本編
name guide
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得た情報と曽祖父のツテを頼りに頼って1ヶ月後、ようやく念願の門戸を叩く日を迎えた。
先方からは何度も断られたが、ここで引き下がっては目標は叶えられないと食らいつき、半ば強引に承諾をもぎ取ったのだ。
「真弦お嬢さん、また時間になりましたらお迎えに上がります」
「ありがとう!行ってきます」
降り立つは閑静な高級住宅街。
初老のドライバーに頷いて下車した先には塔矢の表札を掲げた数寄屋門が待ち構えていた。
手土産を片手にインターフかォンを押すと朗らかな女性の声があり、中へ促される。
門の先には敷き詰められた白那智砂利が一面に広がっている。
竹垣も相まって古き良き日本家屋を引き立てていた。
どこか懐かしい苔生した岩や鹿威しの映える和風庭園。
手入れの行き届いた風情ある景色を満喫しながら進み、玄関扉の前で背筋を正す。
「ごめんくださいませ」
06 【誘いの手】
「いらっしゃいませ。まあ!なんて可愛いお客様かしら」
インターフォン越しに対応してしてくれた声の主と思しき女性は満面の笑みで出迎えてくれた。
恐らく話に聞いていた奥様だろう。
艶やかな黒髪のボブカットが清潔感と若々しさを薫らせている。
(すてきな方ね)
壱がそっと囁く。
真弦は主を呼びに一度下がる背中を見送りながら、小さくそうだねと応えた。
「あなた、錫代さんがいらっしゃいましたよ」
穏やかな空気も束の間、戻ってきた奥様の背後から歩いて来るのは厳威な雰囲気を纏う着流し姿の男性。
彼が一歩歩み寄ってきただけで、あたたかだった空気がピシリと張り詰める。
これが"神の一手に最も近い男、塔矢行洋"だと立ち姿ひとつで伝わってくるようだった。
「よく来てくれた」
「は、はじめまして。錫代真弦と申します!勝手なお願いにも関わらずお招きくださりありがとうございます」
「そう堅くなる必要はないとも。明子、奥の部屋へお茶を頼む」
「ええ、わかりました」
「奥様、あのっ!お口に合うかわかりませんが、よろしければ皆様で召し上がってください」
「まあ!うさぎ屋のどら焼き。私これ大好きなの。お気遣いありがとう」
「わあ良かった、私の父も大好物なんです」
ひとときの談笑に緊張が解れる。
しかし客間へ導かれ障子が閉じた途端、名人と2人きりの空間というだけで鳩尾あたりをグッと重くさせられた。
掛軸を背に美しい姿勢を保つ正座姿は子供には耐え難いプレッシャーを放っている。
(ひいおじいちゃんや、お父さんとも、全然違う……)
萎縮しきった真弦の姿を見兼ねてか、行洋は頬を掻いて不器用な微笑みを浮かべた。
「いや、すまない…怖がらせる気はないんだ。錫代さん…君の曽祖父さんから頼み事をされるなんて初めてでね。私なりに緊張しているんだよ」
「え、ええと…」
(大丈夫ですよ真弦、この方は優しいひと。笑顔が可愛いもの)
隣人からの悪戯っぽい囁き。
この年齢の男性を小学生の自分がそのように思うことは無礼が過ぎるのではないかと思ったが、その意見には同意だった。
(確かに見た目はちょっと怖いけど….ひいおじいちゃんのお友達だもの。きっと良い方ね。壱が言うように困ったような顔がかわいい、のかも…?)
壱の言葉は硬直していた真弦の肩を僅かに緩ませる。
お陰で胸が苦しくなる程呼吸が浅くなっていたことに気がつくことができた。
鼻腔が畳の青い香りで満ちていく。
「早速本題を聞こうか」
再び場が引き締まる。
今度は竦まず背筋を正し、はっきりと目を見て答えた。
「はいっ、塔矢行洋先生に囲碁指南を受けたくて参りました」
「何故、私に?」
「先生が神の一手に最も近いと呼ばれていらっしゃるからです。私は…囲碁界の頂点へ行きたいんです」
「はは……そうか。わかった、まず一局打とう。その方が話が早い。棋力は聞いている、定先で打ちなさい」
「わ、わかりました」
(このような強者と相対するとは、胸が躍りますね)
(うん…壱…今日も、いつも通りでいいのかな?)
(ええ、真弦はわたくしの言う通りに石を運んでくださいな)
(わかった…)
浅く頷いて、まず1手目の黒石を盤上に降ろした。
人知れず疼く、"ある願望"を抑制しながら真弦は盤面と名人の姿をしげしげと観察する。
空気の流れが今迄経験してきた対局とはまるで違い、石を置くだけの立場でありながら指先が震えてしまう。
それは向い風を受ける中での進軍。
双方共にまだ様子見の段階ではあるものの、壱ではこの人に及ばないだろうと予見する。
(負けたら……やっぱり弟子入りは断られちゃうのかな…)
真弦の逃げ腰な気持ちをよそに、壱は実力以上の力を発揮して善戦していた。
対局中盤に至ってなおハンデを守り切っている。
しかしそれでも序盤から名人が仕掛けていた左下の石達にじわりじわりと押され、地を食い潰される終局が見えている。
(これが名人、なんだ…)
頂に君臨する棋士の鋭さは盤面だけでなく肌にまで伝わってくる。
驍勇無双に攻め、金城鉄壁と言える守り。
向けた刃の切っ先を軽やかに去なす様に、今迄相対したプロ棋士達とは格が違うのだと思い知る。
棋力は勿論、一手一手に宿る気迫は石を置いているだけの真弦にも息を呑ませた。
(こんなに凄い人と対局できる壱が羨ましい……)
壱の形勢不利はもう覆らないだろう。
だからと言って対局に水を差す事など許されないと重々承知しているのに。
戒めのように自らを説き伏せるが、真弦の小さな手はとうとう碁笥から離れてしまった。
(真弦……?)
指示を出しても微動だにしない真弦に少しの間があって壱は気付く。
膝の上で両手を握り締め、葛藤に震えた。
願いを口にしてはならないと理性は叫んでいるのに、止められないエゴはとうとう問いかけてしまった。
(壱…今の盤面をどう思ってる?教えて…)
(厳しい局面です。最早投了の頃合いなのかもしれませんが…この結果ではこの者を納得させられない。少しでも粘って差を…)
(ずっと、考えてたの…左下はもう取り返せなくなった。右辺も頭を叩かれては有力な手を絞って26種ほどの展開が予想できるけれどすべて競り負ける。中央はまだ盛り返せるけれど他の地を補うには足りない。どの可能性を選んでもきっと塔矢名人は応手を間違えない。最適解を進んでも…3目足りない。でもね…予測したこの流れが正しいものなのか、私確かめてみたい…)
(真弦、貴女…打ちたいのですか…?)
(もし…壱が投了を考えているのなら…この盤面、私に預けてほしいの)
(……貴女がそう望むなら…)
呟いた後、壱の気配が薄くなる。
それを承諾の合図に、真弦は初めて自分の意思のみで石を放った。
碁盤に石を打ち込む音は変わらないはずなのに世界が変わったように新鮮な気持ちで満たされる。
びり、と頭が痺れた。
対局の緊張感と脳に走る信号が混ざり合い総毛立つ感覚はどこか高揚感に似ている。
(楽しい。負けがわかっているのに、自分の手を試せるのはこんなにも……)
対局は真弦が描いた図の通りに進行したものの、初めての心地良さに溺れ投了の機を逸し終局まで打ち切ってしまった。
名人もそれを向こう見ずだと咎めること無く、黙って最後まで帯同してくれたことに感謝は尽きない。
整地の後、予測通りの3目差の敗北に到達出来た喜びを隠しながら真弦は潔く負けを宣言した。
「負けました、ありがとうございました!」
「……ふ、む」
達成感にきらきらと輝く少女の瞳と盤面の形を交互に見て名人は腕を組む。
僅かな沈黙。
眉間に皺を寄せたまま、ゆっくりと口を開いた。
「………真弦君、だったね。おかしな事を言うかもしれないが、君は思考が複数ある?」
核心に触れるその一言に、初めての自由な碁を楽しんだ快感は即座に逃げ去ってしまった。
心臓は早鐘を打ち、どっと汗が噴き出てくる。
「えっ……あ……」
大きな手が盤面の石を軽快に巻き戻し、壱に問い掛けていた場面を表す。
「途中、この局面で石を置くのを躊躇ったね。長考とは違う、なんとも不思議な間だった。前半、定石は古いが子供とは思えぬ豪胆でありながら緻密な碁。だがここから一転して今迄の手と気配が変わり怒涛の追い上げを見せた。終局までの迷いもない攻防は同一人物のものと考えるには…通じ合わぬ場面が多い」
真弦はもっともな言い訳を必死に探すが言葉にならずただ沈黙を捧げるしか出来ない。
僅かな欠片達から一気に心臓部を貫かれてしまった。
名人の眼はたった一局で2人の色を感じ、見極めている。
「それ…は…」
真実を打ち明けたところで、亡霊の存在など信じてもらえるだろうか。
真弦は自身に問いかける。
きっと、馬鹿馬鹿しい虚言だと笑う人ではない。それはわかる。
しかし仮に理解されたとしても、他者の力で碁を打つ不届者と軽蔑されてしまうのではないか。
冷や汗が流れる額。
その奥で声に出さず壱に尋ねる。
(どうしよう…壱、私のせいだ。ごめんなさい。負けた以上は帰されちゃうかな…)
(この方が何を重んじるかわたくしはまだ知りません…しかし真弦はよく打ったと思います…)
活路が見えない。
ここで認められなければ水の泡だ。
「真弦君」
「はっ、はい」
「君が…君自身がもう一度打ってみないか?迷いは捨てなさい。思うまま素直に打つんだ」
「えっ、で、も……」
ちらと隣の壱を見遣ると沈痛な面持ちで目を伏せている。
投了直前だったとはいえ対局に水を差したせいで傷付けてしまったのかもしれない。
(壱、私が打ってもいいのかな…)
(真弦……先程の終局までの道筋、わたくしでは至れなかった。それがすべてです)
(でも…)
(………真弦、お願いします。真弦の考えだけで打ってみてください)
「わかり、ました…」
伏せたままの白い横顔が視界にちらついて、石を持つ指先が重い。
囲碁界の頂点に君臨するその人と一からの対局。
密かに抱いた願いが叶うのに、壱の悲しみが流れ込んでひどく悪寒がする。
(ごめんなさい壱、もうこれきりで打ちたいなんて思わないようにするから……)
今だけは盤面だけにすべてを注がせて。
まっさらな19路の中で選ぶべき最良の道が鮮やかに浮かび上がってくる感覚。
幾重にも重ねた読みの向こうに真弦は自身を導いていった。
【誘いの手】
先方からは何度も断られたが、ここで引き下がっては目標は叶えられないと食らいつき、半ば強引に承諾をもぎ取ったのだ。
「真弦お嬢さん、また時間になりましたらお迎えに上がります」
「ありがとう!行ってきます」
降り立つは閑静な高級住宅街。
初老のドライバーに頷いて下車した先には塔矢の表札を掲げた数寄屋門が待ち構えていた。
手土産を片手にインターフかォンを押すと朗らかな女性の声があり、中へ促される。
門の先には敷き詰められた白那智砂利が一面に広がっている。
竹垣も相まって古き良き日本家屋を引き立てていた。
どこか懐かしい苔生した岩や鹿威しの映える和風庭園。
手入れの行き届いた風情ある景色を満喫しながら進み、玄関扉の前で背筋を正す。
「ごめんくださいませ」
06 【誘いの手】
「いらっしゃいませ。まあ!なんて可愛いお客様かしら」
インターフォン越しに対応してしてくれた声の主と思しき女性は満面の笑みで出迎えてくれた。
恐らく話に聞いていた奥様だろう。
艶やかな黒髪のボブカットが清潔感と若々しさを薫らせている。
(すてきな方ね)
壱がそっと囁く。
真弦は主を呼びに一度下がる背中を見送りながら、小さくそうだねと応えた。
「あなた、錫代さんがいらっしゃいましたよ」
穏やかな空気も束の間、戻ってきた奥様の背後から歩いて来るのは厳威な雰囲気を纏う着流し姿の男性。
彼が一歩歩み寄ってきただけで、あたたかだった空気がピシリと張り詰める。
これが"神の一手に最も近い男、塔矢行洋"だと立ち姿ひとつで伝わってくるようだった。
「よく来てくれた」
「は、はじめまして。錫代真弦と申します!勝手なお願いにも関わらずお招きくださりありがとうございます」
「そう堅くなる必要はないとも。明子、奥の部屋へお茶を頼む」
「ええ、わかりました」
「奥様、あのっ!お口に合うかわかりませんが、よろしければ皆様で召し上がってください」
「まあ!うさぎ屋のどら焼き。私これ大好きなの。お気遣いありがとう」
「わあ良かった、私の父も大好物なんです」
ひとときの談笑に緊張が解れる。
しかし客間へ導かれ障子が閉じた途端、名人と2人きりの空間というだけで鳩尾あたりをグッと重くさせられた。
掛軸を背に美しい姿勢を保つ正座姿は子供には耐え難いプレッシャーを放っている。
(ひいおじいちゃんや、お父さんとも、全然違う……)
萎縮しきった真弦の姿を見兼ねてか、行洋は頬を掻いて不器用な微笑みを浮かべた。
「いや、すまない…怖がらせる気はないんだ。錫代さん…君の曽祖父さんから頼み事をされるなんて初めてでね。私なりに緊張しているんだよ」
「え、ええと…」
(大丈夫ですよ真弦、この方は優しいひと。笑顔が可愛いもの)
隣人からの悪戯っぽい囁き。
この年齢の男性を小学生の自分がそのように思うことは無礼が過ぎるのではないかと思ったが、その意見には同意だった。
(確かに見た目はちょっと怖いけど….ひいおじいちゃんのお友達だもの。きっと良い方ね。壱が言うように困ったような顔がかわいい、のかも…?)
壱の言葉は硬直していた真弦の肩を僅かに緩ませる。
お陰で胸が苦しくなる程呼吸が浅くなっていたことに気がつくことができた。
鼻腔が畳の青い香りで満ちていく。
「早速本題を聞こうか」
再び場が引き締まる。
今度は竦まず背筋を正し、はっきりと目を見て答えた。
「はいっ、塔矢行洋先生に囲碁指南を受けたくて参りました」
「何故、私に?」
「先生が神の一手に最も近いと呼ばれていらっしゃるからです。私は…囲碁界の頂点へ行きたいんです」
「はは……そうか。わかった、まず一局打とう。その方が話が早い。棋力は聞いている、定先で打ちなさい」
「わ、わかりました」
(このような強者と相対するとは、胸が躍りますね)
(うん…壱…今日も、いつも通りでいいのかな?)
(ええ、真弦はわたくしの言う通りに石を運んでくださいな)
(わかった…)
浅く頷いて、まず1手目の黒石を盤上に降ろした。
人知れず疼く、"ある願望"を抑制しながら真弦は盤面と名人の姿をしげしげと観察する。
空気の流れが今迄経験してきた対局とはまるで違い、石を置くだけの立場でありながら指先が震えてしまう。
それは向い風を受ける中での進軍。
双方共にまだ様子見の段階ではあるものの、壱ではこの人に及ばないだろうと予見する。
(負けたら……やっぱり弟子入りは断られちゃうのかな…)
真弦の逃げ腰な気持ちをよそに、壱は実力以上の力を発揮して善戦していた。
対局中盤に至ってなおハンデを守り切っている。
しかしそれでも序盤から名人が仕掛けていた左下の石達にじわりじわりと押され、地を食い潰される終局が見えている。
(これが名人、なんだ…)
頂に君臨する棋士の鋭さは盤面だけでなく肌にまで伝わってくる。
驍勇無双に攻め、金城鉄壁と言える守り。
向けた刃の切っ先を軽やかに去なす様に、今迄相対したプロ棋士達とは格が違うのだと思い知る。
棋力は勿論、一手一手に宿る気迫は石を置いているだけの真弦にも息を呑ませた。
(こんなに凄い人と対局できる壱が羨ましい……)
壱の形勢不利はもう覆らないだろう。
だからと言って対局に水を差す事など許されないと重々承知しているのに。
戒めのように自らを説き伏せるが、真弦の小さな手はとうとう碁笥から離れてしまった。
(真弦……?)
指示を出しても微動だにしない真弦に少しの間があって壱は気付く。
膝の上で両手を握り締め、葛藤に震えた。
願いを口にしてはならないと理性は叫んでいるのに、止められないエゴはとうとう問いかけてしまった。
(壱…今の盤面をどう思ってる?教えて…)
(厳しい局面です。最早投了の頃合いなのかもしれませんが…この結果ではこの者を納得させられない。少しでも粘って差を…)
(ずっと、考えてたの…左下はもう取り返せなくなった。右辺も頭を叩かれては有力な手を絞って26種ほどの展開が予想できるけれどすべて競り負ける。中央はまだ盛り返せるけれど他の地を補うには足りない。どの可能性を選んでもきっと塔矢名人は応手を間違えない。最適解を進んでも…3目足りない。でもね…予測したこの流れが正しいものなのか、私確かめてみたい…)
(真弦、貴女…打ちたいのですか…?)
(もし…壱が投了を考えているのなら…この盤面、私に預けてほしいの)
(……貴女がそう望むなら…)
呟いた後、壱の気配が薄くなる。
それを承諾の合図に、真弦は初めて自分の意思のみで石を放った。
碁盤に石を打ち込む音は変わらないはずなのに世界が変わったように新鮮な気持ちで満たされる。
びり、と頭が痺れた。
対局の緊張感と脳に走る信号が混ざり合い総毛立つ感覚はどこか高揚感に似ている。
(楽しい。負けがわかっているのに、自分の手を試せるのはこんなにも……)
対局は真弦が描いた図の通りに進行したものの、初めての心地良さに溺れ投了の機を逸し終局まで打ち切ってしまった。
名人もそれを向こう見ずだと咎めること無く、黙って最後まで帯同してくれたことに感謝は尽きない。
整地の後、予測通りの3目差の敗北に到達出来た喜びを隠しながら真弦は潔く負けを宣言した。
「負けました、ありがとうございました!」
「……ふ、む」
達成感にきらきらと輝く少女の瞳と盤面の形を交互に見て名人は腕を組む。
僅かな沈黙。
眉間に皺を寄せたまま、ゆっくりと口を開いた。
「………真弦君、だったね。おかしな事を言うかもしれないが、君は思考が複数ある?」
核心に触れるその一言に、初めての自由な碁を楽しんだ快感は即座に逃げ去ってしまった。
心臓は早鐘を打ち、どっと汗が噴き出てくる。
「えっ……あ……」
大きな手が盤面の石を軽快に巻き戻し、壱に問い掛けていた場面を表す。
「途中、この局面で石を置くのを躊躇ったね。長考とは違う、なんとも不思議な間だった。前半、定石は古いが子供とは思えぬ豪胆でありながら緻密な碁。だがここから一転して今迄の手と気配が変わり怒涛の追い上げを見せた。終局までの迷いもない攻防は同一人物のものと考えるには…通じ合わぬ場面が多い」
真弦はもっともな言い訳を必死に探すが言葉にならずただ沈黙を捧げるしか出来ない。
僅かな欠片達から一気に心臓部を貫かれてしまった。
名人の眼はたった一局で2人の色を感じ、見極めている。
「それ…は…」
真実を打ち明けたところで、亡霊の存在など信じてもらえるだろうか。
真弦は自身に問いかける。
きっと、馬鹿馬鹿しい虚言だと笑う人ではない。それはわかる。
しかし仮に理解されたとしても、他者の力で碁を打つ不届者と軽蔑されてしまうのではないか。
冷や汗が流れる額。
その奥で声に出さず壱に尋ねる。
(どうしよう…壱、私のせいだ。ごめんなさい。負けた以上は帰されちゃうかな…)
(この方が何を重んじるかわたくしはまだ知りません…しかし真弦はよく打ったと思います…)
活路が見えない。
ここで認められなければ水の泡だ。
「真弦君」
「はっ、はい」
「君が…君自身がもう一度打ってみないか?迷いは捨てなさい。思うまま素直に打つんだ」
「えっ、で、も……」
ちらと隣の壱を見遣ると沈痛な面持ちで目を伏せている。
投了直前だったとはいえ対局に水を差したせいで傷付けてしまったのかもしれない。
(壱、私が打ってもいいのかな…)
(真弦……先程の終局までの道筋、わたくしでは至れなかった。それがすべてです)
(でも…)
(………真弦、お願いします。真弦の考えだけで打ってみてください)
「わかり、ました…」
伏せたままの白い横顔が視界にちらついて、石を持つ指先が重い。
囲碁界の頂点に君臨するその人と一からの対局。
密かに抱いた願いが叶うのに、壱の悲しみが流れ込んでひどく悪寒がする。
(ごめんなさい壱、もうこれきりで打ちたいなんて思わないようにするから……)
今だけは盤面だけにすべてを注がせて。
まっさらな19路の中で選ぶべき最良の道が鮮やかに浮かび上がってくる感覚。
幾重にも重ねた読みの向こうに真弦は自身を導いていった。
【誘いの手】