本編
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「っ…ありません」
喉から必死に絞り上げたアキラの声。
そのたった一言が静寂の中へ雫のようにこぼれ落ちて波紋が広がるように、この対局を見守っていた全員が息を呑む。
少年2人が向かい合った盤面には一方の圧倒的過ぎる力が示されていた。
大人達は皆、項垂れ声を殺して涙に震えるアキラを慰め励ましたい気持ちが顔色に浮かび上がる。
けれど今の彼にはどんな言葉ですら届かないだろう。
少年にとってこの勝敗がどれだけ胸を深く抉るものなのか。
そう思えば皆、簡単に口を開くことは出来なかった。
沈黙に耐えかねたヒカルは勢い良く立ち上がると身振り手振りで対局相手の真剣さを褒め称え、大袈裟なほど明るく振る舞った。
子どもなりの気遣い。
しかしそれすら微塵も届かず、痛々しさだけが周囲に漂う。
アキラは何も応えない。
否、応えられなかった。
それ程にこの敗北は彼の築いてきた道をズタズタにしたのだ。
沈黙が生む虚しさがいくつも刺さって、ヒカルはぐっと重い喉の奥から最後に吐き出すのがやっとだった。
「オレ……帰るよ、じゃあな…」
ヒカルは『何か』に熱く打ち込める人間が羨ましかった。
アキラの情熱に触れ、直向きな意思を目の当たりにした出会いの日から無意識に憧れていたのだ。
アイツと友達になれるかなーー
言葉にすらしなかった、淡い期待。
それは自分の一方的な思い上がりだったと思い知らされる。
彼は佐為との対局を求めていただけで、『進藤ヒカル』にはこれっぽっちも興味なんて無いのだから。
ヒカルは後味の悪いまま奥歯を噛み締めて自動ドアをくぐった。
11【勝利の痛み】
エレベーターがチンと高く鳴って扉が開く。
雑居ビルのエントランスでは缶コーヒーで暖をとっていた真弦がヒカルを出迎えた。
2時間前、ヒカルと共に棋院を出て市ヶ谷駅へ向かうところでアキラと遭遇したが、変装をしていたお陰で真弦だと気付かれる事は無かった。
ややこしい事にならぬよう2人の会話からそっと離れ、一定間隔を開けた距離で少年2人の後を追って…今に至る。
真弦が小さく手を振るとヒカルはばつの悪そうな顔からぎこちなく歯を覗かせた。
作り笑いすら覚束ない少年に仔細を聞き出そうとは思えず、俯きがちに駅へ歩き出す彼の半歩後ろを真弦は黙って付いて行く。
彼が語りたくないのならそれはきっと予想した可能性のひとつに辿り着いてしまったのだろうから。
「なあ…おい佐為!!」
細く降り出した雨が頬に落ちた事すら気が付かず、ヒカルは雑踏の中で声を荒げた。
人々は異様な少年を流し見て、振り返る事無く去っていく。
ちいさく震える肩の弱々しさと純粋さに胸を痛めながは傍らの佐為は答える。
(あの子供、一太刀で首と胴を切り離すしか無かった…頭を撫でる余裕など、彼は与えてくれなかった…)
2人の掛け合いから予想を確信へ変えた真弦はみるみる濡れていくヒカルを見ていられず、通りがかった喫茶店の軒先にぐいっと引っ張ってみせた。
「う、わっ!」
突然の事にバランスが崩れて縺れる足。
ヒカルは戸惑いがちに顔を上げると、わざとらしい程に明るい笑顔と目が合った。
「ね、ヒカル君は帰り地下鉄?」
「え…ああうん、そうだけど」
「良かったらお家まで送らせてもらえないかな?タクシー拾うから」
少しでもヒカルの気が紛れるよう、真弦は自分なりに陽気な態度を演じる。
ひとりにしてやる選択も優しさのひとつだと知っていたけれど、目の前で泣き出しそうな子どもを見捨てるような真似は出来なかった。
「タ、タクシー!?オレそんな金無いし、電車でいいって!!」
「もう、小学生に払わせるわけないでしょ?雨だし、もう暗いし。ひとりで出歩かせられないよ」
「…はぁ〜?こんな時間くらい小学生でもフツーに遊んでるじゃん!」
「えっ、そうなの?私はいつも17時には迎えの車が来るか、付き添いが居たからてっきりそういうものなのかと……」
「迎えの車?付き添い?錫代さん…何モンなの?」
「じゃあ…まだ時間があるのならお茶に付き合って欲しいな?このお店、プリンが美味しいの」
答えも聞かず真弦の細い指が優しく、けれどしっかりとヒカルの手を引いてドアベルを鳴らす。
強引に店内へ連れ込まれた頃にはヒカルはすっかり毒気を抜かれてしまっていた。
「私が何者なのか、是非聞いていってねヒカル君」
変装用の眼鏡と帽子を外して悪戯っぽく片目を瞑って見せる真弦。
年上の女ってこういうものなのだろうか、あかりより強引だ。
ヒカルは頬をひとつ掻いてカウンター席へ居心地悪そうに腰を下ろしたが、ホットココアが運ばれてきた頃にはすっかり冷えていた体がじんわり温まっていくと共に肩を緩ませていった。
(真弦さんにはお礼を言わねばなりませんね…)
ヒカルの表情から陰りは消え去り、日常で見せる素直な子どもの眼差しを取り戻す。
真弦の語りに興味津々なその姿は佐為に安堵の一息を与えた。
(大人しく見えるのにいざとなると驚くような行動をするのは壱師と似ていますね?)
(もう、背の君ったら……)
その微かな囁きは真弦の耳に届かなかったが、恋人同士の影は顔を見合わせて微笑んだ。
美津子はテレビが明日の天気予報を報せる音に耳を傾けていたが、玄関扉が開く音がして洗い物の手を止めた。
「ヒカルー?帰ったの?随分遅かったじゃない」
濡れた指先を前掛けで拭いながら廊下へ出て行くと、深々と頭を下げる女性が息子の隣に立っていた。
「ヒカ…えっ?」
「ごめんくださいませ。錫代真弦と申します。こんな時間まで御子息をお引止めしてしまい申し訳ございませんでした」
「あら、あら?」
「ちょっ!いーよ真弦さん!そんなんしなくて」
慌てたヒカルに制されて面を上げたその人はすらりと背が高く、整った顔立ちと目が合うと同性の美津子でさえどきりと心臓が跳ねた。
「ヒカル!ど、どちらさまなの?このモデルさんみたいに綺麗な方は…!」
「え?えーっと…」
「今日のこども囲碁大会で私とお友達になってくださったんです。ね?ヒカル君」
「っ、そーそー!トモダチ!!遅いからって送ってくれたんだよ」
錫代真弦と名乗った女性は二十歳前後だろうか。薄化粧を施している外見だけならもう少し上に見えるが、服装を加味するとそれくらいかと予想する。
彼女は美津子の無遠慮な視線に気付いても嫌な顔ひとつしないどころかラフな服装には不似合いなほど品良く微笑んだ。
軽く首を傾げる仕草には愛嬌すら漂う。
一方ヒカルの方はというと、大袈裟な相槌を打ってから目を僅かに泳がせたのを母の眼は見逃さない。
あやしい仕草に不安がチクリと過ぎったが、表情の明るさから何か問題をしでかした訳ではなさそうだ。
「まあ…そうでしたか。わざわざありがとうございます。よかったら上がってお茶でも」
「いえ、折角ですがもうお夕飯時ですしお気持ちだけ。また明るい時間に是非お邪魔させてください」
それでは、と一礼した後踵を返し門前で待っていたタクシーに彼女は消えていった。
5分と無い時間だったが、美形の人間というのは向き合うだけでこうも目を潤してくれる存在なのかとうっとりした溜息が漏れていく。
「はぁ〜〜………あんな綺麗で品の良い方がヒカルと、お友達…?」
「あー真弦さんこれからたまにウチ来るかも」
靴も揃えずバタバタと階段を登っていく息子の背を呼び止めるが足音は止まない。
「……良いお茶買って来ないと。ねえ?こども囲碁大会見に行ったんでしょう?なんで大人のお姉さんと仲良くなったのよ」
独り言を溢してから思い留めていた疑問を2階へ向かって投げかける。
やや間があって部屋着に着替えたヒカルはまた粗雑な音を立てながら降りてきたついでのように答えた。
「真弦さん16。コーイチだよ。ねー晩飯なに?」
「じゅうろく…??えっ?…16歳?」
世の中には計り知れない存在が居るものだと美津子は頭痛を覚えた。
【勝利の痛み】