堕ちよ花乙女

荷車を片付けると、急にどっと疲れが出てきた。台所の椅子に座って、壁にぐったりともたれる。チーズのいい匂いがする。薄目を開けると、ニコラが料理をしていた。鉤にぶら下がった鍋を、木べらでじっくりとかきまぜている。今日も具のない薄いスープと、固いパンだけ。もっと栄養のあるものを食べさせれば、ニコラの目もよくなるのに……。私は自分がふがいなく感じた。

「う……ゴホッ、げほっ……っ、」
「どうした?」
「ごめん、街で風邪をうつされたかも」
咳を耳ざとく聞きつけたニコラは妹の額に手を当てて、あまりの熱さにぱっと離した。
「パン粥を持って行くから、暖かくして寝てなさい」
「うん……ありがとう」
ニコラに抱えられて、寝室へ引きずられる。ベッドに潜りこむと、世界がぐらりと回った。頭がひどく重い。体の節々がずきずきと痛む。ニコラは自分の毛布も重ねて、腹のあたりをぽんぽんと優しく叩いた。風邪の自分より顔色の悪い兄に、胸がまた、つきりと痛んだ。

「そうだ……花露、買ってきたよ」
ベッドのそばに置いた小瓶を指さす。ニコラは「高かったろ?」と眉を下げた。
「後でもらうよ」
「嘘。もったいないからって、取っておくんでしょ。ちゃんとここで飲んで」

顔をしかめて見せると、ニコラは渋々小瓶を取った。コルクを外すと、甘い芳香があたりに漂う。小瓶に口をつけ、一気に喉へ流しこむ。喉仏がごくり、と鳴るたびに、彼の肌が艶を取り戻していく。いつも白っぽい唇も血色がよくなって、ぱさついた髪も水気を含み、やわらかくカールする。花魂が傷付いた分を補うと、体の瑞々しさが戻って。十九才という年に合った、健康そうな見かけになった。

「ありがとう、ベル……久しぶりに体が軽いよ、何でもできそうだ!」
「うん……」
私は悲しかった。ニコラはいつもこれほど元気で、艶やかであるべきなんだ。もっとがんばって働かなきゃ。そのためには、風邪なんかすぐ治さないとね。畑と、牛の世話と……村の農家で糸すきの仕事も始めるから、一日あたり五テトラもらえる。ニコラがする織物の内職と合わせれば、春までに少しばかり貯金できるかも……。

うとうと微睡みながら、頭の中でずっと数字が回っていた。

+++

熱のせいで、浅く眠ってはたまに目覚める。それを何回かくり返した所で、部屋の向かいにあるベッドに人影を見た。
「……アリア?」
呼ぶと、彼女はうるさそうに舌打ちする。目を凝らすと、姉はベッドに座って手紙を読んでいた。
「いい所だったのに!風邪だってんなら、おとなしく寝てなさいよ!」
アリアはべッドにうつぶせになって、また手紙を読み始める。
「……ごめん」
誰のラブレターだろう。オスカー……はもう別れたはず。ハリーは手紙なんか書けないし……まあいいや。どうでもいい。

アリアは丸一日遊んでたのに、まだ元気だ。クローゼットからドレスを引っぱり出しては、体に合わせて鏡を見つめる。
「はあ……こんなみっともないドレスしかないなんて。貧乏って嫌ね」
文句あるなら働きなさいよ。あんたが街でお針子でもすれば、すぐ新しい布が買えるよ。あんたは酒場で彼氏たちと踊って、ちょっとのチップでお酒が呑めれば満足だろうけど。家族のために働く気はないの?ニコラはあんたにとっても兄でしょ?……ああ、風邪でよかった。この悪口を喉元で止められたからね。

腹がたつけど、アリアは綺麗だ。鼻はすっと高く、黒目がちな円い瞳。顔は小さいし、背も高い。畑仕事で日に焼けた私と違って、すべすべした白い肌。美しいのに、人を遠ざける『すごみ』がない。これで心優しかったら、私は劣等感で死にたくなったかもしれない。

「……くしゅんっ!……うぅ、あんた伝染したわね!?明日はオスカーの馬車に乗せてもらうのに……っ、覚えてなさいよ!」
あ、別れてなかったんだ。アリアはちーんと鼻をかみ、私を睨み付けた。そんな下品な目つきをする子が、金持ちの商人と結婚できると思うの?
「あんたなんか、何もしたいことがないんでしょ?汚らしく働くのだけが取り柄のくせに、風邪なんか引いてるんじゃないわよ!」
アリアは腹だちまぎれに、毛布から出ている頭をばしっと一発叩いた。うぅ、痛い……。彼女は自分がいかに可哀想か、妹と同じ部屋で風邪まで伝染されて、貧しいせいで何一ついい想いができない運命を呪いながら、自分のベッドに潜りこんだ。


【SideːNicola】


盲目というと、みんな『真っ暗』だと思う。でもたいていは、光を感じ取ったり、ぼんやりとした影を見たりできる。僕もそうだ。昼と夜の区別がつく。扉を開けた所にある大きな影が『人間』だということは分かる。だから、その人から香った薔薇に、僕は何もかも理解した。――ああ、ついにその時だと。

「初めまして。私はカール・アルヘイス・サンレード」
サンレード伯爵は優雅な礼をした。僕の視界でも、影が動いてるのが見える。握手をする、手袋を外した貴族の手は、記憶よりもかさついていた。
「こちらは家令のマドリックだ」
すぐそばにいるはずの家令も、お辞儀をした。僕の顔に、微かに熱がこもる。
(変じゃないかな?礼儀作法とか知らないし……)
ひとまずテーブルにつかせて、冷めた紅茶をビッチャーから注ぐ。……少しこぼしたかもしれない。僕が向かいに座ると、伯爵はやっと話を切り出した。

「”君のお母さん”と、私が結婚していたことを覚えているね?」
伯爵が言った。もちろんだ。僕は今でも、目を閉じるとありありと思い出せる。盲目でも感じていた。暖かくて大きな屋敷。母の幸せそうな笑い声。産まれたばかりの『妹』の、ふわふわした髪の感触……。

「しかし、高級娼婦だった彼女は、サンレードの家風になじめなかった。浪費癖があり、ヒステリックに使用人を怒鳴りつけた。とうとう大神官に離婚を申し出た」
家令のマドリックは、忌々しげに言った。その経緯はよく知ってる。母のことはまだサンレード家の『疵』なんだと理解った。
「彼女は腹いせに、産んだばかりのお嬢様まで連れて行った。必死に探したが、どこへ消えたか分からず……」
見つからなかったのは当然だ。母が死ぬまで、三人は海の向こうにある『シズナ王国』の貧民窟に住んでいた。厄介ごとが嫌な貧民は秘密を守るので、どんな悪党も悠々と隠れられるからね。

「……ティアはどう暮らしてた?」
伯爵は、まだ母さんのことが気にかかるかな。そう考えて、当然だと思い直す。一度は愛した人なんだから。もう年も取って、伝手がない外国の貧民窟では上手く行かなかったこと……薬を売ったり、盗みもしてどうにか子供たちを食べさせてたことは、言わない方がいいと思った。

「また元の娼婦でした。でも、龍風邪をこじらせて……僕が失明したのと同じ、流行病です。伝手を頼って、兄妹でこのガローニ村に来ました。ここは母の故郷だったので……教会の世話を受けて、暮らしてます」
「そうか……何もしてやれなくて、悪かった」
伯爵は謝ったが、僕の胸にはちくり、と棘が突き刺さった。気まずさをごまかすために、ケーキをもう一切れすすめる。
「ああ、ぜひもらおうか」
伯爵は紙ナプキンで口元をぬぐって、微笑んだ。

紅茶用の砂糖が足りないので、倉庫から取ってくる。台所へ入る裏木戸の前に立つと、内緒話が聞こえてしまった。
「ニコラは知恵遅れかと思ってたが、はきはき話すじゃないか。別れた時は五つだったのに、あんなに記憶もはっきりしているとは」
サンレード伯爵は紅茶を啜りながら、勝手なことを言った。マドリックも「幼いころは無口でしたからな」と答える。
「あれなら”予備”として家で教育した方がよかったな。アリアは……まあ女だ。よほど”できのいい子”ならいいが、そうでないなら放っておこう。母親の悪い血を、強く引いているかもしれない」
ずずっ、と冷めた紅茶を啜る音。
「では、屋敷へ連れて行かれるので?」
「準備が整ったらな。目を治せば使えるだろう。……娘を家になじませるには”飴”もいるからな」

僕は扉の前ですっかり聞いていた。杖先で床を叩き、とんっと鳴らす。少しずつ強く、大きく鳴らすと、二人の会話が止まった。

「お待たせしました。……あの、妹たちは病気で寝ているんです。伝染してはいけませんから、治ってからお会いしたらいかがです?」
僕が微笑むと、伯爵は「そうだな……」とうなずいた。
「我々は教会に泊まっている。何かあれば知らせなさい」
「はい、マドリックさん」
ニコラと伯爵はまた固い握手をかわし、別れた。扉が閉まると、ニコラはふう…とため息を吐く。いつかこうなると分かってた。でも、彼女は賢い。盲目で貧しい自分では、可能性すら与えられない。
(だから、これが一番いいんだ)
今日、夕飯が終わったら話そう。ニコラは妹の寝室に行って、そっと扉を押し開ける。アリアは少し元気になったのか、ベッドにいなかった。また遊びに行ってないといいけど……メリーベルは深く眠っていた。おでこを触ると、だいぶ熱が下がっている。咳が止まっていて、明日には起きられそうだ。
(僕の大切な妹たち。いつまでも一緒じゃないとは分かってた。……だけど、離れても兄妹だよ。心は、ずっとね)
僕は微笑み、眠る妹のひたいにキスをした。

僕と伯爵の会話を、窓の外でアリアがすっかり盗み聞きしていたこと……。
そして、恐ろしいことを思い付いたことは、知らなかった。
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