紅に染まったこの海へ

「テトさーん! 海! ですよー!」
「君はじつに馬鹿だな。そんなにはしゃぐなよ、子供でもあるまいし」
「たしかにテトさんよりは若いですが……」
「なかなか痛いところを突くじゃないか?」

 夏、といえば海。なんて至極短絡的な人間の発想により、重音テトとマスターはちょっとした旅行に来ていた。
 なんでもマスターに言わせれば、パソコンのブルーライトを浴びてばかりでは夏の情緒も何も感じられたものではないとか。早く作曲作業を進めるべきだと散々忠告したにも関わらず、結局着いてきてしまった自分も自分ではあるか、と重音テトは自嘲する。

「何食べたいですか。かき氷? 焼きハマグリ?」
「折角海に来て、いの一番にやる事がそれかい」

 海風を浴びて砂浜に駆け出した、かと思いきや、ぎゅんと直角に曲がって海の家を目指すマスター。呆れた声を掛けるも、当の本人の耳には届いていないようで。待ってくれよ、合成音声に足の速さを期待するな、と慌てて追いかけ、こちらも砂浜に右へと曲がる足跡を刻む。僕には君が借りてきたDVDを延長することくらいしか、取り柄がないんだってのに。


 まあ、でも。と、走りながら重音テトは思う。砂浜で追いかけっこなんて柄でもない事をやってしまう程度には、僕も夏の魔物に取り憑かれているのかもしれない。そういうことにしてやっても良いだろう。

「テトさん、なんか青春っぽい事考えてます?」
「うるさいな君は!」

 危うくフランスパンで殴りかかりそうになったのをなんとか踏み止まる。湿気ては困るから、と家に置いてきて良かった。





 からん、とグラスに浮いた氷が揺れる。

「夏ですねー……」
「夏だなー……」

 勢いよく喉に流し込む、キンキンに冷えた麦酒のなんと美味しいこと。耳を澄ませば波の音、それに混じって何やら美しい歌声まで聞こえてくる。
 昼間からこんな贅沢をして、本当に許されるのか。許される、何故なら夏だから。おや、日頃愚かな人間もたまには良いことを言うじゃないか。では遠慮なく。

「店主ー、おかわり!」
「はいはい……って、大丈夫かい? あんまり飲み過ぎるんじゃないよ」

 大丈夫大丈夫、合成音声が酔うわけないでひょ。あれ、どうも口先、手先が覚束ない。まあ良いか、と新たなグラスに手を伸ばして。

「て、テトさーん?!」

 カウンターでばったりきゅう、とスリープに陥った重音テトであった。





「すみません、うちのがご迷惑をおかけしまして……」
「気にしなくていいさ、良い飲みっぷりだったもの。それに、人間よかよっぽど丈夫に出来てるんだろ?」
「はい、多分数十分もすれば元気に起きるとは思います。今までこんなに泥酔したことなんてなかったんですが……」

 店の奥、氷嚢を頭に乗せられて畳に横たわる重音テト。その傍でマスターは、店主に向かってまた頭を下げる。

「お店の方も大変でしょうに、介抱まで手伝っていただいて……本当にありがとうございます」
「いやいや、平気だよ。どうせこんな所、滅多に客なんて来ないからね」

 そんなに人気のないビーチだったかな、とマスターは訝しむ。確かに、店には自分たち以外誰も見当たらないようではあったが。その怪訝げな表情に気づいたようで、店主がにやりと笑う。

「おや、知らずに来たのかい? この浜に出るって『人魚』の噂」
「人魚……ですか?」

 この子が起きるまでの時間潰しに丁度良いだろう、と店主は慣れた語り口で話し始めた。


 いわく。
 海が赤く染まったら、すぐに浜を離れなさい。耳を塞ぐことも忘れずに。赤い海には人魚が出て、歌に惹かれて近寄ってきたものを残らず餌食にしてしまうから。と、いうのがこの地域に古くからある言い伝え。都市伝説、迷信じみたそれであるが、実際毎年夏になると、ほぼ必ず何人かの行方不明者が出るという。観光客にも噂が広まって、結局隣町のより広いビーチに人が吸われてしまっている。だからこの浜には一部の物好きと、極稀に何も知らない人が訪れる程度なんだとか。


「……海が赤く染まるって、それ単なる赤潮なんじゃ?」
「おや、嬢ちゃん。目が覚めたかい」

 ぼそりと呟いた重音テトの顔を、二人の人間が覗き込む。どうやら、具合はすっかり回復したようだ。

「赤潮って海洋生物に良くないんだろ。魚も獲れなくなるって聞くし。それで警戒して、少しでも起きる頻度を減らすために作られた話だと僕は思うね」
「そんな、身も蓋もない……」
「ま、信じるか信じないかはあなた次第……ってやつさ」

 豪快に笑う店主、苦笑いするマスター。氷嚢を退かしたところで、ふと重音テトは先程のことを思い出す。店主の言葉を信じるならば、この浜に人はほとんど居ないらしい。なら、あの歌声は誰のものだったんだろうか?

「テトさん、ほら。あなたもぼんやりしてないで謝ってください」
「……ああ、はい。すみませんでした……」

 マスターに睨まれて頭を下げる頃には、そんな些細な考えは忘れてしまっていた。
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