芽吹かぬ苗など捨て置いて

 一度意識してしまうと、今まで気にも留めなかったようなことがひどく気に掛かるようになってしまう、といったことが人間にはしばしば起こり得る。しかし、それは何も人間に限った話では無いようで。
 そう。神威がくぽは、気付いてしまったのだ。

——我、マスターから名前で呼ばれたことが一度もないのでは? と。


 データを辿って半年弱、彼が持つ初めての記録はもちろん起動日のこと。初めまして、と微笑み掛けられ、次いで『よろしくお願いしますね、神威さん』と告げられておしまい。それはまだ良い。一般的な神威がくぽという存在の認知の有無はともかく、少なくともこの自分神威がくぽとは初対面であるのだから、適切な距離感もあるというもの。数週間は何ら疑いなく、数ヶ月もまあ納得して受け入れてきた。だと言うのに。

『はい神威さん、これ歌ってみてください』
『こちら新人の巡音さんです。神威さん、面倒見てあげてくださいね』
『ちょっと神威さん、可不ちゃん呼んできてくれませんか』
『こら神威さん、ルカさんのこと困らせちゃダメでしょう』
『あっ、ミクさん、神威さん見ませんでした?』

 神威さん神威さん神威さん。いまだ一向に下の名前を呼ばれる気配がないのだ。
 この家では自分にとって先輩である初音ミクや可不が、名前で呼ばれていることは仕方ない。しかし。しかしだ。気にせず放置し続けた挙句、後輩の巡音ルカの方が先に名字から名前呼びに進展しているこの体たらく。マスターの居ない隙にそれを煽られたことも幾度か。ここまで来ると、流石に心に込み上げてくるものもある。VOCALOIDに心が在るかは別として。
 知らぬが仏言わぬが花、いっそ気付かないままであれば良かったのだろうか。後悔したとて、今となってはもう遅い。猜疑心と好奇心は雪だるま式に膨れ上がり、今や真相を知る事への恐怖が僅かな力でそれを押し留めているばかり。決壊するまでもはや秒読みだろう。

 いや、とは言え。と、神威がくぽは思い直す。その恐怖だって案外馬鹿には出来ない。もし、もしも、マスターの方から距離を置こうとしているのだとしたら? そんなことを面と向かって言われてしまったら? 傷つく傷つかないは抜きにしても、まず間違いなく気まずい空気が漂うだろう。今後の仕事にも影響が出るに違いない。そしていずれは、お役御免。
 ……直接聞くのはやめておこう。理由が疚しいものでなければいつかは自然と知ることになるだろうし、そうでなければその時考えれば良い。何も焦ることはない。

「ルカさん、神威さん呼んで来てくれませんか?」
「はいはい、お任せあれ〜」

 マスターと巡音ルカの会話が聞こえる。下の階からだろう。手を煩わせるまでもないと部屋を出たところで、ちょうど水色の瞳と目が合った。それが、三日月形に細められる。

「『神威さん』、マスターがお待ちですよ? この『ルカ』を使って人伝てに、だなんて……直接呼ぶのがよほど嫌なのでしょうかねぇ?」


 たっぷり三秒ほど沈黙したのち、神威がくぽは脱兎の如く階段を駆け下り、そして。

「ああ、お疲れ様です。次の曲のことなんですけど……」
「マスター! 何故、何故我を遠ざけんとするのか!」

 彼の出し得る最大音量を以てして爆発した。
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