本編
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「負けました……」
そう呟いたのを最期に対局相手の男性棋士は顔を伏せたまま動かなくなった。
膝の上で強く握り締められた拳。盤面での勇猛な戦い。この一局に敬意を込め、真弦は対局者に恭しく頭を垂れた。
「ありがとうございました」
絹糸のような黒髪がさらりと肩を滑る。
戦いを終え、席を立つと全身に滞留していた緊張が呼吸に乗って抜けていく。
(今日も白星を得る事が出来た…)
彼女の横顔は勝利の余韻に浸るにはあまりにも静かで硬質なものだった。
01 【若手棋士たち】
対局を終えた棋士達の視線は勝敗を記されたホワイトボードに集まる。
そしてひとり、またひとりが苦々しい言葉を漏らし始める。
「…また錫代か」
「まだ低段だがリーグ入りしたってな」
「小娘が…クソッ」
「あんな綺麗な顔を前にすると対局者は冷静な手も打てないのかもしれんな」
「碁など打たずアイドルでもやってりゃいいんじゃないか?ハハハ」
囁かれる妬み嫉み、皮肉。
自販機前あたりからだろうか。話し声が無遠慮に響いてくる。
石を打つ音も疎らになり始めた手合部屋では嫌でも耳に届いてしまう。
憐れみや面倒な元凶を見るような周囲の視線が肌に刺さるようだ。
(気にしない。私に疾しいことなんて無いんだから)
一団とのすれ違いざま、笑みを貼り付け「さようなら」と会釈して脇をすり抜ける。
16歳なりの強がり。
その清廉な態度こそが火に油を注いでいるとは思い至らないが。
下卑た憶測を挙げた者に続いてドッと場が沸くのを背中越しに感じた。
これも慣れてしまえばなんてこと無い日常の風景。
男社会の棋士界で弱音を吐くのは自分自身と"彼女"が許せなかった。
この道を選んだ時から逃げ出さないと覚悟を背負って来たから。
「真弦ちゃん!」
よく通る声が通路の空気を変えた。
振り返ると、晴々とした表情でこちらに片手を挙げてみせる青年がいた。
群れる中高年達を割り「あっすみません!アハハ」などと言いながら軽快に歩んでくる。
悪意とは対極のような存在だ。
その陽気な声に真弦の肩は緩み、無意識に安堵の息が漏れていた。
「芦原さん、お疲れ様です」
「お疲れっ!そんな堅苦しくしないでよ〜」
まだあどけなさの残る芦原の面立ちには背伸びして見えるジャケット姿が微笑ましい。
幾分かは大人びて見えるが、何も知らない者が並び歩く2人を見たら仲の良い姉弟のように見えるかもしれない。
根明で童顔な芦原と薄化粧を施した淑やかな真弦では後者の方が年長に見えてしまうのだ。
「芦原さんは私より先輩だし、他の方もいる手前…」
「いいじゃない。俺たちの仲で今更でしょ」
芦原の愛嬌たっぷりの笑みは心ない言葉たちに硬くなっていた真弦の口許を綻ばせる。
「ふふ、その雰囲気は今日…」
「あ、バレた?無事連敗から脱却だよ!」
「良かったですね」
子供っぽくピースサインをつくり白い歯を覗かせた。つられて笑う真弦。
そんな和やかな2人の背後に近付く影がひとつ。
「全然良かないっての…」
疲労感が拭えない沈んだ声。
その主を察した真弦は反射的に口元を押さえて振り返る。
「ごめんなさい冴木さん…!近くにいたなんて」
「あー、いいよ。負けた俺が悪い。芦原さん相手ってなんか調子狂う事多いんだよな…」
「俺冴木クンと相性いいからネ!」
気安く肩を叩く芦原。
冴木は色素の薄い髪をざかざかと煩雑に掻いて苦笑する。
真弦は冴木とは同期のプロ棋士だ。
交流も深いため、落ち込みを隠せないその理由は察していた。
塔矢門下をライバル視している森下門下の冴木としては、黒星以上にこの後師匠から据えられるであろうきついお灸に気が重くなっているところが大きいのだ。
真弦なりに冴木を励まそうとは思うものの、気の利いた言葉が浮かんでこない。
「えっと…その、あまり気を落とさないで。今回の敗因を生かせば次は、その」
「月並みな励ましありがとよ……はあ…森下先生に会うのが怖い」
冴木はオーバーに項垂れて見せながら視界の端で芦原と自分の間で狼狽する真弦の姿をちらりと盗み見る。
(錫代の困った顔久しぶりに見たな…あ、俺のせいか)
嘘は下手じゃない方だ。
普段は自分でも感心する程うまく躱しているというのに、こんな些細なやりとりだけで容易く蓋が開いてしまうのか。
彼女の表情ひとつで抱えている胸の端がチリチリと焦げた。
同期の自分に気を許してくれる彼女から見え隠れする"隙"は抗いがたい魅力がある。
だがその先に実りが見えた事は一度だって無い。
(狭いこの世界で生きていく棋士同士、安易な行動はすべきじゃない…)
人懐こい犬のように真弦と話す芦原も似たような感情を抱えているのだろうかと、彼の眼差しを辿る。
「真弦ちゃん今日電車?駅まで一緒に行こーよ」
「あっ、はい」
考えるだけ無駄だった。
隠す気配も無い明け透けな好意。
そこに花が舞っているのが見えるようだ。
(芦原さん、これだけ露骨にしてて周囲に何か言われないのか…)
「そうだ!この後アキラのとこ行かない?
この時間ならもう囲碁サロンに来てるだろうし、ね!」
「わかりました。あまり遅くまでは居られませんが、ご一緒させてください」
「良かったー!アキラも喜ぶよ!あ、俺もね」
その要領の良さと素直さを憎めず、いっそ羨望すら抱く。
冴木は盤面以外でも相性を思い知らされるようで足元に嘆息を向けた。
「冴木さん?エレベーター来ましたけど…」
「ん?ああ、ごめん」
「どーしたの冴木クン、体調悪い?」
「いえ…芦原さんて、大物だなーと思ってました」
「あ、それ私もたまに思います」
思わぬ便乗に冴木は真弦と顔を見合わせた後、思わず吹き出す。
「えっ2人して何急に?照れるよぉ〜」
「いや、ホント大物だ」
ロビーへ下っていくエレベーターの中、先程まで翳っていた表情が嘘のように晴れ、穏やかに冴木と語らう真弦の姿に芦原は目を細めた。
【若手棋士たち】
そう呟いたのを最期に対局相手の男性棋士は顔を伏せたまま動かなくなった。
膝の上で強く握り締められた拳。盤面での勇猛な戦い。この一局に敬意を込め、真弦は対局者に恭しく頭を垂れた。
「ありがとうございました」
絹糸のような黒髪がさらりと肩を滑る。
戦いを終え、席を立つと全身に滞留していた緊張が呼吸に乗って抜けていく。
(今日も白星を得る事が出来た…)
彼女の横顔は勝利の余韻に浸るにはあまりにも静かで硬質なものだった。
01 【若手棋士たち】
対局を終えた棋士達の視線は勝敗を記されたホワイトボードに集まる。
そしてひとり、またひとりが苦々しい言葉を漏らし始める。
「…また錫代か」
「まだ低段だがリーグ入りしたってな」
「小娘が…クソッ」
「あんな綺麗な顔を前にすると対局者は冷静な手も打てないのかもしれんな」
「碁など打たずアイドルでもやってりゃいいんじゃないか?ハハハ」
囁かれる妬み嫉み、皮肉。
自販機前あたりからだろうか。話し声が無遠慮に響いてくる。
石を打つ音も疎らになり始めた手合部屋では嫌でも耳に届いてしまう。
憐れみや面倒な元凶を見るような周囲の視線が肌に刺さるようだ。
(気にしない。私に疾しいことなんて無いんだから)
一団とのすれ違いざま、笑みを貼り付け「さようなら」と会釈して脇をすり抜ける。
16歳なりの強がり。
その清廉な態度こそが火に油を注いでいるとは思い至らないが。
下卑た憶測を挙げた者に続いてドッと場が沸くのを背中越しに感じた。
これも慣れてしまえばなんてこと無い日常の風景。
男社会の棋士界で弱音を吐くのは自分自身と"彼女"が許せなかった。
この道を選んだ時から逃げ出さないと覚悟を背負って来たから。
「真弦ちゃん!」
よく通る声が通路の空気を変えた。
振り返ると、晴々とした表情でこちらに片手を挙げてみせる青年がいた。
群れる中高年達を割り「あっすみません!アハハ」などと言いながら軽快に歩んでくる。
悪意とは対極のような存在だ。
その陽気な声に真弦の肩は緩み、無意識に安堵の息が漏れていた。
「芦原さん、お疲れ様です」
「お疲れっ!そんな堅苦しくしないでよ〜」
まだあどけなさの残る芦原の面立ちには背伸びして見えるジャケット姿が微笑ましい。
幾分かは大人びて見えるが、何も知らない者が並び歩く2人を見たら仲の良い姉弟のように見えるかもしれない。
根明で童顔な芦原と薄化粧を施した淑やかな真弦では後者の方が年長に見えてしまうのだ。
「芦原さんは私より先輩だし、他の方もいる手前…」
「いいじゃない。俺たちの仲で今更でしょ」
芦原の愛嬌たっぷりの笑みは心ない言葉たちに硬くなっていた真弦の口許を綻ばせる。
「ふふ、その雰囲気は今日…」
「あ、バレた?無事連敗から脱却だよ!」
「良かったですね」
子供っぽくピースサインをつくり白い歯を覗かせた。つられて笑う真弦。
そんな和やかな2人の背後に近付く影がひとつ。
「全然良かないっての…」
疲労感が拭えない沈んだ声。
その主を察した真弦は反射的に口元を押さえて振り返る。
「ごめんなさい冴木さん…!近くにいたなんて」
「あー、いいよ。負けた俺が悪い。芦原さん相手ってなんか調子狂う事多いんだよな…」
「俺冴木クンと相性いいからネ!」
気安く肩を叩く芦原。
冴木は色素の薄い髪をざかざかと煩雑に掻いて苦笑する。
真弦は冴木とは同期のプロ棋士だ。
交流も深いため、落ち込みを隠せないその理由は察していた。
塔矢門下をライバル視している森下門下の冴木としては、黒星以上にこの後師匠から据えられるであろうきついお灸に気が重くなっているところが大きいのだ。
真弦なりに冴木を励まそうとは思うものの、気の利いた言葉が浮かんでこない。
「えっと…その、あまり気を落とさないで。今回の敗因を生かせば次は、その」
「月並みな励ましありがとよ……はあ…森下先生に会うのが怖い」
冴木はオーバーに項垂れて見せながら視界の端で芦原と自分の間で狼狽する真弦の姿をちらりと盗み見る。
(錫代の困った顔久しぶりに見たな…あ、俺のせいか)
嘘は下手じゃない方だ。
普段は自分でも感心する程うまく躱しているというのに、こんな些細なやりとりだけで容易く蓋が開いてしまうのか。
彼女の表情ひとつで抱えている胸の端がチリチリと焦げた。
同期の自分に気を許してくれる彼女から見え隠れする"隙"は抗いがたい魅力がある。
だがその先に実りが見えた事は一度だって無い。
(狭いこの世界で生きていく棋士同士、安易な行動はすべきじゃない…)
人懐こい犬のように真弦と話す芦原も似たような感情を抱えているのだろうかと、彼の眼差しを辿る。
「真弦ちゃん今日電車?駅まで一緒に行こーよ」
「あっ、はい」
考えるだけ無駄だった。
隠す気配も無い明け透けな好意。
そこに花が舞っているのが見えるようだ。
(芦原さん、これだけ露骨にしてて周囲に何か言われないのか…)
「そうだ!この後アキラのとこ行かない?
この時間ならもう囲碁サロンに来てるだろうし、ね!」
「わかりました。あまり遅くまでは居られませんが、ご一緒させてください」
「良かったー!アキラも喜ぶよ!あ、俺もね」
その要領の良さと素直さを憎めず、いっそ羨望すら抱く。
冴木は盤面以外でも相性を思い知らされるようで足元に嘆息を向けた。
「冴木さん?エレベーター来ましたけど…」
「ん?ああ、ごめん」
「どーしたの冴木クン、体調悪い?」
「いえ…芦原さんて、大物だなーと思ってました」
「あ、それ私もたまに思います」
思わぬ便乗に冴木は真弦と顔を見合わせた後、思わず吹き出す。
「えっ2人して何急に?照れるよぉ〜」
「いや、ホント大物だ」
ロビーへ下っていくエレベーターの中、先程まで翳っていた表情が嘘のように晴れ、穏やかに冴木と語らう真弦の姿に芦原は目を細めた。
【若手棋士たち】