本編
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「素晴らしい……」
「なんで…」
(頭の中でしか打ってこなかったのに…)
整地した盤面は名人への勝利を示していた。
内容としては1目差の辛勝。
互先だったならこちらの負け。
けれどこれは定先の対局。ハンデとしてのコミが無くなる。
つまり、間違いなくこの戦いにおいて真弦が白星を得たということ。
我ながら失着もない綺麗な形を作り上げられた。高揚感が冷めず頬が熱い。
壱から教わった事、詰碁や棋譜から吸収したすべての記憶、そして自分自身の直感。
総てが積み重なって到達したものが目の前に在る。
07【恐れを超えて】
それでも壱としか対局経験が無く、碁を知って2年に満たない上での勝利はあまりにも衝撃的だった。
真弦は他の誰より自分自身がこの結果を信じられない。
「確かな棋力だ。そして恐ろしい程の読みの早さ、深さ。先程と棋風は似て非なるものだがプロの中でも十二分に通用するレベルだ」
「でも、私、私…これが初めてで…」
「何だって?」
「あっ、いえその!塔矢先生のような高名な棋士と打つのは初めてで…」
「………君が望まないならば、深くは追求しない」
口を滑らせた真弦の本心をどこかで悟りながら名人は淡々と師事を受けるにあたっての条件を挙げ連ねていく。
弟子入りを許可したいが、錫代家の親族にプロ棋士がいる以上、所属門下で揉めないか心配である事
先の一局のようなブレた思考の打ち筋は今後改める事
嫌でなければ年の近いライバルがいない息子と打ってやって欲しい事
返事はまた後日で構わない事
真弦は自分の打った碁の内容が頭を渦巻くばかりで上滑りしていく名人の言葉を頭の中に書き留めるのがやっとだ。
対局中は無我夢中で気にも止めなかったが、何故壱に一度も勝てたことの無い自分が壱を上回った名人を唸らせる一局を打てたのだろう。
勝負の世界において棋力だけが総てを決めるわけではないとわかっていても、違和感だけが胸に沈殿していく。
(壱……?)
物言わぬ壱から流れ込んでくる悲愴感に目眩が走り、追って吐き気が襲ってくる。
既に冷め切ってしまったお茶を一気に呷り、口腔内に拡がる嫌な粘りを流し込んだ。
「顔色が優れないようだが」
「いえ……緊張が解けたら疲れてしまって」
沈黙を守ったままの壱を盗み見ると、白い頬に一筋の雫が流れていくのが見える。
慌ててどうしたの?と声に出さず何度も呼び掛けるが答えない。
(壱、落ち着いて…悲しい気持ちが流れてきて苦しいよ…)
それでも彼女は顔を覆い泣き続けていた。
「ありがとうございました」
「また会えるのを楽しみにしているよ」
夫妻に見送られ真弦はやっとの思いで迎えの車に乗り込むと、糸が切れたように四肢を投げ出して座席に身体を沈める。
運転席から心配する声がして朦朧とした意識のまま大丈夫ですと声を絞り上げたが、間も無く重い瞼に視界を閉ざされてゆく。
青い顔のまま静かな寝息をたて始めた真弦の傍ら、亡霊は透ける手で小さな額をそっと撫でていた。
(ごめんなさい、真弦……)
小さな涙声は夢の中に届くだろうか。
静かに国道を進む車窓に夕陽が強く射し込んでくる。
真弦はズキンと痛む頭に手をやり、夢現を漂う。
窓の外には見慣れた景色が流れており、自宅にほど近い所まで帰ってきた事を認識する。
何時間も眠っていたように感じられたが、腕時計によると30分程度しか経っていなかった。
寝惚け眼を擦りながら夢の中で声を聞いたのを思い出す。
(あの声って、壱……?)
ちらと横目で隣を見る。
俯いたままの壱は泣き腫らした目元を未だに拭っていた。
(…目が覚めたのですね、真弦)
(うん…あのね壱、塔矢名人との対局を邪魔してごめんなさい)
(いいえ謝るのはわたくしです。今迄貴女に言えなかった事がある…聞いてくれますか?)
夕焼けが夜の藍色と溶け合い、窓の外は逢魔時に染まり始める。
壱は胸の前で指を組むと、まるで懺悔するような姿で秘していた事を途切れ途切れに語り始めた。
生前、佐為の君と自分を結び付けた碁を心から大切に思ってきたが、彼が身を投げた時からそれ以上に碁への憎しみが尽きず、その怨念に近い執着が今の壱を形作っているということ。
そしてその怨念の影響から、取り憑いた者の棋力を奪っているかもしれないということ。
(棋力を奪う…って、そんな事できるの?)
(確信はありませんが…私との対局ではうまく立ち回れた事は無かったでしょう?)
(うん…盤面に靄がかかったみたいに感じて本で読んだ定石をそのまま置くだけみたいになっていた、かも。でもそれは私が弱いからだと思ってたの)
(やはり……。実はわたくしは過去にも真弦と同じような方と出会い、この身に替わり、碁を打ってもらっていたことがあるのです)
(…そうだったんだ)
(あれは江戸時代と呼ばれた頃でした。武家の末娘であった八重がわたくしを蔵で見つけてくれたのがきっかけです。時の本因坊秀策の棋譜から佐為の君に通ずる気配を感じたため、なんとかお目もじ叶えたく努めたのですが…)
(……駄目だったの?)
(御城碁を打つような方を簡単に尋ねたりできる自由はあの時代の女性にはなかったのでしょう。そして……)
壱は唇を震わせた。
(わたくしの念が強過ぎたのか、八重は……日に日に衰弱していきました)
(え?)
(すぐには気が付きませんでしたが元々囲碁を嗜んでいた八重の棋力は著しく低下し、まるで靄がかかったように石を置く場所がわからないと……)
(私と同じ……それで、八重さんはどうなったの?)
(………痩せ細り、18の娘ざかりに労咳で亡くなりました)
(なに、それ…なんで…?私も死んじゃうの?ねえ…騙してたの?)
(そう思われても仕方がないです。ごめんなさい…けれど、真弦には八重とは違う運命を…一体感を強く感じているんです!だからきっと)
(私、八重さんみたいに大人になる前に死んじゃうかもしれないの……?)
壱の暗い横顔が記憶の母と重なり、最期の時がリフレインする。
病室で鳴り響いていた電子音がまるで昨日の事のように鮮明に蘇ってくる。
喉が枯れるほど呼び掛けても返事は帰ってこなかった。
血の気の無い肌、虚空を漂い濁る瞳。
静かにベッドに落ちていった母の細い腕。
あの姿に、私もなる……?
きっかけは母によく似た壱の涙を拭いたかっただけ。
なのに彼女の呪いによって命を失うかもしれないなんて、こんな馬鹿な話は無い。
(私…あの時はお母さんの側に行けるなら幽霊に殺されたっていいと思ってたのに……)
噛み締めた唇に血が滲む。
母を喪ってから世界は灰色だった。
しかし今の私は白と黒の石が虹より鮮やかな色を放つ事を知ってしまった。
碁に出逢った私は熱中する楽しさを知り、当たり前に明日を求め、生きたいと思っている。
死にたくない。
玄関に駆け込み靴を乱雑に脱ぎ捨てたあたりから記憶は曖昧だった。
電気も点けずベッドに潜り込むと身体が震えていたことに漸く気が付く。
抑え込むようにぎゅっと肩を抱いた。
息すらうまくできず、苦しさで涙がこぼれてどうしようもない。
怖い。
今まで救いたかった、一緒に過ごした、笑いあってきた壱。
母のように優しくて、少し照れ屋で、いつも碁の魅力を語り聞かせてくれた。
そんな彼女の事が、もうわからない。
(真弦…ごめんなさい、どうか最後まで聞いてください)
「聞きたくない!嘘つき!人殺し!!私のこと呪ってたんだ!」
拒絶の叫びが布団の中でくぐもった。
嘆きと嗚咽が皺くちゃのシーツを濡らしていく。
怒りの言葉で彼女を刺していると知りながらブレーキが踏めない。
「早く居なくなってよ!どこかへ行って!私死にたくない!!」
(わたくしだって出来ることならそうしています!!)
語気を強めた壱の声。
出逢ってから一度も聞いたことのない強さに真弦はハッとして息を呑む。
恐る恐る布団から顔を出すと、拳を強く握り、震えている壱と目が合う。
(貴女を苦しめたいなんて思ったことはありません!八重だって、そうでした…。わたくしと出逢ってしまったせいで命を落としたのかもしれません。けれど、それを望んだ事など一度たりともありません!)
「っ…でも…」
(真弦……わたくしは佐為の君に巡り逢えれば、きっとこのいのちは本懐を遂げ天へ昇る。そうすれば貴女を解放できるはず。身勝手だとわかっています…。どうか、力を貸して……)
憔悴した壱の声は泣き声に変わっていく。
どれだけ涙が溢れているのだろう。
いくら幽霊だってこんなに泣けば枯れてしまいそうだ。
真弦は気がつくと壱に手を伸ばしていた。
壱と出会って一緒に過ごした日々は空っぽだった私を変えた。
たとえ今迄呪われていたのだとしても、彼女が私に与えてくれた時間は満ち足りていて、心の隙間を埋めてくれていたんだ。
それだけは揺るぎない真実。
向けられた小さな手を壱はそっと両手で包む。
2人の視線は重なり、互いに目を細めていた。
壱だって唯一無二の人と引き裂かれ、大切だった碁を憎み、誰も傷付けたくないのに依代の命を奪ってしまうかもしれない恐れと苦しみを抱えている。
それはある種の呪いと言っても過言では無い。
この苦しみは、私達2人でしか乗り越えられないんだ。
「佐為の君…絶対見つけよう。私が大人になる前に。そしたらきっと、壱も私も幸せになれるよね……?」
互いの手に感触も体温も伝わる事は無いけれど、重なり合う掌から少女の決意が空蝉の魂に流れていく。
(真弦……!!嗚呼…ごめんなさい。そして、ありがとうございます。ありが、とう…)
何も知らず無垢だった自分はもういない。
壱を救う為、そして死から逃れる為、後戻りの出来ない運命が定められた。
死にたくない。
母の分も生きたい。
だから、私は碁の頂点を目指す。
いつか訪れる佐為の君との邂逅のために。
【恐れを超えて】