本編
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「それじゃあ私はお先に失礼しますね」
「ええ、気を付けてね」
受付で挨拶を済ませエレベーターからエントランスへ降りると湿度を孕んだ空気が纏わりつく感覚。
仰いだ夜空は重暗く、月は厚い雲ですっかり隠れてしまっている。
一雨来そうだ。
携帯電話の電源を入れるとディスプレイには不在着信が1件。車の到着を報せるものだろう。
折り返そうと発信ボタンに指を重ねた瞬間、声変わり前のボーイソプラノが私の名を叫んだ。
03 【雨のち夕食】
「真弦さん!」
振り返るとエレベーターが動いた気配は無く、階段から駆け降りて来たのだとわかる。
少し息を切らした少年の姿を認め、慌てて軒先へ駆け寄った。
咄嗟に携帯電話をポケットに滑り込ませる。
「アキラ君!どうしたの?」
「あの、これっ!」
彼は乱れた呼吸を整えもせず、折り畳み傘を差し出た。
私はそれを制したが、より強くに手元へ押し付けられてしまった。
「窓を見たら雨が降りそうだったから、持っていってください!」
「私は迎えの車が来るから大丈夫だよ。それに雨が降るならこれは尚更アキラ君が…」
「ボクは予備があるので構いません。少しの間でも…真弦さんが濡れて風邪をひいたら大変でしょう?」
真っ直ぐにこちらを見ている。
彼の瞳にはいつも意志の強さを物語る輝きが宿っていて、それが揺らぐ事はない。
こちらが受け取るまで譲らないだろう。
ましてその純粋な好意を無碍にはできず、ありがとうと受け取ると満足そうに微笑んだ。
「研究会以外でもこうして打ってくださいね。ボク待っていますから」
「うん…また時間を作って寄るようにするね」
健気な態度に彼の敬愛を感じる。
私より小柄な彼の頭を子犬のように撫でてあげたい気持ちが湧き上がった。
けれど相手は12歳になる男の子だ。昔のような扱いの是非に躊躇い、疼いた右手を思い留まらせる。
「本当にありがとう、またね」
手を振ってビルを離れながら進み、最初の角を曲がる。彼の視界から私は消えただろうか。
道の先には赤いランプが点灯しているのを見つけた。
けして疚しい所は無いのに、これから会う相手の事を皆には言えないでいる。
(壱、今から車に乗るから話は聞いてるけど返事はできないと思う。ごめんね)
(構いませんよ。わたくしは少し眠りますから…どうぞゆっくりしていらしてね)
左側を並び歩く等身大雛人形の如き美女は呼び掛けに頷いて霧のように姿を消した。
亡霊というのは出たり消えたりが自由なのだろうか。6年の付き合いになるが、未だ不思議極まりない。
見慣れた赤い車に小走りで近付き、歩道から助手席側の窓をノックする。
急かすようにロックを解除する音と共に煙草を灰皿に揉み消す白スーツの腕が見えた。
「遅かったな」
「ごめんなさい電話も出られなくて。随分待たせましたよね?」
「いいさ、大方芦原かアキラ君に引き止められていたんだろ」
助手席へ乗り込み、勝手知ったるシートベルトを締めると車は環状線へ向けて走り出す。
「今日はどうする?俺は和食の腹ではあるんだが…」
「うーん…あ、夏頃に行った広尾のお店は?美味しかったですよね」
「ああ日赤通り沿いの所か。いいな」
信号待ちの僅かな時間で目的地は定まった。
ふいに運転者と目が合う。
レンズ越しのシャープな眼差しは冷たく見られがちだが、案外そうでもない事を私は知っている。
こんな風に迎えがてら食事に誘ってくれるようになったのも、私が一人暮らしを始めたと知ってからだ。
淡白そうで面倒見は良い。けれど干渉はせず距離感を保ってくれる。
緒方精次という人は私にとって特段居心地の良い相手だと思う。
「その傘、どうした?」
膝の上に置いていた男物の折り畳み傘を視線で指され、先の出来事を思い出す。
「ああ、アキラ君が雨が降りそうだからって貸してくれて」
「相変わらず懐かれてるな。憧れのお姉さんというヤツか」
「そういうのに結び付けるのは安直ですよ?研究会の人間では1番歳が近いし、私たまに抜けてるから心配してくれてるんですよ」
「…たまに?」
「たまにですよ!!」
「お前外面良いのに俺には強気だな」
「緒方さんが私の事を馬鹿にするから反論しているだけです」
「はは、ガキだな」
「16歳はガキです」
このやりとりは私達にとって定番、お約束、挨拶代わりのようなものだ。
外見のせいか私を大人扱いする人はいても子供扱いをする人は少ない。
どこか侮られているのは納得いかないのだけれど、私を歳相応に扱うこの人の前では素直でいられる。
しかし矛盾して、この大人に釣り合う存在でいたいという欲求が明滅する時もあった。
今の居心地の良さを変える必要性は無いと、決まって見ないフリをしてきたけれど。
「あ」
フロントガラスに水滴がひとつ、ふたつ。
細い雨がぽつぽつと落ち始めた。
「降ってきたな」
「すぐ止むといいですね…」
柔らかな雨音、車の僅かな振動、ワイパーの単調な動き、諸々が噛み合ったタイミングで瞼が一気に重みを掛けてくる。
助手席で舟を漕ぐなど運転者に失礼だと目頭を揉むが眠気は隣の大人に筒抜けだった。
「着いたら起こす。寝てろ」
「えっ、いえ!大丈夫です」
「朝から対局し通しなんだろ。子供が変な気を遣うな」
こちらを見向きもせず突っぱねるように返された。
私の扱いを熟知した人に抗う気力は今はもう無く…
「お言葉に、甘えます……」
なんとか紡ぎ出した言葉を最後に、私の体は重くなり眠気に身を委ねた。
途中、対向車のライトで薄眼が開いたがいつも以上に緩やかなブレーキに安堵したのか再び目を閉じた記憶が残っている。
(真弦…真弦……!)
「ん、なに……?」
頭の中で直に響く呼びかけ。
エコーがかかったような独特の声に、ああ壱が呼んでいるのだと気がつく。
ぼんやりと目を擦るとすぐ近くに緒方の顔があった。
「えっ、え?」
「起きろ、着いたぞ」
窓には雨粒がガラスを伝って流れ続けている。目を凝らすと少し離れたところに目的地の看板がライトに照らされ浮かんで見えた。
まだ寝惚けた頭に続けて壱が語りかけてくる。
(少し前に到着していたのですよ。けれど真弦がぐっすり眠っていたものだから…緒方さん、起こすのを待って下さっていたの)
「す…すみません!すぐ降ります」
慌ててシートベルトを外して折り畳み傘のスナップに手を掛けると、いい、そのまま待ってろ、と一言制された。
冷や汗をかきながら言われた通り大人しくしていると後部座席から傘を取り、外から回ってドアを開けてくれた。
取り乱したままに、ガキには過分な気遣いですねと軽口を叩きそうになったけれど、こちらへ傾けられた傘が照れ臭くて言葉が出てこなかった。
「どうした?行くぞ」
「はい……」
借りた折り畳み傘には車内でお留守番を頼む事にする。
普段はからかうような態度を取る癖に、こんな時だけさも当然のように紳士的な振る舞いを見せてくるこの人をどう見ればいいのか。
時折戸惑ってしまう。
これは子供扱いではないと、思ってもいいのだろうか。
「何してる、濡れるぞ」
傘の内へと肩を引き寄せられ、大きな手の感触が肩から全身へ走り身体が縮こまった。
動揺していると気付かれればまたガキだと笑われてしまうかもしれない。
こんな事は大人の男性からしたら取るに足らない事なのだから。
「ありがとうございます」
顔色を変えず微笑んでみせた。
ポーカーフェイスは苦手じゃない。実際に陰湿な嫌味を投げてくる層には通用している。
表情を貼り付けたまま相合傘の僅かな時を耐えきり、やっとのことで店の軒先へ辿り着いた。
冷やかしの言葉が降って来ないということは上手く振舞えていただろうか、と答え合わせに緒方の顔色を伺う。
「どうぞ、お嬢さん?」
緒方は咳払いをひとつ。
笑いを噛み殺しつつ扉を開けてくれた。
(私が大人になれる日はまだ遠そうだ)
【雨のち夕食】
「ええ、気を付けてね」
受付で挨拶を済ませエレベーターからエントランスへ降りると湿度を孕んだ空気が纏わりつく感覚。
仰いだ夜空は重暗く、月は厚い雲ですっかり隠れてしまっている。
一雨来そうだ。
携帯電話の電源を入れるとディスプレイには不在着信が1件。車の到着を報せるものだろう。
折り返そうと発信ボタンに指を重ねた瞬間、声変わり前のボーイソプラノが私の名を叫んだ。
03 【雨のち夕食】
「真弦さん!」
振り返るとエレベーターが動いた気配は無く、階段から駆け降りて来たのだとわかる。
少し息を切らした少年の姿を認め、慌てて軒先へ駆け寄った。
咄嗟に携帯電話をポケットに滑り込ませる。
「アキラ君!どうしたの?」
「あの、これっ!」
彼は乱れた呼吸を整えもせず、折り畳み傘を差し出た。
私はそれを制したが、より強くに手元へ押し付けられてしまった。
「窓を見たら雨が降りそうだったから、持っていってください!」
「私は迎えの車が来るから大丈夫だよ。それに雨が降るならこれは尚更アキラ君が…」
「ボクは予備があるので構いません。少しの間でも…真弦さんが濡れて風邪をひいたら大変でしょう?」
真っ直ぐにこちらを見ている。
彼の瞳にはいつも意志の強さを物語る輝きが宿っていて、それが揺らぐ事はない。
こちらが受け取るまで譲らないだろう。
ましてその純粋な好意を無碍にはできず、ありがとうと受け取ると満足そうに微笑んだ。
「研究会以外でもこうして打ってくださいね。ボク待っていますから」
「うん…また時間を作って寄るようにするね」
健気な態度に彼の敬愛を感じる。
私より小柄な彼の頭を子犬のように撫でてあげたい気持ちが湧き上がった。
けれど相手は12歳になる男の子だ。昔のような扱いの是非に躊躇い、疼いた右手を思い留まらせる。
「本当にありがとう、またね」
手を振ってビルを離れながら進み、最初の角を曲がる。彼の視界から私は消えただろうか。
道の先には赤いランプが点灯しているのを見つけた。
けして疚しい所は無いのに、これから会う相手の事を皆には言えないでいる。
(壱、今から車に乗るから話は聞いてるけど返事はできないと思う。ごめんね)
(構いませんよ。わたくしは少し眠りますから…どうぞゆっくりしていらしてね)
左側を並び歩く等身大雛人形の如き美女は呼び掛けに頷いて霧のように姿を消した。
亡霊というのは出たり消えたりが自由なのだろうか。6年の付き合いになるが、未だ不思議極まりない。
見慣れた赤い車に小走りで近付き、歩道から助手席側の窓をノックする。
急かすようにロックを解除する音と共に煙草を灰皿に揉み消す白スーツの腕が見えた。
「遅かったな」
「ごめんなさい電話も出られなくて。随分待たせましたよね?」
「いいさ、大方芦原かアキラ君に引き止められていたんだろ」
助手席へ乗り込み、勝手知ったるシートベルトを締めると車は環状線へ向けて走り出す。
「今日はどうする?俺は和食の腹ではあるんだが…」
「うーん…あ、夏頃に行った広尾のお店は?美味しかったですよね」
「ああ日赤通り沿いの所か。いいな」
信号待ちの僅かな時間で目的地は定まった。
ふいに運転者と目が合う。
レンズ越しのシャープな眼差しは冷たく見られがちだが、案外そうでもない事を私は知っている。
こんな風に迎えがてら食事に誘ってくれるようになったのも、私が一人暮らしを始めたと知ってからだ。
淡白そうで面倒見は良い。けれど干渉はせず距離感を保ってくれる。
緒方精次という人は私にとって特段居心地の良い相手だと思う。
「その傘、どうした?」
膝の上に置いていた男物の折り畳み傘を視線で指され、先の出来事を思い出す。
「ああ、アキラ君が雨が降りそうだからって貸してくれて」
「相変わらず懐かれてるな。憧れのお姉さんというヤツか」
「そういうのに結び付けるのは安直ですよ?研究会の人間では1番歳が近いし、私たまに抜けてるから心配してくれてるんですよ」
「…たまに?」
「たまにですよ!!」
「お前外面良いのに俺には強気だな」
「緒方さんが私の事を馬鹿にするから反論しているだけです」
「はは、ガキだな」
「16歳はガキです」
このやりとりは私達にとって定番、お約束、挨拶代わりのようなものだ。
外見のせいか私を大人扱いする人はいても子供扱いをする人は少ない。
どこか侮られているのは納得いかないのだけれど、私を歳相応に扱うこの人の前では素直でいられる。
しかし矛盾して、この大人に釣り合う存在でいたいという欲求が明滅する時もあった。
今の居心地の良さを変える必要性は無いと、決まって見ないフリをしてきたけれど。
「あ」
フロントガラスに水滴がひとつ、ふたつ。
細い雨がぽつぽつと落ち始めた。
「降ってきたな」
「すぐ止むといいですね…」
柔らかな雨音、車の僅かな振動、ワイパーの単調な動き、諸々が噛み合ったタイミングで瞼が一気に重みを掛けてくる。
助手席で舟を漕ぐなど運転者に失礼だと目頭を揉むが眠気は隣の大人に筒抜けだった。
「着いたら起こす。寝てろ」
「えっ、いえ!大丈夫です」
「朝から対局し通しなんだろ。子供が変な気を遣うな」
こちらを見向きもせず突っぱねるように返された。
私の扱いを熟知した人に抗う気力は今はもう無く…
「お言葉に、甘えます……」
なんとか紡ぎ出した言葉を最後に、私の体は重くなり眠気に身を委ねた。
途中、対向車のライトで薄眼が開いたがいつも以上に緩やかなブレーキに安堵したのか再び目を閉じた記憶が残っている。
(真弦…真弦……!)
「ん、なに……?」
頭の中で直に響く呼びかけ。
エコーがかかったような独特の声に、ああ壱が呼んでいるのだと気がつく。
ぼんやりと目を擦るとすぐ近くに緒方の顔があった。
「えっ、え?」
「起きろ、着いたぞ」
窓には雨粒がガラスを伝って流れ続けている。目を凝らすと少し離れたところに目的地の看板がライトに照らされ浮かんで見えた。
まだ寝惚けた頭に続けて壱が語りかけてくる。
(少し前に到着していたのですよ。けれど真弦がぐっすり眠っていたものだから…緒方さん、起こすのを待って下さっていたの)
「す…すみません!すぐ降ります」
慌ててシートベルトを外して折り畳み傘のスナップに手を掛けると、いい、そのまま待ってろ、と一言制された。
冷や汗をかきながら言われた通り大人しくしていると後部座席から傘を取り、外から回ってドアを開けてくれた。
取り乱したままに、ガキには過分な気遣いですねと軽口を叩きそうになったけれど、こちらへ傾けられた傘が照れ臭くて言葉が出てこなかった。
「どうした?行くぞ」
「はい……」
借りた折り畳み傘には車内でお留守番を頼む事にする。
普段はからかうような態度を取る癖に、こんな時だけさも当然のように紳士的な振る舞いを見せてくるこの人をどう見ればいいのか。
時折戸惑ってしまう。
これは子供扱いではないと、思ってもいいのだろうか。
「何してる、濡れるぞ」
傘の内へと肩を引き寄せられ、大きな手の感触が肩から全身へ走り身体が縮こまった。
動揺していると気付かれればまたガキだと笑われてしまうかもしれない。
こんな事は大人の男性からしたら取るに足らない事なのだから。
「ありがとうございます」
顔色を変えず微笑んでみせた。
ポーカーフェイスは苦手じゃない。実際に陰湿な嫌味を投げてくる層には通用している。
表情を貼り付けたまま相合傘の僅かな時を耐えきり、やっとのことで店の軒先へ辿り着いた。
冷やかしの言葉が降って来ないということは上手く振舞えていただろうか、と答え合わせに緒方の顔色を伺う。
「どうぞ、お嬢さん?」
緒方は咳払いをひとつ。
笑いを噛み殺しつつ扉を開けてくれた。
(私が大人になれる日はまだ遠そうだ)
【雨のち夕食】