う質問は、これまでに何度もしているので言わない。しつこいと怒られるのは嫌だった。
「プライベートなことは、リアルタイムでアップしないようにしてるの。一緒に写ってる人に迷惑かけちゃうでしょォ」
最近はSNSに上げる写真に写りこんでいる情報から、写っている人物の行動パターンやクセなどを割りだされることがあるらしいと藍良は説明する。ついでに、仕事のスケジュールも細かく書き込んだらダメだよと釘を刺された。
「そういうものなのか。勉強になったよ」
「ふふ、白鳥くんはそのへんきちんとしていて助かるよ」
藍良のSNS談義を聴きながら荷物の用意をしていた英智が、うんうんと頷いた。
「それじゃあ僕は外で朝食をとるから行くね。天城くんはゆっくりしていくといい」
ノートパソコンの入った大きな鞄を持って、英智が部屋の玄関に立つ。
「はァい、行ってらっしゃい」
「ありがとう、天祥院先輩」
英智が出かけていくと、藍良は食べ終わった食器を片付けるために一度席を立ち、戻ってくると今度は一彩の隣ではなく自分のベッドに座った。ベッドサイドのテーブルに鏡を立てて、前髪をピンで止める。
「で、ヒロくんは何の用なのォ?」
「え?」
「おれのこと、探してたんでしょ?」
「えっと……」
まさか藍良の顔が見たかっただけ、なんて言えるわけもなく、一彩は言葉を探して迷った。他に話題を持ち合わせていないので、先程英智と話していた内容を藍良に引き渡すように言った。
「昨日の写真集のお仕事のことが気になって。藍良に話を聞きたかったんだ」
「話って。まだ前向きな返事をしただけで何も決まってないよォ。今は向こうのお返事待ち」
「そうか……」
どうしてだろう。藍良に仕事が来たことは喜ばしいことなのに。何故か素直に喜べない。心にもやもやとしたものがずっと蟠っていた。
どこにも行って欲しくない。そばにいて欲しい。でも、アイドルとして輝く藍良を見ていたい。頭の中で自分の感情に名前をつけようとするけれど、どれもしっくり来なかった。
「なるべく迷惑かけない日程にしてもらうから」
「迷惑だなんてそんな。僕も撮影があるし、藍良も行っておいでよ」
「うん、ありがとォ」
これは本心であり、嘘じゃない。それなのに、何で言うたびに心がズキズキと痛むのだろうか。
一彩は紅茶を飲み終え、ティーカップを流しですすぐ。席を立ったついでに、おもむろに藍良のベッドに座ってみた。藍良の隣で、藍良の仕草を眺める。
藍良は手際よくスキンケアをして、髪を整えていく。藍良が手櫛を髪に通すたびに見える白い首筋やうなじにドキリと心臓が跳ねる。藍良が部屋着にしている薄手のTシャツの下には細く柔らかな肢体が隠れているのを想像して、一彩は下唇をそっと噛んだ。やはり何かおかしい。同じ部屋で着替えたことも、一緒に風呂に入ったこともあるのに、どうして今更こうなってしまったのだろう。
かわいい。手を伸ばして触れてみたい。抱きしめてみたい。今まで出来ていたことができない。そんなことを考えていたら、ぼーっと藍良のことを見つめてしまっていたらしい。
「ちょっとォ、ヒロくん」
「な、何?」
遠慮なく注がれる視線に痺れを切らした藍良が、真っ赤になってこちらを睨む。
「さっきからおれのことジロジロ見すぎ! 用事が無いなら自分も部屋に戻って準備してきなさい!」
「う、ウム! ごめんね、わかったよ!」
一彩は慌てて立ち上がり、自分の部屋へと戻ることにした。玄関のドアを開ける時に部屋の奥の暗闇から「若いのぅ」という呟きが聞こえてきた。一彩は自分の顔が赤くなっている自覚があったため、室内を振り返ることができなかった。
◇◇◇
英智には咄嗟に言い訳してしまったが、ALKALOIDのレッスンがあるのは本当だった。今日は四人での基礎練習。しばらくライブの予定は無いため、各々の仕事をこなしながら基礎の確認と技術の向上を目指す。新しい技をマヨイに教えてもらえるのもいつもこのタイミングだ。
「膝を安定させて、下半身がぶれないように」
マヨイ一人に他の三人が向き合って、彼の動きを模倣する。
「そのまま上半身を前、後ろ、前、後ろ。……藍良さん、足が動いていますよ」
「はい!」
マヨイの身体は、関節はどうなっているのかと思うほど柔軟で、口で説明しながらも美しい動きを再現する様子に思わず見惚れる。一彩は、マヨイの動きを自身の身体で確認しながら、隣に立つ藍良の動きを鏡越しに盗み見ていた。
「背中を反らすのではなく、胸を張って肩を後ろに。そうです」
誰よりも一生懸命な藍良だが、同時に不器用で、ダンスの技の習得には四人のなかでは一番苦労する質だった。
「次は左右いきます。右、左、右、左」
下半身を固定して腰に両手を当て、上半身だけを前後左右に動かす動き。これもやはり、藍良は苦戦していた。
「藍良さん、下半身が引っ張られていますよ」
「はい!」
「巽さんは後半少々ブレてきますので注意してください」
「わかりました。慣れない動きは表情も硬くなってしまいますな」
そういって、巽が笑う。その姿を見て、他の三人もほっとしたように表情を綻ばせた。
「少し休憩して、あとで下半身の筋トレと、体幹のトレーニングをしましょう」
巽と藍良はレッスン室の端にある椅子に座り、タオルで汗を拭いたりドリンクを飲んだりして休憩をした。しかし一彩だけは、ドリンクを飲んだ後すぐに部屋の中央に戻る。一人で今日習った動きを確認していた。
「一彩さんは今日のステップは問題無さそうでしたね」
「ウム。面白い動きだね!」
習った動きが自分のものになる感覚が嬉しくて、一彩はマヨイに向かって大きく頷いた。
「では一彩さん、音楽に合わせて踊ってみましょうか」
マヨイがダンス練習用の音楽をかける。感情を邪魔しないリズムのみの音源なので、一彩はそれに合わせて今日習ったステップを確認する。
「前、後ろ、右、左……」
マヨイが声をかけながら正面で一彩の手本となる。
「そのまま肩をぐるっと。そうです一彩さん」
八小節分の動きを指示し、それを繰り返すように言うとマヨイは動きをやめて手拍子をする。
結局一彩は三人が見ている前で、休憩をとるのも忘れて一通り踊り切った。
「ほんとヒロくんはダンスは完璧ィ」
拍手をする巽の横で、藍良がドリンクのストローを咥えたまま唇を尖らせる。
「ありがとう、嬉しいよ藍良!」
「一彩さん、『ダンスは』と言われているところにツッコミは入れなくていいんですか?」
「他も頑張るよ!」
藍良の横で巽が苦笑する。しかし一彩は、藍良に褒められたところだけを受け取って喜んでいた。
その後も基礎練習や筋トレ等を続け、レッスン室を借りている時間が終了となる。手分けして使った物を片付け、床に散った汗をモップで拭きとる。
片付けが終わり、各々の荷物を整理しているところに、藍良がマヨイに声をかけた。
「マヨさん、この後時間あったら今日のところ教えてェ」
藍良の甘えた態度に頼られ甲斐を刺激されるのは一彩もよくわかる。マヨイも快く承諾していた。
「ええ、いいですよ。空いているレッスン室があるか聞いてきましょうか」
「いいよォ、空中庭園の端っことかでいいから。……マヨさんが良ければ、だけど」
もじもじと俯く藍良を見て、マヨイが一彩と巽を振り返る。巽が一彩に目配せしてきたので、一彩はウムと頷いた。
「レッスン室、借りてもいいよ藍良」
「いいの? お金かかっちゃうけど……」
藍良はやはり、共通のリッドルで自分のためにレッスン室を借りてもらうことに遠慮していた。
「もちろんだよ。僕も練習に参加していいかい?」
それなら自分も練習に参加して、藍良の遠慮が少しでも和らげばと思った。
「うん。ありがとう、ヒロくん」
この時一彩は、藍良の瞳が一瞬揺れたこと、巽とマヨイが心配そうに目線を交わし合ったことに気づかなかった。
◇◇◇
藍良のフォトブック撮影の日程が決まった。英智は一週間と言っていたがそれは念を入れて長めに伝えただけだったようで、実際に組まれた日程は週末を含む四泊五日。初日と最終日はほぼ移動ということだったので安心する。しかし、藍良に会えない日が丸三日も続くというのはめったにないことで、一彩は動揺していた。
その日は学校で空手部の練習があったのだが、部長の南雲鉄虎に集中できていない事を指摘されたのをきっかけに早退を申し出た。何かあったのかと心配する鉄虎に簡単に事情を説明する。一彩と藍良の仲の良さ、とくに一彩が藍良に入れ込んでいる様子を目の当たりにしている鉄虎は、納得すると同時にさらに心配してくれた。それ以上心配をかけないためにも、一彩は笑顔を作って挨拶をして、空手部の稽古場をあとにした。
予定よりも早く学校を出ることになった一彩は、制服に着替えてバスケ部が使っている体育館へと向かう。今日は一緒に帰る約束をしていたから、藍良はまだ部活をしているはずだった。体育館に近づくと、たん、たんとボールの跳ねる音が聞こえた。まだ部活中なら別の場所で時間をつぶそうと思ったのだが、覗いてみると、その音をさせているのは藍良ひとりだけだった。誰も居ない体育館の真ん中で、体操着の上にバスケのユニフォームを着た藍良が、床にボールを跳ねさせてはキャッチをするのを繰り返していた。
「藍良」
「あれ、ヒロくんもう部活終わったの?」
「うん」
一彩は肯定だけして、余計なことは何も言わなかった。藍良のことを考えていて集中力を欠いたなんて伝えたら、藍良の負担になってしまう。
「今日はバスケ部の皆は?」
「さっきまで先輩たちがいたんだけど、さっき帰ったよォ」
藍良の言う「先輩たち」とはTricksterの明星スバルと衣更真緒、そして流星隊の高峯翠のことだ。アイドルとして多忙な身でありながら、部活にも顔を出してくれる良い先輩だと聞いている。
「おれはヒロくんが部活終わるまで待ってようと思ってたんだけど、こんなに早いなら体育館閉めて待ってればよかった」
すぐ片付けるから待ってて、と言って藍良がボールを拾ったが、何かを思いついたのか、見つめていたボールを一彩に向かって放り投げた。咄嗟にキャッチして首を傾げる一彩に、藍良が言う。
「ねェ、ちょっとバスケやってみない?」
意外な提案だった。部活よりもアイドル活動を優先したい気持ちが他よりも強い藍良が、一彩をバスケに誘ってくるとは思わなかった。
「いいの? 体育の授業でしか、やったことがないけれど」
「いいのォ、ちょっと付き合ってよ」
藍良がそう言うなら断る理由はない。一彩はボールを藍良に投げ返すと、体育館の端に鞄を置いて、制服のネクタイを外してシャツを脱ぎ、上半身は黒のタンクトップ姿になる。シューズはダンス練習用のを履いて、藍良の目の前に戻った。
「バスケのルールは分かるよね。一対一の勝負だよ」
「藍良からボールを奪って、あの網籠に入れればいいんだよね」
「だいたいそんな感じ。ボールを持ったまま歩いちゃダメだからね」
そう言って、藍良がたんたんとボールを床に叩いてはキャッチするのを繰り返し始めた。その感覚が段々と短くなっていき、藍良は腰を低くしてドリブルの体勢になる。一彩も両手を広げて藍良の動きをじっと観察した。ルールを身体で覚えるのには苦労したが、体育の授業では真白友也と協力して、双子の息の合ったプレーといい勝負をしたのだ。
藍良がすっと息を吸ったのが聞こえて、一彩は藍良が向かおうとする先に手を伸ばし、彼の手と床の間からボールを弾くように奪う。そのままドリブルをしてゴール前まで走り、見事にシュートを決めた。もともと運動神経で藍良が一彩に勝てるわけでもなく、一彩の呑み込みの速さや柔軟性は他でもない藍良が良く知っている。
多分、勝とうと思って挑んだ勝負じゃない。一彩が二回、三回とゴールを決めて申し訳なく思ってきたころには、藍良も何かを諦めたような表情をしていた。
「やっぱヒロくんはすごいなァ、何でもできて」
二人で体育館の隅に座り込むと、藍良が未開封のペットボトルの水を出してくれた。一彩はそれを有難くもらう。一口もらって隣を見ると、藍良は遠くを見るような目をしながら、口に水を流し込んでいた。
一度くらい手を抜いて、藍良にゴールのひとつでも決めさせてあげられたら良かったのかもしれないが、勝負事で手を抜くのは相手への最大の無礼であると刷り込まれている一彩にとってそれは無理なことだった。鬼ごっこのような遊びでさえ全力で挑んで、圧勝してしまうのだから周りはおそらく面白くないだろうなと思う。
「藍良だってすごいよ。アイドルのこと何でも知ってて」
「それは好きが高じただけ」
藍良の自己肯定感の低さから来る弱気な発言は今に始まったことではないが、それには他でもない自分自身も影響していると思うと胸が苦しかった。けれど、誰にも言えないけれど、それと同時に安心もしていた。
藍良よりも出来る何かがあることが、一彩自身の心の支えだった。藍良にすごいと思ってもらうこと。藍良に頼られることで安心していた。だから。
「写真の仕事だって、もらったじゃないか」
それを口にすると、心が苦しくなった。一彩がどんなに努力しても頑張っても、『アイドル』であることについては藍良に追いつけない。追いつくのは簡単じゃないだろう。正しいアイドルらしさを徹底して全速力で走ったって、それは藍良から学んだものなのだから、同じやり方でずっと前から走り続け、自分を磨き続けている藍良に追いつけるはずがないのだ。
それに気づいた時、藍良はきっともっと輝く。アイドルとして成功する。それを分かっていながら、自分は藍良の背中を押せないでいる。大空を羽ばたく幸せを教えてやりたいのに、鳥かごの鍵を外せないのだ。それは、ただのエゴなのに。
「実はね、写真のお仕事……緊張してるんだァ」
藍良が弱音を吐いた。応援したい気持ちは確かにある。けれど藍良が自分に弱音を吐いてくれて、ほっとしているのも事実。
「僕に手伝えることがあれば言ってほしい。相談に乗るのは下手かもしれないけど、話を聞くだけならできるから」
自分はなんてずるいんだろうと、思った。寄り添って、同情して、藍良を地上に繋ぎとめてしまっている。
「ありがと。でも、ヒロくんに甘えてばっかりでもいられない。おれだって、出来るんだって思いたいから」
藍良はそう言って、もう一度ボールを持って立ち上がる。ゴールの前に立って深呼吸をして、藍良は額の前でボールを構え、投げた。そのボールがゴールをくぐらなかったのは、おそらく自分のせいなのだと一彩は思う。下唇を噛んだ。
「帰ろ、ヒロくん」
藍良は一彩を振り返って笑った。一彩は、上手く笑えなかった。
◇◇◇
いよいよ藍良が撮影に出かける、その前日となった。その日もいつも通り学校があり、一彩はESから発行される雑誌に載るらしい、インタビューの仕事のために早退をしていた。現在撮影中のドラマの特集に、主演としてのコメントが載るのだ。明日からまた集中して撮影が始まるので、藍良が居ない時間を忙しさで紛らわせそうなところは都合が良かった。
インタビューは事前に聞かれる内容を資料でもらっていたので、ALKALOIDの他の三人に相談して用意した模範解答をメモしてお守りにして挑んだ。資料にないことを聞かれたときは戸惑い、答えた内容によってインタビュアーをも困らせたけれど、概ね上手くいっただろう。
一彩はインタビューに使用した会議室を出る。レスティングルームでジュースをもらい、一人用のソファ席に座った。鞄から台本を取り出して、明日からの撮影スケジュールを確認する。台本はもう頭に入っているが、他にすることも無いので一通り目を通した。明日からの撮影では、主人公とヒロインにトラブルが続き、すれ違う佳境のシーンを集中して撮ることになっている。明るいシーンが少なくより繊細な演技が求められるだろう。原作の少女漫画の該当シーンを台本と読み比べて研究し、びっしりと演技プランを書き込んだ台本は常に持ち歩いているのもあって既に折れ目や読み癖がついていた。
時計を観るともうすぐ夕方。藍良が学校を終えて帰寮する時間だ。台本の読み込みで時間をつぶした一彩は、ドリンクを飲み終えたカップを捨てて、星奏館へと帰ることにした。
星奏館に戻り、学校と仕事の荷物を部屋に置いた一彩は藍良の部屋に向かったが、部屋には誰もいなかった。共用スペースも見てみるが藍良の姿はない。スマホでメッセージを送ってみるが既読にならない。
まだ学校から帰っていないのだろうか。それとも。
一彩は思い当たることがあって、必要最低限の荷物だけを持ってESビルへと戻った。
ビルの屋上、関係者には「空中庭園」と呼ばれるそこを、一彩は訪れた。レッスン室がなかなか借りられなかった時はALKALOIDの皆でよくここを利用した。特に藍良は一人になりたいときや自主練習をしたい時に、よくここを利用している。
空中庭園に出ると、まず西の空に橙色が沈んでいくのが見えた。そして手入れされた草木の間から、藍良の姿を見つける。
ベンチと花壇のあるちょっとした広場で、スマホから流れる音楽に合わせて踊っていた。どうりでメッセージに気づかないわけだと思う。
「藍良」
音楽が止まったタイミングで、一彩は声をかけた。
「ヒロくん。もうお仕事終わったの?」
言いながら、藍良はスマホを手に取る。その時一彩からのメッセージに初めて気づいたようで、探させてごめんと謝られた。
「藍良こそ、明日からロケだから今日はオフのはずだよね」
「緊張して落ち着かなくてさ、自主練してたんだァ。撮影の仕事してる間に、ヒロくんに置いて行かれたらイヤだし」
「……僕は藍良を置いて行ったりしないよ」
「ヒロくんに待っててもらってるおれじゃ嫌なの」
ねぇ教えて、と言って藍良がマヨイにもらった音楽をかけた。それは、先日練習した時に使っていたダンスの練習用の音源だった。その時に習ったのは確か、上半身と腰のアイソレーション。一彩は了承すると、藍良の隣で一緒に踊った。
一彩はマヨイがしてくれたように、いち、に、さん、し、と声かけをする。藍良は動きを再現するのに集中していて、少しも笑えていなかった。
動きを完全に習得して、ステージで笑う余裕がないといけないのにと、藍良は焦っている。
「藍良は華奢だから、軽やかなダンスの方が向いているんじゃないかな」
「分かってる。得意不得意とか、持ち味とかはひとそれぞれだもんね。でも、せっかく習ったのに出来ないのは嫌なの」
ダンスは大きく体を動かすよりも、「固定」する方が難しいのはやってみるとよく分かる。身体の軽い藍良は、下半身を固定したまま上半身を大きく動かすのが苦手なようだった。
けれど、習得できていない動きをダンスに取り入れるほど振付師も鬼ではない。そんなことを一彩は思ったが、それを伝えたところで藍良が納得するはずがないのも分かっていた。
「せっかく内緒で練習してたのに、ヒロくんが来ちゃうんだもん。おれってそんなに分かりやすいかなァ」
「僕は藍良のことなら、何でも分かるよ」
「内緒で練習して、驚かせてやろうと思ったのに」
結局教えてもらっちゃった、と言って藍良は笑った。
一彩は一度ビル内に戻り、水を買って戻って来て藍良に手渡した。藍良は礼を言ってそれを受け取る。
藍良がベンチに座ったので、一彩も一緒に休憩をする。明日から藍良が出かけてしまうのが信じられないくらい、いつも通りの光景だった。
「ヒロくんは、明日からのおれの仕事、上手くいくと思う?」
「え?」
一彩の不安や寂しさを読み取ったかのように、藍良が呟いた。不安を吐露するように、地面を見つめて一彩に語り掛けてくる。
「ひとりで仕事するの、初めてじゃないけど……でも、こんなに大きなお仕事は初めてなの。だからすごく不安で」
「藍良なら、大丈夫だよ」
「本当にそう思ってる?」
藍良がこちらを覗き込んでくる。どくん、と心臓が大きく鳴って全身が波打った気がした。藍良の瞳を、まっすぐ見ることができない。不安なのは、一彩も一緒だった。けれど藍良の感じているそれとは別の不安だった。
「もちろん。僕が一番、藍良のことを応援しているつもりだよ」
藍良は少し視線を揺らしたあと、少し声を小さくして続ける。
「実はね、今回のムック本がうまくいったら、本格的な写真集を出版しないかって話もあるの」
内緒ね、と言って藍良が唇の前で人差し指を立てる。一彩の心は、先ほどからずっと揺れっ放しだった。藍良が、どんどん先に行ってしまうような気がした。藍良が失敗なんてするはずない。藍良の今回のフォトブックは絶対に売れる。藍良の撮る写真に写るアイドルはみんな魅力的だ。もちろん藍良自身の写真もそうだ。自分という素材の活かし方は、藍良が一番理解している。
「おれにもやっと、おれだけの強みができそう。ヒロくんに負けない、おれだけの武器が」
藍良が自信をつけようとしている。それは一彩にとっても、ALKALOIDにとっても素晴らしいことだ。応援したい。背中を押したい。でも、そばにいてほしい。
「不安もいっぱいあるけど、すごくわくわくもしてるの。緊張してるのか興奮してるのか分からないくらい」
不安そうな表情から一転して、藍良が笑った。藍良の笑顔はかわいい。笑ってくれると嬉しい。でも今は、その笑顔が遠くなってしまうようで、見ていられなかった。
「だから落ち着かなくて、ここで身体動かしてたんだァ」
藍良が、一彩が買ってきた水を半分ほど飲み終わった。そして蓋をしたボトルを、バッグにしまっていた。
「ヒロくんにお話したら落ち着いた、ありがと」
バッグに消えていくボトルは、話はこれで終わりという合図のように見えた。水がなくなるまでは話していられると、勝手に思っていたのは自分だけだった。
やっぱり自分はずるいと思う。話を聞いてあげるふりをして、藍良に頼られる自分を演じているんだ。水を買って渡したのだって、藍良ともう少しだけここで、二人きりで居たかったからだった。
「じゃあ帰ろうか、ヒロくん。明日の準備もしなきゃだし」
藍良が、鞄を持って立ち上がる。
嫌だ。行かないで欲しい。そばにいてほしい。自分の一番近くで、一番かわいい笑顔で。
誰にも、渡したくない。藍良には「僕」がいなくては。
そう思ったら、ビル内に帰ろうとする藍良の背中を抱き寄せていた。
「え……?」
藍良が戸惑うように、小さく声をあげた。一彩はぎゅっと、背中から縋るように抱きしめる。これは挨拶代わりのハグとは違うことは自分でもよく分かっていた。腕の回し方も、力の入れ方も。まるで藍良を繋ぎとめようとしているかのようだと、何故か他人事のように思った。自分は藍良を、どうしてしまうのだろう。どうなれば納得するんだろう。
「どうしたの、ヒロくん……?」
一彩が普通ではないことを、藍良も感じ取ったようだ。沈黙が落ちる。一彩は、腹の中にずっと隠していた想いが込み上げるのを、もう抑えられなかった。
「……好きだ、藍良」
藍良の耳元で、一彩は言葉を絞り出した。足元に、藍良の鞄が落ちる音がした。
「……ヒロくん?」
藍良が聞き返しているが、どんな表情をしているか分からない。どんな表情をしていても構うものか。もう、この想いをぶつけるしか藍良を繋ぎとめる方法を知らない。
「藍良が、好きなんだ」
「ちょちょちょっと待って、何言ってるの」
藍良の両手が、自分の両腕を頼りなく掴んだ。それは戸惑いか拒絶の意味なのは分かっていたから、振りほどかれないようにしっかりと抱く。
一彩に力では敵わないことを改めて悟ったのか、藍良の両手から力が抜けた。
「……何で、今なの?」
藍良が震える小さな声で、呟く。一彩は、自分の心臓が強い力でぎゅっと握られるような苦しさを感じた。
「ヒロくんの気持ちは、その……嬉しいけど。今のおれ達にとって、その気持ちは足を引っ張るだけだよ」
藍良の声が、今にも泣き出しそうに震えている。ああ、自分は最低だ。
「ごめん、ごめん……藍良」
藍良の大切な時に、身勝手な想いを一方的にぶつけてしまっている。
「ヒロくんはさ、おれをどうしたいの」
触れて、抱きしめて、それから。
「おれにどうなって欲しいの」
アイドルとして輝いて、ずっと隣で一緒に笑っていて。
心の中では答えられるのに、言葉にできなかった。口にした途端、全部が嘘になるような気がした。
「ヒロくんは、おれがアイドルとして成功するの、嬉しくないの?」
嬉しいよ。嬉しくないはずがない。一番喜んでいるのはきっと僕だ。
「チャンスなんだよ。おれは一番、ヒロくんに応援してほしいのに」
分かってる。君が大きく羽ばたくための千載一遇のチャンスだ。一番応援している。君にとっての一番は、なんだって僕じゃなきゃ嫌だ。
「いつまでも、ヒロくんの足を引っ張るおれじゃ嫌なんだよ」
藍良は足を引っ張ってなんかない。僕が、僕が藍良を。
何ひとつ声にならない。どれも、今の自分には言う資格がない。全部本当の言葉なのに、口にすれば簡単に消えてしまいそうだった。
「ヒロくん」
なにも言わない一彩に、藍良がそっと語り掛ける。一彩の腕が緩んだのを気取られて、藍良がするりと一彩の腕を抜けた。
「ごめんヒロくん、おれ……先に帰るね」
藍良は足元に落ちた鞄を慌てて拾って、走っていってしまった。
藍良の問いに何ひとつ上手に答えられないまま、一彩はひとり空中庭園に取り残された。
◇◇◇
藍良が逃げるように帰ってしまってからも、一彩はしばらく空中庭園にいた。先ほどまで藍良と並んで座っていたベンチに一人で腰かけて、すっかり夜になってしまった景色を眺めていた。
夜の街は明るく、色んなものが見えるけれど、何を見ても何の感想も浮かばなかった。
ただただ、藍良を追いかけることの出来なかった自分を悔いていた。追いかけたところで、何をどう伝えればいいのかも、分かっていないくせに。
「一彩さん」
かけられた優しい声に顔を上げる。それは、巽の声だった。
「皆さん心配していますよ」
目を合わせると、巽は驚いたように目を丸くして、そしてまた直ぐに柔らかく笑ってくれた。最低限の手荷物だけいれてきたのだろう小さなバッグの中からタオルを出して、差し出してくれた。それは、クリーム色の柔らかなタオルだった。濡れた頬に夜風が冷えて、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「藍良さんに、一彩さんがここにいるから迎えに行って欲しいと言われましてな」
一彩と藍良がすれ違った時、いつも間を取り持ってくれるのは巽やマヨイだ。一彩は、頭を撫でてくれる巽の手のひらの感触にほっとしながら、タオルに顔を埋める。
「藍良さんが、ちゃんと帰ってこい、皆に心配かけるなと言っていましたよ」
じわりと、またタオルを濡らす感覚。巽が、一枚の紙を一彩に差し出した。
「それから、藍良さんからこれを預かりました」
それは小さな手紙のようだった。折りたたまれたそれを開くと、藍良がいつも使っているメモ用紙に、藍良の文字で一言綴られていた。
『帰ったらちゃんと話そうね』
一彩はそのメモを大事に畳んで、ぎゅっと握った。その拳を額に当てて俯く。
「巽先輩……」
込み上げる涙は、下唇を噛んだだけでは止まらなかった。
「僕はまた……間違えてしまったみたいだよ」
つづく