本編
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「失礼しました」
放課後、真弦は大手合いの都合で欠席した授業の課題を提出し終え職員室を後にした。
アキラと交わした約束からもう半月が過ぎていた事を思い出す。
腕時計を確認すると短針は17時を指し示していた。
"研究会以外でもこうして打ってくださいね。ボク待っていますからーーー"
「今から向かえば…まだアキラ君いるかな」
部活動で賑わうグラウンドを背に制服のプリーツスカートを翻す。
よく手入れされたダークブラウンのローファーは足早に夕陽を浴びる正門へ駆け出していく。
あの時、職員室で科目担当の教師と雑談をしなければ。
送迎車が渋滞に遭わなければ。
囲碁サロンへ5分でも早く着く事が出来ただろうか。
今夜そんな後悔が待っている事を真弦は未だ知らない。
08【噛み合わない歯車】
少し古いエレベーターのガタつきを懐かしみながら囲碁サロンの受付へ辿り着く。
しかしいつもそこで笑顔で出迎えてくれる看板娘が居ない。
奥の給湯室だろうかと首を伸ばして覗くが人影は無い。
そういえば客席もいつももうは少し埋まっているだろうに、やけにがらんとしていた。
一体どこに消えたのかと周囲を見回すと、一般客席からパテーションで区切られた奥、けして広いとは言えない"彼の特等席"周りに人々は集まっていた。
「皆さんどうしーー」
「だって、あの子今迄一度も対局した事が無いって言ったのよ…!」
市河の震える声が響き、一団へ歩み寄る真弦の言葉は掻き消された。
ギャラリーの中心には顔を伏せ、双肩に重りを乗せられたかのように項垂れる天才少年の姿があった。
常連客達が次々に漏らす言葉からだいたいの状況を察する事が出来たが、にわかには信じ難い。
塔矢アキラを上回る小学生が存在するなんて。
物心ついてずっと名人の息子の名を背負いながらこの道を真摯に歩んで来た彼に勝る小学生などそうそういるとは思えない。
とはいえ自分自身が特例のような真弦はそれを口にするのは憚られた。
(名人に鍛え上げられたアキラ君を負かすなら、余程の棋士に指導されーーー)
真弦は既視感に息を呑む。
もし
もしも市河の言葉が真実で、今迄誰とも対局した事がない上で若き天才を倒したと言うのならばそれは
「ちょっと、すみません!盤面を見せて下さい!!」
人だかりを強引に割いてアキラの前へ進む。
余程ショックだったのか、彼は俯いたまま微動だにしない。
それ程の衝撃を受ける一局だったのか。
「っ……これ?これがその小学生の子との………」
そこに残されていた盤面の形は対局と呼んで良いものだろうか。
いや、違う。
将来有望な若獅子をしなやかに飼い慣らし、高みへと導いていく洗練された指導碁が在った。
(これを、小学生が……?)
手順を予測して終局までの道程を辿っていけば、そこかしこに散りばめられた気配は真弦と壱に確信をもたらす材料として充分過ぎるものだった。
(このコスミ…壱と同じ……!)
(嗚呼…あの方が……あの方がいつも、いつも御簾越しに打ってくれていた……そう、間違いありません!!)
亡霊の瞳に輝きが灯る。
(これを打ったのは佐為の君です!)
そう壱が声高に言い切るより早く真弦は心配そうにアキラを見つめていた市河の肩を強く掴んだ。
「市河さん!アキラ君と対局した子の名前は?特徴は!?いつ帰ったの!!」
「えっ、何?急にどうしたの?」
「いいから!教えてください!」
穏やかな気性からは見せたことの無い真弦の鬼気迫る表情に尋常ではないものを感じた市河は動揺する。
肩に食い込む力に眉を顰めながら彼女の視線は天井を泳ぐ。
「えっ、ええと…来店名簿に書かれた名前は…そう!『進藤ヒカル』君。アキラ君と同じ6年生だって言ってような…10分くらい前に帰っちゃってそれでーー」
「派手な頭のちっちぇガキだったぜ?あんな奴にアキラ君が負けるなんてあるわけねぇ…なんかおかしな手でも使ったに違いないんだ!なあ!?」
被せるように北島が続けた。
2人の話を聞き終えるや否や真弦は息つく間も無しに脱兎の如く飛び出していく。
エレベーターを待つ時間すら惜しみ、靴音を小刻みに響かせて階段を駆け下りていった。
現れて間も無く嵐のように去った少女の背を2人は口を開けたまま見送るしか出来ず、戸惑いだけがその場に残される。
「一体どうしたんだあ?真弦ちゃんは…」
「あの子のあんな顔、初めて見たわ…」
息を切らし往来を全速力で駆け抜ける。
あっという間に汗が噴き出してきた。
長い髪がうなじに張り付く不快感も今はどうだっていい。
人目も憚らずお腹から声を張り上げる。
「ヒカル君!進藤ヒカル君!!いませんか!?ヒカル君!!」
恥も外聞もなく真弦は駅へ続く道を辿りながら叫び続ける。
辺りにランドセルを背負った背中はちらほらと見えても"進藤ヒカル"の名にそれらしい反応を示すシルエットは見当たらない。
それでも止まる事は許されず、息が苦しくなっても、喉が枯れても、今誰より逢いたいその名を呼ぶ。
「っ進藤ヒカル君!進藤、ヒカル君…!!」
帰宅ラッシュの時間帯。
騒がしさに行き交う人々の視線が集まる。
駅前交番から目配せする警官の存在が真弦にようやく額の汗を拭わせる。
10分以上前に出て行ったのなら、もう地下鉄へ乗り込んでしまったのだろうか。
それともサロンから徒歩圏内に自宅があるのか。
諦められるはずもなく地下へ降りて改札の中へ。
長いホームの先頭から末尾まで目を凝らすがそれらしい子供の姿は無い。
絶望感と焦りが込み上がり脇腹が鈍く痛む。
咳き込みながら上下する制服の肩に手を置き、壱は諭すよう呟いた。
(……いいのです)
真弦はその一言に顔を上げられない。
渇いた呼吸のまま改札横の壁に背を預けずるずるとしゃがみ込んだ。
膝を抱えた内側には後悔の波が絶え間なく押し寄せて来る。
ああ、何故もっと早く来なかったのか。
(ごめん……ごめんなさい、壱……)
(…いいえ、大きな手掛かりを得たのですもの。それに……ええ!佐為の君がこんなに近くに降り賜うた事、あまねく神に感謝しなければなりませんね。真弦、貴女にも)
「絶対……絶対見つけるから」
アナウンスの後、ホームに電車が入ってきて地下鉄特有の強い風が吹き抜けていく。
自動改札機の電子音が途絶えないラッシュタイム、真弦の声は雑踏に紛れて消えた。
【噛み合わない歯車】
放課後、真弦は大手合いの都合で欠席した授業の課題を提出し終え職員室を後にした。
アキラと交わした約束からもう半月が過ぎていた事を思い出す。
腕時計を確認すると短針は17時を指し示していた。
"研究会以外でもこうして打ってくださいね。ボク待っていますからーーー"
「今から向かえば…まだアキラ君いるかな」
部活動で賑わうグラウンドを背に制服のプリーツスカートを翻す。
よく手入れされたダークブラウンのローファーは足早に夕陽を浴びる正門へ駆け出していく。
あの時、職員室で科目担当の教師と雑談をしなければ。
送迎車が渋滞に遭わなければ。
囲碁サロンへ5分でも早く着く事が出来ただろうか。
今夜そんな後悔が待っている事を真弦は未だ知らない。
08【噛み合わない歯車】
少し古いエレベーターのガタつきを懐かしみながら囲碁サロンの受付へ辿り着く。
しかしいつもそこで笑顔で出迎えてくれる看板娘が居ない。
奥の給湯室だろうかと首を伸ばして覗くが人影は無い。
そういえば客席もいつももうは少し埋まっているだろうに、やけにがらんとしていた。
一体どこに消えたのかと周囲を見回すと、一般客席からパテーションで区切られた奥、けして広いとは言えない"彼の特等席"周りに人々は集まっていた。
「皆さんどうしーー」
「だって、あの子今迄一度も対局した事が無いって言ったのよ…!」
市河の震える声が響き、一団へ歩み寄る真弦の言葉は掻き消された。
ギャラリーの中心には顔を伏せ、双肩に重りを乗せられたかのように項垂れる天才少年の姿があった。
常連客達が次々に漏らす言葉からだいたいの状況を察する事が出来たが、にわかには信じ難い。
塔矢アキラを上回る小学生が存在するなんて。
物心ついてずっと名人の息子の名を背負いながらこの道を真摯に歩んで来た彼に勝る小学生などそうそういるとは思えない。
とはいえ自分自身が特例のような真弦はそれを口にするのは憚られた。
(名人に鍛え上げられたアキラ君を負かすなら、余程の棋士に指導されーーー)
真弦は既視感に息を呑む。
もし
もしも市河の言葉が真実で、今迄誰とも対局した事がない上で若き天才を倒したと言うのならばそれは
「ちょっと、すみません!盤面を見せて下さい!!」
人だかりを強引に割いてアキラの前へ進む。
余程ショックだったのか、彼は俯いたまま微動だにしない。
それ程の衝撃を受ける一局だったのか。
「っ……これ?これがその小学生の子との………」
そこに残されていた盤面の形は対局と呼んで良いものだろうか。
いや、違う。
将来有望な若獅子をしなやかに飼い慣らし、高みへと導いていく洗練された指導碁が在った。
(これを、小学生が……?)
手順を予測して終局までの道程を辿っていけば、そこかしこに散りばめられた気配は真弦と壱に確信をもたらす材料として充分過ぎるものだった。
(このコスミ…壱と同じ……!)
(嗚呼…あの方が……あの方がいつも、いつも御簾越しに打ってくれていた……そう、間違いありません!!)
亡霊の瞳に輝きが灯る。
(これを打ったのは佐為の君です!)
そう壱が声高に言い切るより早く真弦は心配そうにアキラを見つめていた市河の肩を強く掴んだ。
「市河さん!アキラ君と対局した子の名前は?特徴は!?いつ帰ったの!!」
「えっ、何?急にどうしたの?」
「いいから!教えてください!」
穏やかな気性からは見せたことの無い真弦の鬼気迫る表情に尋常ではないものを感じた市河は動揺する。
肩に食い込む力に眉を顰めながら彼女の視線は天井を泳ぐ。
「えっ、ええと…来店名簿に書かれた名前は…そう!『進藤ヒカル』君。アキラ君と同じ6年生だって言ってような…10分くらい前に帰っちゃってそれでーー」
「派手な頭のちっちぇガキだったぜ?あんな奴にアキラ君が負けるなんてあるわけねぇ…なんかおかしな手でも使ったに違いないんだ!なあ!?」
被せるように北島が続けた。
2人の話を聞き終えるや否や真弦は息つく間も無しに脱兎の如く飛び出していく。
エレベーターを待つ時間すら惜しみ、靴音を小刻みに響かせて階段を駆け下りていった。
現れて間も無く嵐のように去った少女の背を2人は口を開けたまま見送るしか出来ず、戸惑いだけがその場に残される。
「一体どうしたんだあ?真弦ちゃんは…」
「あの子のあんな顔、初めて見たわ…」
息を切らし往来を全速力で駆け抜ける。
あっという間に汗が噴き出してきた。
長い髪がうなじに張り付く不快感も今はどうだっていい。
人目も憚らずお腹から声を張り上げる。
「ヒカル君!進藤ヒカル君!!いませんか!?ヒカル君!!」
恥も外聞もなく真弦は駅へ続く道を辿りながら叫び続ける。
辺りにランドセルを背負った背中はちらほらと見えても"進藤ヒカル"の名にそれらしい反応を示すシルエットは見当たらない。
それでも止まる事は許されず、息が苦しくなっても、喉が枯れても、今誰より逢いたいその名を呼ぶ。
「っ進藤ヒカル君!進藤、ヒカル君…!!」
帰宅ラッシュの時間帯。
騒がしさに行き交う人々の視線が集まる。
駅前交番から目配せする警官の存在が真弦にようやく額の汗を拭わせる。
10分以上前に出て行ったのなら、もう地下鉄へ乗り込んでしまったのだろうか。
それともサロンから徒歩圏内に自宅があるのか。
諦められるはずもなく地下へ降りて改札の中へ。
長いホームの先頭から末尾まで目を凝らすがそれらしい子供の姿は無い。
絶望感と焦りが込み上がり脇腹が鈍く痛む。
咳き込みながら上下する制服の肩に手を置き、壱は諭すよう呟いた。
(……いいのです)
真弦はその一言に顔を上げられない。
渇いた呼吸のまま改札横の壁に背を預けずるずるとしゃがみ込んだ。
膝を抱えた内側には後悔の波が絶え間なく押し寄せて来る。
ああ、何故もっと早く来なかったのか。
(ごめん……ごめんなさい、壱……)
(…いいえ、大きな手掛かりを得たのですもの。それに……ええ!佐為の君がこんなに近くに降り賜うた事、あまねく神に感謝しなければなりませんね。真弦、貴女にも)
「絶対……絶対見つけるから」
アナウンスの後、ホームに電車が入ってきて地下鉄特有の強い風が吹き抜けていく。
自動改札機の電子音が途絶えないラッシュタイム、真弦の声は雑踏に紛れて消えた。
【噛み合わない歯車】