Re:5 魚と最後の夏休み
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ー…チッ…チッ…
「………。」
「ピチッ…ピチピチッ…」
あれから一時間、事務所には珍しく来客も電話もなく、九条のペンの音とコウノスケフィッシュ(仮)のはねる音だけが響いていた。
極力目を向けぬよう水槽とは逆方向を向いていた九条だったが、興味を持って水槽を覗きこんでいたタマに声をかけた。
「…食べちゃダメですよ、一応。」
「わふっ。」
ー…ガンッ…ガンガンガン…
「タマ、いい加減に………あれ?」
「…ピチピチッ…。」
タマが水槽を叩いていると思い仕方なく水槽の方を振り返った九条だったがそこにはタマの姿はなく、
代わりにエサが欲しそうに九条を見つめるコウノスケフィッシュ(仮)の姿があった。
「……エサなら水族館で頂いて下さい。」
「…ピチピチッ…。」
コウノスケフィッシュ(仮)にそう冷たく言い放つと、九条はまた何事もなかったかのようにペンを走らせ始めた。
だが次の瞬間、背後からまた先ほどと同じような何かが水槽を叩く音が響き始め、九条は顔を上げた。
ー…ガンッ…ガンガンガン…
「・・・・・この魚…!?」
振り返ってみても相変わらずタマの姿はなく、
音の正体が恐らくこのコウノスケフィッシュ(仮)であることを悟った九条は、同時に息を呑んだ。
(そういえばこの魚って…釣り上げる時大人三人がかりだったんでしたよね…。)
「…ピチピチッ…。」
「……分かりましたよ…やればいいんでしょ、やれば。」
九条はハアと息を吐き意を決したようにエサを持つと、出来うる限りの距離を保ち、少しずつエサを水槽に落とした。
エサを入れてもらったコウノスケフィッシュ(仮)は待ってましたと言わんばかりに、嬉しそうにそれに食いついていた。
ー…ガンッ…ガンガンガン…
「わ…分かりましたから、水槽を叩くのはやめなさい。」
「…ピチピチッ…。」
可愛らしい姿とは裏腹に大食らいで怪力の魚を前に、九条は完全にそのペースに巻き込まれてしまっていた。
まるで意思疎通が出来ているかのようなコウノスケフィッシュ(仮)にエサをあげながら、九条はふと佐奈の言葉を思い出していた。
"九条さん!!やっぱり交流をすることで一歩前進しましょう!!そうすればきっと見えてくるものが沢山あるんですから!!"
「……まあ、そういうことにしておきましょうか。」
「…ピチピチッ…。」
「はいはい、そんなに急いで食べなくてもあげますから…!!」
「………お…お邪魔致します。」
「!!!!?」
「お久しぶりです…九条さん。」
九条がコウノスケフィッシュ(仮)にエサをあげている横で聞こえた控えめな声。
その声にに九条が慌てて振り返ると、そこには水族館職員の格好をした小春が微笑ましい目線で九条を見ながら立っていた。
その時、九条はすべてを悟った。
佐奈が言っていた過去だのなんだのは魚のことではなく恐らく佐奈が呼んだのであろう小春の事だったのだと、
そして自分はこの瞬間、一人で魚に話しかけている痛い人間だと小春に思われてしまったであろう…という事を…。
九条は穴があったら、いや、無くともこの場から一秒でも早く離れようと、秘かに心に誓ったのだった。
................................................................
ー…ピチピチピチ…
「…これで移し替えは完了です、お忙しい中ご協力ありがとうございました!!」
「……。」
手際よくコウノスケフィッシュ(仮)を水槽から移し替えた小春は、黙ってその様子を見つめていた九条に心配そうに言った。
「あ…離れがたいですか…?可愛がってらしたようですもんね…」
「あの勘違いされているようですが、さっき私はこの魚に話しかけていたのではなくbluetoothのイヤホンを耳に付けハンズフリーで通話をしていただけでですね、早くいなくなって欲しいと心から思っているので断じてそんなことはありません。」
「…クスクス…はい。」
珍しく必死で弁明をする九条が言葉を並べれば並べるほどその姿は微笑ましく見え、小春は嬉しそうに笑った。
九条は珍しく上手く取り繕えずにいる自分に嫌気が差し、バツが悪そうに話題を変えた。
「それにしても水族館で働いていたんですね…驚きました。」
「はい…!!佐奈さんに会った海水浴場のすぐ近くの水族館で一年ほど前から…。佐奈さんに会った時は私も本当に驚いたんですが、皆さんお変りなく元気そうで良かったです。」
「…大丈夫なんですか?それから。」
「大丈夫…と言うと…?」
「また変なのに騙されたりしてないかって聞いてるんです。」
九条から出た自分を心配してくれる言葉に小春は少し驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうにニコリと笑った。
「…大丈夫です、今はお付き合いしている人もいないですし、水族館の方も皆いい方ばかりです…!!」
「そうですか、それは良かった。」
「……何だか九条さん、お父さんみたいです。」
「……私はそんなに歳じゃありません。」
「ふふっ…すみません…。」
数年前の自分が、こんな風に九条と穏やかな時間が過ごせるなんて思ってもみなかった。
小春は九条に再び会えるように手引してくれた佐奈に感謝しながら、ペコリと深く頭を下げた。
「あ…あの…今日は久しぶりに九条さんと会えて嬉しかったです。」
「………嬉しい…?」
「あ…えっとあの…これもし良かったら…ぜひ遊びに来てください!!良かったら案内しますし…これどうぞ…お待ちしておりますので…!!」
「え…!?ちょっとあの…!!」
「お邪魔致しましたっ…!!」
ー…バタバタバタ……
「………。」
勢い良く九条に何かを渡した小春は、顔を真っ赤にしてそれだけ告げてコウノスケフィッシュ(仮)と共に事務所を去ってしまった。
訳もわからぬまま小春の背中を見送った九条は、強引に渡されたものを改めて見てハアと溜息を吐いた。
「……はあ…またこれですか…。」
九条の手に握られていたそれは、小春が働いているという水族館のチケットだった。
奇しくも数日前自分が破り捨てたものと同じそのチケットを前に、九条の顔はほんの少し穏やかなものになっていたのであった…。