紅に染まったこの海へ
「お、見てください。海が赤く染まってきましたよ」
砂浜に点々と設置されたビーチパラソル。椅子に並んで腰掛けて、二人は夕暮れの海を眺めている。
「ただ夕日が反射してるだけじゃないか。そんなに赤くもない」
「はいはい、テトさんの方が赤いですね」
「僕は別に張り合ってるわけじゃないぞ」
そんなことを言い合っている間にも時は過ぎていく一方で。あれほど昼間は燦々と照り輝いていた太陽も水平線に沈み、いつしか辺りは薄暗くなり始めていた。
そろそろ夕飯をどうにかしなければとマスターが立ち上がったのに合わせ、重音テトも椅子を降りる。どら焼きなんてどうでしょう。馬鹿、まずは主食から先に考えろよ。
「とはいえ、宿までそんなに遠くはないですし。海辺を歩きながらでもゆっくり考えましょうか」
ひたひたと、足が波に触れるか触れないかのあたりで、かなり視界の悪くなってきた浜を進む。靴越しとはいえ尖った貝を踏まないようにと慎重に歩くマスターをよそに、重音テトの足取りに迷いはない。
「テトさん、何か歌ってくださいよ。暗いし怖くなってきました」
「僕は歌が苦手なんだ。君も知ってるだろう」
「またまた、ご冗談を」
一度は不満を零した彼女もそう満更ではないようで、小さく笑みを作ってはゆるやかに歌い始めた。波の音に掻き消されないように、ほどほどに声を張り上げて。
陸風に乗って、彼女の歌声は海の上を優しく漂う。一曲終わればまたもう一曲。さらにもう一曲。さて、次は何を歌おうか。マスターが作ってくれた曲? 最近流行りの誰もが知ってる、あの曲? それとも。
さっき店で聞いた、不思議なあの歌を。
こんなだったかな、と歌い始めたところで。
重音テトの意識が不意に暗転する。
——ぼんやりする。頭が、痛い。二日酔い? だから、合成音声にそんなものないって言ってるでしょ。なら、一体何が。そもそも、ここは何処で。隣に居るのは誰だっけ?
隣に、居たのは。
隣?
ここは、海の中だってのに。
「?! ……マスター、マスター!」
ざぶりと海面から顔を上げて、重音テトは必死に叫ぶ。見回す。駆け出そうとする。膝の高さまでもある海水さえ、物ともせずに走り回る。なんで、どうして。こんな所に来た覚えすらないのに。
岩陰。誰かが倒れている。死に物狂いで駆け寄る。マスターが浮いている。肩を揺すって、瞼が痙攣するのを見てようやく安堵する。
その目がぱちりと開いて。
あまりに、空虚な瞳。
「……テトさん。呼ばれてますよ、行かないと」
「マスター? 何、を」
ぐらつく身体で立ち上がったマスターは、海の奥へ奥へと歩いていく。
「こら、おい、待てよマスター、マスターってば! そっちは海だって言ってるだろ!」
「でも、呼ばれてますし。テトさんがここまで連れて来てくれたんでしょう?」
マスターの身体にしがみついて全身で引き留める。本来合成音声は人間より力が強いはず。なのに、今もずるずると海の方へ引き摺られている。ドリルヘアが乱れるのも構わず、無我夢中で浜へと押し戻そうとする。
「宿に帰って、どらやき、食べるんだろ! 正気に戻ってくれよ、マスター!!」
その声で、マスターの力が少し弱まる。これなら。力を入れ直し、ぐいと引っ張り上げようとしたところで、
マスターの身体が。
海に。
とぷん、と。
「……は?」
理解できないまま、反射で顔を水につける。夜の海、視界なんてまるで当てにならない。それでもなんとかぼんやりした影を視界の端に捉えて、追いかけて、掴んで。
ざり、と嫌な感触が手に伝わる。
思わず手を離してしまって。後悔しながら、手の中に残ったものを判別しようと目を凝らす。小さく固いそれは、赤い鱗のように見えた。
波の音がうるさい。マスターを助けなければ、なのに、思考が纏まらない。うるさい。違う。波の音だけではない。これは、歌。笑い声。
顔を上げる。それで、気が付いた。
赤い。真っ赤、だった。寄せては返す波も、遥か彼方の水平線際までも、全て一様に。
濃い赤だ。重音テトの髪のように。いや、違う、と彼女は悟る。これは、僕の瞳と同じ色。
鮮血のような、赤。
「海が赤く染まったら、すぐに浜を離れなさい」
耳、耳を塞がなければ。マスターにも僕にも、耳はあるのだから。笑い声に囲まれて、重音テトのメモリに刻まれた音声がぐるぐる、頭の中で反芻される。そのせいで、今しがた波間に見えたあれが何かなんて、考えている余裕がない。
「赤い海には——。」
人魚が出て、歌に惹かれて近寄ってきたものを残らず餌食にしてしまうから。
数メートル先。真っ赤に染まったマスターを抱えて、下半身を鱗に覆われたなにかが歯を剥き出し笑っている。
マスター、そう叫ぼうとする。声が、出ない。そうじゃない。音は発せられている。甲高い、あまりに耳障りなこれは。
かれらと同じ、笑い声。
ああ、と彼女は気がついた。あの歌を歌わされた時点で、いや、聞かされた時点で。僕らにはとうに逃げ道なんてなかったのだ。
ならば、せめて。僕の歌声を聞いた暁には、誰しも虜になってしまうだろうから。そうさ、僕はちっとも安くないのだから。
せめて。これ以上誰も巻き込まないために。
紅に染まったこの海へ、重音テトは身を躍らせた。
砂浜に点々と設置されたビーチパラソル。椅子に並んで腰掛けて、二人は夕暮れの海を眺めている。
「ただ夕日が反射してるだけじゃないか。そんなに赤くもない」
「はいはい、テトさんの方が赤いですね」
「僕は別に張り合ってるわけじゃないぞ」
そんなことを言い合っている間にも時は過ぎていく一方で。あれほど昼間は燦々と照り輝いていた太陽も水平線に沈み、いつしか辺りは薄暗くなり始めていた。
そろそろ夕飯をどうにかしなければとマスターが立ち上がったのに合わせ、重音テトも椅子を降りる。どら焼きなんてどうでしょう。馬鹿、まずは主食から先に考えろよ。
「とはいえ、宿までそんなに遠くはないですし。海辺を歩きながらでもゆっくり考えましょうか」
ひたひたと、足が波に触れるか触れないかのあたりで、かなり視界の悪くなってきた浜を進む。靴越しとはいえ尖った貝を踏まないようにと慎重に歩くマスターをよそに、重音テトの足取りに迷いはない。
「テトさん、何か歌ってくださいよ。暗いし怖くなってきました」
「僕は歌が苦手なんだ。君も知ってるだろう」
「またまた、ご冗談を」
一度は不満を零した彼女もそう満更ではないようで、小さく笑みを作ってはゆるやかに歌い始めた。波の音に掻き消されないように、ほどほどに声を張り上げて。
陸風に乗って、彼女の歌声は海の上を優しく漂う。一曲終わればまたもう一曲。さらにもう一曲。さて、次は何を歌おうか。マスターが作ってくれた曲? 最近流行りの誰もが知ってる、あの曲? それとも。
さっき店で聞いた、不思議なあの歌を。
こんなだったかな、と歌い始めたところで。
重音テトの意識が不意に暗転する。
——ぼんやりする。頭が、痛い。二日酔い? だから、合成音声にそんなものないって言ってるでしょ。なら、一体何が。そもそも、ここは何処で。隣に居るのは誰だっけ?
隣に、居たのは。
隣?
ここは、海の中だってのに。
「?! ……マスター、マスター!」
ざぶりと海面から顔を上げて、重音テトは必死に叫ぶ。見回す。駆け出そうとする。膝の高さまでもある海水さえ、物ともせずに走り回る。なんで、どうして。こんな所に来た覚えすらないのに。
岩陰。誰かが倒れている。死に物狂いで駆け寄る。マスターが浮いている。肩を揺すって、瞼が痙攣するのを見てようやく安堵する。
その目がぱちりと開いて。
あまりに、空虚な瞳。
「……テトさん。呼ばれてますよ、行かないと」
「マスター? 何、を」
ぐらつく身体で立ち上がったマスターは、海の奥へ奥へと歩いていく。
「こら、おい、待てよマスター、マスターってば! そっちは海だって言ってるだろ!」
「でも、呼ばれてますし。テトさんがここまで連れて来てくれたんでしょう?」
マスターの身体にしがみついて全身で引き留める。本来合成音声は人間より力が強いはず。なのに、今もずるずると海の方へ引き摺られている。ドリルヘアが乱れるのも構わず、無我夢中で浜へと押し戻そうとする。
「宿に帰って、どらやき、食べるんだろ! 正気に戻ってくれよ、マスター!!」
その声で、マスターの力が少し弱まる。これなら。力を入れ直し、ぐいと引っ張り上げようとしたところで、
マスターの身体が。
海に。
とぷん、と。
「……は?」
理解できないまま、反射で顔を水につける。夜の海、視界なんてまるで当てにならない。それでもなんとかぼんやりした影を視界の端に捉えて、追いかけて、掴んで。
ざり、と嫌な感触が手に伝わる。
思わず手を離してしまって。後悔しながら、手の中に残ったものを判別しようと目を凝らす。小さく固いそれは、赤い鱗のように見えた。
波の音がうるさい。マスターを助けなければ、なのに、思考が纏まらない。うるさい。違う。波の音だけではない。これは、歌。笑い声。
顔を上げる。それで、気が付いた。
赤い。真っ赤、だった。寄せては返す波も、遥か彼方の水平線際までも、全て一様に。
濃い赤だ。重音テトの髪のように。いや、違う、と彼女は悟る。これは、僕の瞳と同じ色。
鮮血のような、赤。
「海が赤く染まったら、すぐに浜を離れなさい」
耳、耳を塞がなければ。マスターにも僕にも、耳はあるのだから。笑い声に囲まれて、重音テトのメモリに刻まれた音声がぐるぐる、頭の中で反芻される。そのせいで、今しがた波間に見えたあれが何かなんて、考えている余裕がない。
「赤い海には——。」
人魚が出て、歌に惹かれて近寄ってきたものを残らず餌食にしてしまうから。
数メートル先。真っ赤に染まったマスターを抱えて、下半身を鱗に覆われたなにかが歯を剥き出し笑っている。
マスター、そう叫ぼうとする。声が、出ない。そうじゃない。音は発せられている。甲高い、あまりに耳障りなこれは。
かれらと同じ、笑い声。
ああ、と彼女は気がついた。あの歌を歌わされた時点で、いや、聞かされた時点で。僕らにはとうに逃げ道なんてなかったのだ。
ならば、せめて。僕の歌声を聞いた暁には、誰しも虜になってしまうだろうから。そうさ、僕はちっとも安くないのだから。
せめて。これ以上誰も巻き込まないために。
紅に染まったこの海へ、重音テトは身を躍らせた。