立ち上がれい
『足立レイが立ち上がってくれません。どうしたら良いのでしょうか?』
扇風機を部屋の隅でぶん回してなお、寝苦しいような熱帯夜。眠りにつくのを諦めてインターネットを眺めていた人間は、ふとそんな書き込みに目を留めた。
足立レイ。歌い喋り、時には電子の歌姫と肩を並べ、多くの人々から愛されている存在。または、z軸の獲得を目指し続けてきたゼロ号機。
この発言者は、『足立レイ』のソフトウェアの起動に苦労しているのだろうか。人もまばらになってきた深夜帯、せめてこんな自分にも力になれることがあれば良い。足立レイに心惹かれるものとしての仲間意識を抱きつつ、人間はスマートフォンを操作してコメントを打ち込む。
『UTAUのレイちゃんですか? それともレプリボイスの方でしょうか?』
『? 足立レイは足立レイです』
あまりぱっとしない言葉が返ってきた。歌ってもらいたいのならUTAU、喋ってもらうならレプリボイスを用意しているはずだと説明するが、いま一つ手応えがない。どうやら、相手はそこまで詳しい知識を持ってはいないらしい。
『ファイルの場所を改めて確認してみるとか、アクティベーションキーの番号が間違っていないかとか……あとパソコンの再起動も試してみては?』
ソフトやコンピュータ本体に関わる事柄をいくつか提案してみる。理解してもらえたものは素直に実行してくれているようだが、結果は相変わらず。
『色々やってみましたが、やはり沈黙のままです』
最初は息巻いていた人間も特にこれらの専門家ではなく、ほとんどお手上げ状態に近づいてきた。ここは素直に、他の有識者に任せた方が良いかもしれない。
『難しい状況ですね……レイちゃん反抗期でしょうか。もっと詳しい人をこちらでも探してみますね』
コメント送信、そして身内に向けても呼びかけようと画面切り替え。パソコンに強い人いませんか、と文章を書き終えたところで、ちょうど届いた返信通知を確認して、思わず目を瞬く。
『そうですね。昨日彼女と喧嘩してしまったので、そのせいかもしれません。あれからずっと、口を聞いてくれなくて』
どうやら流れが変わったらしいぞ、と。
『なるほど。つまり、昨日うっかりコーヒーを溢してレイちゃんの靴を汚してしまった、と……?』
『はい。それできっと、怒ってしまったのだと思います』
初めはどう返したものかと戸惑った会話も、ノリを掴んでしまえばお手のもの。あとはその場の雰囲気に合わせて。ただ電子機器に疎い人との第一印象だったお相手は、なかなかにユーモラスなセンスの持ち主らしい。真面目に話せと怒られるかもしれない、そう怯えていた頃の気持ちは何処へやら、人間は楽しく画面越しのやり取りを続けていた。
『コーヒーだとシミ抜きは大変かもしれませんね。新しい靴を用意してあげるのはどうでしょう?』
『自分もそう考えて、今日同じものを買い直してきたのですが、やはり愛着があったようで機嫌を直してくれません』
何度か言葉を交わしていると、徐々に不思議な気持ちが湧き起こってくる。そう、まるで、相手の傍に足立レイという人格が本当に存在しているような。ソフトウェア、架空のキャラクターとしてではない、『足立レイ』の気配を感じるような。
『わざとじゃないなら、誠意を込めて接すればきっと伝わるはずですよ。応援してます!』
『ありがとうございます。自分でも、もう少し頑張ってみようと思います』
リアクションボタンを染めて、会話はここで一段落。結局役に立つようなアドバイスはできなかったことに少しの申し訳なさを感じる。先程の呼びかけを確認しても、この時間に起きているような人はそう居ないのか、まだ反応はない。自分もそろそろ眠らなければと、人間は充電ケーブルを探し始めた。
——それから、数時間後。
結局暑さのせいで浅い睡眠しか取れなかった人間は、その微睡さえもスマートフォンからの通知音に邪魔されて、不機嫌そうに画面を点ける。終わらせたと思っていた先程の会話への、返信。
『あれからなんとか和解できて、彼女も立ち上がってくれました。これでまた歩き出せます。本当にありがとうございました』
添付されてきた動画を再生する。落ち着いた雰囲気の部屋、白い壁の前に、直立する人影。ノイズが走って、音声が聞こえてくる。
『マスターが、ご迷惑をおかけしました』
アンテナをつけた頭が、ややぎこちなく傾いて。お辞儀から上げた顔に見えた橙の双眸、その中心が黒く煌めいたところで、ふっと画面が暗転した。
『なにそれ、寝呆けてたんじゃないの』
『やっぱそうなるよなぁ』
翌朝、少しはコンピュータに詳しいと名乗り出た面々に昨夜の出来事を説明しようと試みたが、動画も含めあのやり取りは確認できなくなっていた。あれはあまりの暑さが見せた一夜の幻か、それとも。
それでも記憶に残る、彼女の言葉を思い出す。人間らしさを目指さない彼女の、しかしどこか優しい響きの声。
もしかしたら、と人間は思う。もしかしたら、現実が少しばかりねじ曲がって、思いもよらない姿を見せてくれるようなことが時々あるのかもしれない。彼女ならきっと、それくらいはやってのける。そう、『足立レイ』ならば——なんて、苦笑してみれば。
どこかで、軽やかな足音が聞こえたような気がした。
扇風機を部屋の隅でぶん回してなお、寝苦しいような熱帯夜。眠りにつくのを諦めてインターネットを眺めていた人間は、ふとそんな書き込みに目を留めた。
足立レイ。歌い喋り、時には電子の歌姫と肩を並べ、多くの人々から愛されている存在。または、z軸の獲得を目指し続けてきたゼロ号機。
この発言者は、『足立レイ』のソフトウェアの起動に苦労しているのだろうか。人もまばらになってきた深夜帯、せめてこんな自分にも力になれることがあれば良い。足立レイに心惹かれるものとしての仲間意識を抱きつつ、人間はスマートフォンを操作してコメントを打ち込む。
『UTAUのレイちゃんですか? それともレプリボイスの方でしょうか?』
『? 足立レイは足立レイです』
あまりぱっとしない言葉が返ってきた。歌ってもらいたいのならUTAU、喋ってもらうならレプリボイスを用意しているはずだと説明するが、いま一つ手応えがない。どうやら、相手はそこまで詳しい知識を持ってはいないらしい。
『ファイルの場所を改めて確認してみるとか、アクティベーションキーの番号が間違っていないかとか……あとパソコンの再起動も試してみては?』
ソフトやコンピュータ本体に関わる事柄をいくつか提案してみる。理解してもらえたものは素直に実行してくれているようだが、結果は相変わらず。
『色々やってみましたが、やはり沈黙のままです』
最初は息巻いていた人間も特にこれらの専門家ではなく、ほとんどお手上げ状態に近づいてきた。ここは素直に、他の有識者に任せた方が良いかもしれない。
『難しい状況ですね……レイちゃん反抗期でしょうか。もっと詳しい人をこちらでも探してみますね』
コメント送信、そして身内に向けても呼びかけようと画面切り替え。パソコンに強い人いませんか、と文章を書き終えたところで、ちょうど届いた返信通知を確認して、思わず目を瞬く。
『そうですね。昨日彼女と喧嘩してしまったので、そのせいかもしれません。あれからずっと、口を聞いてくれなくて』
どうやら流れが変わったらしいぞ、と。
『なるほど。つまり、昨日うっかりコーヒーを溢してレイちゃんの靴を汚してしまった、と……?』
『はい。それできっと、怒ってしまったのだと思います』
初めはどう返したものかと戸惑った会話も、ノリを掴んでしまえばお手のもの。あとはその場の雰囲気に合わせて。ただ電子機器に疎い人との第一印象だったお相手は、なかなかにユーモラスなセンスの持ち主らしい。真面目に話せと怒られるかもしれない、そう怯えていた頃の気持ちは何処へやら、人間は楽しく画面越しのやり取りを続けていた。
『コーヒーだとシミ抜きは大変かもしれませんね。新しい靴を用意してあげるのはどうでしょう?』
『自分もそう考えて、今日同じものを買い直してきたのですが、やはり愛着があったようで機嫌を直してくれません』
何度か言葉を交わしていると、徐々に不思議な気持ちが湧き起こってくる。そう、まるで、相手の傍に足立レイという人格が本当に存在しているような。ソフトウェア、架空のキャラクターとしてではない、『足立レイ』の気配を感じるような。
『わざとじゃないなら、誠意を込めて接すればきっと伝わるはずですよ。応援してます!』
『ありがとうございます。自分でも、もう少し頑張ってみようと思います』
リアクションボタンを染めて、会話はここで一段落。結局役に立つようなアドバイスはできなかったことに少しの申し訳なさを感じる。先程の呼びかけを確認しても、この時間に起きているような人はそう居ないのか、まだ反応はない。自分もそろそろ眠らなければと、人間は充電ケーブルを探し始めた。
——それから、数時間後。
結局暑さのせいで浅い睡眠しか取れなかった人間は、その微睡さえもスマートフォンからの通知音に邪魔されて、不機嫌そうに画面を点ける。終わらせたと思っていた先程の会話への、返信。
『あれからなんとか和解できて、彼女も立ち上がってくれました。これでまた歩き出せます。本当にありがとうございました』
添付されてきた動画を再生する。落ち着いた雰囲気の部屋、白い壁の前に、直立する人影。ノイズが走って、音声が聞こえてくる。
『マスターが、ご迷惑をおかけしました』
アンテナをつけた頭が、ややぎこちなく傾いて。お辞儀から上げた顔に見えた橙の双眸、その中心が黒く煌めいたところで、ふっと画面が暗転した。
『なにそれ、寝呆けてたんじゃないの』
『やっぱそうなるよなぁ』
翌朝、少しはコンピュータに詳しいと名乗り出た面々に昨夜の出来事を説明しようと試みたが、動画も含めあのやり取りは確認できなくなっていた。あれはあまりの暑さが見せた一夜の幻か、それとも。
それでも記憶に残る、彼女の言葉を思い出す。人間らしさを目指さない彼女の、しかしどこか優しい響きの声。
もしかしたら、と人間は思う。もしかしたら、現実が少しばかりねじ曲がって、思いもよらない姿を見せてくれるようなことが時々あるのかもしれない。彼女ならきっと、それくらいはやってのける。そう、『足立レイ』ならば——なんて、苦笑してみれば。
どこかで、軽やかな足音が聞こえたような気がした。
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