始まる前の話

 真夏の夜は、室内よりも外のほうが涼しい。寝付けなかった藍良は、エアコンがタイマーで動作を停止する音と、じわじわと高くなる室温にさらに入眠を阻害された。人間は一度「眠れない」と思ってしまうとなかなか寝付けないのが厄介なところだ。
 藍良はベッドを抜け出し、三人の仲間を起こさないよう、そっと扉を開けて外へ出た。寮の敷地内とはいえ寝巻姿で外に出るのはどうかと思ったので、練習着の上着を羽織る。『劣等生』ではないアイドルたちが眠る、星奏館本館の中庭まで歩いた。
 寮に越してきたばかりのころも、こうして眠れない夜に散歩をした。今夜も偶然、あの時のように桜河こはくに出会えたりしないだろうかと期待したが、今日は姿は見えなかった。

 藍良は中庭を彩る花壇の縁に腰掛け、ポケットに入れてきたスマホを取り出した。眠れないのならせめて、与えられた曲の歌詞とリズムを頭に叩き込もうと思った。そうすれば時間は無駄にならないし、じきに眠気もくるだろう。
 誰に与えられたかも分からない、ALKALOIDのデビュー曲。そして、もしかしたら唯一の曲になるかもしれないそれ。サンプル音源の熱のない音を聴きながら、脳内では仲間たちの声を想像して乗せ、自分のパートは自分で口ずさんでみる。
 音に耳を澄ませながら、コーチとして意外な才能を発揮したマヨイの指導や、ブランクを補って余りある巽の技術を思い出す。そして、一彩の秘めた才能を。歌詞にもある通り、それぞれが勝つための武器を持っている。
 ALKALOIDが、スタプロの手にある四枚の手札だとするならば。「切り札」が自分では無いことくらい、藍良は痛いほどに分かっている。毒にも薬にもならない、捨てられるカード。
 アイドルに関する知識と熱量には自信があるけれど、そんなものはアイドルが好きな人間なら、この業界にいる者なら知っていて当然のことばかり。

 昼間、偶然出会ったTrick Starの明星スバルに向かって一彩がかけた「アイドルとはなんだ?」という問いにすら、藍良の知識の中には正解と思われるものが多すぎて答えに迷う。
 それぞれにそれぞれの「アイドルらしさ」がある。では、自分だけの「らしさ」とは? それが分からないから、自分は今まで売れなかったんだと自嘲した。
 意外だったのは一彩だ。常識外れで、何も知りませんというような顔をして、頓珍漢な発言を連発しておいて、曲が流れると人が変わったように完璧な歌とダンスを見せつけた。ブランクはあるが伝説のソロアイドルであった巽と、すでに「指導者」としての一面を見せて一通りの驚きを買っていたマヨイはともかくとして、一彩には完全に意表を突かれた。
 一彩のことを、勝手に自分と同じレベルだと思っていたのだ。巽やマヨイに敵わないのなら、せめて一彩には負けないと。アイドルのことなど何も知らない一彩とともに技術を順番に習得して、一彩にアイドル知識を教えることで自分の面目を保てると高を括った。しかし、隣に立っていると思っていた一彩はいとも簡単に、藍良の目の前に見えていたステップを軽々と飛び越えてしまった。
 一瞬で置いて行かれた。目の前の一段を上がろうとしていた足は途端にすくんでしまったのだ。何か武道をやっているらしい一彩は、ずば抜けた身体能力とセンスで、マヨイの指導する内容を次々と習得していった。
 自分は今日のうちに基礎練の範囲を抜け出せなかった。驚きと情けなさが一度に襲ってきて、練習のあとこみ上げる涙を誤魔化そうと、一彩にひどい八つ当たりをしてしまった。
 今日の自分には、何一つ良いところがなかった。

 思考がだんだんと後ろ向きになってきたので、藍良は耳に流れている音楽を止めた。今はこの激しくかっこいいはずの曲調が、劣等生の無駄な足掻きにしか聞こえない。
 ほかに何かすることがあるわけでもなく、眠気もやってこない。藍良は空を見上げた。都会でも真夜中になれば星は見える。星奏館という名にふさわしい眺めだなと思った。
 しばらくして、足音が近づいてくるのに気が付いた。桜河こはくだろうか。そんな都合のいい事があるはずがないからきっと警備員だ。こんな真夜中にひとり中庭に座っていたら、何かあったと思うのが普通だ。
 適当な言い訳を考えながら振り向いたら、こはくでも警備員でもなく、天城一彩が立っていた。驚いて、藍良は思わず目を合わせてしまった。
「藍良」
 名前を呼んだだけの声から、心配の色が伺えた。
「何で来たの」
「藍良がひとりで出ていくのが見えた。……なかなか戻ってこないから心配したんだよ」
 一彩は起きているときはもちろん、寝ている間でも周囲の状況には敏感だ。おそらく足音を殺し息を止めて忍び寄っても、一彩には気づかれてしまうだろうと藍良は思っている。
「眠れないのかい」
 それと同じくらい、人の感情の機微も感じ取ってくれたらいいのにと思う。今は一彩と話す気分ではない。
 それでも一彩は「隣いいかい」と言って返事を待たずに藍良の側に座った。服の袖同士が触れそうで、一彩の体温が藍良の肌に届きそうな距離だ。近い。藍良は尻を浮かせて少し横にずれる。
 藍良のその仕草に、一彩が少し目を伏せた。気にさせてしまっただろうか。今座る位置をずらしたのは別に拒絶したかったからではない。一彩の他人との距離感がおかしいから、適切な距離を取っただけだ。いつもの自分なら「近い」と声に出してツッコミを入れるか、冗談でも返すのだけれど、生憎そんな気分でもない。何より、昼間に子どものような八つ当たりをした相手だ。気まずいのはこちらのほうなのだ。
「あれから、僕がなぜ君を傷つけてしまったのかについて考えていたんだよ」
 一彩が何の前置きもなくそう言った。藍良と二人になった時にと準備していたのだろうか。
「ふぅん、なんかわかったの」
 藍良は昼間、一彩のパフォーマンスを初めて目の当たりにして自分との差にショックを受け、つい思ったことをぶつけてしまった。

『無知な落ちこぼれのふりをしておれを騙してたんだ、ずっと裏切ってたんだァ!』

 ひどいことを言っているのは分かっていた。自分の態度が、子どもが駄々を捏ねているように見えるだろうことも。一彩は藍良が何を喚いているのか分からないといった顔をしていたし、実際にそう口にした。
 天才には凡人の気持ちが分からないんだと思ったらさらに悔しかった。けれどやはり、その態度は一彩のことも傷つけてしまっていたようだ。当然だろう。
「藍良は、自分にとって難しいことを、僕が簡単にやって見せたから悔しかった……ということだろうか」
 まるで国語の長文読解でも解いたような答え。けれどその内容は、昼間よりも藍良の心に近づいていた。
「……だいたい合ってるけど」
 本当はもっと複雑だけれど的を得てはいるので、一応肯定してやる。一彩がいくらか安心したような表情をした。
「その気持ち、僕にも分かるよ。……って言ったら、また君を怒らせてしまうかな」
 藍良は『一体何が分かるって言うの』と言いかけて顔を上げたが、一彩の言葉の後半を聞いて首を横に振った。
「ううん……」
 一彩の慎重で遠回しな物言いを聞いていると、藍良の方がいたたまれなくなってくる。腫物に触るかのような態度をいつまでも続けられては困る。藍良は一彩の話を聞くことにした。

「僕の兄さんがすごい人でね。何でもできて、何でも知っていて、尊敬できる人なんだ」
 そう言う一彩は少し目を伏せていた。久しぶりに会った兄は性格が豹変していたと言っていたのを藍良も覚えている。本当は「尊敬できる人だった」と過去形にするところなのだろうが、あえてそうしないことに一彩の一抹の希望が伺えた。
「だから僕も必死になって、兄さんの弟としてふさわしくなれるよう努力した。できないと悔しかったし、兄さんに置いて行かれるのが怖かった」
 普段は自信満々で、前向きな一彩が、兄の話をするときは少し頼りなげに見える。弱みを見せてもらえているのが少し嬉しいのと同時に、一彩もこんな顔をするのだなと、安心した。
「でも、僕が兄さんの何倍も訓練しても、兄さんは軽々とすべてのことをこなしていた。それは悔しかったよ。みっともなく泣いたこともあったと思う」
 そう言って、一彩も藍良と一緒に空を見上げた。聞く話によると一彩の故郷は想像を超えるほどの田舎のようだけれど、やはりたくさん星が見えるのだろうか。
「そのことを思い出したら、藍良もこういう気持ちだったのかなって、思ったんだよ」
 藍良の肩に、何か温かいものが触れた。一彩の手のひらだった。驚いた藍良が一彩の顔を見ると、その視線に捕まる。
「でも、また僕の独りよがりな考えかもしれないから、君に確かめたかった。……僕は、的外れなことを言っているだろうか?」
 さっき離したばかりだった距離をまた詰められた。主人にそっぽを向かれた犬みたいに、不安そうな目をしている。一緒に過ごし始めてまだ間もないけれど、どうにもこの顔には弱い。こちらが突っかかったのだから言い返してくればいいのに、一彩は必ず謝るから調子が狂う。今まで出会ってきた友人のどれとも似つかないから、どう扱っていいのか未だにわからない。
 藍良は観念して、折れた。
「……合ってるよ。でも、そんな顔しないでよ。おれが勝手に劣等感で死にそうになってるだけで、ヒロくんは悪くないんだからさ」
 一彩が申し訳なさそうな顔をすればするほど、藍良は自分がどれだけ幼い態度を取っていたのかを思い知る。今謝るべきなのは自分のほうだ。
「ヒロくん、今日……ひどいこと言ってごめん」
「どうして藍良が謝るんだ、君をそんな気持ちにさせたのは僕なのに」
「だから、ヒロくんは悪くないって言ってるでしょ!」
 また声を荒げてしまって、藍良ははっとして数秒口を噤んだ。一彩の表情がまた不安そうに曇る。一体、いつもの威勢はどこに置いてきたのか。
 藍良は深呼吸とため息の中間のように深く息を吸って、吐いた。その間に言葉を選んで、慎重に話す。
「ヒロくんはさァ、何でもできるお兄ちゃんが憎いわけ?」
 藍良の質問の意図が伝わっているかはわからないが、一彩はシンプルに質問に答える。
「……故郷にいたころの兄は尊敬に値する。僕が兄のようにできないのは、僕自身のせいだ」
 その言葉を聞いて、藍良はいくらかほっとした。一彩とは会話のキャッチボールが上手くいかないことが多いので、話が逸れたらどうしようかと思っていたのだ。
「それと同じ。おれも悔しいけど、ヒロくんが憎いわけじゃない。ただ、できない自分が情けないと思ったんだよ」
 時には誰も悪くなくとも、傷つき泣く人はいる。巽が一彩を諭したその言葉を、一彩なりに咀嚼してきたのだろう。藍良はそれが嬉しかった。
「これはおれの問題。おれがちゃんとしない限り、おれが勝手に傷つくのも止まらない。だから、また八つ当たりしちゃうかもしれないから先に謝っておくねェ、ごめん」
 藍良は笑って見せた。冗談めかして言えば空気が軽くなると思ったし、実際上手くいったようだ。一彩は戸惑っているような顔をしていたけれど、その表情からは安心の色も伺えた。
「う、ウム……心得ておこう。でも、できれば傷つける前に回避したいんだけど」
「そんなこと気にしてたらダメだよ。ヒロくんはせっかく才能があるんだから、おれに構ってないでどんどん強くなってよ」
 ALKALOIDのリーダーでしょ、と言って一彩の背中を叩いてやる。少し触れただけでもわかる。一彩の細身ながらも鍛えられている身体は一朝一夕で得たものではないはずだ。それが藍良のことを気にして丸くなっているのは藍良にとっても不本意だ。
「分かった。でもこれだけは忘れないで欲しいよ。君がもし、天城一彩を才能のある人だと言ってくれるのなら、その人は間違いなく君の味方だからね」
 膝の上で所在なげにしていた手を、一彩に握られた。驚いて顔を上げると、一彩と目が合った。明るい碧色の瞳が、至近距離で藍良を捕まえる。
「僕は君を置いて飛んでいったりしないよ。だから一緒に、闘って欲しい」
 まるで愛の告白のようにまっすぐで、純粋で力強い。大げさな一彩の物言いに、藍良は思わず吹き出して笑った。
「あはは、カッコイイなァ、ヒロくんは」
 近い近い、と言って藍良は一彩に手を放させ、肩を押し返す。この距離感にはどうも慣れないけれど、うっかり安心してしまいそうだ。
 しばらく笑いが止まらなかった。一彩も、そんな藍良を見てやっと笑顔を見せた。
「少しは元気が出たかな」
「うん、ありがと。やっと眠れそう」
 帰ろうか、と言ってふたり一緒に立ち上がった。
 仲間たちと一緒に暮らしている旧館へと並んで向かう。まるで護衛か何かのようにぴったり隣を歩いている一彩を見上げて、もう不安そうな顔をしていないのを確認して、ほっと胸を撫でおろした。
「ヒロくん。……練習、頑張ろうね」
「もちろんだよ。僕は君がいればもっと強くなれるよ」
「はいはい。そういう事は軽々しく言ったらダメだからねェ」
「な、何でダメなのかな、僕はまた間違ったことをしたかい」
「ああもううるさい、今日はもう寝るからァ!」
「あ、藍良! 待ってくれ」
 藍良の機嫌を伺うように回りをウロウロしている一彩を適当に宥めながら、やはりこいつはどこかズレているなと再確認した。
 昼間の、いきなり完璧に踊って見せた男と同じには見えない。これが一彩の弱点だとするならば、そのズレを修正してやることくらいは、自分にもできる。
 完璧な人などこの世にはいないのかもしれないと、そう思って安心するのは少しずるいだろうか。
 藍良は、今は頼りなげに見える一彩と一緒に、部屋へと帰った。同じ屋根の下で暮らし始めてひと月ほど。すでに二人の間には絆が芽生え始めている。

 そして、ALKALOIDの初ステージは数日後に迫っていた。




おわり
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