本編
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「お父さん?うん、大丈夫。こっちは法事も終わって新幹線待ってるところ」
夕方の上り新幹線ホームはスーツ姿のビジネスマンや秋の京都を満喫してきたであろう観光客で混雑していた。
人が行き交う中、喪服姿の自分は浮いていやしないかと落ち着かないままに真弦は携帯電話へ相槌を打つ。
(横着しないで着替えを持ってくるべきだったなぁ)
電光掲示板を仰ぎ見ると乗車予定の新幹線は次の次。まだ時間には余裕がある。
一先ずホームの売店で飲み物と軽食を選ぶ事にした。
補充前の時間帯だったのか、目ぼしいものは少ないが適当に見繕ってレジへ向かう。
こちらの会計音が聞こえたようで、お友達やお世話になっている方への土産は買ったのかと父は尋ねてくる。
女親のような口振りにくすぐったさを覚えた。
「大丈夫、百貨店寄ってきたから。お腹空いちゃって軽食買ってたの。法事じゃお酌して回るばかりで全然食べられなかったから」
実際食べられなかったどころではなく、朝から一族への接待に徹したため肩こりがお土産に残った。全く嬉しくない。
俯いて生あくびを掌で覆い隠す。
「え?眠いに決まってるよ〜5時起きだもの。久しぶりの京都だったからゆっくりしたかったけど明日は朝からイベントで解説があるから日帰りしか…ううん」
はっとして言葉を止める。父は電話口から心配そうに様子を聞き出そうとしてくるがそれ以上言えなかった。
身内で唯一プロ棋士になる事を反対していた父は今でも私の環境を良しとしていない。
だからこそ僅かな愚痴や弱音も溢す事は禁じ手だ。
宥めるように真弦は終始穏やかな声色で会話を仕切り直す。
「自分で決めた道だから。学校も、課題とか個別授業してもらって補ってるよ。ちゃんと卒業する約束は守るから」
名残惜しそうな父を説き伏せ会話を収束させる。最後に聞こえたのは、帰れなくてすまないという謝罪だった。
通話を終えると寂しさが湧き起こってくる。
アメリカから法事の為だけに帰国するのは難しい。私だって"理解"はしている。
"納得"とは別の感情だけれど。
「…はぁーっ、荷物重い…」
土産袋が手のひらに食い込み、反対の手に持ち替える。
ついでに売店で買ったばかりのアイスティーをちびりと口に含んだ。
今日は母の7回忌だった。
諸々の手配は曽祖父と祖父が済ませてくれるため、私は当日こちらへ来るだけの気楽な立場だと言える。
しかし到着すれば親族達から毎度恒例の同情する声を掛けられたり、婿養子の父を低く見るような話を聞かされうんざりする。
口角を上げた顔を貼り付けて過ごしたせいか頬が痛んだ。
(真弦、疲れたでしょう。席が空いていますからそちらへ掛けたら?)
左隣から壱が顔を覗き込んでくる。
なんの因果かはわからないけれど、亡くなった母と壱は生き写しと言って過言でない程良く似ていた。
出逢った時は運命だと思ったけれど、こんな日は彼女の顔を見るのが少し辛い。
気遣いの言葉にありがとうと応えられず、目も合わせられない。生返事を返すのがやっとだ。
(こんなのは八つ当たり)
緒方さんの言う通り、本当にガキ。
記憶の中の母は綺麗で、優しくて、入退院を繰り返してばかりいた。
一緒に過ごした時間は短く、思い出は僅か。どんな人だったか上手く答えることが出来ない。その罪悪感がまるで母のように微笑む壱に顔を向けられず胸が苦しくなった。
(私達が出会ったのはこの街でしたね)
(うん…そうだね)
こちらの態度から察したのか、壱はそれ以上何も言わなかった。
語り掛けに相槌だけ放り、視線を落としたまま彼女が促してくれたベンチに掛ける。
ああ、体が重い。
ふいに、男性の声が降ってきた。誰かに話しかけているのかと思ったがどうやら私へ向けたものだったらしい。
生憎意識を向ける気力すら無く、申し訳ないが無言の姿勢を貫く。
その人の革靴はしばらく視界に留まっていたが、ホームにアナウンスが響き渡ると早足に去っていく。
早く、帰りたい。
減速していく車両の風を受け、髪に移った白檀の香りが揺れた。
あれは私が10歳の時だった。
母が亡くなってから初めて迎えた夏休み。
父は仕事に逃避していた。
私は早々に宿題を終えてしまい、ハウスキーパーの舟木さんから家事を習う程度しかやることもなく、長期休暇を持て余していた。
それを見兼ねた舟木さんが本家に相談をしたらしく、大好きな曽祖父が南禅寺の別荘へ招待してくれることになった。
曽祖父は穏健な領域を超えた蒐集家で、観光だけでなく愛する骨董品コレクションを披露してくれるとのことだった。
出発前夜、芸術にとんと興味の無い父にそれを伝えると『あのコレクション邸へ行くのか?父さんはもう懲り懲り』と頬を掻いていたのが印象に残った。
父が辟易する世界とは一体どんなものなのかと緊張を背負って京都へ降り立ったが、訪れてみればそこはまるでロマンを詰め込んだ別世界のようで、幼心に高揚を覚えた。
「さぁ次はこの部屋。ここには特にお気に入りの日本の品を集めているんだよ」
杖をついて歩く曽祖父の歩みは至極ゆったりとしたものだが、それぞれの歴史を紐解くよう雄弁に語る瞳の輝きは少年そのものだった。
刀、陶芸品、掛軸、彫刻など多岐にわたる品々が等間隔で陳列されている。
骨董品の歴史に触れ、においや重み、手袋越しの感触を楽しむ。
曽祖父の蘊蓄は途絶える事なく、非常にユーモラスだった。語りに聞き入りながら当時の世界へ想いを馳せた。
「当時のありふれた品さえ未来の私たちには宝物になる…時代は、それをずっと繰り返しているんだね」
「そうだね。真弦は人間の営み…風俗史なんかに興味があるのかい?いずれ勉強してみるといい」
皺々の骨張った手は骨董品を扱うより優しく頭を撫でてくれる。
嬉しくて、ぎゅうっとズボンにしがみついた。
「面白いのはね、貴重になった品も沢山あるけれど、今も昔もずうっと形が変わらない物だってあるんだよ」
それは、と口を開いたのと同時に壮年の秘書がノックと共に現れた。
曽祖父は「ああ」と頷いて踵を返す。
「真弦、ひいじいちゃんからの問題だ。この部屋に昔も今も変わらない物がいくつあるか捜してごらん」
お茶目に笑んで見せ、すぐ戻るからねと扉の向こうへ消える。
足音と杖の刻むリズムは遠ざかり、次第に聞こえなくなった。
無音。
ひとりきりになった途端、部屋の独特の香りのせいか不安と探究心が波のように交互に引いては寄せていく。
昔はパーティールームだったという広い部屋をぐるりと見回し、改めて大切な展示専用の部屋なのだと思い知る。
部屋に入る前に嵌めてもらったシルクの手袋。
埃防止のガラスケース。
状態を維持する厚手の遮光カーテン。
更に窓が近い最奥一列の展示棚はごく僅かに漏れてくる日光からも守るため暗幕がかけられていた。
ずらりと広がる真っ黒のシルエットは幼い瞳には不気味に映ったが、与えられた問題を解き明かし曽祖父に褒めてもらうため拳を握り自分を奮い立たせる。
「こっち、かな…」
博物館顔負けに作られている順路を辿ってみるが、1人では好奇心よりも寂しさが勝った。
心許無くて部屋の中でも比較的明るい入り口側へ戻ろうと踵を返すが、肌にぴりりと電気が走る。
気がついてしまった。
背後から…か細い泣き声が聞こえてくることに。
意識してしまったが最後、背筋がヒヤリとして手足が凍ったように固まる。
聴覚だけが研ぎ澄まされ、それは若い女性の声だと直感が告げた。
こちらの胸まで締め付けられるような、沈痛な啜り泣き。急速に喉が渇いていく感覚に思わず唾を飲んだ。
「だれか…いるの?」
恐怖を振り払おうと声を出したが高い天井に反響して緊張が増した。
握り締めた手の中がじっとりとして気持ちが悪い。
このまま幽霊に殺されてしまうのかもしれない。そんな考えが浮かぶと驚くほど冷静になっていく自分がいた。
(…そうだ、お母さんに会えるならそれでいいじゃない)
(もしかしたら泣いているこの声は私のお母さんかもしれない)
私が探してあげなくちゃ。
不思議とそんな考えが浮かぶ。
意を決して顔を上げると手足の重みは嘘のように解けて軽くなっていた。
耳を澄ませ声の方へ進んでいくと、進むのを躊躇っていた暗幕に覆われた一角が待ち構えている。
いつの間にか声は止んでいた。
「あれ?」
どう見ても周囲に人影のようなものは無い。
聞き間違いだったのかと振り返るとスリッパ越しに爪先へカチリと何かが当たる感覚があってしゃがみこむ。
私はそれを初めて見た。
散らばった複数の白と黒の丸く、薄い石。
「ぶつけて落としちゃったかな?」
慌てて膝を折り手を伸ばす。
すると触れるか触れないかの瞬間、白黒の石から芽吹くように蕾を掲げた植物が現れた。
恐る恐るそれを指先でつつこうとしたが触れる事が出来ない。
不思議な事象に首を傾げると、蕾はゆっくりと膨らみ、裂けるかのように花弁が開いていく。
「ひがんばな…?」
燃えるような花。
呟くと、近くに人の気配がした。
(わたくしが、見えるのですか)
声が降ってきた。
反射的に顔を上げると目の前に女性のシルエットが浮かび上がる。
靄がかかったような姿は粒子が集うように形を成していき、最後に強い光をその身に宿した。
幾重にも重なった絢爛な着物は蘇芳グラデーションに染まり、その鮮やかな色を覆うように烏の濡れ羽の如き黒髪がさらさらと靡く。雪原とよく似た肌とのコントラストは私の目を奪う。
夢が叶ったのかと目を疑った。
現れたのはアルバムの中で微笑む若い頃の母そっくりだったから。
「お…かあさん?」
喜びに打ち震えて手を伸ばしたが、その腕をすり抜け虚しく空を切る。
女性はゆっくりと首を振り、形の良い唇から静かに言葉を紡き出した。
(わたくしは右大臣の娘、壱師の尚侍)
「いちしの、ないしのかみ?」
(お慕いする御方を捜しております。背の君の魂をお助けしたい。一目でも相見えぬ事にはこの壱師のいのちは、燃え尽きませぬ…)
胸を抑え悲しみに包まれた表情は儚くも、いっそうこの人を美しく見せた。
(聡く美しき子よ、どうかわたくしの願いを叶えてはくれまいか?救ってはくれまいか……)
そう請われても状況に頭が追いつかない。
現れたのは母では無かった。けれど、母に良く似たこの人は私に救いの手を求めている。
それを何故拒めるだろうか。
私は抑えきれず強く叫んでいた。
「私が助けるよ!」
(嗚呼…この出会いに、運命に感謝を……佐為の君、ようやく貴方に……)
強い光が私の胸に飛び込んで消える。
そこで意識が途絶えた。
曽祖父に聞いた話では、部屋へ戻ると私が床に倒れており、駆け寄ると私の口角には血が滴り…吐血しているとわかって顔面蒼白。
その血はぞっとするほど深い赤で、血相を変え救急車を呼んだそうだ。
「良かった、良かった…!あの血を見た時はお前まで失ってしまうかと…」
意識を取り戻した時、付き添ってくれていた曽祖父は涙を流して痛い程抱き締めてくれた。
今思えば、溢れた血は契約に似たものだったのかもしれない。
幼く無知な私は、雨はいつか止み、夜明けは必ず訪れると信じていた。
【追憶の引き金】