堕ちよ花乙女
ブリムからぽた、ぽたと滴る紅茶が、カーペットに染みを作る。私はモップを握る手に、ぎゅっと力をこめる。使用人らしく、なにも感じていない顔をした。
「あーら。ごめんね?手が滑っちゃったの」
空になったカップの取っ手を指に引っかけた少女は、面白そうに笑う。椅子にゆったりと座った姿と向き合えば、その美しさがますます花咲いたと分かる。ゆるくカールした赤毛に、ぽつぽつと咲いた百合の花。ドレスに包まれてもなお豊満さを主張する胸、美しい顔だちを裏切る、悪魔みたいな魂……。わたしは彼女の碧眼を見つめて、心の底にくすぶる憎しみの火をこらえる。
(――我慢するの。まだ、まだその時じゃない)
「ふん。新入りにしては”身分”を理解ってるみたいね。まあまあじゃない。……いいわ、洗ってらっしゃい」
私が無反応なので、彼女はつまらなそうに扉を指さす。私はぺこりとお辞儀をして「失礼します」ときちんと挨拶した。扉が閉まると、せき止めていた息を吐き出す。腰のベルトから杖を取り、ブリムにあてがう。呪文を呟き、ぶっかけられた紅茶を一瞬で綺麗に落とす。
(……ふん、本当に私の顔が分からないみたいだね)
回廊の窓ガラスに映った顔を見つめる。そばかすは月長石の粉を混ぜた顔料で消した。金色の髪は肩のあたりで切った。顔をぼんやりと視認させ、隠す効果のある丸眼鏡もかけたけど、元から彼女は、私の顔なんてじっと見なかった。野暮ったい『妹』なんて、恥ずかしく思っていたから。歩きだすと、肩にひらりと白い花びらが落ちる。髪に咲いたスズランが、そろそろ枯れてきた。私は杖をふって、さっと綺麗にする。
私は階段を下りて、広々とした厨房に入る。ちょうどティータイムなので、みんな忙しく働いていた。
「ああ、リリィ!ちょうどいい、この卵、全部メレンゲにしとくれ!」
太っちょのおばさんが、私を見つけてボウルを押し付けた。私はにっこり微笑んで「もちろん」と泡だて器を取った。
「終わったら、向こうで銀食器を磨くんだ。早くしな!」
おばさんの声が背中にぶつけられた。カウンターのそばにしゃがむと、木箱の中にぎっしりとつまったオガクズ。それに守られた何十もの卵。片手でひびを入れ、指を差しこんで卵白だけボウルに落として行く。キッチンメイドのおばさんは私の手付きにホッとしたようだ。
「やせてみすぼらしいけど、思ったより使える子だね」
後ろで話すのが聞こえて、私はひそかにほくそ笑む。
(よしよし……たくさんの使用人には好かれなきゃ。計画の始まりは、思ったより順調だね)
(アリア……)
あの微笑みを思い出すと、ボウルをおさえる手にぎゅうっ…と力が籠もる。
アリア・フェルール・サンレード。かつて私の姉だった女。私の幸福、全てを奪った女。まだ幸せにふんぞり返ってなさい。絶対に引きずり下ろして、死んだ方がましなくらいの苦しみをあげる。
サンレード家の本当の娘は、ここにいる。メイドとして働き、その時を待っている。
(――私は、メリーベル)
+++
メリーベル・チェスターの平凡な日々は、朝一刻から始まる。
「ふわ……もう朝?」
瞼をくすぐる冬陽に、ゆっくりと目覚める。だいぶおんぼろなベッドは、体を起こすだけでぎしっと軋んだ。となりのベッドに目を向ける。空っぽ。触ってみると冷たい。いつも通り……姉のアリアは、また夜遊びに出かけたようだ。
(今ごろ、地下街の宿で新しい『彼氏』と寝てるだろうね)
私はクローゼットを開けて、今日のドレスを出す。肩にはハギレ。破けた胸元はアリアが乱雑に縫った。チェックの綿生地は、洗いすぎてもうごわごわだ。ママが『商売』で使っていたドレスも、こんなにみすぼらしくなれば見る影もない。ドレスに袖を通して、やはり擦り切れた靴下を何枚も重ねる。大きすぎる木靴に、膨らんだ足を押しこめる。今日も言うことを聞かない赤毛を三つ編みにして、染みのついたエプロンも重ねれば、少しはマシな身なりになった。
私の両親はとっくの昔にいない。兄と姉の三人で暮らしていた。アリアは全然姉らしくない。
アリアは春の月になれば、十六才になる。しかしもう子供の目じゃなかった。ゆるくカールした金髪に、きらきらした碧眼。背がすらりと高く、この農村に似合わない美少女だ。野暮ったい私とは、顔の部品は一つも似ていない。私と兄が大切にするものは、彼女にとっては馬鹿げた冗談。自分の手を使って色々なことをするのが嫌いで、街へ出かけては遊び回っていた。
「おはよう、ニコラ」
外に出て、牛の乳搾りをしていた兄に声をかける。ニコラはゆっくりとふり向いて、目をぱちぱちと瞬かせる。手をのばして、私の肩に触れると、ほっとしたように息を吐く。
兄のニコラは、十九才だ。生まれつきの盲目で、光の方角を感じることしかできない。物静かで、学者みたいな雰囲気で。私は彼が大好きだった……アリアとちがって、強い親しみを感じていた。
「おはよう、ベル。よく寝たかい?」
「うん。……あ、お世話はわたしがするよ」
私は兄の手から、急いでブラシをもぎ取る。不満げに口を尖らせるのは無視して、牛の大きな体をブラシでなぞる。白とピンクの、ぶちの毛並みを撫でると、どんどん艶が出てくる。気持ちいいのか、牛も「ンモー」と鳴いた。兄はミルクでいっぱいの重い桶にふたをして、倉庫に運んでくれる。
「右に三歩。……そう、そこ。ゆっくり下ろしてね」
私の指示で桶を下ろすと、兄はすんっ、と鼻を鳴らす。盲目な分、兄はほかの感覚が優れてる。
「ミルクの匂いが変わってる」
「えっ、まさか腐った!?」
「いや……濃厚な感じ」
「よかった。クリームができたんだ!」
私は牛乳桶のふたを、そっ…と開ける。水っぽいミルクに、クリームが浮いている。嬉しさでつい顔がほころぶ。匙でクリームをすくい取って、横の壺に入れる。ここからは力仕事だ。大きな木べらでぐるぐるとかき混ぜる。しばらくすると、壺を押さえていた兄が「交代」と両手を出した。兄妹は代わりばんこにバターを撹拌する。……ぐるぐる、ぐるぐる。寒い冬なので、一時間後にはできあがり。私は疲れた腕で、布巾を敷いたざるに壺をかたむける。乳白色のホエーが落ちて、布巾には白いバターのかたまりが残った。ニコラはバターに塩をふりかけて、木型に入れる。これで完成だ。三日がかりのバター造りは骨が折れる……。
「気を付けてね、鍵はかけて。暖炉に薪をくべておいたからね」
私がくどくど言うと、兄はちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。教会でもらった漁師風のコートを羽織る。男物のコートは大きすぎるが、アザラシの皮製なのでこの家では一番暖かい服だ。私は荷車のハンドルをしっかりと握る。新鮮なできたてバターと、近所の森で摘んだベリー。あとは兄が編んだ靴下がいくつか。これが今日の商品だ。
「くっ……」
歩きだすと、ずっしりした重みがのしかかる。私は歯を食いしばって、もう一歩踏みだす。何歩か行くと、車輪がすんなり回り始めて、だいぶ楽になった。家の前にあるゆるやかな丘を下り、農道に出る。じっとりと重い雪で、道はぬかるんでいる。靴の底から『ぐちゃっ』っと汚い音がして、泥と雪のまざったのがエプロンに跳ねた。溶けては凍るのをくり返し、鏡みたいに固くなった雪は。車輪の轍や足跡がたくさん刻まれていて、とても歩きにくい。轍の痕をたどりながら、一歩一歩、踏みしめるように歩く。
肌を突き刺すような寒さにまざって、香ばしいパンの匂いがした。白い雪に覆われた畑の向こう、小さな農家の煙突から煙が出ている。ほの青い空に立ち上る、ひとすじの煙。冬枯れの樹は、風が吹くたびに枝を揺らして、雪を舞い上げる。
あたりはびっくりするほど静かだ。聞こえるのは車輪のからからと回る音。白い息を吐く音。靴底で氷が軋む音……。冬は辛いけど、すごく静かで……綺麗で。私は大好きだ。
まっすぐに伸びる農道のはるか遠く。朝もやで霞む中に、城壁に囲まれた立派な街が見える。
アルド王国の首都――『ラスブロア』だ。私たちの住む『ガローニ村』から、直線距離でおよそ10キロ。そう遠くはないが、重い荷車を引いて、氷で滑る道を行くのはかなりの重労働だ。
(アリアが後ろから押してくれたら、もっと楽なのに……だめだめ、自分にできることをするだけ!)
私は頭をぶんぶんとふって、甘えをふり払った。
ラスブロアに近くなると、道ぞいに家や商店が増えてきて、にぎやかになってくる。鉄橋を通ると、門の所に列ができていた。衛兵が一人ずつ名前を書かせて通している。
「ガローニ村のメリーベルだね?どうぞ」
衛兵はさっと通してくれた。ふふん、これが『顔なじみ』の強みよ!
ラスブロアはいつ来ても、とても立派で大きい。通りには白い石造りの建物がぎっしりと建ち並び、花壇には色とりどりの薔薇が咲く。私は荷車を引いて歩きながら、薔薇の芳香をうっとり…と楽しんだ。
(さすが『花の都』だよね。いい香り……まあ、うちの村には敵わないけど!)
ラスブロアの市場通りは、朝から活気に満ちている。私はいつも通り荷車を酒場の前に停めた。裏木戸を叩くと、すぐになじみの女将が出てきた。化粧も落とさず、髪はぼさぼさだ。酒くさい息に、私はう、と思わず後ずさる。女将は眠そうな目をぱちぱちさせて、私と分かると、挨拶もなしに小さな袋をずいっと突き出した。
「バター、ありがとよ。じゃ、またね」
女将はぶっきらぼうに言って、ばたんと扉を閉める。
(朝に納品されるのは迷惑だろうけど、せめて挨拶くらいしてよ)
私はため息を吐いて、お金を数える。
「ひい、ふう……あれっ?……おばさん!お金足りないよ!」
木戸を叩いても、返事はない。寝ちゃったみたいだ……。
(うぅ、わざとじゃないとは思うけど……これじゃ石けんが買えないよ。ソーセージも一番安いのにしよう)
私は軽くなった荷車を引いて、坂を下りる。雑貨をいくつか、あとは塩を買い足せば、もうバターの代金はない。
(帰ったらまず牛小屋の掃除をして、畑の草むしりと……アリアはどうせ寝てるだろうから、夕飯も作らなきゃ。ああ、クタクタなのにやることたくさん!よし、もうちょっと頑張ろう)
私は一回だけため息を吐いて、荷車のハンドルを握りしめた。
病院へ行って、ニコラの薬をもらう。視力がまた下がっていることを話すと、向かいに座る主治医の先生は、難しい顔をした。
「入院させて、しっかりと”花魂”から治療した方がいい。病気は全て、花魂が弱ることから起こるからね。ただし、一日あたり五十テトラはかかるよ」
「えっ、そんなに高いんですか……!?」
あまりに大きな数字に、頭がまっ白になる。バターを納品してもらえる一ヶ月分くらいの値段が、たった一日で消えるなんて……!
「うん。花魂に霊力を流して癒せるヒーラーは、とても少ないからね。君は花魂について、どこまで習った?」
「えっと……」
私はどうにか思い出しながら答える。
花魂。それは魂の形。
この世界の人間は、花の精霊から造られたと伝わっている。魂はそれぞれ違う花の形で、目には見えない。髪に対応する花が咲くことで、相手の花魂の種類が分かる。花はだいたい一週間くらいで枯れて、また新しく咲く。血縁で同じ花が受け継がれる。そして……人間は神から一つずつ、その人だけの魔法を授かって生まれる。空を飛ぶ、心を読む、怪我を治す、火をおこす、植物を育てる……。私の花魂は白百合。アリアとニコラは黒っぽいスズランだ。
「花魂は生命力の源でもあるんですよね」
わたしが話し終わると、先生は「そう。よく知ってるね」と満足そうにうなずいた。
「ただ、花魂が生まれつき弱かったり、何らかの理由で傷付いたりすると、病気や不具になるんだ。ニコラの花魂は欠けて、ひびが入っているはず。治療しないと、彼の寿命もそう長くないだろう」
「そんな……」
主治医はふっと微笑み「お金の話は後にしよう」と薬袋をくれた。
「これは”花露”だ。ヒーラーの花魂から抽出した魔法物質を、薬師が調合したものだ。花魂の欠けを少しだけ埋めることができる。でも、その場しのぎでしかない。治療のことは考えておいてくれ」
診療所を出ると、私の胸をずっしりと重い落胆が塞いだ。――ニコラが死んでしまう。私がもっとちゃんとしなきゃ、目どころか命までなくなる。目尻にじわりと、熱いものがにじむ。まだママが生きてたころに聞いた。ニコラがお腹にいる時、貧民街の喧嘩に巻き込まれて。ごろつきがけしかけた魔獣に、怪我をさせられた。ニコラは産まれてすぐ、龍風邪で失明したけど。あの魔獣がニコラの花魂を傷付けたせいで、失明するほどこじらせたんじゃないかって、ママは心配してた。酒呑みで、よく私たちに怒鳴っては、壁を殴ったけど。私たちには絶対に手を上げなかったママ。生活が辛いだけで、心の底では私たちを愛していたと思う。ママ……ママなら、命に代えてもニコラを治すよね。何でもするよね?
でも……私はママみたいな娼婦になれないよ。ママは綺麗で、踊りも歌も上手だったけど。私はアリアが指さして笑うほどブサイクだし、音楽も苦手。どうしたら、もっとお金を稼げるだろう。どうしたらいいの?一人で考えても分からないよ……ママが生きていてくれたらな。
+++
荷車が軽いので、行きよりは楽だったけど。村に着くころには、あたりはすっかり暗くなっていた。私は井戸水で手を洗い、汚れた木靴も脱ぐ。そこで、となりの家の玄関がきいっ…と開いた。ぱさついた白髪を見ると、私の顔がぱあっと明るくなる。
「ネリさん!ただいま、絵はどう?」
「おかえり。もうだいぶ塗れたよ」
画家のネリじいさんは独り暮らしで。私たちが村に来た時から、あれこれと世話を焼いてくれる。祖父のような人だ。噂ではラスブロアの王宮に住んでいたそうだけど。なぜかこの辺鄙な村を終の棲家に選んで、ひたすら絵を描いている。王宮を出た理由は誰も知らない。
「商売はどうだった?」
「まあまあだね。……あ、これ。頼まれてた画材」
お使いで買ってきた絵具と筆をあげる。ネリじいさんは顔をにっこりとほころばせた。
「ああ、助かった。ありがとうよ。……ところで、アリアは?」
「いつも通り遊びに行ってる」
ネリじいさんは呆れて物も言えなかった。
(わたしの毎日って、時計の秒針がチクタクと正確に刻んでくみたいだ)
私は思う。やることはいつも同じ。面白みはないが、不満もない。明日も、明後日も……ずっとこのまま、ほとんど変わらない日々なのだと思ってた。それがどれほど幸せなことか、私はすぐに思い知る。
「あーら。ごめんね?手が滑っちゃったの」
空になったカップの取っ手を指に引っかけた少女は、面白そうに笑う。椅子にゆったりと座った姿と向き合えば、その美しさがますます花咲いたと分かる。ゆるくカールした赤毛に、ぽつぽつと咲いた百合の花。ドレスに包まれてもなお豊満さを主張する胸、美しい顔だちを裏切る、悪魔みたいな魂……。わたしは彼女の碧眼を見つめて、心の底にくすぶる憎しみの火をこらえる。
(――我慢するの。まだ、まだその時じゃない)
「ふん。新入りにしては”身分”を理解ってるみたいね。まあまあじゃない。……いいわ、洗ってらっしゃい」
私が無反応なので、彼女はつまらなそうに扉を指さす。私はぺこりとお辞儀をして「失礼します」ときちんと挨拶した。扉が閉まると、せき止めていた息を吐き出す。腰のベルトから杖を取り、ブリムにあてがう。呪文を呟き、ぶっかけられた紅茶を一瞬で綺麗に落とす。
(……ふん、本当に私の顔が分からないみたいだね)
回廊の窓ガラスに映った顔を見つめる。そばかすは月長石の粉を混ぜた顔料で消した。金色の髪は肩のあたりで切った。顔をぼんやりと視認させ、隠す効果のある丸眼鏡もかけたけど、元から彼女は、私の顔なんてじっと見なかった。野暮ったい『妹』なんて、恥ずかしく思っていたから。歩きだすと、肩にひらりと白い花びらが落ちる。髪に咲いたスズランが、そろそろ枯れてきた。私は杖をふって、さっと綺麗にする。
私は階段を下りて、広々とした厨房に入る。ちょうどティータイムなので、みんな忙しく働いていた。
「ああ、リリィ!ちょうどいい、この卵、全部メレンゲにしとくれ!」
太っちょのおばさんが、私を見つけてボウルを押し付けた。私はにっこり微笑んで「もちろん」と泡だて器を取った。
「終わったら、向こうで銀食器を磨くんだ。早くしな!」
おばさんの声が背中にぶつけられた。カウンターのそばにしゃがむと、木箱の中にぎっしりとつまったオガクズ。それに守られた何十もの卵。片手でひびを入れ、指を差しこんで卵白だけボウルに落として行く。キッチンメイドのおばさんは私の手付きにホッとしたようだ。
「やせてみすぼらしいけど、思ったより使える子だね」
後ろで話すのが聞こえて、私はひそかにほくそ笑む。
(よしよし……たくさんの使用人には好かれなきゃ。計画の始まりは、思ったより順調だね)
(アリア……)
あの微笑みを思い出すと、ボウルをおさえる手にぎゅうっ…と力が籠もる。
アリア・フェルール・サンレード。かつて私の姉だった女。私の幸福、全てを奪った女。まだ幸せにふんぞり返ってなさい。絶対に引きずり下ろして、死んだ方がましなくらいの苦しみをあげる。
サンレード家の本当の娘は、ここにいる。メイドとして働き、その時を待っている。
(――私は、メリーベル)
+++
メリーベル・チェスターの平凡な日々は、朝一刻から始まる。
「ふわ……もう朝?」
瞼をくすぐる冬陽に、ゆっくりと目覚める。だいぶおんぼろなベッドは、体を起こすだけでぎしっと軋んだ。となりのベッドに目を向ける。空っぽ。触ってみると冷たい。いつも通り……姉のアリアは、また夜遊びに出かけたようだ。
(今ごろ、地下街の宿で新しい『彼氏』と寝てるだろうね)
私はクローゼットを開けて、今日のドレスを出す。肩にはハギレ。破けた胸元はアリアが乱雑に縫った。チェックの綿生地は、洗いすぎてもうごわごわだ。ママが『商売』で使っていたドレスも、こんなにみすぼらしくなれば見る影もない。ドレスに袖を通して、やはり擦り切れた靴下を何枚も重ねる。大きすぎる木靴に、膨らんだ足を押しこめる。今日も言うことを聞かない赤毛を三つ編みにして、染みのついたエプロンも重ねれば、少しはマシな身なりになった。
私の両親はとっくの昔にいない。兄と姉の三人で暮らしていた。アリアは全然姉らしくない。
アリアは春の月になれば、十六才になる。しかしもう子供の目じゃなかった。ゆるくカールした金髪に、きらきらした碧眼。背がすらりと高く、この農村に似合わない美少女だ。野暮ったい私とは、顔の部品は一つも似ていない。私と兄が大切にするものは、彼女にとっては馬鹿げた冗談。自分の手を使って色々なことをするのが嫌いで、街へ出かけては遊び回っていた。
「おはよう、ニコラ」
外に出て、牛の乳搾りをしていた兄に声をかける。ニコラはゆっくりとふり向いて、目をぱちぱちと瞬かせる。手をのばして、私の肩に触れると、ほっとしたように息を吐く。
兄のニコラは、十九才だ。生まれつきの盲目で、光の方角を感じることしかできない。物静かで、学者みたいな雰囲気で。私は彼が大好きだった……アリアとちがって、強い親しみを感じていた。
「おはよう、ベル。よく寝たかい?」
「うん。……あ、お世話はわたしがするよ」
私は兄の手から、急いでブラシをもぎ取る。不満げに口を尖らせるのは無視して、牛の大きな体をブラシでなぞる。白とピンクの、ぶちの毛並みを撫でると、どんどん艶が出てくる。気持ちいいのか、牛も「ンモー」と鳴いた。兄はミルクでいっぱいの重い桶にふたをして、倉庫に運んでくれる。
「右に三歩。……そう、そこ。ゆっくり下ろしてね」
私の指示で桶を下ろすと、兄はすんっ、と鼻を鳴らす。盲目な分、兄はほかの感覚が優れてる。
「ミルクの匂いが変わってる」
「えっ、まさか腐った!?」
「いや……濃厚な感じ」
「よかった。クリームができたんだ!」
私は牛乳桶のふたを、そっ…と開ける。水っぽいミルクに、クリームが浮いている。嬉しさでつい顔がほころぶ。匙でクリームをすくい取って、横の壺に入れる。ここからは力仕事だ。大きな木べらでぐるぐるとかき混ぜる。しばらくすると、壺を押さえていた兄が「交代」と両手を出した。兄妹は代わりばんこにバターを撹拌する。……ぐるぐる、ぐるぐる。寒い冬なので、一時間後にはできあがり。私は疲れた腕で、布巾を敷いたざるに壺をかたむける。乳白色のホエーが落ちて、布巾には白いバターのかたまりが残った。ニコラはバターに塩をふりかけて、木型に入れる。これで完成だ。三日がかりのバター造りは骨が折れる……。
「気を付けてね、鍵はかけて。暖炉に薪をくべておいたからね」
私がくどくど言うと、兄はちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。教会でもらった漁師風のコートを羽織る。男物のコートは大きすぎるが、アザラシの皮製なのでこの家では一番暖かい服だ。私は荷車のハンドルをしっかりと握る。新鮮なできたてバターと、近所の森で摘んだベリー。あとは兄が編んだ靴下がいくつか。これが今日の商品だ。
「くっ……」
歩きだすと、ずっしりした重みがのしかかる。私は歯を食いしばって、もう一歩踏みだす。何歩か行くと、車輪がすんなり回り始めて、だいぶ楽になった。家の前にあるゆるやかな丘を下り、農道に出る。じっとりと重い雪で、道はぬかるんでいる。靴の底から『ぐちゃっ』っと汚い音がして、泥と雪のまざったのがエプロンに跳ねた。溶けては凍るのをくり返し、鏡みたいに固くなった雪は。車輪の轍や足跡がたくさん刻まれていて、とても歩きにくい。轍の痕をたどりながら、一歩一歩、踏みしめるように歩く。
肌を突き刺すような寒さにまざって、香ばしいパンの匂いがした。白い雪に覆われた畑の向こう、小さな農家の煙突から煙が出ている。ほの青い空に立ち上る、ひとすじの煙。冬枯れの樹は、風が吹くたびに枝を揺らして、雪を舞い上げる。
あたりはびっくりするほど静かだ。聞こえるのは車輪のからからと回る音。白い息を吐く音。靴底で氷が軋む音……。冬は辛いけど、すごく静かで……綺麗で。私は大好きだ。
まっすぐに伸びる農道のはるか遠く。朝もやで霞む中に、城壁に囲まれた立派な街が見える。
アルド王国の首都――『ラスブロア』だ。私たちの住む『ガローニ村』から、直線距離でおよそ10キロ。そう遠くはないが、重い荷車を引いて、氷で滑る道を行くのはかなりの重労働だ。
(アリアが後ろから押してくれたら、もっと楽なのに……だめだめ、自分にできることをするだけ!)
私は頭をぶんぶんとふって、甘えをふり払った。
ラスブロアに近くなると、道ぞいに家や商店が増えてきて、にぎやかになってくる。鉄橋を通ると、門の所に列ができていた。衛兵が一人ずつ名前を書かせて通している。
「ガローニ村のメリーベルだね?どうぞ」
衛兵はさっと通してくれた。ふふん、これが『顔なじみ』の強みよ!
ラスブロアはいつ来ても、とても立派で大きい。通りには白い石造りの建物がぎっしりと建ち並び、花壇には色とりどりの薔薇が咲く。私は荷車を引いて歩きながら、薔薇の芳香をうっとり…と楽しんだ。
(さすが『花の都』だよね。いい香り……まあ、うちの村には敵わないけど!)
ラスブロアの市場通りは、朝から活気に満ちている。私はいつも通り荷車を酒場の前に停めた。裏木戸を叩くと、すぐになじみの女将が出てきた。化粧も落とさず、髪はぼさぼさだ。酒くさい息に、私はう、と思わず後ずさる。女将は眠そうな目をぱちぱちさせて、私と分かると、挨拶もなしに小さな袋をずいっと突き出した。
「バター、ありがとよ。じゃ、またね」
女将はぶっきらぼうに言って、ばたんと扉を閉める。
(朝に納品されるのは迷惑だろうけど、せめて挨拶くらいしてよ)
私はため息を吐いて、お金を数える。
「ひい、ふう……あれっ?……おばさん!お金足りないよ!」
木戸を叩いても、返事はない。寝ちゃったみたいだ……。
(うぅ、わざとじゃないとは思うけど……これじゃ石けんが買えないよ。ソーセージも一番安いのにしよう)
私は軽くなった荷車を引いて、坂を下りる。雑貨をいくつか、あとは塩を買い足せば、もうバターの代金はない。
(帰ったらまず牛小屋の掃除をして、畑の草むしりと……アリアはどうせ寝てるだろうから、夕飯も作らなきゃ。ああ、クタクタなのにやることたくさん!よし、もうちょっと頑張ろう)
私は一回だけため息を吐いて、荷車のハンドルを握りしめた。
病院へ行って、ニコラの薬をもらう。視力がまた下がっていることを話すと、向かいに座る主治医の先生は、難しい顔をした。
「入院させて、しっかりと”花魂”から治療した方がいい。病気は全て、花魂が弱ることから起こるからね。ただし、一日あたり五十テトラはかかるよ」
「えっ、そんなに高いんですか……!?」
あまりに大きな数字に、頭がまっ白になる。バターを納品してもらえる一ヶ月分くらいの値段が、たった一日で消えるなんて……!
「うん。花魂に霊力を流して癒せるヒーラーは、とても少ないからね。君は花魂について、どこまで習った?」
「えっと……」
私はどうにか思い出しながら答える。
花魂。それは魂の形。
この世界の人間は、花の精霊から造られたと伝わっている。魂はそれぞれ違う花の形で、目には見えない。髪に対応する花が咲くことで、相手の花魂の種類が分かる。花はだいたい一週間くらいで枯れて、また新しく咲く。血縁で同じ花が受け継がれる。そして……人間は神から一つずつ、その人だけの魔法を授かって生まれる。空を飛ぶ、心を読む、怪我を治す、火をおこす、植物を育てる……。私の花魂は白百合。アリアとニコラは黒っぽいスズランだ。
「花魂は生命力の源でもあるんですよね」
わたしが話し終わると、先生は「そう。よく知ってるね」と満足そうにうなずいた。
「ただ、花魂が生まれつき弱かったり、何らかの理由で傷付いたりすると、病気や不具になるんだ。ニコラの花魂は欠けて、ひびが入っているはず。治療しないと、彼の寿命もそう長くないだろう」
「そんな……」
主治医はふっと微笑み「お金の話は後にしよう」と薬袋をくれた。
「これは”花露”だ。ヒーラーの花魂から抽出した魔法物質を、薬師が調合したものだ。花魂の欠けを少しだけ埋めることができる。でも、その場しのぎでしかない。治療のことは考えておいてくれ」
診療所を出ると、私の胸をずっしりと重い落胆が塞いだ。――ニコラが死んでしまう。私がもっとちゃんとしなきゃ、目どころか命までなくなる。目尻にじわりと、熱いものがにじむ。まだママが生きてたころに聞いた。ニコラがお腹にいる時、貧民街の喧嘩に巻き込まれて。ごろつきがけしかけた魔獣に、怪我をさせられた。ニコラは産まれてすぐ、龍風邪で失明したけど。あの魔獣がニコラの花魂を傷付けたせいで、失明するほどこじらせたんじゃないかって、ママは心配してた。酒呑みで、よく私たちに怒鳴っては、壁を殴ったけど。私たちには絶対に手を上げなかったママ。生活が辛いだけで、心の底では私たちを愛していたと思う。ママ……ママなら、命に代えてもニコラを治すよね。何でもするよね?
でも……私はママみたいな娼婦になれないよ。ママは綺麗で、踊りも歌も上手だったけど。私はアリアが指さして笑うほどブサイクだし、音楽も苦手。どうしたら、もっとお金を稼げるだろう。どうしたらいいの?一人で考えても分からないよ……ママが生きていてくれたらな。
+++
荷車が軽いので、行きよりは楽だったけど。村に着くころには、あたりはすっかり暗くなっていた。私は井戸水で手を洗い、汚れた木靴も脱ぐ。そこで、となりの家の玄関がきいっ…と開いた。ぱさついた白髪を見ると、私の顔がぱあっと明るくなる。
「ネリさん!ただいま、絵はどう?」
「おかえり。もうだいぶ塗れたよ」
画家のネリじいさんは独り暮らしで。私たちが村に来た時から、あれこれと世話を焼いてくれる。祖父のような人だ。噂ではラスブロアの王宮に住んでいたそうだけど。なぜかこの辺鄙な村を終の棲家に選んで、ひたすら絵を描いている。王宮を出た理由は誰も知らない。
「商売はどうだった?」
「まあまあだね。……あ、これ。頼まれてた画材」
お使いで買ってきた絵具と筆をあげる。ネリじいさんは顔をにっこりとほころばせた。
「ああ、助かった。ありがとうよ。……ところで、アリアは?」
「いつも通り遊びに行ってる」
ネリじいさんは呆れて物も言えなかった。
(わたしの毎日って、時計の秒針がチクタクと正確に刻んでくみたいだ)
私は思う。やることはいつも同じ。面白みはないが、不満もない。明日も、明後日も……ずっとこのまま、ほとんど変わらない日々なのだと思ってた。それがどれほど幸せなことか、私はすぐに思い知る。
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