本編
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(…………居ないね)
(…ええ)
大会の特別ゲストとして塔矢名人が挨拶と激励を行った後、一斉に子どもたちの対局が開始された。
「お願いします」
「お願いします」
緊張も高揚も己を高めるステージだと糧にして戦う者だけに勝利の女神は微笑む。
未来を担う棋士はこの中にどれだけいるだろうか。
10【邂逅】
私と壱は子どものみの大会に参加した事が無かったからこの場の空気はとても新鮮だった。
彼らはふっくらとした頬を紅潮させながら一手一手思案し、大切に放つ。
体はまだ幼くとも、心には烈しい闘志を秘めてているのだろう。
各々が真剣な面持ちで盤面と向き合う姿に心が洗われるようだ。
それでも、互先には必ず勝ち敗けが存在する。
それを幼い彼らがどう受け止め、どう成長していくのか…。
(現代でもこんなに沢山の童達が碁を競い合っているのですね…。ふふ、見ていると危なっかしい手にヒヤヒヤさせられますが、それも彼等の成長のきっかけに成り得ると言えますね)
(壱は……まだ碁が憎い?)
石の音で満ちた会場内。
子ども達を温かい眼差しで見つめる彼女に問いかけてみる。
愛おしそうに語る壱の横顔には憂いや憎悪なんて欠片も孕んでいなかったから。
過去の…あの日の告白が胸にちくりと過る。
私と過ごして来たこの6年間、少しでも変われたのではないだろうか?
どこか期待する自分がいた。
全て言葉にしなくとも真意を壱は感じ取っているだろう。
会場の子ども達を見つめたまま、白く透ける手は私の手にそっと重なる。
錯覚でもひんやりとした感覚が指先に伝わってくるようだ。
(……真弦、愛というものはね、憎しみや悲しみと表裏一体なのです。まして、女の負の心はそう簡単には晴れません)
あの方を想う心ある限り、消えないものがある。そう言って壱は伏せた睫毛を物憂げに揺らす。
気軽に問うべきでは無かった。きっと想像すら出来ない長い年月、ただ1人を求め続けた情念は計り知れず、ありふれた慰めの言葉などかけられる筈もない。私にとっては長い6年間も、壱にとっては季節の巡りにも満たない時間だろう。そして時間が癒せぬ痛みもある。
(そうだよね、ごめんなさい……)
彼女の支えになれているかもしれないなんて思い上がりだったのだ。思い上がりも甚だしいと手の甲に爪を立てると、壱の手が重ねられた。
子供達を見つめたままの横顔は深い慈愛に満ちた声で言葉を紡ぐ。
(けれど…この場で真摯に碁と向き合う童達の未来がどうか健やかであるようにと祈らずにはいられません。碁があったからこそ今のわたくしが在る。そして真弦…貴女にも逢えた)
(壱……あの、私も…)
(……真弦っ!あれは!!)
壱の声にハッとして振り返ると恐る恐る会場に入ってくる小柄な少年がいた。
金のメッシュを黒髪に浮かばせたような個性的な髪型が目を引く。
そしてその傍らにはこの世のものとは思えない美しき射干玉の長髪が靡いていた。
浮世離れした狩衣を纏う秀麗なシルエット。透けて向こう側の景色を覗かせる淡い身体がすべての答え。私は思わず息を呑む。
男性とも女性ともつかない彫刻のような横顔は、離れた位置からでもあれが生者ではないと知らしめた。
確信を持つより先に、脚が反射的に動き出す。
目線を固定したまま観客が溢れるエリアも割ってあの"2人"を追いかける。
会場端の対局席からひとつひとつ眺めるようスローペースに奥へ進んでいく背中。追いつくのに時間は掛からないだろう。
願いはもうすぐ果たされる。駆け出してしまいそうな程逸る気持ちを抑えるのに忙しい。
ふいに、小さな口をぽかっと開けて少年はひとつの盤面の前で立ち止まった。
私と2人の距離が詰まる。
(ああ、やっと…)
等間隔に並んた机をぐるりと迂回し、ようやく声を上げれば振り返ってくれる程の距離まで辿り着いた。
なんて声を掛けよう?
肩を軽く叩いて外へ誘っても怪しまれないだろうか。
対局の妨げにならないよう、私は静かに───
「おしい!その上なんだなァ!」
声を上げた少年に周囲の視線が一斉に注がれる。
彼は慌てて口を覆っているがもう無意味だ。
マナーを犯し、対局中の急所を指摘してしまった事実は変わらない。
騒ぎを聞きつけた運営委員達が慌てて飛び出し、会場は一時騒然となる。
泣き出してしまいそうな子供、声を荒げる棋士、憤慨する保護者。それらを落ち着いて諌める緒方さんの背中が目の端を横切っていった。
一方、腕を掴まれ別室へ連行されていく小さくしょげた背中。
見送るしか今の私に選択肢は無い筈なのに、焦るような、弾むような気持ちが隣へ駆け寄らせ、咄嗟に口を挟んでしまった。
「す、すみません!その子は私の弟で…!」
とんでもない嘘が出たものだ。
近くの緒方さんがこちらを振り返った気がして肝が冷える。
『進藤ヒカル』君は覚えの無い言葉に顔をしかめてこちらを振り返った。
傍に寄り添う影と共に。
(っ…ヒカル……!!)
「はぁ?弟ォ?」
(いいから!この方に話を合わせて下さい!)
彼は私達を見ているはずなのに驚く様子も無く、傍の佳人へ不満げな視線を投げている。
間近で見る佐為の君と思しき影法師は、想像とは異なり、身振り手振りを用いてそそっかしく少年に接していた。
(とんでもなく綺麗な人が百面相しているけれど…本当にこれが?)
ちらと壱に視線を送ると感極まって口元を押さえたまま動かなくなっている。
彼で間違いないという証拠だった。
別室で2人して頭を下げた後、やっと解放されて棋院を後にする。
吹き抜けていく冷たい極月の風は暖房と緊張で火照った肌に心地良い程だ。
私と彼は肩の力が抜けたせいか、可笑しな連帯感に笑いが漏れてきた。
「つっかれた〜…はは、なんでおねーさんまで怒られてんのさ」
「ふふっ、本当そうだね。おかしい…あはは」
足並みを揃えて駅へと向かう道すがら、いつ肝心な話題に踏み出すべきかと頬を掻くと、ふいに佐為の君と目があってドキリとする。
彼は優しく目を細め、合図するように傍の少年に視線を落とした。
するとヒカル君は私の顔を興味深そうに覗き込んでくる。
「あの、さ。どうして俺を庇ってくれたの?」
「うん…自己紹介が遅れたけど、私錫代真弦と言います。『進藤ヒカル君』、君をずっと探していたの」
「オレを?」
「正確には、私達が…貴方と一緒にいる佐為の君を」
「えっ!おねーさんコイツがっ…佐為が見えてるの!?」
「うん…見えてるよ。私も、同じなの。壱師の魂が棲み着いてて、見えないかな…?」
「えっ?な、なんにも見えないし聞こえないけど…ホントなのかよ佐為!」
(ええ、本当です。ふう…やっと話し掛けても良い状況になったでしょうか?壱師…間違いなく、そなたなのですね…)
(背の君…この日をどんなに待ち侘びた事でしょう…!嗚呼、ずっとそのお声が聞きたくて、わたくしは、わたくしは……)
「佐為!?なあ俺にもわかるように話してくれよ」
「私が全部説明するよ。それから…君の知ってる事も教えて欲しいな」
「知ってる事って…?オレ何にも…」
気付けば既に地下鉄市ヶ谷駅の2番出口。
同じ立場の協力者になってくれるかもしれないヒカル君に望みを賭けて手を伸ばす。
「あのね、私…」
開放感から思わず紡いだ言葉が口の中で縺れる。
今この少年に私の『呪い』を告げて良いのだろうかと警鐘が鳴った。
(ヒカル君はまだ何も知らないかもしれない。そんな彼を巻き込んで、いいの……?)
口籠る私に露骨に怪訝な顔をするヒカル君。
つい癖になっている誤魔化しの笑顔が自動的に貼り付いた。
助けて欲しいのとは叫べず、ただ大人ぶって、なんでもないのと続けてしまう。
「何だよぉ!?まあいいけどさー、ところで佐為とその壱師ってーー」
「進藤っ!!」
乾いた声が彼を呼んだ。
地下への階段をヒカル君が振り返ると、現れた強い瞳と視線がぶつかった。
残り3段の階段をひとつ登る度、顎下で切り揃えられた特徴的な少年の髪がさらさらと揺れる。
彼らの目線の高さが重なる頃、通り過ぎていく対向車の風が肩で息をする彼の赤らむ頬に流れる一筋の汗を撫でていく。
(アキラ君……!!)
「塔矢…?」
「やっと…やっと見つけたぞ、進藤ヒカル…!」
燃えるような情熱を宿したアキラ君の瞳は愚直なまでにヒカル君へ向かう。
いつも穏やかに微笑む彼が別人のようで、気安く声を掛けるのは許されない気がする。
私は黙って少年2人を見つめていた。
【邂逅】