ミルクにスミレ

 ばたばたと周りが騒がしいのに、僕は動かないよう命じられて仏像のように無表情で座っている。僕が何かを言おうとすれば「動かない」「喋らない」と丁寧な言葉で言い含められ、またもとの姿勢と表情に戻される。少しムッとしたが、唇を内側にたたむのも、下唇を噛むことも怒られる結果にしかならない。
 目を閉じるように言われて、僕は鏡に映る無表情の自分を一瞬だけ見つめてから目を閉じた。柔らかな筆がまぶたや唇を、ふかふかとしたクッションが頬を撫でるのを感じながら、ただそれが終わるのをじっと待つ。
 あれが必要だ、あれを用意して、これが足りない、あと何分といった声が飛び交う。じっとしているのは苦手だが、その喧噪を静かに聞いているのは好きだ。こうして多くの人に世話を焼かれ、お膳立てをされて、アイドル「天城一彩」が完成する。
 すべてを完璧に整えてもらった僕は、やっと表情を崩すことを許された。いつも褒めてもらえる笑顔で、メイク担当に礼を言った。
 僕の担当は手際がよくて、一番にメイクが終わった。仲間たちがまだ鏡の前にいるのをぐるりと眺めて、楽屋の端で支度をしている藍良の鏡を覗き込む。藍良はメイクの仕上げの真っ最中だった。閉じたまぶたは控えめに盛られたまつ毛で縁取られ、頬の上にちょんと乗っている。形の良いまぶたの上には光をうけてキラキラと輝くラメが細かくちりばめられており、唇は血色のいい珊瑚色に彩られていた。
 男性アイドルのメイクはナチュラルな肌づくりと血色を良くすることが目的らしく、派手な色を乗せられることはめったにない。しかし藍良のそれは、特別な色を使っているわけではないのに、少女を象った人形のように綺麗だ。薄く色づいた頬に見惚れていたら「一彩くんはこっちです」と衣装係に促された。もう少し、アイドル「白鳥藍良」が造られていくのを見ていたかった。
 
「はァい、藍良くん完成~」
 メイクと衣装の仕上げを終えた藍良がくるくると楽屋の中央に躍り出る。メイク係や衣装係が仕事を終え退室の準備をする中、軽くストレッチをしていた僕は、楽しそうにはしゃいでいる藍良の背中を受け止めた。
「前を見ないと危ないよ藍良」
「ふふゥ、ヒロくんありがとォ」
 ステージ前の緊張と高揚でご機嫌の藍良。
「どう?」
 藍良は僕に向かって軽く両手を広げて、自身の姿をよく見せてくれた。それはハグをしてほしいというポーズではないと散々教えられたので我慢する。これは藍良がステージに立つ前に行う儀式のようなもの。期待するような目で、少し照れくさそうに僕の反応を伺っている。
「今日もかわいいよ、藍良」
 そう言って僕は、今日も藍良に呪いをかけた。


◇◇◇

 今日のダンスレッスンは、ライブ本番を想定した通し練習が多く、中々ハードだった。連続で踊っていると疲れも出て来るのだが、ライブを観に来てくれるファンの前で疲れた表情を見せるわけにはいかない。ダンスは最後まで正確に。歌声もブレてはならない。たとえ慣れてきたとしても、集中力を切らしてはならない。
 ALKALOIDの四人は、メンバーのマヨイの指導のもと、厳しい運動量のダンスをこなしていた。「踊り続けるための体力」を付けるため、時々小休止を挟む以外は踊りっぱなしだった。
 リーダーを務める一彩は、ダンスルームの中央で全員の気持ちを引っ張るように踊っていた。曲の終わりと同時に見事にぴたりと静止して見せる。肩で息をしている藍良の隣で、まだまだいけると笑顔を見せた。体力だけならメンバー内で一番といって良い一彩だが、ツアー中の現在、ステージごとに変更やアレンジが加えられるダンスを覚えるのには必死だった。
「一彩さん、ラストのサビ前の移動の時、表情が少々暗いですよ」
「はい!」
 早速マヨイの指摘が入り、一彩は素直に背筋を伸ばして返事をした。指摘されたところは、次のステージで披露する日替わりのアレンジを加えた部分だった。一度覚えた振り付けは完璧にこなせる一彩だが、身体に馴染んだ動きに変更を加えてまったく緊張しないわけではない。その緊張を見抜くマヨイの眼識に感心すると同時に、一彩は指摘されたことを反省し、覚えた振り付けを上書きするために目を閉じて深呼吸をする。
「藍良さんは自分のソロの後、振りに入るのが一瞬遅いです」
「はい!」
「と、指摘すると次は速くなるのでハンドマイクの時は特に気を付けて」
「は、はァい!」
 メンバーのクセを知り尽くした的確な指示に気圧されたのか、藍良の二回目の返事が少々崩れる。ついでに緊張していた雰囲気も崩れて、一彩は思わず笑った。
「あっ、ヒロくん笑ったなァ!」
「ごめんごめん。藍良のお返事の仕方がかわいくて、つい」
「もォ~! おれだってちょっと気にしてるんだからねェ」
 ぽこぽこという効果音が鳴りそうな軽さで一彩を叩きながら藍良が抗議する。ふたりの様子にくすくすと肩を震わせながら巽が声をかけてくれた。
「あまり緊張しすぎるのも良くないですな。正確に踊ることも大事ですが、少々隙があったほうが、お客様も喜んでくださることがありますし」
「そうですよ藍良さん。と、私が言うのもなんですが気負いすぎずに」
「うん。ありがとタッツン先輩、マヨさん」
「とはいえ、練習で出来ていない事は本番でもできません。今の曲をもう一度」
「ふえぇん頑張りまァす!」
 見事なアメとムチに表情をコロコロと変える藍良と一緒に、また四人は通しの振り確認を再開した。

「はふゥ、ちゅかれたよォ……」
 マヨイに休憩を言い渡された途端、藍良はダンスルームの隅のベンチに置いてある自分のボトルの前でへたりこんだ。筋を抜かれたようにふにゃふにゃとした手つきでボトルを掴み、なんとか水を飲む。一彩はその隣で立ったまま喉を鳴らして水を飲み、手早くボトルをバッグの中に放り投げる。
「すぐに座り込むとかえって疲れが溜まるよ。それ飲んだらストレッチしようね」
「はァい」
 藍良は水を飲み終えたボトルをベンチに置いて、差し出された一彩の手を握って立ち上がった。ベンチから少し離れたところで二人並んで柔軟をする。

 ダンスルームの中央では、マヨイと巽が何やら相談していた。聞こえてくる内容から推測するに、一彩と藍良がバテてくる後半に自分たちと隊列を入れ替えよう、という内容を話しているようだ。
 背の高い二人が広い部屋の真ん中で、膝を突き合わせて丸くなっているのを見るのは何だか面白かった。
「藍良、手を貸して。背筋を伸ばして」
「んぅ~」
 一彩はそんな二人を見ながら、藍良のストレッチを手伝う。両手を繋いで引っ張ったり、足を伸ばして座った藍良の背中を軽く押して膝の裏を伸ばしたりした。一彩はこうやって藍良の世話を積極的に焼く。普段の生活や一般的な常識が求められる場では、藍良が一彩にそれらを教えることが多いが、学校の勉強やダンスレッスンでは一彩が藍良をリードすることが多い。そうやって、二人はバランスをとっていた。少なくとも一彩はそう思っていた。藍良の様子を見て、必要なフォローをし、必要なものを手渡す。少々甘やかしているかと思うことはあっても、藍良に嫌がられない限りやめる気はなかった。
 何かと理由をつけて藍良のそばにいて、藍良に声をかけ、藍良に触れた。一彩がそうする理由を藍良が知れば、彼も遠慮したり、嫌がったり、あるいは照れたりしたのかもしれない。けれど幸い二人は出会った時から「こう」であったために、藍良も一彩に素直に甘え、周りもそれを奇異な目で見ることはなかった。
 一彩は、藍良のことが好きだ。おそらく出会った時からずっとだ。今思えば一目惚れだったのかもしれない。あの日呼び出された会議室で、机に伏せて寝ていたところを起こしてくれたのが藍良だった。ひと目みて、なんて華奢でかわいらしい人なんだと思った。守らなければ、と思ったのをよく覚えている。けれどそれが「好き」だという感情であることを自覚したのは最近のこと。友達としての「好き」と、藍良に対する「好き」は違う。友達のことは皆好きだけれど、一緒にいたい、顔を見たい、触れたいと思うのは藍良だけだった。
「藍良、大丈夫かい?」
「うん。ありがとヒロくん」
 ストレッチを終えた二人は、休憩のためダンスルームの端へ移動する。並んでベンチに腰掛けて、水分補給をしたり汗をタオルで拭いたりした。
 相談を終えた巽とマヨイが、曲をかけずにステップの確認をしている。マヨイが軽やかにターンをすると、彼の結った長い髪が遅れて舞う。巽がそれに拍手をして、一彩と藍良が大げさに喜んだ。
「すごォいマヨさん!」
「僕にも教えて欲しいよ!」
「いえいえ、いつもの振り付けじゃないですかぁぁ」
 年下の二人に褒められて、マヨイが恐縮した様子で胸の前で手をブンブンと振る。しかし謙遜が卑下に紙一重ですり替わる前に、マヨイは気持ちを切り替えて一彩を見る。
「ひ、一彩さん、休憩が充分なら少し個別にレッスンしましょうか」
「よろしくお願いするよ!」
 一彩は空になったボトルとタオルを置いて立ち上がり、藍良を振り返った。
「見てて、藍良!」
「え、う、うん」
 休憩を続ける藍良と巽の目の前で、一彩はマヨイの指導のもと一人で踊る。シューズが床をキュッと鳴らす音、足を踏み込む力強い音が曲に乗って響く。時々、藍良のほうをちらと見ると、ボトルに口をつけながら一彩のダンスを見てくれていた。藍良が見てくれていると思うと、一彩はますます張り切った。

 踊りながら、頭の中でライブ中の光景を思い出す。星空よりも明るいサイリウムの海。レーザーライトが走る視界に飛び込んでくる、藍良。
 小さな体をいっぱいに使って、全身でファンのみんなに愛を振りまく姿につられて、一彩も自然と笑顔になる。
 一彩は、ライブ中に目が合う時の藍良の顔が好きだ。とびっきりの笑顔に汗がはじけてキラキラしていて眩しい。「楽しいね」「最高だね」とその表情が伝えて来る。一彩もその笑顔に、精一杯の気持ちを乗せて応える。「愛しい」と。

 藍良に、こちらを見て欲しい、振り向いて欲しいと思ってしまう。ライブ中の藍良はファンの皆のものだと分かっているから、一彩はせめてアイドルとして藍良の隣で同じくらい輝きたいと思った。
 藍良のようなアイドルになりたい。ファンに贈る笑顔、パフォーマンス、どれをとっても藍良は「アイドル」として完璧だった。隣で踊れることが、一緒に歌えることが嬉しい。藍良みたいになることで、藍良に近づける気がした。隣で声を出せば、藍良も一緒に応えてくれるのが嬉しい。
 初めて出会った日からずっと、気づいたらいつも藍良を目で追いかけている。
 
「どうだった? 藍良!」
 曲が終わり、呼吸が整うのも待たずに一彩は藍良の方を見た。拍手している巽の横で、藍良が少し悔しそうに唇を尖らせる。
「よかったんじゃなァい?」
「藍良に褒められると、とても嬉しいよ!」
「もォ~! レッスン中なんだから、マヨさんに見てもらえ!」
 座ったままじたばたする藍良に、一彩は頬が緩むのを感じる。一彩の横で、マヨイが眉を下げてくすくすと笑った。
「ふふ、一彩さんは藍良さんが見てると調子がいいですねえ」
「ウム!」
「でも振りが少々大きくなってしまいますから、気を付けてくださいね」
「う、ウム」
「あと、パフォーマンス中にちらちらと藍良さんを見るのもダメですよ」
「わ、分かったよ」
 どんどん尻すぼみになっていく一彩を見て、今度は藍良が楽しそうに笑う。
「やーいヒロくん怒られた」
 藍良がからかってくるのを窘めるように、少し唇を「ム」の形にしていたら、マヨイがぽんぽんと手を叩いた。
「さあ、休憩は終わりです。明日はプロの先生のレッスンがありますから。できるだけ合わせますよ」
「はーい!」
 休んですっかり元気になった藍良が立ち上がり、巽も一緒にレッスンに戻った。
 そこからは、レッスンルームを借りている時間いっぱい、四人で踊り続ける。一彩は大きなミラーに映る藍良と何度も目が合い、そのたびにマヨイの注意を思い出して慌てて目を逸らした。


◇◇◇

 一彩は自室のベッドに座って、スマホをいじっていた。夕食や風呂、ストレッチといった夜の日課を済ませた後のもうひとつの日課。それはSNSのチェックだった。自分自身に投稿するネタがある場合は同室の友人や先輩に文面を見て貰うのだが、今日は特に投稿するネタも無いので、そのまま藍良のアカウントを覗く。そこには、学校であったことやレッスンで学んだこと、ESの仕事で出会ったアイドルのことなど、藍良の日常が沢山詰まっている。今日は学校で抜き打ちテストがあって散々だった、という日記のあと「新しいピアスを買ったよォ」とかわいらしい自撮りの写真が載っていた。
 今度一緒にお勉強をしよう、かわいらしいピアスだね、と心の中でコメントをして直接書き込むことはしない。藍良に「書き込むのはALKALOID四人のお仕事の日記だけにして」と釘を刺されていた。一彩が藍良の投稿に書き込みをすると、どちらかのファンを嫉妬させてしまうのだそうだ。一彩と藍良が仲良くしていると喜ぶファンもいるということで、藍良のお仕事報告に便乗する形でのコメントなら許してもらえたのだ。いまいちその指示の意図にピンときていない一彩だが、SNS戦略において藍良以上に信頼できる師はいないので言われた通りにしている。
 藍良はまめなSNS更新が功を成して、ESアイドルの中でも飛びぬけてフォロワーの多いアイドルのひとりとなっている。アイドルのこんな姿が見たい、というファンの気持ちを理解しているからこそ、それに答えることができるのだろうなと一彩は思った。他のユニットやアイドルを推しているファンですら「ALKALOIDの藍良くんのアカウントはフォローしている」らしい。

「ただいま~!」
 もうすぐ星奏館の共用のサービスが一部終了時間となるタイミングで、同室の葵ひなたが帰寮した。今日ひなたは弟のゆうたとともに生放送の音楽番組に出演しており、さきほどまで一彩は部屋でその番組を見ていた。息の合った歌やアクロバティックなダンスをステージいっぱい、画面一杯に披露していた。夢中になって見ていたら、テレビの下に設置してあるレコーダーが録画モードになっているのに最後まで気づかなかった。
「おかえりひなたくん。椎名さんが野菜のパイを作っておいてくれたよ」
「ほんと? やった、お腹ぺこぺこ~」
 部屋に備え付けてあるキッチンに、ラップをかけてあるパイがふた切れ残っていた。料理が仕事であり生きがいである椎名ニキが、自分の腹を満たすついでに同室のふたりへも料理を振る舞ってくれるのにはいつも助けられている。
「一彩くんは何見てるの?」
 ひなたはソファに座って、温めたパイに早速かじりつく。一彩のところにも、香ばしい生地の香りが漂ってきた。
「藍良の日記だよ。今日あったことがどんな風に投稿されるのか、見ていると楽しいんだ」
「一彩くんは本当、白鳥くんのこと大好きだよねえ」
「ウム!」
「わー素直。じゃあ俺も、ゆうたくんのこと惚気ちゃっていい?」
「のろ……?」
 聞き慣れない言葉に、一彩がスマホから顔を上げてひなたを見る。ひなたは口の端についたパイ生地を持ち上げてニッと笑った。
「ゆうたくんのこと、自慢したいってこと。一彩くんの話も聞いてあげるからさ」
「もちろん! 色々教えて欲しいよ」
 一彩は今日ひなたが出演した番組が録画されていたことを伝え、ひなたが自分で録画をセットして出かけていたことを知った。ひなたは急いで風呂等の夜のルーティーンを済ませ、一彩と一緒に番組を見返しながら、お互いの大切な人の話をしあった。


◇◇◇

 ALKALOIDのライブツアー最終日。これまでは日帰りだったのが、この日だけは打ち上げを兼ねて一泊ホテルで過ごすことになっていた。夕方、ライブの余韻のおかげで疲れをまだ感じていない四人は、足取り軽く用意されたホテルへ向かう。
 観光にも仕事にも使えそうな、落ち着いた品のあるホテルだった。一彩と藍良とマヨイは、待合のロビーのソファに座って受付を待つ。静かなロビーで居心地がいいので必要以上に言葉を発する気にはならず、一彩はホテルのロビー内を見渡してみた。よく分からない絵やどこかの絶景を切り取った写真、謎のオブジェが飾られており、いかにもホテルのロビーという感じだった。その中に水鳥のオブジェがあるのを見つけて、藍良が無言で一彩を手招きする。一彩は藍良に促されるままそのオブジェを背に立ち、藍良が構えたスマホのカメラに向かってピースをした。藍良が小さな声で「ピースって」とツッコミを入れる。泊まったホテルが特定されるような写真は投稿できないことは一彩も知っているので、今撮った写真は藍良のスマホの中だけにしまわれるのだと思うと少し嬉しかった。
 何か珍しいものを見つけるとすぐに「写真を撮ろう」と考える習慣が一彩には無いので、藍良のまめなSNS更新はまずこの意識が重要なのだろうなと思った。
「ツインを二部屋予約していただいてるようなので、部屋割りは俺とマヨイさん、一彩さんと藍良さんで分かれるという事で良いですか?」
 フロントで受付を済ませた巽が、二部屋分のルームキーを持ってロビー中央のソファ席へ戻ってくる。
「うん、いいよォ」
 藍良が巽からカード型のキーを二つ受け取り、そのうちの一つを一彩に渡した。藍良と同じ部屋番号の入ったキーを見て、一彩が目を輝かせる。
「僕と藍良が同じ部屋ってこと?」
「なァに、イヤなの?」
 一彩の言葉だけを聞いて藍良が意地悪を言う。もちろん藍良は、一彩が嫌がっているなんて少しも思っていない。
「まさか、嬉しいんだよ!」
「ぎゃー! 抱き着くな!」
 正直に一彩が藍良をぎゅうと抱きしめる。せっかく静かに過ごしていたのに、一彩と藍良の声は結局ロビーに響いてしまった。その様子を夢中で眺めているマヨイは、巽に鍵を手渡されているのに気づいていなかった。

 四人はチェックイン後、それぞれの部屋に別れて荷物を置いてくることにした。一彩は藍良の分も荷物を運び、部屋の鍵を藍良に開けてもらった。扉の向こうからクリーニングしたばかりの知らない部屋の匂いがする。家電の電源がひとつも入っておらずしんとした雰囲気に、藍良と二人きりであることを急に意識してしまった。
「おれ、ベッドこっち使っていい?」
「う、うん」
 二つあるベッドのうち、鏡台側のベッドを陣取る藍良。一彩は快く了承して、自分は窓とテレビがある方へと移動し、ぼすんとベッドに座り込んだ。
「どうしたの? 疲れちゃった?」
「ああ、うん……そうなのかも」
 おかしい。今までも藍良と二人きりになることはあったのに、今日はなんだか鼓動が速い。
「ヒロくん頑張ったもんねェ。今から打ち上げだけど、先に労ってあげるねェ」
 そう言って藍良は、一彩のそばに来て一彩の頭を撫でた。藍良の手が頭に触れた瞬間、一彩は身体の芯がじわっと熱くなるのを自覚する。なんでだろう、藍良に触れられるのは嬉しいし、こちらからも遠慮無く触れたいといつも思っているのに。何だか恥ずかしくなって、少し俯いてしまった。
「あれ、ヒロくんやっぱりぼーっとしてない? 顔赤いよ」
「そ、そう? 部屋が暑いのかな……。エアコンはどうやって点けるんだろう?」
「ちょっと待ってねェ、多分リモコンがこのあたりに」
 そう言って藍良が入口のほうへと向かう。藍良が離れてくれたので、一彩は一旦ほっとした。一体どうしてしまったんだ自分は。本当なら、藍良に離れて欲しいなんて絶対に思わないのに。とにかく今は部屋が静かすぎて、ちょっと動いただけでも物音や衣擦れの音が響いて、藍良の存在を意識してしまう。何もない部屋に二人きりで閉じ込められたような気まずさがあった。一彩はエアコンを点けて着替えを始めた藍良をあまり見ないようにしながら、目の前にあるテレビを点けた。ローカルのCMが流れると、居心地の悪い空気が紛れた。一彩もやっと、ライブ会場から着ていた練習着を脱いで、いつもの黒のシャツに着替えた。体温の移っていない衣服がひんやりと身体を包む感覚で、自身の体温が高いのを改めて自覚したが、同時に冷静さが戻って来て「いつも通り」になれそうだった。
「準備できた? 藍良」
「うん! ごはん楽しみだねェ」
 一彩が「いつものように」藍良に片手を差し出すと、藍良はその手をとって握り返してくれた。柔らかな手が触れると少しドキドキしたけれど、部屋を出れば鼓動も少し大人しくなった。

 手を繋いでレストランに到着した一彩と藍良は、先に席についていた巽とマヨイとテーブルを囲んだ。打ち上げに用意された店は、ホテル内にある焼肉店。黒を基調とした内装、テーブルは黒く磨かれた石。中央には肉を焼くためのアミがあり、その中では質の良さそうな炭が赤く燃えていた。
 四人が通されたのは個室だが、空間が広く取られており、吸煙用のダクトも視界を圧迫しない高さに設置されていた。
「焼肉なんて久しぶりだよォ、しかもこんな高級店!」
 一彩の隣で藍良が嬉しそうに言う。普段は小食で肉などの油の多いものをとることに気を遣っている藍良も、この時ばかりは肉にはしゃいでいた。
 まずは飲み物が運ばれてくる。巽とマヨイは烏龍茶を、一彩はレモンスカッシュを、藍良はグレープフルーツジュースを注文した。それぞれにグラスが行き渡ると、藍良が元気よく音頭をとって乾杯をした。
「ライブ楽しかったねェ~、もう終わっちゃったの寂しい」
「まだ頭の中にファンの皆の声援が聞こえているようだよ」
 そんなことを言いながら一彩は自分のドリンクを飲む。甘いレモンの炭酸に全身が喜んでいるのを感じた。疲れた時は甘い物、といつも藍良が言っているのがよく分かる。おそらく自覚している以上に疲れているんだろう。
 ドリンクを飲み始めて間もなく、注文したコースの肉や野菜が運ばれてきた。藍良が率先してそれを受け取り、肉を焼き始めた。一彩はそれを真似て、藍良が並べた肉の横に、玉ねぎやキャベツを並べる。店は落ち着いていて静かだが、ジュウッと食べ物が焼ける音のおかげで、話し声が他の部屋に聞こえる心配はなさそうだった。
「近場を回るツアーとはいえ、週末にライブを続けるのは良い経験になりましたな」
 ALKALOIDの四人は、三週続けて金曜日の夜と土曜日の夜にライブを行うツアーを開催していた。最終日の今日だけは日曜日の昼公演があったので、三日間の疲れと一緒に、これまでの達成感が心地よく身体を満たしていた。
「皆さん本当にお疲れ様でした。急な振りの変更にもよく対応してくださって、トレーナーの方も感心していましたよ」
「マヨイさんの普段の指導のおかげですな」
 持ち曲の数があまり多くないALKALOIDは、ツアーの最中、何度もセットリストや振り付けを変えた。MCもマンネリにならないようトークのネタは毎回練っていったのだ。そのおかげで、ここ一ヶ月はライブのこと以外を考えるのがとても難しかった。
「学業をおろそかにしないよう、アイドル活動を続けるのは難しいということがよく分かったよ」
「おれ、宿題まだ終わってない~」
「ふふ、帰ったらお勉強だね」
 肉汁がアミの下に落ちて、ジュッという音がする。食欲をそそる匂いと音に誘われて、皆は焼き上がった肉や野菜を各々の皿にとる。一彩はタレ用に部屋が分かれた器に、肉と野菜をそれぞれ並べてしまい、藍良に笑われた。教えなくてごめんと謝ってから、藍良は一彩に焼き肉のタレやぽん酢や調味料を、好みの分だけ手元に置いておくことを教えた。
 一彩は早速、焼けたばかりのカルビに少し塩をつけて口に運んだ。口の中に肉の風味が広がって幸せな気分になる。「店オリジナルのこだわりのタレです」と丁寧な解説ポップがついているタレもいただくことにした。濃くて辛いのに、上品な味のするタレだった。きっと素材がいいのだろうと思う。同室の椎名ニキがホールトマトから作ってくれるトマトソースが、市販のケチャップとは違う風味を出すのと原理は同じなのだろうと思った。
 全員に一杯ずつ配られたご飯を一口食べれば、焼き肉のタレの塩辛さの後だからか、やけに甘く感じる。
「そういえば、マヨさんは来週は仕事入ってるんだっけ」
 しばらく全員が肉に夢中で無言だったが、藍良がそんなことを口にした。追加のためのメニューを眺めていたマヨイは、一度それを閉じて返事をする。
「は、ハイ……雑誌のグラビアなので一日で終わりますが」
 マヨイは週明けに、有名アイドル雑誌の巻頭グラビアの撮影が決まっていた。ヘアアレンジを含むファッションを特集されるらしい。まだオフレコなのでここだけの話にしないといけないが、撮影されるマヨイ本人よりも藍良が、その仕事を楽しみにしていた。
「い~な~、タッツン先輩とヒロくんもドラマの撮影があるんでしょ。おれだけ暇だよォ」
 藍良の言うとおり、巽は恋愛ドラマで、主人公とヒロインを取り合うことになる恋敵を演じている。ヒロインが仕事帰りに通うカフェの若い生意気な店員、というキャラづけだ。初登場回は既に放送されていて評判は四人の耳に入っている。ALKALOIDでは最年長の巽がドラマでは「二十代前半」の「年下の男」枠を演じているのが新鮮だと藍良が熱く語っていたのを一彩はよく覚えている。後半からは出番が増えるので来週からは撮影に集中するらしい。
 一彩は、来季からの学園ドラマの主演が決まっていた。まだ撮影開始前だというのにSNSでは既に話題になっている。人気少女漫画のドラマ化というだけでも注目を集めているのに、その主演に新人アイドルが抜擢されるということでさらに注目度が高い。もちろん、良い意味でも、悪い意味でもだ。原作ありの作品にアイドルが抜擢されるということ自体はよくあることで、アイドルファンは喜び、原作ファンは難色を示すというのもよくあることだ。それは、いつの時代も変わらない。しかし、大きな仕事には変わりないので、緊張している一彩の気持ちはよそに、藍良はその仕事をとても羨ましく思っていた。
「藍良さんも、ラジオのお仕事があるじゃないですか」
 その「羨ましい」という気持ちが顔に出ている藍良に、巽が窘めるように言う。藍良は毎週の平日の真ん中に放送される「いま熱いアイドル」を紹介する番組を担当している。収録されてからオンエアまで待たなくていいのと、深夜に放送されるので寝る前にオンエアを聴いて自身のトークを聴き返せるのがいいところだ。
「あれは慣れたからあって当たり前にな……ってちゃダメなんだけど。ううん、でも新しい仕事欲しい~」
 藍良がジュースのストローを口に含みながら唇を尖らせる。
「藍良のラジオ、楽しそうに話す声に元気をもらえるから、毎日聴いてるよ!」
「ま、毎日? 週イチの二十分番組なのに?」
 驚く藍良に、一彩がスマホを取り出して見せる。そこには、藍良のラジオ番組を録音したファイルが溜め込んであった。ついでに、藍良がSNSにアップしている自撮りを保存しているのも見つかってしまったが気にしない。アップされている画像を保存する方法を教えてくれたのは、他でもない藍良だからだ。
「ウム! ラジオの録音の仕方をひなたくんに教わってね」
「は、恥ずかしいからやめてよォ~! ヒロくんはおれの話を直接聞いてくれればいいの!」
「それももちろん大歓迎だよ!」
 藍良にスマホを押し返され、そのついでにぽかぽかと胸を叩かれる。お行儀が悪いですよ、と窘めるマヨイと巽も笑っていた。

 その後も仕事やプライベートの話に花を咲かせながら、お腹いっぱいに食事をした。腹ごなしにホテルの施設を見て回り、マヨイ以外の三人で大浴場を利用する。マヨイだけはどうしてもと言って、部屋の風呂を利用するのだと先に部屋に帰ってしまった。
「明日はゆっくり起きて構いませんが、朝食をとるならビュッフェの受付は九時半までだそうです。チェックアウトは十一時までですよ」
 風呂のあと隣同士の部屋に分かれる前に、巽が明日の予定を確認してくれた。先ほどの食事の際、四人とも明日の寝坊には大賛成だったので、受付時間ギリギリに朝食の会場に集まることになるだろう。
「はーい! おやすみなさい」
 一彩と藍良は巽に挨拶をして、自分達の部屋へと戻った。
「は~、大きいお風呂はやっぱり気持ちがいいよねェ」
「う、ウム……」
 ほかほかと熱を帯びている藍良に笑顔を向けられると、一彩は途端に恐縮してしまった。何故だろう、この部屋で二人きりになるといつも通りに振る舞えない。
 ホテルの部屋という無機質な空間が、逆に藍良という存在を際立たせているのだろうか。藍良を意識すると、先ほどの風呂での様子が脳裏に蘇ってくる。
 誰かと風呂に入ることにやっと慣れてきた一彩だったが、やはり今日は「藍良と風呂に入ること」自体に気が気でなかった。隣で身体を洗う藍良の仕草、一緒に湯に浸かりながら楽しそうにおしゃべりをする藍良の表情。その一つ一つが鮮明に思い出されて、顔が熱くなる。
 藍良は部屋に着いてすぐ、ホテルが用意している寝間着に着替えて、念入りなスキンケアを始めた。ヘアバンドで前髪を上げて、化粧水や乳液などを塗っている姿が鏡越しに見える。寝る前の藍良のいつもの行動なのに、なんて隙だらけなんだろうと思ってしまった
「ほらァ、ヒロくんもちゃんとケアして!」
 何となくその姿を眺めていたら鏡越しに目が合って、藍良に怒られてしまった。
「えっ……化粧水ならお風呂を出てすぐつけたよ」
「それだけじゃダメ! ほら、こっちおいで?」
 藍良に手招きされて、一彩は藍良に代わってもらって鏡台に座る。
「化粧水は最初に一緒に選んだのと同じやつ?」
「うん」
 藍良は旧館で一緒に過ごしていたころ、一彩にスキンケアのやり方を教えてくれた。その際、藍良と同じものを一通り揃えた。いずれ自分に合うものを見つけるようにと言われていたが、ずっと同じものを使っている。
「別に自分で好きなの買えばいいのに。じゃあおれの使っていいよォ」
 そう言って藍良が一彩の目の前に、使う順番にケア用品を置いてくれた。
 藍良の指示でスキンケアを行い、歯磨きをして、それから一緒にストレッチを行う。一彩が汗をかかない程度に軽く筋トレをするのを見て、藍良も真似をした。
 マッサージをねだられた時は焦ったけれど、断るのも変な気がして、一彩はベッドに横になった藍良の全身を念入りにほぐしてあげた。藍良もお礼に一彩をマッサージしてくれると言ったけれど、それはなんとか断った。
 そんな拷問のような時間が過ぎ、一彩は自分のベッドに座ってふぅと息をついた。時間はまだ夜の九時半。色んな意味で疲れてはいるが、寝るにはまだ早い。というより少しもったいない。せっかく藍良と二人きりなのにその時間を自分から終わらせてしまうのは嫌だ。そんなことを考えていたら、藍良が突然一彩のベッドに上がってきた。
「な、何、どうしたの藍良」
「えー、だってまだ寝るのもったいないじゃん。テレビ見よ」
「あ、ああ……テレビだね。ちょっと待ってね」
 一彩は夕方にテレビを使った時にベッドの上に適当に投げたリモコンを探し、藍良にバラエティ番組を点けてあげた。ESのアイドルも何人か出演したことのある番組だったので、藍良が「チャンネルはこれでいい」と満足した。
 そこからは他愛のない会話をしながら、テレビを眺める時間が過ぎた。藍良も寝るのがもったいないと、同じ感情でいてくれたことが嬉しい。しかし、そう浮かれているだけではいられなかった。テレビがあるのはシングルベッドの足下側の壁。二人がテレビを見やすいようベッドに並んで座るとどうしても距離が近くなる。すぐそばに藍良の体温があるのを感じて、一彩の鼓動は早鐘を打った。そんなことはつゆ知らず楽しそうに話をしている藍良は、伸ばした足を声に合わせて動かしている。少しでも動けば藍良に触れてしまいそうな気がして、一彩は膝を抱えて座っていた。
 それでも「ねえねえ」と声をかけてくる藍良が肩や背に触れてくるので気が気でない。普段はスキンシップが過多で怒られるのは一彩のほうだし、藍良を抱きしめて怒られたり騒がれたりするのも一彩なのに。今は「迂闊に触れないで欲しい」と喉まで出かかっている。そんなことを口にすれば「何を言っているんだ」という顔をされるか「お前が言うな」というツッコミをくらうに決まっている。それに、本音のところでは触れて欲しくないのではない。もっと触れて欲しいし、もっと触れたい。けれど二人はそれを好しとしてしまえるような関係ではないのだ。
 この時間がずっと続いて欲しい。けれど、どうにかなる前にこの時間が終わらないとまずい。そんな相反する感情をぐるぐると巡らせていたら、意外な形で突然終わりが来た。
 何か重たいものが肩に乗って、一彩が驚いて隣を見る。藍良が一彩の肩に頭を乗せて眠っていた。シャンプーのいい香りがする。藍良の頭が自分の肩からずり落ちて倒れそうだったので、一彩は慌てて藍良を抱き止めた。
「藍良、藍良」
「んぅ~……」
 声をかければ反応はあるが、起きる気配がない。ピクッと動く長い睫毛はまぶたを持ち上げることはなく、閉じられたままだ。やはり、疲れていたんだろう。一彩はほっとしたような残念なような複雑な感情を覚えた。すーすーと寝息を立てるかわいらしい唇に、しばらく見とれていた。
 一彩は眠ってしまった藍良を抱き上げ、藍良が選んだ鏡台側のベッドへ運ぶ。心臓の音は既に速い調子で全身に響いている。胸に抱いている藍良にその音が聞こえて、起こしてしまうのではないかと思うほどに。
 軽いその身体をそっとベッドに寝かせて布団をかけてあげると、藍良が安心したようにすぅっと深く息をした。油断しきった寝顔から目が離せない。美容液をたっぷり使って整えられた肌に触れると、藍良が喉のところで甘えるような声を出して、一彩の手に頬ずりをしてきた。
「……藍良」
 だめだ、これ以上は。一彩は慌てて踵を返して、自分のベッドの方へと逃げた。
 もうずっと身体が熱い。頭がくらくらする。ベッドに倒れて丸くなった。藍良が座っていたところのシーツがほんのりと温かいことにも気づいてしまった。吐く息がそれ以上に熱く、興奮しているのを自覚する。
 今まで何度も二人きりになったことはあるし、同じ部屋で寝るのも、一緒に風呂に入るのも初めてじゃない。それなのに。出会ったころ星奏館の旧館で一緒に過ごして居た頃には無かった感情が、一彩の中に芽生えていた。
 好きだ、藍良。何度も伝えてきた言葉なのに、その感情が「欲」を孕んでいることに気づいてしまった。純粋な「好き」じゃない。藍良が「欲しい」と、身体が求めているのだ。藍良の気持ちや都合を無視してすべて自分の良いようにしたいという感情。身勝手で汚い欲望が身体の芯を炙るように熱していく。鈍い疼きを溜めたその部分に触れると、無視できないくらいに熱くなっていた。
「藍良……」
 声を出さずに吐息だけで名前を呼ぶ。その名前に呼応して、また身体が疼いた。
 ベッドサイドにスイッチがあったので、部屋の明かりを消す。部屋が適切な温度に保たれているせいかエアコンが静かで、藍良の寝息が聞こえてきた。
 目を閉じても、藍良の油断した表情と一彩に心を許している態度や仕草が浮かんできて消えない。だからといって目を開けても、暗闇で何も見えず結局藍良のことを思い浮かべてしまう。本当は今すぐに藍良の身体を抱きしめたい。一緒のベッドに入って眠りたい。しかしそれをしてしまえば、次に自分がどんな行動をしてしまうのか。一彩は、それが怖い。
 一彩は、テレビの前に置いてあるティッシュの箱を掴んでベッドの上に乱暴に投げた。どさっと身体をベッドに投げだし、自身の身体で一番体温の高い場所に、触れる。
「あい、ら……っ」
 手を動かせば、興奮が快感になって脳に届く。同時に、今日の藍良の姿や表情、感触が五感に蘇ってくる。握った藍良の手の柔らかさ。化粧水の水分を含んだ白い肌、藍良の手が自分に触れる時のもどかしさ。
 そして、ベッドに全身を横たえてマッサージを強請る警戒心の無さ。触れたらくすぐったそうに身を捩ってくすくすと笑う仕草。その全部に翻弄されて、身悶えするような感情に襲われている。こんなの、自分じゃないみたいだった。
 藍良のそばにいられるだけでよかったはずだった。手を繋いでハグをすることはあっても、それ以上は求めていなかったはずだった。なのに。
「はぁ、あっ……」
 生理現象を処理する以外に、この行為に意味なんて無かった。今までこういうことをするとき、藍良のことを考えたことが無いと言えば嘘になるが、それでもこんな風に具体的に、藍良の仕草や表情、身体の部位などに「性的な」魅力を感じたことは無かったはずだ。ただかわいいと、愛らしいと思っていただけだったのに。今日、少しの間ホテルで一緒に過ごしただけで、自分を興奮させるための材料が揃ってしまったようだ。
 藍良の手のひらの感触を思い出しながら、自身を扱くのにひどい罪悪感を覚える。けれど、止まらなかった。心苦しいと思うのに、それを本能が気持ちのいいものとして肯定してしまうのだ。
「んっ……はぁ、藍良、あい、ら……!」
 汗ばんだ肌に衣服やシーツが貼り付いて気持ち悪い。手のひらで自身を扱いて、指の腹で特に感じる部分を刺激する。絶頂の近さを感じて、一彩は手探りでさっき用意したティッシュを掴んだ。
「くっ……あぁっ」
 手のひらのティッシュの中に、一彩は己の興奮が作り出したものを吐き出した。さっき手探りに動かした手が、シーツに残った藍良の体温に触れた気がして、それが呼び水となって達したのだ。
「はぁ……はぁ……」
 急激に冷めていく興奮と体温。少しずつ冷静になる意識の中では、残るのは罪悪感だけだった。
「ごめん……藍良」
 枕に顔を埋めると、じわりと涙が出てくるのが分かった。


◇◇◇

 その日、一彩はライブをしている夢を見た。ALKALOIDのライブが行われていて、ステージの上で振り返ってくれた藍良が「楽しいねヒロくん!」と笑顔で語り掛けてくる。自分もそれに応えようとするのだけれど、何故か声が出なくて。
 目の前に広がる客席では沢山のサイリウムが輝いているのに、波のような声援はちゃんと聞こえてきているのに、ファンの顔は一人も見ることが出来なかった。

 ファンはどんな顔をしている? なんて言っている?
 自分の名前を呼んでくれているだろうか。
 分からない。何も見えないし、聞こえない。
 自分だけがおかしくなってしまったのか。

 一彩は次のフレーズに備えてマイクを構えて息を吸う。
 けれどやはり、自分だけ声が出なかった。

◇◇◇

 はっと目覚めた時には、ひどい汗をかいていた。
 夢か、と思った時にはほっとしたが、同時にここがいつもの寮の居室ではないことと、隣のベッドで眠る藍良の寝息と、足元のゴミ箱に丸まっている物が、混乱している一彩を一気に現実に引き戻した。
「あ、あー……」
 喉に手を当てて、声を出してみる。「うん、声は出る」と確認して当たり前のことなのにやはりほっとした。
 ふらふらとベッドから立ち上がって、備え付けの洗面所で顔を洗う。藍良が置いてくれた化粧水を借りて肌を整えて、居室に戻る。
 時間はもうすぐ九時になるところだった。早くしないと、朝食の時間に遅れてしまう。
「藍良、起きて」
 枕を抱きしめてすやすやと寝息を立てている藍良を起こそうとして一彩は手を伸ばす。しかし、その手が藍良に触れようとした時、反射的にその手を引っ込めてしまった。
 なんだか、この手で触れてはいけないような気がした。自分のこの手が、この感情が、ひどく汚いもののように思えてしまったのだ。
 一彩は藍良を声だけで起こしながら、ハンガーにかけた服を強く掴んだ。

 この時以来、一彩は藍良に触れることができなくなった。



つづく
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