【ログ】Xで公開したひいあい短編
ライブの宣伝を兼ねた雑誌の撮影の合間、控室には僕と藍良の二人だけがいた。
メイク台に教科書やノートを広げて、それぞれ勉強をしていた。
巽先輩とマヨイ先輩はまだ撮影中だ。扉の向こうからはプロデューサーやカメラマンが指示を出す声が聞こえる。きっと、何度もテイクを重ねているのだろう。
この空間だけが、ぼんやりと僕たちだけに用意されているみたいだった。
明るすぎない照明と、規則的なエアコンの風音。何もしゃべらなくても、ちゃんとそこにいるとわかるこの静けさが、心地いい。
藍良は数学の宿題をやっているようで、時々うんうんと唸りながら問題を解いている。
僕は邪魔にならないよう、静かにテキストの文字を追う。
先ほど声をかけたら、藍良に「ヒロくん、うるさい」と注意されてしまった。今日は学校を休んで仕事に来ているのだから、空き時間に少しでも勉強を進めようと提案したのは僕だ。それなのに、僕が藍良の集中を途切れさせるわけにはいかない。ちらと隣を盗み見ると、応用問題に苦戦している藍良の横顔がかわいらしい。ついた頬杖が、柔らかいほっぺたの形を変えている。
藍良に気づかれる前に視線を戻すと、鏡の僕と目が合った。口角が上がっている。藍良と静かに過ごしているこの時間が、僕は大好きだ。そうだろう? と、心の中で語りかけてみる。
「ねェ、ヒロくん……」
藍良が小さく呟くように僕を呼んでくれた。
「どうしたの?」
声をかけると、藍良は唇を少し尖らせたままノートを睨んでいた。
ちらちらと僕を見ては、またノートに視線を戻す。その繰り返しを何度か経てから、藍良はそっと僕の方を向いた。
唇が、言葉を探すように動いては止まる。藍良なりに、ずっと迷っていたんだと気づく。
だから、その一言がとてもいとおしかった。
「……教えて、欲しい」
胸の奥が、ふわりと温かくなる。藍良はわざとらしいくらい素直じゃないけれど、時々こうして頼ってくれるのが嬉しい。
「ふふ、いいよ」
軽く椅子を移動して肩を寄せ、藍良の小さく丸い文字が並ぶノートを覗き込む。三角比を使って図形の面積を求める、応用問題だった。注意深く見てみると、基礎の問題はほとんど正解しているようだ。
「難しそうに見えるけれど大丈夫。図形をふたつに分けて考えるんだよ」
藍良のノートの端に図形を描いて補助線を引いてあげた。すると藍良が「あっ」と小さく声をあげて、早速問題に取り掛かる。
「こう?」
目をキラキラさせてノートを見せてくれる藍良。さっきまで小さく丸かった文字が、解のところだけ大きく走り書きになっていた。答えにたどり着けた嬉しさが滲み出ている。
「そう、正解」
「やったァ! さすがヒロくん」
藍良が安心したように笑う。ふぅと力を抜いて背もたれに体重を預け、僕の手元に目を留めた。
「それ……」
藍良に数学を教えるためにメイク台に置いたのは、フランス語文法の基礎テキストだ。
僕は栞代わりに挟んだペンを取って、藍良に中身を見せる。見せびらかしたかったわけじゃないけれど、気づいてくれたのが嬉しい。
「勉強し始めたんだよ」
「なんでヒロくんが?」
驚いたように藍良が問い返してくる。その目には既に少し照れが混ざっていた。僕が今から何を言うのか、ある程度は予想できたのだろう。
「前に、皆とフランスに行った時にね、フランス語が話せたら素敵だなって思ったんだ」
「それは、おれもそう思うけど」
「うん。フランスは藍良にとって大切な場所だから。僕も知りたいなって思ったんだよ」
その言葉に、藍良は目を瞬かせ、ノートの端を指でなぞった。
「ずるい、ヒロくん。おれより先に上手くなりそう」
「確かにずるいのかもしれない。動機は藍良だから」
「何それ」
藍良が慌てたように、僕の肩に頭をぐりぐりと押しつけてくる。くすぐったいけれど、それが照れ隠しだと分かって、ますます嬉しくなる。
「教えてあげるよ。一緒に覚えよう?」
僕がそう言いながら、そっと藍良の手の上に手を重ねると、藍良が目を伏せた。じわりと、お互いの体温が手を通じて馴染む。
「ヒロくんって、ほんとヒロくんだよね」
「ふふ、そうだよ」
藍良が無言で僕の肩に頭を乗せる。
ふたりの間に、少しだけ静かな時間が戻ってきた。
遠くで、撮影の終わりを告げる声が聞こえてくる。この空間のドアが開かれてしまう前に——もう少しだけ。
僕は藍良の柔らかな髪を頬に感じながら目を閉じた。
おわり
メイク台に教科書やノートを広げて、それぞれ勉強をしていた。
巽先輩とマヨイ先輩はまだ撮影中だ。扉の向こうからはプロデューサーやカメラマンが指示を出す声が聞こえる。きっと、何度もテイクを重ねているのだろう。
この空間だけが、ぼんやりと僕たちだけに用意されているみたいだった。
明るすぎない照明と、規則的なエアコンの風音。何もしゃべらなくても、ちゃんとそこにいるとわかるこの静けさが、心地いい。
藍良は数学の宿題をやっているようで、時々うんうんと唸りながら問題を解いている。
僕は邪魔にならないよう、静かにテキストの文字を追う。
先ほど声をかけたら、藍良に「ヒロくん、うるさい」と注意されてしまった。今日は学校を休んで仕事に来ているのだから、空き時間に少しでも勉強を進めようと提案したのは僕だ。それなのに、僕が藍良の集中を途切れさせるわけにはいかない。ちらと隣を盗み見ると、応用問題に苦戦している藍良の横顔がかわいらしい。ついた頬杖が、柔らかいほっぺたの形を変えている。
藍良に気づかれる前に視線を戻すと、鏡の僕と目が合った。口角が上がっている。藍良と静かに過ごしているこの時間が、僕は大好きだ。そうだろう? と、心の中で語りかけてみる。
「ねェ、ヒロくん……」
藍良が小さく呟くように僕を呼んでくれた。
「どうしたの?」
声をかけると、藍良は唇を少し尖らせたままノートを睨んでいた。
ちらちらと僕を見ては、またノートに視線を戻す。その繰り返しを何度か経てから、藍良はそっと僕の方を向いた。
唇が、言葉を探すように動いては止まる。藍良なりに、ずっと迷っていたんだと気づく。
だから、その一言がとてもいとおしかった。
「……教えて、欲しい」
胸の奥が、ふわりと温かくなる。藍良はわざとらしいくらい素直じゃないけれど、時々こうして頼ってくれるのが嬉しい。
「ふふ、いいよ」
軽く椅子を移動して肩を寄せ、藍良の小さく丸い文字が並ぶノートを覗き込む。三角比を使って図形の面積を求める、応用問題だった。注意深く見てみると、基礎の問題はほとんど正解しているようだ。
「難しそうに見えるけれど大丈夫。図形をふたつに分けて考えるんだよ」
藍良のノートの端に図形を描いて補助線を引いてあげた。すると藍良が「あっ」と小さく声をあげて、早速問題に取り掛かる。
「こう?」
目をキラキラさせてノートを見せてくれる藍良。さっきまで小さく丸かった文字が、解のところだけ大きく走り書きになっていた。答えにたどり着けた嬉しさが滲み出ている。
「そう、正解」
「やったァ! さすがヒロくん」
藍良が安心したように笑う。ふぅと力を抜いて背もたれに体重を預け、僕の手元に目を留めた。
「それ……」
藍良に数学を教えるためにメイク台に置いたのは、フランス語文法の基礎テキストだ。
僕は栞代わりに挟んだペンを取って、藍良に中身を見せる。見せびらかしたかったわけじゃないけれど、気づいてくれたのが嬉しい。
「勉強し始めたんだよ」
「なんでヒロくんが?」
驚いたように藍良が問い返してくる。その目には既に少し照れが混ざっていた。僕が今から何を言うのか、ある程度は予想できたのだろう。
「前に、皆とフランスに行った時にね、フランス語が話せたら素敵だなって思ったんだ」
「それは、おれもそう思うけど」
「うん。フランスは藍良にとって大切な場所だから。僕も知りたいなって思ったんだよ」
その言葉に、藍良は目を瞬かせ、ノートの端を指でなぞった。
「ずるい、ヒロくん。おれより先に上手くなりそう」
「確かにずるいのかもしれない。動機は藍良だから」
「何それ」
藍良が慌てたように、僕の肩に頭をぐりぐりと押しつけてくる。くすぐったいけれど、それが照れ隠しだと分かって、ますます嬉しくなる。
「教えてあげるよ。一緒に覚えよう?」
僕がそう言いながら、そっと藍良の手の上に手を重ねると、藍良が目を伏せた。じわりと、お互いの体温が手を通じて馴染む。
「ヒロくんって、ほんとヒロくんだよね」
「ふふ、そうだよ」
藍良が無言で僕の肩に頭を乗せる。
ふたりの間に、少しだけ静かな時間が戻ってきた。
遠くで、撮影の終わりを告げる声が聞こえてくる。この空間のドアが開かれてしまう前に——もう少しだけ。
僕は藍良の柔らかな髪を頬に感じながら目を閉じた。
おわり
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