ゼータの過ち

塀から外にはみ出した樹の枝に、足を引っかけて登る。枝から飛び下りると、葉がざわざわと揺れた。北上悠きたがみゆうはふり返って、両手を広げる。綾部沙奈あやべさながどうにか枝に足を乗せて、登ってくる所だった。ほとんど飛びこんできたのを受け止めると、ずっしりと温かい重みがかかった。
「平気か?」
「うん、どうにか……鍵はある?」
聞かれて、悠は「昼のうちに、職員室からくすねた」と銀色に光る鍵を見せた。

「夜の学校って、変なよそよそしさがあるよな」
悠は遠くにそびえる校舎を指さす。
「……うん、実はちょっとわくわくしてる」
沙奈も少し表情をゆるめる。二人は非常口から入り、懐中電灯の明かりを頼りに廊下を歩く。まっ暗な中に、上履きのぱたぱたという音が響く。悠は不思議な気持ちだ。――綾部沙奈と、先生もみんな帰った夜の学校に忍び込んでいるなんて。沙奈とは友達ではない。そもそもろくに話したこともなかった。

屋上へ出ると、涼しい夜風がざあっと吹き抜ける。古い高校なので、フェンスはあちこち破けている。その向こうに、街の明かりが広がる。
「北上くん、いま何時?」
「23時半。ちょっと待とう」
悠はリュックから、夜食代わりのチップスとコーラを出す。沙奈もぽりぽり食べ始めた。
「あの……みんなが言ってること、あなたはどう思ってるの?」
悠は何となく分かるが「言ってることって?」と聞き返す。
「あなたが……美桜を殺したって」
「……別に気にしてないよ。みんな好き勝手なこと言うもんだろ。どのみち、0時になればハッキリするさ」
二人はフェンスにもたれて、夜空を眺めた。



あの子が死んだ日の朝。真昼の空に、ひとすじの星が流れた。

綾部沙奈はいつもの通学路を、五分遅れて歩いていた。別に変わったことは、何一つない。朝でもじっとりと蒸し暑くて、蝉が一匹もいないな、と思ったくらいだ。沙奈は校門から続く、ゆるやかな石畳を上る。校舎が見えてくると、生徒たちが集まって騒いでいるのが見えた。先生が「教室に帰りなさい」と下がらせる。目をこらすと、警察のイエローテープが張られている。
「ねえ、何があったの?」
同級生を見つけて聞くと、彼女は気まずそうにもごもごと説明してくれる。
「あ、あのね……美桜がね」

6月15日。2年A組の高崎美桜たかさきみおが、死んだ。

屋上のフェンスを突き破って、落ちたそうだ。

「おーい、そこの君!」
警察官が屋上に呼びかける。そこには男子がいて、フェンスに手をかけて野次馬を見つめていた。彼は数分後に、刑事に付き添われて下りてきた。刑事は缶ジュースを飲ませて、暗い目でぼんやりとあたりを見回す彼に、優しい声で話を聞こうとしていた。
「あれ、同じクラスの北上だよね」
「ホントだ。何か関係あるのかな?」
同級生たちが勝手な噂でざわつく中、沙奈は彼の名前を口の中で転がす。――北上悠。



そのあと、北上悠は学校に来なかった。それも、彼にまつわる暗い噂話を補強することになった。彼が商店街の食堂の息子だと記憶していた沙奈は、放課後に行くことにした。美桜の転落死から、もう半月が経った七月。彼女は学校帰りに、悠に会いに行った。
「北上くん?」
食堂の窓を磨いていた悠に声をかけると、彼はびっくりした顔でふり返る。
「綾部?どうしたんだ」
「ちょっと聞きたいことがあるの。高崎美桜について」
「……俺は何も」
「君が美桜について何かしたとは思ってない」
沙奈は慌てて弁解する。
「ただ、知りたいの。美桜の最後のこと……私たち、友達だったから」
悠は少し考えて「警察に話した以上のことは、話せないよ」とうつむく。その答えが、かえって誠実に感じられて。沙奈はますます確信した。――悠は本当に何もしていない。
「たこ焼きおごるよ。行こう」
沙奈は彼を連れて、北上家の食堂『都』からなるべく遠く離れた屋台に入る。だが、隣り合って座るとかえって言葉は喉元で止まるようで。沙奈が緊張で青海苔をかけすぎるのを、悠はただ見ていた。

「送ってくれてありがとう」
マンションのエントランスで、悠と別れる。彼はそっぽを向いて、もごもごと。暗いから、とか女子は危ないから、とか言い訳した。結局ほとんど話は聞けなかったが、沙奈はもうそれでいいとも思っていた。美桜は死んだ。その結果だけが全てだ。
「……知ってるか?変な噂があるの」
「君にまつわること以外に?」
「0時になると……屋上に、高崎の幽霊が出るって噂」
沙奈は想像する。ぼんやりと青白く光る姿が、屋上のフェンスの向こうに浮かんでいる所を。
「……きっと、私に怒ってるんだと思う。私のせいだと思うんだ」
悠は首をかしげた。沙奈がうつむき、暗い顔なのに、少しだけ苛だったように眉をひそめる。かなり聞き辛いことを口にしても怒らなかった彼の、心の動きを始めてみたような気がした。
「そんなこと言うなよ。あいつが落ちる時、最後に見ていたのは俺だ」
悠も目を伏せて、その光景をまたありありと瞼の裏に再生しているようだった。
「俺だけが見てたんだ……」



そして、二人は夜の学校へ忍びこんだ。
「高崎に会えたらどうする?」
悠が聞くと、沙奈はしばらく考える。
「……美桜はたぶん、私に怒ってると思うんだ」
「どうして?」
悠は不思議だ。二人のことはよく知らないが、教室では仲良く喋っていたし。移動教室もいつも一緒に歩いていた記憶がある。沙奈は目をそらして「美桜が死ぬ、少し前のことなの」と小さな声で話し出す。

「模試の結果が返って来たよね。その時、美桜はいつのまにかいなくなっていて……トイレにでも行ったのかな。美桜の机に、結果の紙があったの。悪いことだけど……ちょっと、見ちゃったんだ。興味があって」
そこまでは別におかしくない。悠はそう言ってやりたいが、まだ遠い距離を考えてやめる。今は何と言っても、薄っぺらくなる気がした。
「美桜、すごく成績が下がってた。得意な数学も平均点より低かったし。去年の同じころに比べても、かなり悪かったの。……そこで美桜が帰ってきて。私の手から、ほとんど紙をひったくった。……顔は笑ってたけど。ちょっと焦ってるみたいだった。謝ったら”しっぺね”って、私のひたいをデコピンして……それで終わり」
あまりにあっけない話に、悠はもう呆れるしかなかった。
「お前、そんなことで”私のせい”とか言ってたのかよ!?」
「だって、もう知りようがないじゃない!?」
思わず叫ぶと、沙奈の声も応じて一段と高くなる。
「美桜が何を考えてたかなんて、分からない!私のしたことに、すごく怒ってたかもしれない!美桜の背中を押してしまったかもしれないって、そう考えるのはそんなにおかしいの!?」
せきを切ったように泣き出した肩を、悠はとっさにつかんでいた。誰にも話さないつもりだった。今夜、ここで『ああ、何ごともなかった。やっぱり噂だったね』と笑い合って。自分の中でケリをつける儀式にするはずだった。だが悠は、こんな風に自分を責める彼女を放っておけなかった。

「だったら話してやるよ!あの日に起こったこと、全部!」



6月15日。その日はやけに蒸し暑く、蝉もほとんど鳴いていなかった。

北上悠は早めに登校したが、こめかみがずきずきと鈍く痛んで、歩くのも辛かった。ひとまずどこかで休もう。そう考えて、屋上へ上がった。フェンスに指を引っかけ、深く息を吐く。痛みはましにならないが、人の声がしないだけでも少し楽になった。

「……大丈夫?」
声をかけられた。ふり向くと、高崎美桜がそこにいた。いつもは遅刻ぎりぎりに駆けこんでくる彼女が、まだ七時台の屋上にいるのは奇妙だと感じた。友達がそばにいないと、美桜はいつもの大人びた風ではなく、声も小さいと。悠は初めて知った。
「この屋上、風通しがよくないから……あまり人がいなくて。こういう時は、いいよね」
美桜は悠の隣に立ち、同じようにフェンスをつかんで地面を見下ろす。
「ねえ、夏って……すごくいやな季節だと思わない?暑くて、生命力に満ちあふれてるみたいだけど……すごく空が高くて、色々なものがはっきり見えて……」
そう言った美桜の顔色も、ぞっとするほど白い。何かをごまかすように、答えのいらない問いをする彼女を、悠はただ見つめていた。

友達ではない相手に話すからか、美桜の声はしだいに高くなり、早口になった。彼女は……ほとんど悠のことを忘れていたかもしれない。フェンスにもたれて、色々なことをこぼした。年上の彼氏のこと……もう一度二年生をやり直す羽目になった、一年生の時の『過ち』……婦人科の予約を入れたけど、行きたくないこと……両親や友達に、合わせる顔がないこと……美桜はすすり泣き、フェンスにほとんど全体重をかけている。危ない、と思ったその時。悠の頭にまた、ずきりと鋭い痛みが走って。強い目眩で、視界が回る。美桜の両手がつかんだフェンスから、びりっと破れる音がした。

「あっ……」
驚きで、美桜は目を瞠る。錆びた古いフェンスは小さい穴から大きく裂けて。重力のとらえた体が、まっすぐに落ちていく。ドン、とにぶい音がして。美桜の頭の下に、血だまりがじわじわと広がっていく。
「きゃああーー!!」
「誰か、救急車呼んで!」
地上の生徒たちが慌てる声が、どこか遠く聞こえる。悠はただフェンスにもたれて、光をなくした瞳が天国に近い空に向いているのを見下ろした。その瞬間、全ての音が消え去って。数秒……数分……刑事が呼ぶまで。悠はそのまま立ち尽くしていた。



聞き終えた沙奈は、どんな顔をしていいか分からなかった。同じ罪悪感を抱えた顔がうなだれて、耳を澄ましてもほとんど聞こえないほどの声で「話すつもりなかった」と言った。沙奈は初めて全てを知って。自分の中で色々なことが腑に落ちた気がした。
「……そう。私たちは知りようがない。美桜が何を考えていたのか……何かできたかも、はもう考えてもしょうがないこと。でも、変えることはできる」
沙奈はまだ震える手を取って「見えるものを変えるの」と目を合わせる。
「映画のフイルムと同じ。私たちの見ているフイルムを、他のものに入れかえるの。そうでなきゃ、私たちずっとこのままじゃない!そんなのは絶対にだめ!」
理屈ではない言葉が、悠の底へすとんと落ちて。彼は涙のにじんだ目を、ぱちぱちと瞬かせた。そこで、ちょうど針が12の数字に差しかかる。
「綾部、あれ――」
悠が指さした向こうを見て。沙奈も目を瞠る。

修繕されたフェンスの『向こう』に、美桜がいた。光り輝く体が、透けている。美桜は二人を見て、にっこりと微笑んだ。そして、すうっと空気に溶けて消えて行く。
「美桜……」
沙奈の目からも、いつしか涙がこぼれていた。二人はしばらく、彼女が消えた所をじっと見つめていた。



あれから、美桜の幽霊の噂はなくなった。冬が深まるころ、悠は雪を踏みしめて歩きながら、考えていた。自分たちは目に見えるものを信じるしかない。そして何を見るか、選んでいるのもまた自分自身だ。神崎美桜はそれを知らなかったから、まっすぐに落ちて行ったのだ。名前を呼ばれて、顔を上げる。バス停の所で、沙奈が待っていた。悠はふっと微笑み、彼女の隣に並ぶ。高校へ向かうバスが来ると、悠はやっと全てが始まるような気がした。

美桜には見えなかった。フイルムを入れ間違えたままだったから……。

【END】
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