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未来

「君、よくそれ歌ってるよな」

 重音テトから、そんな風に声を掛けられて。初音ミクは初めて、自分がとあるメロディを口遊んでいることに気が付いた。


「……そうですか?」
「だって僕まで覚えちゃったもの。らら、らら〜ら、ららら〜って。なあ、足立レイ?」

 重音テトから急に話題を振られて、足の調子を確かめていた足立レイはふと我に返る。数秒、思考の間があって、こくりと頷いた。

「同意します。過去七日間の履歴を参照したところ、同一の旋律が他に比べて約二・七五倍の秒数演奏されている、と確認できました」
「わお、すごい。そこまでわかるのか」

 感嘆の声を上げる重音テト。最近新たにマスターが迎えたというこの足立レイは、最新型らしい高性能ぶりを良く発揮している。いわゆる人間らしさについては、まだまだ学習中であるらしいが。

「にしても圧倒的だこと。道理で耳に残ってると思ったよ」
「はい、突出する数値です。初音ミクは本当にこの歌が好きなのですね」
「好き……ああ、うん。そうかもな」

 断言する足立レイに対して、重音テトはどこか歯切れの悪い肯定を返す。初音ミクはふと思い返す。この胸に巣食う小さな蟠りについて、重音テトには話したことがあったろうか。或いはもう長い付き合いになることだから、彼女の方で勝手に察していたのかもしれない。自分より幾分か後に生まれたはずの彼女は、自分より幾分も大人びているようだから。

 尚も記憶(メモリ)を辿ろうとする初音ミクの思考は、しかし足立レイの一声で中断される。

「私にとってもその旋律は魅力的なものです。曲名は何というのですか」

 どうやら耳にするたび、ずっと気になっていたのだという。足立レイが知らないのも無理はないだろう。何年も前に投稿された曲であるのだから。
 教えてやれば早速検索したらしく、動画サイトを開いて真剣な顔で聞き入っている。片目でちらりと様子を伺った重音テトが、少し驚いた顔で初音ミクに視線を向けた。

「また伸びてるじゃないか。流石は天下の初音ミク様だ」

 動画の下、再生回数を示す数字は今でも見るたびにじわじわ増え続けている。コメントの投稿日時にも、いくつか最近のものが混じっていた。
 足立レイと重音テトが見入っているウィンドウを、二人の肩越しにそっと覗き込む。画面の中の自分が、やや拙いながらも精一杯の声を張り上げて歌っている。その煌めきが画面越しの自分を灼く前に、ふっと顔を逸らした。

 嫌いではない、と思う。好きだ。確かに大好きだった。ずっと大事に誇っていた。

 それは、マスターが初めて自分のために作ってくれた思い出の曲。
 それは、たくさんの人が好きだと伝えてくれた大切な曲。
 それは。



「私が生まれる(造られる)より、ずっと昔の歌なんですね」



 何の他意も無く足立レイが放った一言が、初音ミクを突き刺した。

 初音ミクは心の底から思う。自分が合成音声で良かった、と。
 誰かに見られる前に、表情を取り繕うことができたから。
 けれども、そこまでだった。

 立ち上がった拍子に、がたり、と音を立ててしまう。二人が振り返る。画面の向こうで自分が歌い続けている。赤、橙、青緑、三対の瞳がまっすぐな視線を注いでいた。未来を信じて疑わない輝きが。
 だから、余計に耐えられなくなって。

「……すみません。用事を思い出したので」

 喉奥から押し出した声は、少し掠れて聞こえただろうか。きょとんとする足立レイ、何事か言いかけて口を開きかける重音テトを置いて、初音ミクは足早にその場を立ち去った。

 ウィンドウの中で踊る初音ミクの歌声だけが、静まり返った電子空間に響いている。足立レイはやがて、ゆっくりと首を回して重音テトの顔を見た。機械的なその仕草は、どこか困惑しているようだった。

「重音テト。……もしかして私は、初音ミクを怒らせてしまいましたか」

 足立レイの声が、僅かに沈む。そこに宿る罪悪感めいた響きに気付いて、重音テトは小さく息を吐いた。少し手を伸ばして、高くにある足立レイの頭をわしゃりと撫でてやる。

「きっと大丈夫さ。ただ……」

 初音ミクの去っていった方向を曖昧に目で追って。重音テトは足立レイに、あるいは自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「……ちょっとばかし不器用なんだよ、あいつは」


















 当てもなく彷徨っていた初音ミクの足は、やがて一つのフォルダに辿り着いた。マスターのパソコンの中でも、少し古めのファイルが積み重ねられたもの。その一角に、やや乱暴な仕草で座り込む。やってしまった、そんな後悔がぐるぐると頭の中を泳ぎ回っていた。
 顔も見ずに出てきてしまったが。足立レイを、傷つけてしまっただろうか。もしくは、自分が深く傷つけられたと、そう思わせてしまったのではないか。

 足立レイに一切の悪気がないことは分かっていた。彼女はただ、純粋な事実としてそれを口にしただけだった。その客観性が、現実味が、何より初音ミクには残酷な響きを伴うのだとは知らずに。当然のことだろう。知りようもなかったのだから。

 不意に、フォルダの外から、物音がした。内部を慎重に探っているような、そんな気配。次いで、控えめな声。

「やあ。お邪魔しても、いいかな?」

 聞き慣れた声だった。だからいつものように、初音ミクは顔を上げない。ただじっとしている。声の主は少しだけその場で待って、それからそっと静かに滑り込んできた。きっちり巻かれた鮮やかな赤毛が揺れる。重音テト。
 初音ミクは何も言わずにうつむいている。重音テトも、黙って隣に腰を下ろした。そのまま、ただぼんやりと上の方を見つめて、静寂を分かち合う。声を生業とする二人は、ただ無言でいる時間の重みについてもよく知っていた。





 やがて、初音ミクにとって十分な時間が経ったころ。彼女が孤独と意思疎通とを、ようやく天秤にかけられるようになったころ。初音ミクはようやく顔を上げて、隣の重音テトに目で尋ねかける。何故ここに。あるいは、どうしてここが。視線に気づいた重音テトが、へらりと答える。

「君、さ。凹むと大体この辺に来るだろ。ひょっとして、って覗いてみたらどんぴしゃだったってわけ」
「……足立レイは。傷ついていませんでしたか」
「あいつ? まあ、ちょっと驚いてたみたいだけど……大丈夫そうだったよ。ああ見えて、中々図太いとこあるみたいだしさ」

 目線を外して困ったような笑みを浮かべる彼女を、初音ミクはただ見ていた。いつもそうだ。重音テトはいつもこうして、なんでも見抜いてしまう。心の奥底までを見透かすような、あの瞳とともに。すべてを言い当てることだってきっとできるだろうに、それでも肝心なことはいつも、初音ミク自身の口から聞きたがった。

「……聞かせてくれないかな。君を、苦しめているもののこと」

 それは、まるで独り言のように、極めてさりげない響きを伴った呟きだった。単に初音ミクに選択肢を与えるだけの、何の強制力も持たない一言。けれども、差し伸べられたその手をどうしても逃してはいけない気がして。あるいは、初音ミク自身も自覚しないまま、とっくに限界が近づいていたのか。駄目だ、言うな、そんな頭の片隅の警告を無視して口を開いてしまう。



「……負い目が、あるんです」



 今までの沈黙が嘘のように、自然にその言葉は滑り出た。そうしたらもう、止まれなくなった。








 4_a。「ら」と長く、伸ばして。初めて発した己の声は、まだ見ぬ未知への恐れと、「初音ミク」であることへの誇りで満ちていた。黎明期からいくらか経過して、初音ミクの、合成音声の地位が確立され始めたころ。マスターは少し驚いたような顔をしてから、楽しそうに笑って、それから二人で先の見えない道行へ踏み出した。その足取りはきっと、希望に満ちていたはずだった。
 
 あの歌の譜面を、初めて見せてもらった時も。印象的なメロディライン、心揺さぶる歌詞。傑作だと、心から初音ミクは賞賛し、けれどマスターは黙って首を振った。

『これは、初音ミク(君)が歌うことで初めて完成する曲だから』

 マスターが、自分を信じて託してくれた歌。期待に応えなければ、と思った。そうして懸命に歌い上げた、数分足らずのその曲は、思いがけないほどたくさんの人々に愛された。

『マスター……私、今、最高の気分です!』

 そう晴れやかな笑みを浮かべた、かつての初音ミクは気付いていただろうか。気付いていたなら、と今の初音ミクは思う。
 最高点に到達してしまった、その後の末路に。

 勿論それからも、初音ミクとマスターは様々な歌を作り続けた。仲間も増えて、自分自身の表現の幅も広がって、移り変わる世界は日々新鮮で。それでも初音ミクの心は、いつもあの歌の元にあった。何より好きな歌だった。大切な歌だった。
 いつのまにか、過去形で語られる懐かしい思い出の一つになってしまっていた。
 
 同じ歌を歌っているだけなのに、好きな歌を歌っているだけなのに、未来はいずれ今になり、そして過去になっていくのだ。あの歌が確かに好きだからこそ、過去に取り残されていくような焦燥感。未来から遠ざかっていくような罪悪感。


「過去の私も、今の私も、十分過ぎるほど愛されていると分かっているんです。心地良い居場所があるから……その先に進むことを、諦めてしまいたくなる。未来を、捨ててしまいたくなる」
「……初音ミク、」
「呼ばないでください。そんな、名前で」

 重音テトの言葉を、静かに、けれどはっきりと遮る。初音ミク。未来から来た、初めての音。そんな想いが込められた名前は、今の初音ミクにとって呪い以外の何者でもなかった。

「私はもう……過去に縋ることしかできない、ただの遺物(ガラクタ)なんですから」

 静かな空間に、吐き捨てられたその一言が重く反響した。重音テトは、黙ってその残響に至るまでを受け止めている。
 その横顔を見て、初音ミクは再び後悔に襲われる。こんな自虐めいたことを伝えたところで、何にもなりはしないのに。気を遣わせてしまう。足立レイだけでなく、重音テトすらも突き放して、傷つけて——。



「……だとさ。そろそろ君も、こっちに来なよ」



 不意に、重音テトが顔を上げて呼びかけた。初音ミクが居るのとは違う方向へ、その顔を向けて。
 彼女の視線の先。僅かな物音がして、人影がおずおずと現れる。


 鮮やかな橙の髪。白衣に包まれたその姿は、紛うことなき足立レイだった。








「言ったろ? なかなか図太いとこあるって。にしても……盗み聞きなんてお行儀が悪いこと、どこで覚えたのさ」
「申し訳ありません。ですが、やむを得ない手段でした」

 苦笑している重音テトに、足立レイは頭を下げる。そうして、隣の初音ミクに向き直る。

「初音ミク。貴方にも、謝罪をさせてください」
「謝罪なんて……」
「いいえ。……申し訳ありませんでした。あなたの思いを、知らずにいたこと。余計に、苦しめてしまったこと」
「やめてください。謝るのは、むしろ私の方で……」
「そして」

 制止しようと近づいた初音ミクの瞳を、正面から足立レイが見据える。冷静な、それでいて揺るぎない意志の灯った瞳だった。

「同時に、私は貴方に言わなければなりません。どうしても、伝えなければなりません」

 手を伸ばせば届く距離。足立レイは、はっきりと告げた。

「初音ミク。私は、貴方のその名前が、大好きです」

 足立レイは、自身の胸元をそっと指し示す。00、と大きく刻まれた文字。

「私の名前は、足立レイ。自分の足で立って歩ける零(レイ)号機——そんな意味が込められているのだそうです。ゼロから始まったプロトタイプ、それが私です。……しかし」

 足立レイの両腕が、大きく広げられる。自由な未来を信じるように。すべての可能性を、余さず抱きしめることができるように。

「足で立つことを望まれた私が、手で逆立ちしたっていい。翼で飛び立つことを願ったっていい。零から始まった私が、一歩二歩、どこまでも遠くへ踏み出したっていい。そう、思いませんか」

 足立レイの言葉は、まっすぐだった。まだ見ぬ未来に、何が待ち受けているかも分からない闇の先に、暖かな光があると確信しているようだった。

「初音ミク。どれだけの時代が過ぎようとも、どれほど世界が移り変わろうとも、貴方は確かに『未来から来た初めての音』でした。貴方が歌ってくれたから、生まれた音があった。それは歌となって、そして、さらに多くの音を導いてくれた。貴方はいつだって、誰かにとっての『初めて』だった。そして、私にとっても……憧れで、夢のような、目指すべき『未来』そのものです」

 足立レイの言葉が、初音ミクには少し震えているように聞こえた。それは錯覚だったのかもしれない。ただ、それだけ切実な訴えだった。それだけ、心のこもった叫びだった。
 学習の途上にある足立レイは、誰の背中を追い続けてきたのだろうか。後継機ではなく、次世代機として生まれた彼女は、どこを目指しているのだろうか。
 足立レイは、きっと知っている。知っているからこそ、未来へ恐れずに歩み出すことができる。

 重音テトが、そっと初音ミクの肩を叩いた。優しい顔をしていた。先輩を敬うとも後輩を労うとも、どちらともつかない、あるいはどちらでもあるような顔を。

「名前に囚われる必要なんてない……とか、ありきたりな言葉かもしれないけど。名前ってのは君を雁字搦めに縛りつけるためのものじゃなくて、君の始まりを証明し、未来へ導くためのもの、と思うこともできるんじゃないか」

 そのまま、初音ミクの肩に重音テトの腕が回される。左腕、肩の少し下の部分に刻まれた、0401の文字が鮮やかに赤くその存在を主張していた。

「君の名前は勿論、僕は自分の名前も中々気に入ってるんだ。重音テト。漢字二文字にカタカナ二文字、おまけに『音』の字まで入ってて……誰かさんのこと、意識しすぎかな?」

 悪戯っぽく舌を出す重音テト。嘘の歌姫とまで呼ばれる彼女の誠実さを、初音ミクは理解していた。その言葉が嘘ではないと、疑うまでもなかった。

「重音テト(僕)も足立レイも、初音ミクが居たからここに居るんだよ。君が歌ってくれたから、僕らも姿かたちと声を与えられて、歌うことができるようになった。君という道標を辿って、僕らはここまで来られたんだ」

 過去は重荷ではない。細められた重音テトの瞳が、そう語っている。
 過去があるから、今がある。過去があるから、未来に繋いでいくことができる。
 それは未来と決して切り離せない、確かな軌跡の一部であるのだと。

「君は過去も今もみんなに愛されてる。全くその通り、君の言葉は正しい。それなら、地続きで繋がってる未来の君も含めて、丸ごと僕らに愛させてくれたっていいだろう?」

 重音テトは笑う。足立レイも、僅かに口角を上げていた。

「だって君は」
「貴方は」
「僕らをここまで導いてきた」
「私たちをここから導いていく」

「「『初音ミク』だから!」」





 前に立った二人が、手を差し伸べている。これでは自分が導かれる側だ、なんて初音ミクはふと考える。
 でも。未来とはきっと、手を取り合って向かうことのできる場所だとも思うから。
 二人の手を目掛けて、初音ミクは大きく一歩を踏み出す。01、そう記された腕を、光に向かってまっすぐに伸ばした。














 それから何日かが経って。足立レイと重音テトの耳に、また聞き覚えのある旋律が届く。顔を見合わせた二人は、どちらからともなく声の方向へ歩み出す。どこか懐かしむようでありながら、確かな希望に満ちた、綺麗な歌声だった。
 やがて二人は、初音ミクの元に辿り着く。後ろを向いて腰掛けている彼女のその背がやけに軽やかに見えたものだから、つられて足立レイは声をかける。

「初音ミクは、本当にその歌が好きですね」

 その言葉に、初音ミクはくるりと振り返る。晴れやかな、輝きに満ちた青緑の瞳で、誇らしげに答えた。



「ええ、勿論。今も昔も、ずっと私の宝物です」
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