本編
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「先週、例の子と会った」
緒方さんは思い出したようにそう言って、ジッポを閉ざす。静かな室内にかちん、という金属音が響いた。
「そうですか」
嫌な空気を感じる。恐る恐るまな板から視線を上げると、キッチンカウンター越しにリビングの緒方さんと即座に視線が交わった。どうやらさっきから私の方を見ていたらしい。
ブラインドの隙間から射す縞模様の陽射しが緒方さんに逆光を落とし、こちらからレンズの下にある顔色までは窺えない。
12【そして4目差】
互いのオフが重なった本日、あの日の"貸し"を消化せよとの指令を受けて、今日の私は手料理を振る舞いに緒方さんのマンションへやって来ている。
ご希望は「外食続きでたまには家で食事がしたい」というもの。ならば、と主張シェフサービスを提案して差し上げたが、即座に却下された。
壱からも「家で食事がしたいというのは、恐らくそういう意味ではない」と苦笑されたが納得いかない。私なんかよりプロの方が美味しい食事を作ってくれるというのに。
それでもワガママな大人の要望に応えようと私は不慣れなセミオープンキッチンで昼食の支度に取り掛かった。
変装を即座に見破られたこども囲碁大会の日に貸与させられた"貸し"。一体どんな恐ろしい見返りを求められるかと頭を抱えたが、実際のオーダーは想定外に地味な案件。
これくらいの事で良いのかと胸を撫で下ろしたが、まさか私をこの話題から逃さないために招いたのではないかと今頃思い至る。
もしかして嵌められたのだろうか。
黙ったままの緒方さんを見ると、どっかりとソファに体を預けて週刊碁を読み耽っている。
緒方さんの言う『例の子』とは、こども囲碁大会で注目を浴びた進藤ヒカル君の事で間違いないだろう。
ヒカル君が一瞬で死活を言い当てた件は勿論、アキラ君に二度も勝ったという情報を塔矢先生を介して知ったのかもしれない。
緒方さんは才能溢れるヒトが好きだから、気になって仕方無いのだろう。
ふつふつと沸き始めた鍋から昆布を取り出すと、遠かった筈の煙草の香りが近くに流れて来る。それは鍋から漂う香りを濁すような苦味を孕む煙たさ。
私は負けじと追って鰹節を投入し、嗅覚を出汁からのぼる湯気へ集中させる。
「おい、聞いてるのか」
しかし抵抗虚しく、ゆれる紫煙とその主人はシンクに漂着した。コンロ前に立つ私は壁側に追いやられ、少し窮屈だ。
「聞いてますよ。どこで会ったんですか?」
「囲碁サロンの前をフラフラしてたのを捕まえた。連れて行って名人と打ってもらったが…途中で逃げ出されてしまった」
「……それは当然では」
不満げな声色で語る緒方さんよりも、ヒカル君は怖い思いをしなかっただろうかと思案する。
いきなりこんな目付きの鋭い大人に捕まり引っ張っていかれた上に、アウェイな環境で迫力満点の塔矢先生と対峙させられたのではさぞ不安だったに違いない。
「あの子と親しいんだろ?先生達には黙っておいてやったが弟だとか嘘をついてまで庇って…研究会にでも招けないか」
「やっぱりあの時の聞いてらしたんですね…彼はちょっと特殊な事情があって、そういう場は好まないんです」
「何故だ?碁を打つ者なら子供だろうと『あの塔矢名人』と対局できるなんて喉から手が出る程の機会だろう」
「それは…その、色々あるんです。私の口からは言えません」
私が言葉を濁す間に背後で冷蔵庫が開いた。
小気味良く缶のプルタブが開いた音から、振り返らずとも緒方さんがビールを呷り始めたのがわかる。
真っ昼間、しかも未成年が居るというのに節度に欠ける大人だ。
なのに自堕落な面を見せてくれるのをちょっぴり嬉しく思う自分いる。
気の置けない存在だと思っているのが私だけではないかもしれない可能性に頬がくすぐったい。絶対口にはしないけれど。
「隠し事が似合う歳でもないだろ」
一瞬、心を読まれたかと大根を剥く包丁が滑りそうになる。
身を乗り出し鍋を覗き込んで来た表情からそれはすぐに杞憂だったと安堵したが、不用意に調理中の人間に近付かないで欲しい。
時折距離感が近くなる緒方さんの行動に心を乱しても無駄だと素知らぬフリをしているけれど、内心は大いに慌てている。
煙草とアルコールの混じり合った独特の匂いから半歩引いて身を躱そうとしたが肩は壁に押し止められた。
「歳関係あります?というか、調理してる横で煙草吸わないでください。灰が飛びます」
「お前は小姑か。やれやれ、ガキは素直に限るぞ」
「ガキにもプライバシーがありますので」
からかう言い草を突き放して野菜の下拵えに戻ってみたけれど、首筋に視線を感じて渋々振り返る。
料理のためにいつも下ろしている髪をまとめているせいか、肌に刺さるような感覚。
冷蔵庫に左肩を預けてこちらを見ている顔色は平静で、酔っ払って絡んできているわけではなさそうだ。
門下での行事や祝賀会での姿を見るにお酒に弱いわけではないのは知っているけれど、鍋に視線を戻すと早くも新しい缶を開けている音がした。
誰から聞いたのだったか。
お酒のペースが早い時というのは、不安や緊張を紛らわせている事が多いって。
私の前で緒方さんが寛ぐならまだしも、緊張なんてする理由が無い。
ならば空腹のあまり不安に陥っているのだろうか?いや流石にそんな事で酒を呷るほど忍耐力の無い大人でもないだろう。
「可愛げの無い。口が達者な女はモテないと知らないのか」
「可愛くないですし、モテなくて結構です」
「何だと?今時女子高生なんて敵無しだぞ。俺がお前なら若くて将来性のある男を何人も誑かしてキープしてる」
「緒方さん、発想がおじさん臭いですよ…」
「喧しい。女は狡くないと損をするぞ」
「損をさせたご経験が?」
「さて、どうだったか。感傷には浸らない性質でな」
「ふうん…節操無しなんですね」
「お褒めに預かり光栄だ」
「不潔」
いつものテンポで会話を投げ合っているけれど、プライベートの話をしたがらない緒方さんらしくない話題だ。
何かあったのだろうか、と思い至る。例えば女性にフラれたとか。
「お前はどうなんだ?彼氏の1人や2人居ないのか。若い男に街中で呼び止められているのを見たこともあるぞ」
「ええ…?勝手な憶測が方々で飛び交っているのは自覚してますが、まさか真に受けてないですよね?本当に縁遠いんですよ。中学から女子校ですし、告白をされた経験も無いです。それに、誰彼問わず誘いを掛ける人に興味を持たれても侮られているようで迷惑ですもの」
「高嶺の花ってのは冷めたもんだな」
「そんな大層な人間じゃないですってば」
「恋愛に興味ないのか」
『恋愛』
ドライなこの人にとんでもなく似合わない単語が繰り出され、思わず顔を顰めてしまった。
壱以外とこんな話をする事に不慣れなせいか、スムーズに言葉が出てこない。
「れん……ど、どうなんでしょう。高校生になって、同級生には彼氏ができたりはしているみたいですけど私はその類のものは苦手で」
「ほお、苦手?」
お兄さんが聞いてやろうと言わんばかりにオジサンはニヤニヤしながら腕を組む。ちゃぷちゃぷと少量の水音が鳴る缶を一気に呷り、満足気に息を吐いているこの様は絶対に酔っ払いモードだ。顔色だけで判断するべきでは無かった。けれどここで話を止めて後々まで追求されたら面倒になる。観念して私は肩を落とした。
「私は….本当に日々をこなすのに精いっぱいで、新しく何かを始める余裕なんて無いんです。明日の事だってわからないのに…。それに、緒方さんの言う通り、まだガキなので」
「なるほど。そうやって屈折した結果、あの小学生に走ったって事か」
言っている意味がさっぱり分からず首を傾げ逡巡すること5秒間。どうやらヒカル君との仲をおかしなものだと疑っての話題だったらしいと理解した。呆れて物も言えない。
「なんだ違うのか?」
「違います。酔っ払いは発想も斬新なんですね。ごはん食べたくないならもう帰ります」
カチリとコンロの火を止めて緒方さんに向き直ると、わざとらしく肩を竦めて笑っている。何をしたいのだろうこの人は。
苦手な話題に対して素直に答えて損をした。大人にあるまじき態度だ。
冷ややかな感情を表出させ睨み付けてやれば、空き缶に吸い殻を押し込めてお手上げのパフォーマンスが返ってきた。
どこか馬鹿にされているニュアンスから反省の色は見られない。仕方の無い大人だ。
「あーわかった、もう追及しない。悪かった。俺は腹が減ってるんだ」
「もう……ウロウロしないで大人しく座っててください。そんなにハイペースで飲んで大丈夫ですか?」
「ビールくらいは水と同じだ。たかが5%だぞ」
語気にすら酒気を纏わせている癖に、まったく説得力が無い。悪い大人の見本としてテキストに載せられるレベルだ。
もう付き合いきれない、と大きな背中をキッチンスペースからぐいぐい押して追い出そうとするが、わざと体重を掛けているらしく、うまく進まない。
緒方さん?と声を低くすると、漸く巣のソファへ足を向けてくれた。
それでも未だ揺れ続けているらしい肩を眺め、やれやれと溜息をつく。これではどっちがガキだか知れない。
なのに、この時間が嫌いではない自分が不思議だ。
存外、私は世話焼きなのかもしれない。
こんな絡まれ方は、ごくたまにで充分過ぎるけれど。
「そういえば結局何を食わせてくれるんだ?」
「三十路越え独身貴族は手料理に飢えているから素朴な和食が適していると明子さんからアドバイスをいただきましたので、そういう感じです」
「お前な……」
真昼間から私の前で飲酒していた事を明子さんに告げ口される未来でも浮かべていればいい。
緒方さんはこちらの意図を察したようで、ばつが悪そうに頭を掻くと、読みかけの週刊碁で顔を覆い隠してしまった。
昼食が済んだら、完全に酔いが覚める前に一局打ってもらおう。丁度良いハンデだ。
たまには緒方9段の心胆を寒からしめてやらねばなるまい。
酔っ払いは企みを知らなまま、呑気に煙をぷかぷか吐き出していた。
【そして4目差】