ミルクにスミレ
誰かを好きになって、その人と一緒にいられることは楽しいことばかりだと思っていた。実際、ついこの間まで楽しいだけで、苦しいことなんて少しも無かった。
自分の中に「藍良をどうにかしてしまいたい」という感情があるのを自覚してから、それを抑制する事に思考の一部を常に奪われている。だから。
「えっと、そこの公式はね……」
こちらを見つめてくる藍良の視線やペンを持っている手、髪を耳にかける仕草が気になってしまい、教科書をめくるも目的のページがなかなか見つからない。
「あ、あった。この公式を使うんだよ」
「ありがとォ、やってみるね」
藍良は一彩が開いた教科書を受け取る。その際、お互いの手が触れそうになって一彩はひやりとした。先日のライブの後ホテルで一晩一緒に過ごして以来、一彩は藍良に触れないよう気を付けていた。自分の中に蟠る藍良に対する甘ったるい欲望は、何をきっかけに爆発するか分からない。手を繋いだり抱きしめたりは一彩にとっては日常だったので一切藍良に触れられないのは酷だったが、それが無くなっても周りの人間や藍良にとっては常識の範囲らしく、不審がられることは無かった。
一所懸命に数学の問題を解き始める藍良。その真剣な横顔を見て、己の頭が雑念まみれなのを悔いる。藍良が勉強にやる気を出していて、素直に「教えて」と頼んでくれたのに。今、図書室の角の席で二人でいるこの状況と、藍良自身のことが気になってしまい、自分の勉強に集中できない。
「ねェ、ヒロくん」
つん、と藍良の指先が一彩の肩を突いた。心を無にして自分の英語の宿題に向かっていた一彩は、驚いて肩を大げさに跳ねさせてしまった。それに呼応して、藍良もびくっと手を引っ込めた。
「あ、ごめん。びっくりさせちゃった?」
「う、ううん大丈夫だよ。ごめんね、考え込んでて」
藍良は一彩が勉強に集中していたと思ってくれたようだが、実際は違う。藍良から気を逸らそうとしていたところを引き戻されて焦っているのだ。
「どうしたの?」
「あの、練習問題ができたからマル付けして欲しいのォ」
藍良が、ノートのページいっぱいに計算問題を解いたのを見せてきた。答え合わせと解説を一彩に任せたいらしい。甘えてくれるのは嬉しいので、一彩はそれを受け取った。
「分かったよ。任せてね」
一彩は頭を切り換えるように自分の教科書とノートをどけて、藍良の数学のノートと解説用の小冊子とを並べ直す。赤ペンを構えて、藍良の解答を見た。同じ数字を書いているのに、かわいらしい文字だなと思う。教えた甲斐があって、基本はしっかり身についているようだった。けれどたまに小さなミスをしているので、細かいところは赤ペンで直していく。マルが付いたり、付かなかったりするのを見て藍良の表情がちょっとずつ変わるのがかわいい。バツを付けてがっかりする顔は見たくないので、間違っていたとしてもバツは付けなかった。丁寧に計算し直した式を隣に書き足す。最後の問題の横に「よくできました!」という文字と花マルを描いて藍良にノートを返した。
「全問正解してないのに?」
「これは、勉強を頑張っていて偉いねって意味の花マルだよ」
「あ、ありがとォ……」
藍良が照れたように赤くなって、ノートで顔の下半分を隠す。その仕草がかわいくてしばらく見とれていたら、鼓動が速くなってきた。
「ね、ねェ、今日はやる気があるからもう少し付き合ってもらっていい?」
「もちろん! 最近すごく頑張っているね」
「うん……。しばらくライブ無いし時間あるから、今のうちにと思って」
藍良が、一彩に正しい答えと途中の式を書いてもらったページを目の前に広げる。黒のペンで書いた丸い数字と、赤ペンで書いた輪郭の細い文字と花マルを見て、藍良がもう一度ペンを構えた。そして、すごく言いづらそうに、恥ずかしそうに呟いた。
「悔しいけど、ヒロくん教えるの上手いし。……助かってる、すごく」
少し、顔が赤くなっている。藍良が一彩に対して素直に感謝の言葉を口にするのは珍しい。表情や仕草で伝わってくること以上のことは、普段はない。
「あ、ありがとうねェ」
だから、藍良が顔を上げて一彩の目を見て礼を言ったのに驚いて、一彩は自分の全身が一瞬でかっと熱くなるのを感じた。ガタンッと音を立てて思わず立ち上がる。
「いつも藍良はいろいろなことを教えてくれるから、僕にも藍良に教えてあげられることがあるのは嬉しいよ」
「え? うん……」
何でわざわざ立ち上がったのだと言いたげに、藍良が不思議そうに首を傾げる。今の一彩にはその仕草すら直視できなくて、荷物をすべて机に置いたまま椅子を机の下にしまう。
「ちょっと外走ってくるから、今やった問題のなかで間違えていたところをもう一度やりながら待っていて」
「う、うん……行ってらっしゃい……?」
頭の中にぐるぐると蟠ったものを払拭するため、一彩は校庭まで飛び出し、校舎の周りを全力で一周してから藍良の元へ戻った。
◇◇◇
藍良のそばに居たいのに、藍良の表情をずっと見ていたいのに、そうしているとドキドキして平常心ではいられない。ALKALOIDという同じユニットに所属していて、同じ学校に通っている。せっかく一緒にいられるチャンスが沢山あるのに、一緒にいるとまずい。そんな相反する状況になってしまって、一彩はますます悩んだ。
藍良に触れたいのに、傷つけたくない。けれど、一度触れてしまえば傷つけない自信がない。なんだか、器によくないものが溜まっていくような妙な感覚があった。
一彩は学校とレッスンの後、星奏館の自室のベッドで文字通り大の字になっていた。今は部屋には同室の者は誰も居ない。一彩にとっても普段はトレーニングをしているか勉強をしている時間なのだけれど、どれにも身が入らずに部屋に戻ってきてしまっていた。このままではいけないと思いつつも、この状況を一人だけで打破する根拠を一彩は持ち合わせていない。
すぅと細く深く息を吸い込み、全身の空気を入れ替える。一彩は手元にあるスマホで、兄の燐音に電話をかけた。コール音を聴きながら仕事中だったかと思い直したが、一彩が電話を切る前に兄が出てくれた。
『どーしたー? 弟くん』
電話の向こうが騒がしい。外にいるようだ。やはり仕事中だっただろうか。
「兄さん。……その、聞いて欲しい話があるんだけど」
『あーん? 珍しく歯切れ悪ィな』
「そうかな……そうなのかも」
普段のやりとりはメッセージアプリでも問題ない。それに、一彩と燐音は兄弟だがユニットも所属事務所も違う。急を要するような連絡以外で、電話をする理由が実は無いのだ。
一彩が黙ってしまったので少々の間静かになる。電話の向こうから、兄の溜め息が聞こえてきた。
『元気ねーのな。……よし分かった。お兄ちゃん今仕事終わったから大急ぎで帰ってやる。三十分後くらいに部屋に来い』
そう言って、兄は電話を切った。一彩はベッドの上に腕を降ろしてスマホを落とす。いま兄の部屋に行っても兄は居ない。それが分かった一彩は、大人しく兄の帰りを待つことにした。
そして、ぼーっと天井を見上げる時間が過ぎる。何も考えずに時間だけが過ぎていくのも、頭がスッキリしてたまにはいいかもしれない。
三十分後、と兄は言っていたが、電話のあと十五分経ったころにはもう「来ていいぞ」と連絡をくれた。一彩はうとうとと降り掛けていた眠気を振り払うようにベッドから勢いよく飛び起き、兄の部屋へと向かう。
兄の部屋も一彩の部屋と同様に静かだった。同室の二人は、仕事中なのか居ないようだ。一彩は三人の共用のソファを勧められて、端に行儀良く座る。
兄の鞄が、仕事の荷物を整頓しないまま床に放置してあった。帰宅して着替えて、すぐに呼んでくれたのだろう。忙しいのに急に時間を作って貰ったことを、今更ながら申し訳なく思う。
「ほれ、アイス」
「ありがとう……」
一彩は燐音が冷凍庫から出したチョコレートのアイスを受け取り、早速食べる事にする。燐音はソファから一番近いベッドに座ってバニラアイスを食べ始めた。
「お前と二人で話すのは久しぶりだなァ、一彩」
「う、ウム……」
「で、話って何だ? お兄ちゃんに話してみな」
一彩はスプーンで一口食べたチョコレートアイスが、舌の上で甘く溶けるのを飲み込んでから、言葉を選ぶ。
「その……」
兄に相談しようと思ったのは自分なのに。心の準備をする時間は充分にあったのに、いざ口にしようとすると緊張する。一彩は顔がぼっと熱くなるのを感じながら、一口分欠けたアイスのカップを見つめた。
「す、好きな人が……いるんだけど」
「……お、おう」
予想外の相談だったのか、燐音がバニラアイスを落としそうになっていた。燐音が大きめの一口を掬って口に含み、それを飲み込むまでの間、沈黙。
「……」
「マジで言ってんの?」
「ま、マジだよ」
「ハァー、まぁ、いつかそういう時が来るだろうとは思ってたけどよ」
そう言って、兄がまたアイスを食べる。話をしているときに兄が食べ物を口に入れた場合は、一彩の方が話を続けなければならない。子どもの頃から、何となくそんなルールがあった。兄はいつも無言で言葉の続きを促してくる。
「その人のそばに居るとね、平静心が保てなくなるんだ。落ち着かない。……でも一緒に居たいし、ずっと見ていたいんだ……」
「……ほう」
兄は相槌を打ってくれているが、特になにかを言う様子はない。一彩が言いたいことを、聞きたいことを言い切るまで待ってくれているのだ。言葉にするのが少し恥ずかしい一彩は、兄の質問に答えることで言葉を引き出したかったのだが。どうやら兄はそういう助け船は出してくれないらしい。
「少し前までは、見ているだけで良かったのに。最近、その……変なんだ。その人のことを、欲しいって……僕のものにしたいって、思ってしまうんだよ」
一彩は、膝の上でスプーンを持った手をぎゅっと握った。
「ど、どうしたら邪念を、雑念を振り払えるかな。故郷の皆は、僕にそういう教えはくれなかったから……。教えて欲しいよ、兄さん」
一彩がやっと質問を口にした。燐音が声にならない呼吸をしたのが聞こえた。顔を上げていない一彩にも、兄が何か考えてくれていることは分かる。
「藍ちゃんへの気持ちを邪念とか雑念とか言ってやるなよ」
「だ、だって兄さん……こんなの正しくないよ。大事なのに、このままじゃいつか藍良に乱暴なことをしてしまいそうで」
兄の言葉に慌てて弁明を始めた一彩は、兄が今何を言ったのか、自分が何を言っているのかを理解するのが遅れた。そしてさらに遅れて体温と心拍数が上がっていく。
「あ、あれ、僕……好きな人が藍良だって言ったっけ」
「言ってねーよ。でも当たっててもビビんねーよ。お前分かりやすすぎ」
燐音がベッドから立ち上がって、一彩の隣に座ってくれた。溶けるぞ、とアイスを指さす。
「お兄ちゃんナメんなよ」
兄に促されて、溶けかけたアイスを口に含む。ふてくされたような一彩の表情を見て、燐音が笑った。弟のくせ毛を、兄の手が撫でる。
「俺っちの弟にこんな顔させるなんて、藍ちゃんも罪だねえ」
一彩がアイスを食べ終わるのを待ってから、相談の続きが始まる。
「何で風早クンとかマヨちゃんに相談しねーの?」
「こ、これはその……僕の問題だから。巽先輩とマヨイ先輩にまで相談してしまったら、ALKALOIDの皆に迷惑をかけてしまうから……」
一彩も、一彩が想いを寄せている相手もALKALOIDの一員。それこそ相談相手には同じユニットメンバーの巽やマヨイが適任だ。誰もがそう考えるだろうし、一彩も最初は二人に相談すべきと考えた。しかし、同じ仕事をする仲間に気を遣わせてしまうのではないかとも思った。巽とマヨイに相談するときは、いよいよこの問題にきちんと向き合う覚悟ができていないといけない。中途半端に想いを吐露するだけなら、気を遣わせるだけで進展しない。
「それに、兄さんにはちゃんと言っておかなきゃと思ったんだ。だって、僕の兄さんだから……」
故郷の狭い共同体を抜けだし、今はそれぞれ別のユニットで活動しているが、やはり兄と弟だ。何かあった時に一彩がすぐに報告するのも、頼るのも兄なのだ。
燐音は、うーんと唸って考える。兄として、弟に相談事を持ちかけられるのはやぶさかではないのだが、簡単に答えられるものでもない。
「藍ちゃんなら、お前の言うことは受け入れてくれるんじゃねーの」
「僕も、そう思う……けど」
脳裏に藍良の顔が浮かぶ。文句をいいながらも、なんだかんだ一彩に優しくしてくれて、一彩の言うことを叶えてくれる藍良。そんな藍良だから、一彩の想いを伝えたとしても絶対に酷い結果にはならない。藍良がきっとそうさせない。でも、それではダメだ。
「……それは、藍良の優しいところを利用するみたいで、嫌なんだ」
「こじらせてるなァ……。まぁ、分かるけどよ」
燐音は、今度は冷蔵庫から缶ジュースを取り出す。「パチの景品」と言って手渡してくれた。手に持つとひやりとして、体温が上がっているのを自覚させられた。
「でも、お前が今すぐ何とかする気が無いってんなら、俺っちは話を聞いてやることくらいしかできねーなァ」
「そ、そうだよね……」
「お兄ちゃんが藍ちゃんに言ってやろうか?」
「それはダメだよ!」
「だろ? だから、お前自身がなんとかしねーとこのまんまだな」
く、と一彩が唇を結ぶ。缶を持つ手に力が入って、潰してしまいそうだ。燐音の手が、また一彩の頭を撫でた。からかう時の乱暴な撫で方じゃなくて、優しい手つきなのがくすぐったかった。
「話はいつでも聞いてやる。溜め込みすぎて取り返しのつかないことして嫌われるなよ」
「うん……ありがとう」
兄の言葉で、一彩は藍良への想いを募らせることは、何か悪いものを器に溜め込んでいるような状態なんだと理解した。理解しようとした。
兄にもらったジュースを持って、自分の部屋に戻ろうとしたときだった。
「あれェ、ヒロくんじゃん」
自室前の廊下で、藍良に鉢合わせてしまった。いつもなら大好きな藍良に会えた嬉しさで飛びつくところなのだが、今日の一彩は躊躇した。ああまた、ぽたり、ぽたりと何かが溜まる。
「藍良、どうしたの?」
なんとか普通を装って応えると、部屋着姿の藍良が軽い足取りでぴょんぴょんと距離を詰めてきた。うっかり触れてしまわないよう、一彩は立ち止まる。
「どうしたはこっちの台詞! ヒロくん、メッセージ送っても既読にならないし電話も出ないから、直接お部屋に行った方が早いと思ってェ」
藍良の手にはスマホが握られていた。一彩ははっとしてズボンのポケットを叩く。が、そこには部屋着の薄手の生地があるだけでスマホは入っていなかった。
「ごめん、今まで兄さんの部屋に居たんだよ。自分のスマホを部屋に忘れていたみたいだ……」
「ふゥん、ならいいけどォ」
藍良が両手で握っていたスマホをポケットにしまった。もともとスマホに依存していないタイプなので少々連絡が遅れてもそういう奴だと思ってもらえるのだが、今回は少し心配させてしまったようだ。レッスンの後は予定がないことはお互いに知っていたから、連絡がつかないのを不審に思ったのだろう。
「僕に何か用だった?」
「そうそう! ヒロくん今度の土曜日は暇?」
藍良は、廊下の掲示板に貼られている今月のカレンダーを指差す。ESと星奏館についての業務連絡用のカレンダーだ。そこに一彩と藍良の予定が書いてあるわけではないが、一彩は今週末を見る。
「う、うん。土曜日ならオフだよ」
「だよねェ! 久しぶりのオフだし、買い物付き合ってくれない?」
「ぼ、僕でよければ」
テンションの高い藍良がずいずいと目の前に身体を乗り出してくる。藍良はこんなに自分に対して距離が近かっただろうかと困惑する。いつもは一彩からスキンシップをとろうとするから気づかなかった。藍良の警戒心の無さに、何故か責任を感じてしまった。
「何言ってんの。同じユニット同士なんだからスケジュール合わせやすいでしょォ? レッスン無いのも知ってるし。だから誘ったの」
とはいえ、藍良に買い物に誘われて断る理由なんて無い。同じユニットで活動しているから、レッスンや仕事のスケジュールは当然ほぼ同じ。だから誘い易かったというのもあるだろうが、他の誰でもない藍良に誘われたことが、一彩には嬉しかった。
「喜んで付き合うよ」
「やったァ! たくさん買い物したいから、荷物運ぶのも手伝ってェ」
「それが目的?」
「ダメ?」
甘えた声で首を傾げる藍良。ああ、その顔に自分が弱いのを知っていて。
「もちろんいいよ」
「ふふゥ、ヒロくんの服も一緒に選んであげるね」
そう言って、藍良はもう一度ポケットからスマホを取り出して何かを打ち込んでいた。週末のスケジュールを書き込んだか、バスの時間でも調べているのだろうか。
「じゃあお昼前に出発ね。ランチも外で食べちゃお」
「分かった。楽しみにしているね」
藍良がひらひらと手を振って自分の部屋の方へ帰っていくのを見送り、一彩は目の前の部屋に帰った。
週末は藍良と出かける。さっきまで兄と深刻な雰囲気で相談をしていたのが嘘のように、一彩の心がいくらか軽くなる。
「おかえり一彩くん。スマホ鳴ってたぞ〜?」
いつの間に帰寮していたのか、角のベッドでごろごろしていたひなたが、足をぱたぱたさせながら一彩のベッドのほうを指差した。
「ああうん、ありがとう」
やはり部屋にスマホを忘れていたようだ。画面を点けると藍良からの『ヒロくん今度の土曜日買い物付き合って』というメッセージを一件と、藍良からの着信を知らせる通知が二件入っていた。そのほかはホールハンズの定期的な通知やニュースサイトの通知。それらをざっと確認して、一彩は藍良のメッセージに既読をつける。
「どったの? なんか嬉しそうだね」
ひなたが聞く。
「そ、そう?」
「うん。なんかニヤニヤしてる」
「ニヤニヤなんてしていないよ!」
図星を突かれて一彩の声が上ずる。ひなたがハイハイと子どもの言い訳をあしらうように笑う。
「何かいいことあった?」
ひなたは読んでいた雑誌を枕元に置いて、ベッドの上でストレッチを始めた。相変わらず、どこの筋肉に効いているのか分からない難解なポーズをする。
「藍良に、お出かけに誘われたんだ」
「よかったじゃん。それってデート?」
「デート、というのかな……これは」
メッセージ欄に、『楽しみにしているよ』と打ち込んだものにはすぐに既読がついた。
「好きな人と一緒にお出かけするのは、デートだよ」
「それなら、デートなのかもしれないよ」
かわいらしいネコのスタンプが返って来たので、一彩も同じスタンプを返した。
こういう何気ないやりとりが、幸せだ。
◇◇◇
藍良と約束した次の土曜日。一彩と藍良は、星奏館の共有の談話室で待ち合わせをした。時間は午前もそろそろ終わるかというころ。一緒に昼食を食べる約束だったので、一彩は午前は間食をせずに腹を空かせておいた。同室の椎名ニキが美味しいものを常備してくれているから、うっかりすると食べてしまうのだ。
「おはよう藍良」
「おはよ。……ヒロくんその格好で行くつもり?」
共用のソファに沈んでいた藍良は、白いシャツをジーンズにインして、ブラウンのバケットハットを被っていた。振り返って一彩の姿を見るや否や、藍良が早速ダメ出しをする。一彩はいつものシャツ姿で、頭や顔を隠すようなものは身に着けていなかった。
「だ、ダメだったかな」
「一応おれ達アイドルだよ? 帽子くらい被ってきて」
「ごめん。取ってくるね」
出だしから間違えてしまって、一彩は慌てて部屋に戻り、黒いキャップを掴んできた。
今日は一日、藍良と出かける。彼の買い物に付き合ったり、荷物を一緒に持ってあげたりするといういつもと同じ内容だが、それでも嬉しい。
藍良とESの外に出て、セゾンアベニューのあたりへ向かう途中、一彩は気づいたことがあった。
それは、自分の中にぽたぽたと何かが溜まる感覚は、藍良のそばにいると強く感じるということ。藍良のことを考える時間にも溜まることはあるけれど、一緒にいるとぽたぽたと滴っていたものが一筋の水の集まりになって注がれるような感覚になった。器に溜まるそれはぐるぐると渦巻いて、一彩の意識を支配する。それはまるでミルクのように純粋で甘ったるく、そしてしつこい。
一彩と藍良はバスを降りると、まずは軽食もとれる喫茶店に入った。通りからは植え込みに隠れ、店内の人からはソファの背もたれに隠れることのできる、角の席に案内してもらう。
一彩はいつも通りオムライスを、藍良はそれに苦笑しながらカルボナーラを注文した。二人分のサラダとドリンク、しばらくして料理が届き、いただきますと声をそろえる。
久しぶりにプライべートでランチをすると、藍良が喜んでいた。その相手に選ばれたことが嬉しい。二人ともまずは食事をするのに夢中で、会話がなく食器の音だけがする時間も心地よい。
「ね、ねぇ藍良」
「んー?」
くるくるとフォークでパスタを巻いている藍良が、皿から目を離さずに返事をする。ポロリと落ちたベーコンを、パスタを巻いたフォークで突き刺して口に運ぶ藍良に、一彩は続けた。
「こういうのを、デートと言うんだろうか」
ひなたが言っていたことを確かめたくて、そう聞いてみた。好きな人と出かけることがデートなら、藍良もそう思ってくれていたらと思った。
「何言ってんの、違うよォ」
けれど、藍良から返って来た答えは期待していたのとは違った。藍良は驚きも呆れもせず、普段一彩の間違いを指摘するときと同じ口調と仕草で否定した。
「……そうか」
「お友達同士で出かけるのはデートって言いませーん」
友達同士ならデートとは言わない。一彩の脳のライブラリにまたひとつ、そんな知識が増えた。少し視線が落ちたのを誤魔化せなかったようで、藍良が慌てた。
「ちょ、ちょっとそんな顔しないでよォ。……うーん、二人でお出かけするって意味ではデートかも?」
藍良が気を遣って訂正してくれたのを、少々申し訳なく思いながらも喜んでしまう。一彩は気を取り直して、オムライスのたまごを破って中のチキンライスを食べた。
「そうなの? 定義が難しいね」
「ヒロくん、デートがしたかったのォ?」
「藍良とお出かけできるのがすごく嬉しくて、浮かれてしまっているのかも」
正直に伝えると、藍良が少し照れくさそうに頬を染める。ああ、かわいいなと思った。
「しょーがないなァ、じゃあ藍良くんがヒロくんの初めてのデートの相手になってあげるゥ」
「本当? 嬉しいよ藍良!」
我ながらゲンキンだなと思ったが、嬉しいことは素直に伝えるに限る。一彩がそうであるように、藍良も素直に伝えられた気持ちに弱いのを知っていた。
「言っとくけど、おれだってデートなんてしたことないからねェ? それに、もともとの予定となんも変わらないから。今日はヒロくんがおれの買い物に付き合う。おっけー?」
「ウム、おっけーだよ!」
焦らなくていい。今日一日、藍良を独り占めできるのだから。最初から欲張らなくたっていいだろう。
食事の代金は当たり前のように割り勘。まずは藍良は服を買うと言った。セゾンアベニューにある商業ビルが目当てのようで、藍良はほかの建物にはよそ見せず、まっすぐそのビルへと向かった。
「ここで服を買いまァす。というか、今日は服を買うのがメインだから」
「分かったよ。どんな服が欲しいの?」
「夏服のセール品と、秋用に新作を見たいかなァ。とにかく色々まとめ買いするの」
エレベーターを待ちながら、藍良がそんなことを言った。隣に立っていると、帽子のつばが邪魔で藍良の顔が見えないのが残念だな、と思う。
藍良は仕事に行く時や、私服での撮影がある時用にたくさん服を持っていたいらしい。この間のライブツアーの報酬が入ったので奮発したいのだろう。
「どんなのを買うかは見て決める! 一緒に選んでよねェ」
藍良がこちらを向いて笑った。帽子のつばの奥で瞳がきらきらしていて、一彩もつられて笑った。
ビル内に入っているショップを片っ端から見て周るのに、一彩は後ろから付いていく。気に入った店では、一彩ひとりだけを観客にしたファッションショーが行われた。
Tシャツ、ワイシャツ、柄のパンツにジーンズなど、シンプルなものから派手なものまでバリエーション豊かに選んでいく。その一つ一つを試着して、一彩に見せてくれた。
試着室の前のベンチで待っている時間のほうが長かったけれど、全然苦にはならない。藍良は自分に似合う服を選ぶのが上手で、何を着てもかわいらしいし、カッコよかった。
特に一彩が似合うなと思ったのは、ロングTシャツにレギンスを合わせた組み合わせだった。藍良の中性的な顔立ちにもよく合っているし、今日の帽子にもピッタリだった。
「じゃーん!」
何着目かの試着で要領を覚えた一彩は、まだ時間がかかるだろうと思って試着室の近くに陳列してあるシャツを見ていた。しかし予想が外れて早めに着替え終わった藍良が勢いよくカーテンを開けた。目の前に一彩がいないのに気づいて恥ずかしそうにこちらを呼ぶ。
「ちょっとォ、離れるなら離れるって言ってよォ!」
「ごめんごめん。それも似合うね」
試着室の目の前まで戻ると、藍良が真っ赤になって俯く。誰も居ない空間に「じゃーん」と飛び出たのが恥ずかしかったのだろう。藍良が身に着けていたのは、裾に向かって広がるデザインのガウチョパンツ。くすんだ緑青色のそれに、ベージュのシャツ。これもまた、藍良によく似合っていた。
「本当? ちょっとかわいすぎない?」
恥ずかしさもあってか少し不安そうな藍良に、思いつきで自分が被っていた黒のキャップを被せてみた。
「似合うよ。こういう帽子にも合うんじゃない?」
「本当だァ! ヒロくんもやるじゃん」
淡い色合いの上下に、色素の薄い藍良の髪と肌は溶け込んでしまいそうだったが、黒のキャップを被せると程よく締まった。
二人のやりとりが聞こえたのか、店員さんのうちの一人が様子を見に来て、藍良のコーディネートを絶賛していた。
藍良は藍良が選んだものなら何でも似合うし、一彩はファッションに関する審美眼にあまり自信はない。しかし、藍良が一彩に求めているのは批評や意見ではなく、肯定なのは分かっていた。藍良は高い買い物をする際は最後の最後で決めかねることが多く、一彩に「似合うよ」と言わせて最後の一押しをしてもらっているのだ。その役目なら喜んで引き受ける。
「藍良は何を着てもかわいいよ」
その言葉を遠慮なく伝えられるのが、一彩はただただ嬉しかった。
それからはなんとなく、一彩と藍良はお互いがもともと被っていた帽子を交換して歩いた。藍良が思い切り買い物をしたので、二人あわせて四本腕があってもいっぱいの荷物になった。見かねた店員が声をかけてくれて、荷物預かり所を案内してくれた。
再び身軽になった藍良は、エレベーターが目的の階に着くや否や、一彩の手を引いてその箱から降りた。藍良の手のひらの柔らかな感触が少しだけ懐かしかった。けれど、うまく握り返せなかった。
「ねェ、今度はヒロくんの服選ぼう?」
「うん。持ち帰れるだけにしようね?」
これ以上買い物をすると荷物が嵩張るのは確かだが、一彩は運べるので問題はない。しかし、荷物が多くなったから早めに帰宅しようという展開にならないかが心配だった。今日は、藍良となるべく長く一緒に居たいと思ったからだ。
二人は今度は一彩の服を目的に店を回った。一彩が藍良の買い物を待つ間気になるものがあったからと同じ店を訪れたりもした。その度に藍良に「その時に言え」と怒られたが、藍良の服を選ぶだけでも一彩の目的は問題なく果たされていたからいいのだ。
「ヒロくんはこういうの似合うと思うよォ」
藍良が選んでくれる服はどれもセンスが良かった。試着室で着替えてみるとどれもしっくり来る。
「着れたァ?」
「う、ウム」
一彩が試着室のカーテンを開けると、スマホをいじっていた藍良がぱぁっと笑顔を咲かせながら立ち上がった。
「思った通り! 似合うよォ」
今試着したのは黒い襟付きのシャツ。学校の制服のボタンを上まで留めていると藍良にいつも指摘されるので、一番上のボタンを外してみたのだが正解だったようだ。
「ヒロくん肌白いから黒が似合うねェ」
「藍良が選んでくれたからだよ」
「はいはい。こういう時は、自分の意見も大事だからねェ」
そう言って、藍良が試着室前のベンチの横に置いていた籠から、グレーのジャケットを取り出す。待っている間に選んでくれていたようだ。
「そのシャツだけだともうすぐ寒くなっちゃうけど、ジャケットがあれば秋まで着れるから」
そう言って、藍良は一彩に向かってそのジャケットの内側を広げて見せた。一彩が首を傾げていると、
「ほら、袖通して」
と言ってそのジャケットを振った。ようやく藍良の行動の意味が分かった一彩は、藍良が広げているそれに背中を向けて袖を通した。
「うん、似合う似合う~!」
黒いシャツにグレーのジャケットという組み合わせが気に入った藍良は、その姿を試着室内の鏡に映して、その後ろでウンウンと頷いていた。
「フォーマルっぽいシルエットだから真面目なお仕事にも着て行けるよォ」
そう言って、今度は似た色のニットカーディガンを出してきた。こっちも着てみてと言うので、黒いシャツの上から着てみる。こちらはジャケットとは正反対に曲線を描いていて、長めの袖の先にはたっぷりと布が余るようにデザインされていた。
「ほらァ、こっちはかわいいよォ」
藍良が肩や袖を整えてくれる。中に着ているのは同じ黒いシャツなのにずいぶんと印象が変わった。
先ほどから、藍良が触れるたびにむずむずと落ち着かない。
「ヒロくんはどっちが好き?」
藍良が聞いているのは、先ほどのジャケットかこちらのカーディガンかという事だろう。最近服を買っていないので両方買ってもいいのだが。一彩は今着ているカーディガンの袖を、もう片方の手で撫でた。
「……僕はこっちが好きだな」
「そーお?」
「うん。藍良がかわいいと言ってくれたからね」
「もォ、調子いいこと言って」
かわいい藍良にかわいいと言われる以上に信頼のできる評価など無い。一彩は藍良が選んでくれた黒いシャツと、グレーのカーディガンの購入を決めた。
服選びの次は、藍良が一彩のアクセサリー選びに付き合ってくれた。アクセサリーについては一彩にも自分のこだわりがあるので店を自分で選んだ。藍良は退屈かもしれないと思ったが、一彩の選ぶ内容に興味津々だったり、自分の好みのアクセサリーを選んだりと楽しそうだった。
「お待たせ藍良」
じっくりアクセサリーを選んでいたら、後半は藍良を退屈させてしまったので店の外で待たせていた。藍良は隣の帽子屋を見ており、黒いキャスケット帽を選んでいた。今被っている黒のキャップが気に入ったのだろうか。
「あ、ヒロくんお帰りィ。いいのあった?」
「うん」
一彩は応えながら通路に設置されている自動販売機の横にあるベンチに座るよう、藍良を促した。並んで座って、たった今買い物をしたアクセサリーショップの小さな紙袋ふたつのうち、ひとつを藍良に手渡した。
「これを藍良に」
「え、何?」
まさかプレゼントをもらえるとは予想していなかったようで、藍良は心底驚いたように声を上げた。少し照れているのか、頬を染めてそれを受け取る。透明なラッピングを施されたそれは、リボンを解かなくても中身を確認できる。
中には、雫の形をしたシルバーピアスが入っていた。小さな紫色のストーンがはめ込まれており、二つ並べるとハートの形になるようデザインされている。
「えェ~! かわいい! ヒロくんありがとォ!」
「どういたしまして。今日のお礼だよ」
「お礼って、おれがほとんど付き合ってもらったのに」
「いいんだ。僕が楽しかったし、それは藍良に絶対似合うと思ったから」
「いいの? ありがとォ! 大切にするねェ」
藍良は頬を染めて、今日一番の笑顔を見せてくれた。
一彩は喜ぶ藍良に気づかれないようこっそりと、下唇を軽く噛んだ。
アクセサリーをプレゼントする行為に他意など無い。無いはずなのに、それが利己的な感情からそうしたように思えてしまって、少し気まずくなってしまった。
◇◇◇
買い物を終えてESに戻って来たころには夕方になっていた。
「今日は楽しかったァ! またお買い物しようねェ」
アクセサリーを選んだあと、一彩は藍良が最初に選んでくれたグレーのジャケットが惜しくなってそちらも買った。
両手いっぱいに荷物を持って、藍良が星奏館までの道をくるくると踊りながら歩く。
「前を見ないと危ないよ」
「えへへェ」
重たい荷物を率先して引き受けたから、藍良が転びそうになった時に咄嗟に対応できないかもしれない。そう思ったら少しはらはらしたが、舗装された広い道が終わると、横に並んでまっすぐ歩いてくれたのでほっとした。
「ただ今帰りましたァ!」
ご機嫌な藍良が自室の扉を開けて、室内に向かって挨拶をする。部屋の灯りは点いているので、誰かいるようだ。一彩は荷物を運び入れるため、そして藍良の同室の先輩に挨拶をするために部屋へと上がる。
「お邪魔します。藍良、荷物置いちゃうよ」
「はァい」
藍良が自分のベッドの横に紙袋をいくつか降ろし、一彩がプレゼントしたピアスが入っている小さな紙袋だけをベッドの上に置く。
ソファに座り、ひざの上でノートパソコンを操作していた天祥院英智が、二人がかりで運び込まれた荷物を見て感心する。
「すごい量のお買い物だね」
「はい。久しぶりのオフなので張り切っちゃいましたァ」
お茶を淹れようね、と言って英智がキッチンに立つ。一彩は慌てて、それを手伝うために先輩の後を追った。英智はありがとう、と呟いて食器棚にあるカップを指差す。一彩はそれを三客用意した。
「天城くんも居るなら丁度いい。白鳥くんにお仕事の話が来ているんだ」
買ってきた服を早速広げている藍良が「ほぇ?」と振り返る。そこでやっと二人がお茶の用意をしていることに気づいて、藍良も慌てて準備に参戦した。
「仕事ってどんな仕事ですか?」
藍良がお菓子用にお皿を用意しながら聞く。英智は、上品に茶を注いでから、答えた。
「まだ仮題だけどね、『白鳥藍良のフォトアルバム』という企画名であがってきてる」
「フォトアルバム……?」
そのままだと名前が安直すぎるが、どんな仕事なのかを想像しやすくて助かった。詳しく話を聞くと、藍良のSNSアカウントの投稿に興味をもった出版社が、藍良個人の特集を組んだムック本を企画しているらしい。
「ALKALOIDはしばらく、大きいライブの予定は無いよね」
優しいが圧のある、有無を言わさぬ英智の笑顔。
先輩というより上司のそれである物腰だが、藍良は自身に舞い込んだ仕事に目を輝かせていた。
「一週間ほどのロケを組むから、そのつもりでいてね」
一彩は、揺さぶられて水面が波打つような不安に襲われた。喜ぶ藍良は何て言っているのか分からなかったし、その時もらった紅茶の味は分からなかった。
喜んでこちらを振り返る藍良に、自分がどんな表情で、どんな言葉を返したのかも、覚えていない。
つづく
自分の中に「藍良をどうにかしてしまいたい」という感情があるのを自覚してから、それを抑制する事に思考の一部を常に奪われている。だから。
「えっと、そこの公式はね……」
こちらを見つめてくる藍良の視線やペンを持っている手、髪を耳にかける仕草が気になってしまい、教科書をめくるも目的のページがなかなか見つからない。
「あ、あった。この公式を使うんだよ」
「ありがとォ、やってみるね」
藍良は一彩が開いた教科書を受け取る。その際、お互いの手が触れそうになって一彩はひやりとした。先日のライブの後ホテルで一晩一緒に過ごして以来、一彩は藍良に触れないよう気を付けていた。自分の中に蟠る藍良に対する甘ったるい欲望は、何をきっかけに爆発するか分からない。手を繋いだり抱きしめたりは一彩にとっては日常だったので一切藍良に触れられないのは酷だったが、それが無くなっても周りの人間や藍良にとっては常識の範囲らしく、不審がられることは無かった。
一所懸命に数学の問題を解き始める藍良。その真剣な横顔を見て、己の頭が雑念まみれなのを悔いる。藍良が勉強にやる気を出していて、素直に「教えて」と頼んでくれたのに。今、図書室の角の席で二人でいるこの状況と、藍良自身のことが気になってしまい、自分の勉強に集中できない。
「ねェ、ヒロくん」
つん、と藍良の指先が一彩の肩を突いた。心を無にして自分の英語の宿題に向かっていた一彩は、驚いて肩を大げさに跳ねさせてしまった。それに呼応して、藍良もびくっと手を引っ込めた。
「あ、ごめん。びっくりさせちゃった?」
「う、ううん大丈夫だよ。ごめんね、考え込んでて」
藍良は一彩が勉強に集中していたと思ってくれたようだが、実際は違う。藍良から気を逸らそうとしていたところを引き戻されて焦っているのだ。
「どうしたの?」
「あの、練習問題ができたからマル付けして欲しいのォ」
藍良が、ノートのページいっぱいに計算問題を解いたのを見せてきた。答え合わせと解説を一彩に任せたいらしい。甘えてくれるのは嬉しいので、一彩はそれを受け取った。
「分かったよ。任せてね」
一彩は頭を切り換えるように自分の教科書とノートをどけて、藍良の数学のノートと解説用の小冊子とを並べ直す。赤ペンを構えて、藍良の解答を見た。同じ数字を書いているのに、かわいらしい文字だなと思う。教えた甲斐があって、基本はしっかり身についているようだった。けれどたまに小さなミスをしているので、細かいところは赤ペンで直していく。マルが付いたり、付かなかったりするのを見て藍良の表情がちょっとずつ変わるのがかわいい。バツを付けてがっかりする顔は見たくないので、間違っていたとしてもバツは付けなかった。丁寧に計算し直した式を隣に書き足す。最後の問題の横に「よくできました!」という文字と花マルを描いて藍良にノートを返した。
「全問正解してないのに?」
「これは、勉強を頑張っていて偉いねって意味の花マルだよ」
「あ、ありがとォ……」
藍良が照れたように赤くなって、ノートで顔の下半分を隠す。その仕草がかわいくてしばらく見とれていたら、鼓動が速くなってきた。
「ね、ねェ、今日はやる気があるからもう少し付き合ってもらっていい?」
「もちろん! 最近すごく頑張っているね」
「うん……。しばらくライブ無いし時間あるから、今のうちにと思って」
藍良が、一彩に正しい答えと途中の式を書いてもらったページを目の前に広げる。黒のペンで書いた丸い数字と、赤ペンで書いた輪郭の細い文字と花マルを見て、藍良がもう一度ペンを構えた。そして、すごく言いづらそうに、恥ずかしそうに呟いた。
「悔しいけど、ヒロくん教えるの上手いし。……助かってる、すごく」
少し、顔が赤くなっている。藍良が一彩に対して素直に感謝の言葉を口にするのは珍しい。表情や仕草で伝わってくること以上のことは、普段はない。
「あ、ありがとうねェ」
だから、藍良が顔を上げて一彩の目を見て礼を言ったのに驚いて、一彩は自分の全身が一瞬でかっと熱くなるのを感じた。ガタンッと音を立てて思わず立ち上がる。
「いつも藍良はいろいろなことを教えてくれるから、僕にも藍良に教えてあげられることがあるのは嬉しいよ」
「え? うん……」
何でわざわざ立ち上がったのだと言いたげに、藍良が不思議そうに首を傾げる。今の一彩にはその仕草すら直視できなくて、荷物をすべて机に置いたまま椅子を机の下にしまう。
「ちょっと外走ってくるから、今やった問題のなかで間違えていたところをもう一度やりながら待っていて」
「う、うん……行ってらっしゃい……?」
頭の中にぐるぐると蟠ったものを払拭するため、一彩は校庭まで飛び出し、校舎の周りを全力で一周してから藍良の元へ戻った。
◇◇◇
藍良のそばに居たいのに、藍良の表情をずっと見ていたいのに、そうしているとドキドキして平常心ではいられない。ALKALOIDという同じユニットに所属していて、同じ学校に通っている。せっかく一緒にいられるチャンスが沢山あるのに、一緒にいるとまずい。そんな相反する状況になってしまって、一彩はますます悩んだ。
藍良に触れたいのに、傷つけたくない。けれど、一度触れてしまえば傷つけない自信がない。なんだか、器によくないものが溜まっていくような妙な感覚があった。
一彩は学校とレッスンの後、星奏館の自室のベッドで文字通り大の字になっていた。今は部屋には同室の者は誰も居ない。一彩にとっても普段はトレーニングをしているか勉強をしている時間なのだけれど、どれにも身が入らずに部屋に戻ってきてしまっていた。このままではいけないと思いつつも、この状況を一人だけで打破する根拠を一彩は持ち合わせていない。
すぅと細く深く息を吸い込み、全身の空気を入れ替える。一彩は手元にあるスマホで、兄の燐音に電話をかけた。コール音を聴きながら仕事中だったかと思い直したが、一彩が電話を切る前に兄が出てくれた。
『どーしたー? 弟くん』
電話の向こうが騒がしい。外にいるようだ。やはり仕事中だっただろうか。
「兄さん。……その、聞いて欲しい話があるんだけど」
『あーん? 珍しく歯切れ悪ィな』
「そうかな……そうなのかも」
普段のやりとりはメッセージアプリでも問題ない。それに、一彩と燐音は兄弟だがユニットも所属事務所も違う。急を要するような連絡以外で、電話をする理由が実は無いのだ。
一彩が黙ってしまったので少々の間静かになる。電話の向こうから、兄の溜め息が聞こえてきた。
『元気ねーのな。……よし分かった。お兄ちゃん今仕事終わったから大急ぎで帰ってやる。三十分後くらいに部屋に来い』
そう言って、兄は電話を切った。一彩はベッドの上に腕を降ろしてスマホを落とす。いま兄の部屋に行っても兄は居ない。それが分かった一彩は、大人しく兄の帰りを待つことにした。
そして、ぼーっと天井を見上げる時間が過ぎる。何も考えずに時間だけが過ぎていくのも、頭がスッキリしてたまにはいいかもしれない。
三十分後、と兄は言っていたが、電話のあと十五分経ったころにはもう「来ていいぞ」と連絡をくれた。一彩はうとうとと降り掛けていた眠気を振り払うようにベッドから勢いよく飛び起き、兄の部屋へと向かう。
兄の部屋も一彩の部屋と同様に静かだった。同室の二人は、仕事中なのか居ないようだ。一彩は三人の共用のソファを勧められて、端に行儀良く座る。
兄の鞄が、仕事の荷物を整頓しないまま床に放置してあった。帰宅して着替えて、すぐに呼んでくれたのだろう。忙しいのに急に時間を作って貰ったことを、今更ながら申し訳なく思う。
「ほれ、アイス」
「ありがとう……」
一彩は燐音が冷凍庫から出したチョコレートのアイスを受け取り、早速食べる事にする。燐音はソファから一番近いベッドに座ってバニラアイスを食べ始めた。
「お前と二人で話すのは久しぶりだなァ、一彩」
「う、ウム……」
「で、話って何だ? お兄ちゃんに話してみな」
一彩はスプーンで一口食べたチョコレートアイスが、舌の上で甘く溶けるのを飲み込んでから、言葉を選ぶ。
「その……」
兄に相談しようと思ったのは自分なのに。心の準備をする時間は充分にあったのに、いざ口にしようとすると緊張する。一彩は顔がぼっと熱くなるのを感じながら、一口分欠けたアイスのカップを見つめた。
「す、好きな人が……いるんだけど」
「……お、おう」
予想外の相談だったのか、燐音がバニラアイスを落としそうになっていた。燐音が大きめの一口を掬って口に含み、それを飲み込むまでの間、沈黙。
「……」
「マジで言ってんの?」
「ま、マジだよ」
「ハァー、まぁ、いつかそういう時が来るだろうとは思ってたけどよ」
そう言って、兄がまたアイスを食べる。話をしているときに兄が食べ物を口に入れた場合は、一彩の方が話を続けなければならない。子どもの頃から、何となくそんなルールがあった。兄はいつも無言で言葉の続きを促してくる。
「その人のそばに居るとね、平静心が保てなくなるんだ。落ち着かない。……でも一緒に居たいし、ずっと見ていたいんだ……」
「……ほう」
兄は相槌を打ってくれているが、特になにかを言う様子はない。一彩が言いたいことを、聞きたいことを言い切るまで待ってくれているのだ。言葉にするのが少し恥ずかしい一彩は、兄の質問に答えることで言葉を引き出したかったのだが。どうやら兄はそういう助け船は出してくれないらしい。
「少し前までは、見ているだけで良かったのに。最近、その……変なんだ。その人のことを、欲しいって……僕のものにしたいって、思ってしまうんだよ」
一彩は、膝の上でスプーンを持った手をぎゅっと握った。
「ど、どうしたら邪念を、雑念を振り払えるかな。故郷の皆は、僕にそういう教えはくれなかったから……。教えて欲しいよ、兄さん」
一彩がやっと質問を口にした。燐音が声にならない呼吸をしたのが聞こえた。顔を上げていない一彩にも、兄が何か考えてくれていることは分かる。
「藍ちゃんへの気持ちを邪念とか雑念とか言ってやるなよ」
「だ、だって兄さん……こんなの正しくないよ。大事なのに、このままじゃいつか藍良に乱暴なことをしてしまいそうで」
兄の言葉に慌てて弁明を始めた一彩は、兄が今何を言ったのか、自分が何を言っているのかを理解するのが遅れた。そしてさらに遅れて体温と心拍数が上がっていく。
「あ、あれ、僕……好きな人が藍良だって言ったっけ」
「言ってねーよ。でも当たっててもビビんねーよ。お前分かりやすすぎ」
燐音がベッドから立ち上がって、一彩の隣に座ってくれた。溶けるぞ、とアイスを指さす。
「お兄ちゃんナメんなよ」
兄に促されて、溶けかけたアイスを口に含む。ふてくされたような一彩の表情を見て、燐音が笑った。弟のくせ毛を、兄の手が撫でる。
「俺っちの弟にこんな顔させるなんて、藍ちゃんも罪だねえ」
一彩がアイスを食べ終わるのを待ってから、相談の続きが始まる。
「何で風早クンとかマヨちゃんに相談しねーの?」
「こ、これはその……僕の問題だから。巽先輩とマヨイ先輩にまで相談してしまったら、ALKALOIDの皆に迷惑をかけてしまうから……」
一彩も、一彩が想いを寄せている相手もALKALOIDの一員。それこそ相談相手には同じユニットメンバーの巽やマヨイが適任だ。誰もがそう考えるだろうし、一彩も最初は二人に相談すべきと考えた。しかし、同じ仕事をする仲間に気を遣わせてしまうのではないかとも思った。巽とマヨイに相談するときは、いよいよこの問題にきちんと向き合う覚悟ができていないといけない。中途半端に想いを吐露するだけなら、気を遣わせるだけで進展しない。
「それに、兄さんにはちゃんと言っておかなきゃと思ったんだ。だって、僕の兄さんだから……」
故郷の狭い共同体を抜けだし、今はそれぞれ別のユニットで活動しているが、やはり兄と弟だ。何かあった時に一彩がすぐに報告するのも、頼るのも兄なのだ。
燐音は、うーんと唸って考える。兄として、弟に相談事を持ちかけられるのはやぶさかではないのだが、簡単に答えられるものでもない。
「藍ちゃんなら、お前の言うことは受け入れてくれるんじゃねーの」
「僕も、そう思う……けど」
脳裏に藍良の顔が浮かぶ。文句をいいながらも、なんだかんだ一彩に優しくしてくれて、一彩の言うことを叶えてくれる藍良。そんな藍良だから、一彩の想いを伝えたとしても絶対に酷い結果にはならない。藍良がきっとそうさせない。でも、それではダメだ。
「……それは、藍良の優しいところを利用するみたいで、嫌なんだ」
「こじらせてるなァ……。まぁ、分かるけどよ」
燐音は、今度は冷蔵庫から缶ジュースを取り出す。「パチの景品」と言って手渡してくれた。手に持つとひやりとして、体温が上がっているのを自覚させられた。
「でも、お前が今すぐ何とかする気が無いってんなら、俺っちは話を聞いてやることくらいしかできねーなァ」
「そ、そうだよね……」
「お兄ちゃんが藍ちゃんに言ってやろうか?」
「それはダメだよ!」
「だろ? だから、お前自身がなんとかしねーとこのまんまだな」
く、と一彩が唇を結ぶ。缶を持つ手に力が入って、潰してしまいそうだ。燐音の手が、また一彩の頭を撫でた。からかう時の乱暴な撫で方じゃなくて、優しい手つきなのがくすぐったかった。
「話はいつでも聞いてやる。溜め込みすぎて取り返しのつかないことして嫌われるなよ」
「うん……ありがとう」
兄の言葉で、一彩は藍良への想いを募らせることは、何か悪いものを器に溜め込んでいるような状態なんだと理解した。理解しようとした。
兄にもらったジュースを持って、自分の部屋に戻ろうとしたときだった。
「あれェ、ヒロくんじゃん」
自室前の廊下で、藍良に鉢合わせてしまった。いつもなら大好きな藍良に会えた嬉しさで飛びつくところなのだが、今日の一彩は躊躇した。ああまた、ぽたり、ぽたりと何かが溜まる。
「藍良、どうしたの?」
なんとか普通を装って応えると、部屋着姿の藍良が軽い足取りでぴょんぴょんと距離を詰めてきた。うっかり触れてしまわないよう、一彩は立ち止まる。
「どうしたはこっちの台詞! ヒロくん、メッセージ送っても既読にならないし電話も出ないから、直接お部屋に行った方が早いと思ってェ」
藍良の手にはスマホが握られていた。一彩ははっとしてズボンのポケットを叩く。が、そこには部屋着の薄手の生地があるだけでスマホは入っていなかった。
「ごめん、今まで兄さんの部屋に居たんだよ。自分のスマホを部屋に忘れていたみたいだ……」
「ふゥん、ならいいけどォ」
藍良が両手で握っていたスマホをポケットにしまった。もともとスマホに依存していないタイプなので少々連絡が遅れてもそういう奴だと思ってもらえるのだが、今回は少し心配させてしまったようだ。レッスンの後は予定がないことはお互いに知っていたから、連絡がつかないのを不審に思ったのだろう。
「僕に何か用だった?」
「そうそう! ヒロくん今度の土曜日は暇?」
藍良は、廊下の掲示板に貼られている今月のカレンダーを指差す。ESと星奏館についての業務連絡用のカレンダーだ。そこに一彩と藍良の予定が書いてあるわけではないが、一彩は今週末を見る。
「う、うん。土曜日ならオフだよ」
「だよねェ! 久しぶりのオフだし、買い物付き合ってくれない?」
「ぼ、僕でよければ」
テンションの高い藍良がずいずいと目の前に身体を乗り出してくる。藍良はこんなに自分に対して距離が近かっただろうかと困惑する。いつもは一彩からスキンシップをとろうとするから気づかなかった。藍良の警戒心の無さに、何故か責任を感じてしまった。
「何言ってんの。同じユニット同士なんだからスケジュール合わせやすいでしょォ? レッスン無いのも知ってるし。だから誘ったの」
とはいえ、藍良に買い物に誘われて断る理由なんて無い。同じユニットで活動しているから、レッスンや仕事のスケジュールは当然ほぼ同じ。だから誘い易かったというのもあるだろうが、他の誰でもない藍良に誘われたことが、一彩には嬉しかった。
「喜んで付き合うよ」
「やったァ! たくさん買い物したいから、荷物運ぶのも手伝ってェ」
「それが目的?」
「ダメ?」
甘えた声で首を傾げる藍良。ああ、その顔に自分が弱いのを知っていて。
「もちろんいいよ」
「ふふゥ、ヒロくんの服も一緒に選んであげるね」
そう言って、藍良はもう一度ポケットからスマホを取り出して何かを打ち込んでいた。週末のスケジュールを書き込んだか、バスの時間でも調べているのだろうか。
「じゃあお昼前に出発ね。ランチも外で食べちゃお」
「分かった。楽しみにしているね」
藍良がひらひらと手を振って自分の部屋の方へ帰っていくのを見送り、一彩は目の前の部屋に帰った。
週末は藍良と出かける。さっきまで兄と深刻な雰囲気で相談をしていたのが嘘のように、一彩の心がいくらか軽くなる。
「おかえり一彩くん。スマホ鳴ってたぞ〜?」
いつの間に帰寮していたのか、角のベッドでごろごろしていたひなたが、足をぱたぱたさせながら一彩のベッドのほうを指差した。
「ああうん、ありがとう」
やはり部屋にスマホを忘れていたようだ。画面を点けると藍良からの『ヒロくん今度の土曜日買い物付き合って』というメッセージを一件と、藍良からの着信を知らせる通知が二件入っていた。そのほかはホールハンズの定期的な通知やニュースサイトの通知。それらをざっと確認して、一彩は藍良のメッセージに既読をつける。
「どったの? なんか嬉しそうだね」
ひなたが聞く。
「そ、そう?」
「うん。なんかニヤニヤしてる」
「ニヤニヤなんてしていないよ!」
図星を突かれて一彩の声が上ずる。ひなたがハイハイと子どもの言い訳をあしらうように笑う。
「何かいいことあった?」
ひなたは読んでいた雑誌を枕元に置いて、ベッドの上でストレッチを始めた。相変わらず、どこの筋肉に効いているのか分からない難解なポーズをする。
「藍良に、お出かけに誘われたんだ」
「よかったじゃん。それってデート?」
「デート、というのかな……これは」
メッセージ欄に、『楽しみにしているよ』と打ち込んだものにはすぐに既読がついた。
「好きな人と一緒にお出かけするのは、デートだよ」
「それなら、デートなのかもしれないよ」
かわいらしいネコのスタンプが返って来たので、一彩も同じスタンプを返した。
こういう何気ないやりとりが、幸せだ。
◇◇◇
藍良と約束した次の土曜日。一彩と藍良は、星奏館の共有の談話室で待ち合わせをした。時間は午前もそろそろ終わるかというころ。一緒に昼食を食べる約束だったので、一彩は午前は間食をせずに腹を空かせておいた。同室の椎名ニキが美味しいものを常備してくれているから、うっかりすると食べてしまうのだ。
「おはよう藍良」
「おはよ。……ヒロくんその格好で行くつもり?」
共用のソファに沈んでいた藍良は、白いシャツをジーンズにインして、ブラウンのバケットハットを被っていた。振り返って一彩の姿を見るや否や、藍良が早速ダメ出しをする。一彩はいつものシャツ姿で、頭や顔を隠すようなものは身に着けていなかった。
「だ、ダメだったかな」
「一応おれ達アイドルだよ? 帽子くらい被ってきて」
「ごめん。取ってくるね」
出だしから間違えてしまって、一彩は慌てて部屋に戻り、黒いキャップを掴んできた。
今日は一日、藍良と出かける。彼の買い物に付き合ったり、荷物を一緒に持ってあげたりするといういつもと同じ内容だが、それでも嬉しい。
藍良とESの外に出て、セゾンアベニューのあたりへ向かう途中、一彩は気づいたことがあった。
それは、自分の中にぽたぽたと何かが溜まる感覚は、藍良のそばにいると強く感じるということ。藍良のことを考える時間にも溜まることはあるけれど、一緒にいるとぽたぽたと滴っていたものが一筋の水の集まりになって注がれるような感覚になった。器に溜まるそれはぐるぐると渦巻いて、一彩の意識を支配する。それはまるでミルクのように純粋で甘ったるく、そしてしつこい。
一彩と藍良はバスを降りると、まずは軽食もとれる喫茶店に入った。通りからは植え込みに隠れ、店内の人からはソファの背もたれに隠れることのできる、角の席に案内してもらう。
一彩はいつも通りオムライスを、藍良はそれに苦笑しながらカルボナーラを注文した。二人分のサラダとドリンク、しばらくして料理が届き、いただきますと声をそろえる。
久しぶりにプライべートでランチをすると、藍良が喜んでいた。その相手に選ばれたことが嬉しい。二人ともまずは食事をするのに夢中で、会話がなく食器の音だけがする時間も心地よい。
「ね、ねぇ藍良」
「んー?」
くるくるとフォークでパスタを巻いている藍良が、皿から目を離さずに返事をする。ポロリと落ちたベーコンを、パスタを巻いたフォークで突き刺して口に運ぶ藍良に、一彩は続けた。
「こういうのを、デートと言うんだろうか」
ひなたが言っていたことを確かめたくて、そう聞いてみた。好きな人と出かけることがデートなら、藍良もそう思ってくれていたらと思った。
「何言ってんの、違うよォ」
けれど、藍良から返って来た答えは期待していたのとは違った。藍良は驚きも呆れもせず、普段一彩の間違いを指摘するときと同じ口調と仕草で否定した。
「……そうか」
「お友達同士で出かけるのはデートって言いませーん」
友達同士ならデートとは言わない。一彩の脳のライブラリにまたひとつ、そんな知識が増えた。少し視線が落ちたのを誤魔化せなかったようで、藍良が慌てた。
「ちょ、ちょっとそんな顔しないでよォ。……うーん、二人でお出かけするって意味ではデートかも?」
藍良が気を遣って訂正してくれたのを、少々申し訳なく思いながらも喜んでしまう。一彩は気を取り直して、オムライスのたまごを破って中のチキンライスを食べた。
「そうなの? 定義が難しいね」
「ヒロくん、デートがしたかったのォ?」
「藍良とお出かけできるのがすごく嬉しくて、浮かれてしまっているのかも」
正直に伝えると、藍良が少し照れくさそうに頬を染める。ああ、かわいいなと思った。
「しょーがないなァ、じゃあ藍良くんがヒロくんの初めてのデートの相手になってあげるゥ」
「本当? 嬉しいよ藍良!」
我ながらゲンキンだなと思ったが、嬉しいことは素直に伝えるに限る。一彩がそうであるように、藍良も素直に伝えられた気持ちに弱いのを知っていた。
「言っとくけど、おれだってデートなんてしたことないからねェ? それに、もともとの予定となんも変わらないから。今日はヒロくんがおれの買い物に付き合う。おっけー?」
「ウム、おっけーだよ!」
焦らなくていい。今日一日、藍良を独り占めできるのだから。最初から欲張らなくたっていいだろう。
食事の代金は当たり前のように割り勘。まずは藍良は服を買うと言った。セゾンアベニューにある商業ビルが目当てのようで、藍良はほかの建物にはよそ見せず、まっすぐそのビルへと向かった。
「ここで服を買いまァす。というか、今日は服を買うのがメインだから」
「分かったよ。どんな服が欲しいの?」
「夏服のセール品と、秋用に新作を見たいかなァ。とにかく色々まとめ買いするの」
エレベーターを待ちながら、藍良がそんなことを言った。隣に立っていると、帽子のつばが邪魔で藍良の顔が見えないのが残念だな、と思う。
藍良は仕事に行く時や、私服での撮影がある時用にたくさん服を持っていたいらしい。この間のライブツアーの報酬が入ったので奮発したいのだろう。
「どんなのを買うかは見て決める! 一緒に選んでよねェ」
藍良がこちらを向いて笑った。帽子のつばの奥で瞳がきらきらしていて、一彩もつられて笑った。
ビル内に入っているショップを片っ端から見て周るのに、一彩は後ろから付いていく。気に入った店では、一彩ひとりだけを観客にしたファッションショーが行われた。
Tシャツ、ワイシャツ、柄のパンツにジーンズなど、シンプルなものから派手なものまでバリエーション豊かに選んでいく。その一つ一つを試着して、一彩に見せてくれた。
試着室の前のベンチで待っている時間のほうが長かったけれど、全然苦にはならない。藍良は自分に似合う服を選ぶのが上手で、何を着てもかわいらしいし、カッコよかった。
特に一彩が似合うなと思ったのは、ロングTシャツにレギンスを合わせた組み合わせだった。藍良の中性的な顔立ちにもよく合っているし、今日の帽子にもピッタリだった。
「じゃーん!」
何着目かの試着で要領を覚えた一彩は、まだ時間がかかるだろうと思って試着室の近くに陳列してあるシャツを見ていた。しかし予想が外れて早めに着替え終わった藍良が勢いよくカーテンを開けた。目の前に一彩がいないのに気づいて恥ずかしそうにこちらを呼ぶ。
「ちょっとォ、離れるなら離れるって言ってよォ!」
「ごめんごめん。それも似合うね」
試着室の目の前まで戻ると、藍良が真っ赤になって俯く。誰も居ない空間に「じゃーん」と飛び出たのが恥ずかしかったのだろう。藍良が身に着けていたのは、裾に向かって広がるデザインのガウチョパンツ。くすんだ緑青色のそれに、ベージュのシャツ。これもまた、藍良によく似合っていた。
「本当? ちょっとかわいすぎない?」
恥ずかしさもあってか少し不安そうな藍良に、思いつきで自分が被っていた黒のキャップを被せてみた。
「似合うよ。こういう帽子にも合うんじゃない?」
「本当だァ! ヒロくんもやるじゃん」
淡い色合いの上下に、色素の薄い藍良の髪と肌は溶け込んでしまいそうだったが、黒のキャップを被せると程よく締まった。
二人のやりとりが聞こえたのか、店員さんのうちの一人が様子を見に来て、藍良のコーディネートを絶賛していた。
藍良は藍良が選んだものなら何でも似合うし、一彩はファッションに関する審美眼にあまり自信はない。しかし、藍良が一彩に求めているのは批評や意見ではなく、肯定なのは分かっていた。藍良は高い買い物をする際は最後の最後で決めかねることが多く、一彩に「似合うよ」と言わせて最後の一押しをしてもらっているのだ。その役目なら喜んで引き受ける。
「藍良は何を着てもかわいいよ」
その言葉を遠慮なく伝えられるのが、一彩はただただ嬉しかった。
それからはなんとなく、一彩と藍良はお互いがもともと被っていた帽子を交換して歩いた。藍良が思い切り買い物をしたので、二人あわせて四本腕があってもいっぱいの荷物になった。見かねた店員が声をかけてくれて、荷物預かり所を案内してくれた。
再び身軽になった藍良は、エレベーターが目的の階に着くや否や、一彩の手を引いてその箱から降りた。藍良の手のひらの柔らかな感触が少しだけ懐かしかった。けれど、うまく握り返せなかった。
「ねェ、今度はヒロくんの服選ぼう?」
「うん。持ち帰れるだけにしようね?」
これ以上買い物をすると荷物が嵩張るのは確かだが、一彩は運べるので問題はない。しかし、荷物が多くなったから早めに帰宅しようという展開にならないかが心配だった。今日は、藍良となるべく長く一緒に居たいと思ったからだ。
二人は今度は一彩の服を目的に店を回った。一彩が藍良の買い物を待つ間気になるものがあったからと同じ店を訪れたりもした。その度に藍良に「その時に言え」と怒られたが、藍良の服を選ぶだけでも一彩の目的は問題なく果たされていたからいいのだ。
「ヒロくんはこういうの似合うと思うよォ」
藍良が選んでくれる服はどれもセンスが良かった。試着室で着替えてみるとどれもしっくり来る。
「着れたァ?」
「う、ウム」
一彩が試着室のカーテンを開けると、スマホをいじっていた藍良がぱぁっと笑顔を咲かせながら立ち上がった。
「思った通り! 似合うよォ」
今試着したのは黒い襟付きのシャツ。学校の制服のボタンを上まで留めていると藍良にいつも指摘されるので、一番上のボタンを外してみたのだが正解だったようだ。
「ヒロくん肌白いから黒が似合うねェ」
「藍良が選んでくれたからだよ」
「はいはい。こういう時は、自分の意見も大事だからねェ」
そう言って、藍良が試着室前のベンチの横に置いていた籠から、グレーのジャケットを取り出す。待っている間に選んでくれていたようだ。
「そのシャツだけだともうすぐ寒くなっちゃうけど、ジャケットがあれば秋まで着れるから」
そう言って、藍良は一彩に向かってそのジャケットの内側を広げて見せた。一彩が首を傾げていると、
「ほら、袖通して」
と言ってそのジャケットを振った。ようやく藍良の行動の意味が分かった一彩は、藍良が広げているそれに背中を向けて袖を通した。
「うん、似合う似合う~!」
黒いシャツにグレーのジャケットという組み合わせが気に入った藍良は、その姿を試着室内の鏡に映して、その後ろでウンウンと頷いていた。
「フォーマルっぽいシルエットだから真面目なお仕事にも着て行けるよォ」
そう言って、今度は似た色のニットカーディガンを出してきた。こっちも着てみてと言うので、黒いシャツの上から着てみる。こちらはジャケットとは正反対に曲線を描いていて、長めの袖の先にはたっぷりと布が余るようにデザインされていた。
「ほらァ、こっちはかわいいよォ」
藍良が肩や袖を整えてくれる。中に着ているのは同じ黒いシャツなのにずいぶんと印象が変わった。
先ほどから、藍良が触れるたびにむずむずと落ち着かない。
「ヒロくんはどっちが好き?」
藍良が聞いているのは、先ほどのジャケットかこちらのカーディガンかという事だろう。最近服を買っていないので両方買ってもいいのだが。一彩は今着ているカーディガンの袖を、もう片方の手で撫でた。
「……僕はこっちが好きだな」
「そーお?」
「うん。藍良がかわいいと言ってくれたからね」
「もォ、調子いいこと言って」
かわいい藍良にかわいいと言われる以上に信頼のできる評価など無い。一彩は藍良が選んでくれた黒いシャツと、グレーのカーディガンの購入を決めた。
服選びの次は、藍良が一彩のアクセサリー選びに付き合ってくれた。アクセサリーについては一彩にも自分のこだわりがあるので店を自分で選んだ。藍良は退屈かもしれないと思ったが、一彩の選ぶ内容に興味津々だったり、自分の好みのアクセサリーを選んだりと楽しそうだった。
「お待たせ藍良」
じっくりアクセサリーを選んでいたら、後半は藍良を退屈させてしまったので店の外で待たせていた。藍良は隣の帽子屋を見ており、黒いキャスケット帽を選んでいた。今被っている黒のキャップが気に入ったのだろうか。
「あ、ヒロくんお帰りィ。いいのあった?」
「うん」
一彩は応えながら通路に設置されている自動販売機の横にあるベンチに座るよう、藍良を促した。並んで座って、たった今買い物をしたアクセサリーショップの小さな紙袋ふたつのうち、ひとつを藍良に手渡した。
「これを藍良に」
「え、何?」
まさかプレゼントをもらえるとは予想していなかったようで、藍良は心底驚いたように声を上げた。少し照れているのか、頬を染めてそれを受け取る。透明なラッピングを施されたそれは、リボンを解かなくても中身を確認できる。
中には、雫の形をしたシルバーピアスが入っていた。小さな紫色のストーンがはめ込まれており、二つ並べるとハートの形になるようデザインされている。
「えェ~! かわいい! ヒロくんありがとォ!」
「どういたしまして。今日のお礼だよ」
「お礼って、おれがほとんど付き合ってもらったのに」
「いいんだ。僕が楽しかったし、それは藍良に絶対似合うと思ったから」
「いいの? ありがとォ! 大切にするねェ」
藍良は頬を染めて、今日一番の笑顔を見せてくれた。
一彩は喜ぶ藍良に気づかれないようこっそりと、下唇を軽く噛んだ。
アクセサリーをプレゼントする行為に他意など無い。無いはずなのに、それが利己的な感情からそうしたように思えてしまって、少し気まずくなってしまった。
◇◇◇
買い物を終えてESに戻って来たころには夕方になっていた。
「今日は楽しかったァ! またお買い物しようねェ」
アクセサリーを選んだあと、一彩は藍良が最初に選んでくれたグレーのジャケットが惜しくなってそちらも買った。
両手いっぱいに荷物を持って、藍良が星奏館までの道をくるくると踊りながら歩く。
「前を見ないと危ないよ」
「えへへェ」
重たい荷物を率先して引き受けたから、藍良が転びそうになった時に咄嗟に対応できないかもしれない。そう思ったら少しはらはらしたが、舗装された広い道が終わると、横に並んでまっすぐ歩いてくれたのでほっとした。
「ただ今帰りましたァ!」
ご機嫌な藍良が自室の扉を開けて、室内に向かって挨拶をする。部屋の灯りは点いているので、誰かいるようだ。一彩は荷物を運び入れるため、そして藍良の同室の先輩に挨拶をするために部屋へと上がる。
「お邪魔します。藍良、荷物置いちゃうよ」
「はァい」
藍良が自分のベッドの横に紙袋をいくつか降ろし、一彩がプレゼントしたピアスが入っている小さな紙袋だけをベッドの上に置く。
ソファに座り、ひざの上でノートパソコンを操作していた天祥院英智が、二人がかりで運び込まれた荷物を見て感心する。
「すごい量のお買い物だね」
「はい。久しぶりのオフなので張り切っちゃいましたァ」
お茶を淹れようね、と言って英智がキッチンに立つ。一彩は慌てて、それを手伝うために先輩の後を追った。英智はありがとう、と呟いて食器棚にあるカップを指差す。一彩はそれを三客用意した。
「天城くんも居るなら丁度いい。白鳥くんにお仕事の話が来ているんだ」
買ってきた服を早速広げている藍良が「ほぇ?」と振り返る。そこでやっと二人がお茶の用意をしていることに気づいて、藍良も慌てて準備に参戦した。
「仕事ってどんな仕事ですか?」
藍良がお菓子用にお皿を用意しながら聞く。英智は、上品に茶を注いでから、答えた。
「まだ仮題だけどね、『白鳥藍良のフォトアルバム』という企画名であがってきてる」
「フォトアルバム……?」
そのままだと名前が安直すぎるが、どんな仕事なのかを想像しやすくて助かった。詳しく話を聞くと、藍良のSNSアカウントの投稿に興味をもった出版社が、藍良個人の特集を組んだムック本を企画しているらしい。
「ALKALOIDはしばらく、大きいライブの予定は無いよね」
優しいが圧のある、有無を言わさぬ英智の笑顔。
先輩というより上司のそれである物腰だが、藍良は自身に舞い込んだ仕事に目を輝かせていた。
「一週間ほどのロケを組むから、そのつもりでいてね」
一彩は、揺さぶられて水面が波打つような不安に襲われた。喜ぶ藍良は何て言っているのか分からなかったし、その時もらった紅茶の味は分からなかった。
喜んでこちらを振り返る藍良に、自分がどんな表情で、どんな言葉を返したのかも、覚えていない。
つづく