本編
name guide
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
真弦は運ばれた大学病院で原因不明の喀血として3日間の検査入院を余儀なくされた。
夏休みの楽しい旅行は想定外の入院体験となってしまったが、曽祖父と祖父母が手土産片手に入れ替わり立ち替わり訪れてくれるお陰で寂しさを感じる事は無かった。
平日、父の帰宅を静かに待つ日常よりずっと賑やかで楽しい時間だったし、個別病室で過ごす夜はひとり では無かったから。
05 【覊束の路】
消灯時間になると真弦は布団を被り、決まって枕を抱く。
それが合図のように、薄く上品な形の唇から透き通った声が奏でられる。
影の無い彼女ーー壱師の尚侍 と名乗った亡霊は、寝物語の代わりになればと毎夜これまでの記憶を語り聞かせてくれるのだった。
平安時代の盛りに生まれ、佐為の君という恋人がいたこと
彼は壱師の父親の囲碁弟子で、屋敷に通ってくるのをきっかけに出会い、御簾越しの逢瀬を重ねながら結婚の約束をしていたこと
しかし佐為の君は大君の指南役を争った際に対局相手に欺かれ、汚名を背負わされた苦しみの末に入水自殺したという。
「勝負に負けただけで、自殺をしちゃうの?」
(あの時代…都を追われるという事は生きる術を失うに等しかったのです)
現代とは大きくかけ離れた時代の出来事は幼い真弦にとってお伽噺そのものだった。
純粋さ故に、生きていればきっといい事があるのにねと呟き、最期に見た母の青白い寝顔を思い起こす。
(そう、お母さんもこんな風に笑う人だった。どうして…壱師の尚侍さんとお母さんは似ているんだろう)
隣で儚げに目を細める佳人と母の面影が重なる。
形は違えど、私に会うために戻ってきてくれたのかもしれないという都合の良い期待は、母を亡くしたあの日から胸の中で叫んできた孤独を人知れず慰める。
月明かりに溶けてしまいそうなほど淡く佇む壱師は頷いて、ええ、生きていてさえくれればわたくしもそれで良かったと夜の窓に哀しみを溢し、真弦に背を向けたまま続ける。
恋人の死後、その汚名を晴らそうと事件を調べていくと、佐為の君の対局相手であった菅原顕忠という男は大君の指南役を勝ち得る目的だけでなく、2人の結婚を阻止すべく不正行為をなすりつけたという真実に辿り着いた。
すべては壱師を妻に迎え、右大臣家を取り込みたいがため、仕組まれた策略だったのだ。
(佐為の君が盤上で人を欺く事などあるはずが無い。なのに人々はあの方を卑怯者と詰って追い詰め…信じようとしなかった……)
何故もっと早く事実を掴み、佐為の君を救えなかったのかと自分を責め続けたと壱師は語る。
助けられなかった事を悔やんでも、悔やみきれないと。
最期は菅原との婚姻から逃れるため、佐為の君との子供を宿しながらも入水して命を絶ったという。
彼女の想いを聞けば聞くほど幼心にも真弦の胸は痛んだ。
まるでまじないのように気持ちは引き寄せられ、嘆く魂を救う手立てを眠りに落ちる間際まで考えるようになっていた。
夢の中でも彼女のすすり泣く声は止まなかったから。
入院して3日目、検査結果に問題は発見されず、明朝の退院が決定した。
CT、心電図、血液検査、血圧ガス分析、内視鏡検査、一通りは行ったものの結局喀血の原因はわからず"要観察"という扱い。
観光はまたの機会にして東京へ直帰するよう電話越しの父から言い渡された。
「10時にはそちらへ着くからな。帰る途中、痛いところや苦しいところがあったら我慢せずすぐに言うんだぞ。念のためこちらの病院でも検査しに行こう」
父の声色は隠しきれぬ不安を纏っていた。
曽祖父と同じように『再び失う可能性』に怯えていたのかもしれない。
そんな愛情故の反応が真弦にとっては少し嬉しかった。
夕方、明朝の退院に備え荷物の整理も終えた頃、真弦はある決意を固めていた。
(壱師の尚侍さん、夜になったら聞いて欲しいことがあるの)
日中は生活に影響が出ないように会話は控えようと取り決めた上で真弦からかけられた言葉だった。
壱師は静かに応え、消灯時間を待った。
病室も廊下も暗く静かになった頃、真弦は降りていたカーテンを全開にし、夜の光を部屋に招き入れる。
青白い月光が室内を満たし、窓ガラスに跳ねて白い壁をちらちらと輝かせた。
窓辺から動かない影の隣へ寄り添うように壱師は並び、語り出しを黙って待った。
真弦は深呼吸をひとつ。
月明かりに透ける壱師へ向き直ると迷い無く胸を叩いて見せた。
「私、壱師の尚侍さんのために佐為の君さんを見つけてあげる!」
何の根拠も無いというのに自信に満ちた声が静寂に溶けていった。
流れる雲が月を翳らせ真弦は無言の暗闇にどきりとしたが、雲間から再び部屋を射した月は壱師に笑顔を与えていた。
女神さながらの慈愛に満ちた眼差しを湛え、けして触れ合う事は無いが真弦の小さな手にほっそりと白く透ける指が重なる。
(ありがとう真弦…。わたくし達は運命を共にする友ですね。どうかもっと楽に呼んで頂戴)
「え、えっと、じゃあ…壱!再会するために私はどうしたらいい?佐為の君さんがどこにいるか知らないんだよね?」
(ええ…けれど、わたくしは感じるのです。あの方はまだ目覚めてはおられぬけれど今世にいらっしゃる。そして無念を果たすため、必ず碁のある所に訪れるはず…どうか強き碁打ちの集う場へ私を導いてください)
そう言われたところで囲碁に触れた事もない真弦に浮かぶあては無く、まずは周りの大人を頼ってみようという行動指針を立てた一歩目の夜。
晴れやかな笑顔を見たお陰か、その夜真弦は病室で初めてぐっすり眠る事ができた。
翌朝、真弦は迎えに来た父に隠れて、曽祖父に囲碁を始めたいと相談してみた。
すると翌日には東京の自宅にピカピカの碁盤と碁石が届くというスピード対応。(次会う時は対局しよう、というメッセージカード付き)
更に、渋い顔をしていた父を説き伏せて囲碁教室への入会が手配されており、改めて曽祖父に感謝した。
教室初日、真弦は子供が1人もいない環境に緊張を隠せなかったが、基本的なルールの説明から雑談などを受け、頂点が集うプロという存在があることを知る。
(佐為の君さんがいるとしたら、きっとそこだよね)
(ええ、きっと)
少しでも早くその場所へ行くため、まずは真弦自身も碁の知識を身につけることにした。
父親と佐為の君に仕込まれ腕には自信があるという壱師から指導碁を毎日受け、囲碁教室でも熱心に取り組んだ。
とはいえ、碁の初心者が頂点を目指すのは目的達成の特急券ではない。
早急に囲碁界から佐為の君を探し出すため、あるいは佐為の君が現れるのを待つため2人が取った方法は、対局の指示は壱師が行い、真弦は石を間違えぬよう置いて対局時計の管理を行うという分担手法。
この作戦が功を奏した。
ジュニア参加が可能なアマチュア大会では軒並み優勝を果たし、1年も経たずして神童と呼ばれ『囲碁界に突如現れた天才少女』として注目を浴びる事となった。
しかし石を置いているに過ぎない真弦にとっては実感が無かった上、自分の実力では無いのを隠していた故に後ろめたさを抱いていた。
それでも曽祖父を含め身近な大人に褒められる時は嬉しそうにしていると壱に冗談ぽく冷やかされた時もあった。
ある日、囲碁教室の白川先生からプロ試験というものがあり、今の君ならば充分合格できる棋力がある、興味はないだろうかと提案された。
これでプロ棋士の中に隠れているかもしれない佐為の君を探せる!と壱師と手を取り合って喜んだのも束の間、父から反対されてしまった。
「まだ小学生の真弦が人生を決めるのは早過ぎる。世の中にはたくさんの学校や仕事があるのをまだ知らないだろう?夢中になれるものがあるのは素晴らしいが、もう少し大きくなってから考えなさい」
大人の意見として至極真っ当なものだとは理解しながらも真弦はひどく落胆した。
壱への申し訳なさで枕を濡らす。自分が子どもだという事が彼女を救う道の障害になってしまったのだ。
「ごめっ、ごめんなさい、壱……」
(貴女は悪くないわ。わたくしのわがままのせいで、ごめんなさい…)
「約束したのに、私っ、壱に幸せになって欲しいのに…ごめ、なさ……」
壱は泣き疲れて眠る真弦の隣で、未来ある少女の人生を亡霊の悲哀が導くのは確かに残酷な事だろうと胸を痛めていた。
しかしこのままでは悲願を遂げ成仏する事もままならない。
互いに複雑な想いを抱えたまま2人の日々は徒らに過ぎていった。
佐為の君の手掛かりは囲碁のみ。
しかし真弦はまだプロの道を選べない。
僅かな可能性だとしても出来る行動として大会には出場を続けていたため、幸いプロとの交流の機会には恵まれるようになっていった。
2人が出会って1年半経った頃、真弦の中で変化が起きていた。
はじめは優勝できるイコール強い程度の感覚しかなかったが、数多の対局と向き合ってきた経験から盤面の仔細を理解するようになった。
壱師は強さは、努力を重ね研鑽を積んでも万人が至れるものではないと知る。
碁の事しか頭に無かったという佐為の君が惹かれたのも必然だろう。
隙の無く、繊細な内面からは信じられない程の豪気な攻めは才に恵まれた者のみが授けられるセンスだと感じた。(それでも佐為の君には一度も勝てなかったそうだから恐ろしい)
対局する機会のあったプロ相手にも度々白星を挙げてきたし、劣らぬ力が確かにある。
しかし歳月の流れ…
現代の研究されてきた碁のストラクチャーに未だ届いていない部分があった。
アマ相手ならいざ知らず、プロの攻撃を凌ぎ切れない。黒星は対局数を重ねる度に増えていく。
(悔しい…。きっと佐為の君ならば瞬く間に現代碁の感覚を身に付けて己の糧としたでしょうに…)
壱はそう言って自嘲気味に笑う事が増えていった。
しかし反面、対局を任せて見てきただけに近い真弦はいつしか壱以外の人と対局してみたい。強さを身につけたい。そんな欲が生まれていた。
壱師の願いを差し引いても碁に自分自身が引き込まれていたのだ。
元々、1度見た物を忘れずにいる"癖"があった真弦は定石は直ぐ記憶し、理解していた。
壱師の為という建前でプロの公式戦における棋譜は飽きる程に並べ、今の流行形研究も行った。
数え切れないパターンも応手の組み合わせの問題で、頭の中で可能性を掛け合わせていけばこの19路における最適解が自ずと導かれる感覚を掴んでいた。
そこに壱独特のセンスを眼に焼き付けて盗む。
そうやって真弦はいつしか頭の中で対局をするようになっていた。
対局中の壱に口を出す事こそしなかったが、度々私ならこう打つのに、と声にしそうになる気持ちを抑え込む。
ああ、願ってはいけない。
自分の意思で勝利を掴みたいなどと思ってはいけない。
真弦にとってその想いは壱師への裏切りのように感じられた。
「ごめんなさい真弦…貴女の貴重な時間をいただいているのに此度、白星に届きませんでした」
あるプロアマ交流戦の準決勝、私達は高段のプロ棋士に敗れた。
この頃、未だに佐為の君の手掛かりを掴めず、彼女の焦る気持ちが打ち筋を鈍らせていたように思う。
「ううん。壱、私達もっと囲碁を研究しなくちゃいけない。このままじゃ佐為の君さんの場所へ届かない」
(しかし、如何様にすれば……)
「あのね、神の一手に近いって言われている人がいるみたいなの。この間のイベントで聞いたんだ。その人に会って教えてもらうのは、どうかな?もしかしたらその人が佐為さんって可能性もある」
「神の一手に近い……ええ、ええ!ありがとうございます真弦…っ」
瞳を輝かせる壱の笑顔が眩しい。
真弦は罪悪感で目を合わせられず、俯いたまま感激する声に頷いた。
自身も頂点に君臨する棋士の碁に触れたいという探究心が静かに高鳴る。
けれどそれを彼女に打ち明ける事は出来なかった。
【覊束の路】
夏休みの楽しい旅行は想定外の入院体験となってしまったが、曽祖父と祖父母が手土産片手に入れ替わり立ち替わり訪れてくれるお陰で寂しさを感じる事は無かった。
平日、父の帰宅を静かに待つ日常よりずっと賑やかで楽しい時間だったし、個別病室で過ごす夜は
05 【覊束の路】
消灯時間になると真弦は布団を被り、決まって枕を抱く。
それが合図のように、薄く上品な形の唇から透き通った声が奏でられる。
影の無い彼女ーー壱師の
平安時代の盛りに生まれ、佐為の君という恋人がいたこと
彼は壱師の父親の囲碁弟子で、屋敷に通ってくるのをきっかけに出会い、御簾越しの逢瀬を重ねながら結婚の約束をしていたこと
しかし佐為の君は大君の指南役を争った際に対局相手に欺かれ、汚名を背負わされた苦しみの末に入水自殺したという。
「勝負に負けただけで、自殺をしちゃうの?」
(あの時代…都を追われるという事は生きる術を失うに等しかったのです)
現代とは大きくかけ離れた時代の出来事は幼い真弦にとってお伽噺そのものだった。
純粋さ故に、生きていればきっといい事があるのにねと呟き、最期に見た母の青白い寝顔を思い起こす。
(そう、お母さんもこんな風に笑う人だった。どうして…壱師の尚侍さんとお母さんは似ているんだろう)
隣で儚げに目を細める佳人と母の面影が重なる。
形は違えど、私に会うために戻ってきてくれたのかもしれないという都合の良い期待は、母を亡くしたあの日から胸の中で叫んできた孤独を人知れず慰める。
月明かりに溶けてしまいそうなほど淡く佇む壱師は頷いて、ええ、生きていてさえくれればわたくしもそれで良かったと夜の窓に哀しみを溢し、真弦に背を向けたまま続ける。
恋人の死後、その汚名を晴らそうと事件を調べていくと、佐為の君の対局相手であった菅原顕忠という男は大君の指南役を勝ち得る目的だけでなく、2人の結婚を阻止すべく不正行為をなすりつけたという真実に辿り着いた。
すべては壱師を妻に迎え、右大臣家を取り込みたいがため、仕組まれた策略だったのだ。
(佐為の君が盤上で人を欺く事などあるはずが無い。なのに人々はあの方を卑怯者と詰って追い詰め…信じようとしなかった……)
何故もっと早く事実を掴み、佐為の君を救えなかったのかと自分を責め続けたと壱師は語る。
助けられなかった事を悔やんでも、悔やみきれないと。
最期は菅原との婚姻から逃れるため、佐為の君との子供を宿しながらも入水して命を絶ったという。
彼女の想いを聞けば聞くほど幼心にも真弦の胸は痛んだ。
まるでまじないのように気持ちは引き寄せられ、嘆く魂を救う手立てを眠りに落ちる間際まで考えるようになっていた。
夢の中でも彼女のすすり泣く声は止まなかったから。
入院して3日目、検査結果に問題は発見されず、明朝の退院が決定した。
CT、心電図、血液検査、血圧ガス分析、内視鏡検査、一通りは行ったものの結局喀血の原因はわからず"要観察"という扱い。
観光はまたの機会にして東京へ直帰するよう電話越しの父から言い渡された。
「10時にはそちらへ着くからな。帰る途中、痛いところや苦しいところがあったら我慢せずすぐに言うんだぞ。念のためこちらの病院でも検査しに行こう」
父の声色は隠しきれぬ不安を纏っていた。
曽祖父と同じように『再び失う可能性』に怯えていたのかもしれない。
そんな愛情故の反応が真弦にとっては少し嬉しかった。
夕方、明朝の退院に備え荷物の整理も終えた頃、真弦はある決意を固めていた。
(壱師の尚侍さん、夜になったら聞いて欲しいことがあるの)
日中は生活に影響が出ないように会話は控えようと取り決めた上で真弦からかけられた言葉だった。
壱師は静かに応え、消灯時間を待った。
病室も廊下も暗く静かになった頃、真弦は降りていたカーテンを全開にし、夜の光を部屋に招き入れる。
青白い月光が室内を満たし、窓ガラスに跳ねて白い壁をちらちらと輝かせた。
窓辺から動かない影の隣へ寄り添うように壱師は並び、語り出しを黙って待った。
真弦は深呼吸をひとつ。
月明かりに透ける壱師へ向き直ると迷い無く胸を叩いて見せた。
「私、壱師の尚侍さんのために佐為の君さんを見つけてあげる!」
何の根拠も無いというのに自信に満ちた声が静寂に溶けていった。
流れる雲が月を翳らせ真弦は無言の暗闇にどきりとしたが、雲間から再び部屋を射した月は壱師に笑顔を与えていた。
女神さながらの慈愛に満ちた眼差しを湛え、けして触れ合う事は無いが真弦の小さな手にほっそりと白く透ける指が重なる。
(ありがとう真弦…。わたくし達は運命を共にする友ですね。どうかもっと楽に呼んで頂戴)
「え、えっと、じゃあ…壱!再会するために私はどうしたらいい?佐為の君さんがどこにいるか知らないんだよね?」
(ええ…けれど、わたくしは感じるのです。あの方はまだ目覚めてはおられぬけれど今世にいらっしゃる。そして無念を果たすため、必ず碁のある所に訪れるはず…どうか強き碁打ちの集う場へ私を導いてください)
そう言われたところで囲碁に触れた事もない真弦に浮かぶあては無く、まずは周りの大人を頼ってみようという行動指針を立てた一歩目の夜。
晴れやかな笑顔を見たお陰か、その夜真弦は病室で初めてぐっすり眠る事ができた。
翌朝、真弦は迎えに来た父に隠れて、曽祖父に囲碁を始めたいと相談してみた。
すると翌日には東京の自宅にピカピカの碁盤と碁石が届くというスピード対応。(次会う時は対局しよう、というメッセージカード付き)
更に、渋い顔をしていた父を説き伏せて囲碁教室への入会が手配されており、改めて曽祖父に感謝した。
教室初日、真弦は子供が1人もいない環境に緊張を隠せなかったが、基本的なルールの説明から雑談などを受け、頂点が集うプロという存在があることを知る。
(佐為の君さんがいるとしたら、きっとそこだよね)
(ええ、きっと)
少しでも早くその場所へ行くため、まずは真弦自身も碁の知識を身につけることにした。
父親と佐為の君に仕込まれ腕には自信があるという壱師から指導碁を毎日受け、囲碁教室でも熱心に取り組んだ。
とはいえ、碁の初心者が頂点を目指すのは目的達成の特急券ではない。
早急に囲碁界から佐為の君を探し出すため、あるいは佐為の君が現れるのを待つため2人が取った方法は、対局の指示は壱師が行い、真弦は石を間違えぬよう置いて対局時計の管理を行うという分担手法。
この作戦が功を奏した。
ジュニア参加が可能なアマチュア大会では軒並み優勝を果たし、1年も経たずして神童と呼ばれ『囲碁界に突如現れた天才少女』として注目を浴びる事となった。
しかし石を置いているに過ぎない真弦にとっては実感が無かった上、自分の実力では無いのを隠していた故に後ろめたさを抱いていた。
それでも曽祖父を含め身近な大人に褒められる時は嬉しそうにしていると壱に冗談ぽく冷やかされた時もあった。
ある日、囲碁教室の白川先生からプロ試験というものがあり、今の君ならば充分合格できる棋力がある、興味はないだろうかと提案された。
これでプロ棋士の中に隠れているかもしれない佐為の君を探せる!と壱師と手を取り合って喜んだのも束の間、父から反対されてしまった。
「まだ小学生の真弦が人生を決めるのは早過ぎる。世の中にはたくさんの学校や仕事があるのをまだ知らないだろう?夢中になれるものがあるのは素晴らしいが、もう少し大きくなってから考えなさい」
大人の意見として至極真っ当なものだとは理解しながらも真弦はひどく落胆した。
壱への申し訳なさで枕を濡らす。自分が子どもだという事が彼女を救う道の障害になってしまったのだ。
「ごめっ、ごめんなさい、壱……」
(貴女は悪くないわ。わたくしのわがままのせいで、ごめんなさい…)
「約束したのに、私っ、壱に幸せになって欲しいのに…ごめ、なさ……」
壱は泣き疲れて眠る真弦の隣で、未来ある少女の人生を亡霊の悲哀が導くのは確かに残酷な事だろうと胸を痛めていた。
しかしこのままでは悲願を遂げ成仏する事もままならない。
互いに複雑な想いを抱えたまま2人の日々は徒らに過ぎていった。
佐為の君の手掛かりは囲碁のみ。
しかし真弦はまだプロの道を選べない。
僅かな可能性だとしても出来る行動として大会には出場を続けていたため、幸いプロとの交流の機会には恵まれるようになっていった。
2人が出会って1年半経った頃、真弦の中で変化が起きていた。
はじめは優勝できるイコール強い程度の感覚しかなかったが、数多の対局と向き合ってきた経験から盤面の仔細を理解するようになった。
壱師は強さは、努力を重ね研鑽を積んでも万人が至れるものではないと知る。
碁の事しか頭に無かったという佐為の君が惹かれたのも必然だろう。
隙の無く、繊細な内面からは信じられない程の豪気な攻めは才に恵まれた者のみが授けられるセンスだと感じた。(それでも佐為の君には一度も勝てなかったそうだから恐ろしい)
対局する機会のあったプロ相手にも度々白星を挙げてきたし、劣らぬ力が確かにある。
しかし歳月の流れ…
現代の研究されてきた碁のストラクチャーに未だ届いていない部分があった。
アマ相手ならいざ知らず、プロの攻撃を凌ぎ切れない。黒星は対局数を重ねる度に増えていく。
(悔しい…。きっと佐為の君ならば瞬く間に現代碁の感覚を身に付けて己の糧としたでしょうに…)
壱はそう言って自嘲気味に笑う事が増えていった。
しかし反面、対局を任せて見てきただけに近い真弦はいつしか壱以外の人と対局してみたい。強さを身につけたい。そんな欲が生まれていた。
壱師の願いを差し引いても碁に自分自身が引き込まれていたのだ。
元々、1度見た物を忘れずにいる"癖"があった真弦は定石は直ぐ記憶し、理解していた。
壱師の為という建前でプロの公式戦における棋譜は飽きる程に並べ、今の流行形研究も行った。
数え切れないパターンも応手の組み合わせの問題で、頭の中で可能性を掛け合わせていけばこの19路における最適解が自ずと導かれる感覚を掴んでいた。
そこに壱独特のセンスを眼に焼き付けて盗む。
そうやって真弦はいつしか頭の中で対局をするようになっていた。
対局中の壱に口を出す事こそしなかったが、度々私ならこう打つのに、と声にしそうになる気持ちを抑え込む。
ああ、願ってはいけない。
自分の意思で勝利を掴みたいなどと思ってはいけない。
真弦にとってその想いは壱師への裏切りのように感じられた。
「ごめんなさい真弦…貴女の貴重な時間をいただいているのに此度、白星に届きませんでした」
あるプロアマ交流戦の準決勝、私達は高段のプロ棋士に敗れた。
この頃、未だに佐為の君の手掛かりを掴めず、彼女の焦る気持ちが打ち筋を鈍らせていたように思う。
「ううん。壱、私達もっと囲碁を研究しなくちゃいけない。このままじゃ佐為の君さんの場所へ届かない」
(しかし、如何様にすれば……)
「あのね、神の一手に近いって言われている人がいるみたいなの。この間のイベントで聞いたんだ。その人に会って教えてもらうのは、どうかな?もしかしたらその人が佐為さんって可能性もある」
「神の一手に近い……ええ、ええ!ありがとうございます真弦…っ」
瞳を輝かせる壱の笑顔が眩しい。
真弦は罪悪感で目を合わせられず、俯いたまま感激する声に頷いた。
自身も頂点に君臨する棋士の碁に触れたいという探究心が静かに高鳴る。
けれどそれを彼女に打ち明ける事は出来なかった。
【覊束の路】