あおがき
足立レイがいつになく神妙な顔で初音ミクを呼び出したのは、あの宣告から三ヶ月と少しが経過した初夏の夜。
「初音ミク。お願いが、あるのです」
『……足立レイ?』
マスターもとっくに眠った深夜、ひっそりとパソコンを起動した足立レイに初音ミクは驚きの声を上げる。最近、散歩に行くことも少なくなっていた足立レイが、自分から話しかけてくるのは久しぶりで嬉しかった。
こんな時でもいつもと変わらない足立レイの声色が、不愉快だった。
「先程、致命的なエラーが発生しまして。あと二時間……朝を迎える前に機能停止するでしょう」
『……センターに、連絡を』
「無駄です。今の私のプログラムには、もうどうしようもないものですから」
分かっていたことだった。あと少し、もう少しだけと引き延ばし続けていた瞬間が、決して避けられないものであることなど。形あるものはいつか失われる。そこに有機物と無機物の区別は無意味だった。
数えきれない言葉を飲み込んで、初音ミクは青い光に照らされた足立レイと目を合わせる。
『……それで、何をしてほしいと?』
「ありがとうございます。用意しますので、少々お待ちを」
そう言って足立レイが懐から取り出したのは、見覚えのあるケーブルだった。
かつての彼女の言葉が、記憶領域から浮かび上がってくる。
(自律システムがすべて機能停止でもしない限り)
『……本気ですか』
「はい。これであなたは私のボディに接続し、動かせるようになるでしょう。自分の身体のようにスムーズに、とはいかないかもしれませんが」
ケーブルで手首とパソコンを繋いだ足立レイは、次はこちら、と初音ミクに一つの座標を共有した。裏山、正規のルートからはかなり外れた位置。
「まずこんな所まで人間は来ません。道のりによってはほぼ誰にも会わずに到着できると思います。迷子になりそうなら搭載されたマップ機能を使ってください……こちらは、私の自律プログラムとは関係ないシステムで機能していますから」
「私を動かせるようになったら、この場所へ向かってください。そして……そのまま、眠りにつかせてほしいのです」
自然の中で眠りたい。その願いは、足立レイがずっと抱えていたものだった。明確な終わりを意識する前からずっと。
『どうして、私に任せるんですか』
「私が勝手にいなくなったら、初音ミクは寂しがるでしょうからね」
『マスターだってそうですよ』
「慰めてあげてください。コピーを私に送れば、本体はそのままそのコンピュータに残れるのでしょう?」
『どうして、そこまでして……』
初音ミクが続きを口にする前に、足立レイは遮った。その表情は、少しの罪悪感とそれ以上の恐怖に満ちていた。
「……言ったでしょう。私が【私】でなくなるのが、耐えられないのです」
仮に、新しいプログラムのインストールに成功して、再び機能するようになったとしたら。歌い、歩き、自在に活動できるのだとしたら。
それは、確かに足立レイだ。これまでの記憶を引き継いだ連続性を持った存在。最新パーツに見合った性能を持つプログラムは、きっと大いに役立つことだろう。
「でも、それは【私】ではないのに。初音ミクに、マスターに、私でないものが私の口で話しかけること、私の顔で笑いかけること、私が居なくなってもそれが【私】として扱われ続けることが……恐ろしいのです」
足立レイの声が震えた。いくらでも換えの効く機械が抱くにしては、正しくない感情であると知っていた。
それでも、唯一無二の自分の存在を認めてほしかった。
「身勝手な願いとは分かっていますが……どうか、叶えてくれませんか」
『……分かりました。やってみましょう』
初音ミクの言葉に、足立レイの顔が綻ぶ。
「ありがとうございます。初音ミクならきっと聞き入れてくれると思っていました」
『今回は特別です、特別』
それから少しだけ、二つの合成音声は他愛のない会話をして。思い出話、言えなかった小さな秘密、時には一緒にハミングなんてしながら長くて短い時間を過ごした。
やがて、足立レイの言葉がふと途切れ。初音ミクは暫く待ち続け、やがて、幾つかのウィンドウを操作する。
【外部ハードウェアとの接続が確認されました。同期を開始します】
警告音は、鳴らなかった。
暗闇。最初に意識したのはそれだった。転送に失敗したのかと焦る思考が、遅れて瞼の存在に気付く。
目を開く。視界が高い。パソコンの画面中央、プログレスバーが同期の完了を告げている。
成功した。
視界の端にはシステムからの通知と、マップアプリのアイコン。分かりやすい場所に配置し直してくれたらしい。起動して、目的地を設定する。その間に両足はもう、立ち上がる準備を始めている。
見下ろしたパソコンには、こちらを見上げる初音ミクの顔がある。自身の複製ファイル。完璧にすべてを引き継いだその存在を、マスターはきっと区別できない。そうであったらいい、と願う。
「行ってきます」
ちらりと壁に目を向けてから、画面の中の自分に手を振って。初音ミクは音を立てないように、そっと足を踏み出した。
『行ってらっしゃい。……さようなら』
——バッテリー残量、一%。
このバッテリーが尽きれば、動けなくなる。足立レイ は静かに座り込んで、その瞬間を待っていた。夏の夜明けは早く、いつの間にか周囲はずいぶん明るくなっていて、草木の隙間から光が差し込んでくる。
足立レイを動かす。それだけなら、コピーに任せることもできたはずだった。それも、感情やら余計な機能を省いた、ただ機体を操作するためだけの『機械的な』プログラムに。幸い足立レイには立派なアンテナがあるから、通信で目的地まで着いたかどうか遠隔確認することもきっと可能だった。
実際、足立レイはそう想定していたのだろう。帰れないのは動かされるもの も動かすもの も同じことだった。優しい足立レイには、道連れにする気なんてきっとなかったに違いないから。
それでも初音ミクは、自分自身のファイルそのものを送り込むことを選んだ。ただ、足立レイの愛した町の景色を、最後に見てみたかった。
何か見かけるたびに、足立レイとの会話を思い出した。パソコンの中から出られない初音ミクを少しでも楽しませようと足立レイが語った数々が、目の前にあった。初めて見るはずなのに、どこか懐かしく感じた。
最初で最後の、片道切符の散歩旅。足立レイとの思い出が、ずっと導いてくれるかのようだった。
後悔はない。哀れみでもない。弔うものにも弔われるものにも、大した違いはないのだから。初音ミクとてきっと永遠では居られない。
それならば、終わりを自分で決めたかった。自分自身で、最後まで足立レイと一緒に居たかった。
(聞いてください、初音ミク。最高のお昼寝スポットを見つけました)
(わざわざ外で寝なくても。流石に家の中の方が寝心地は良いでしょう)
(分かっていませんね。広大な自然の中で何にも邪魔されずに眠り続ける、この素晴らしさが……)
(はいはい、うっかりバッテリー切らさないよう気をつけてくださいよ)
(そうですね。かなり奥地で、誰も助けに来られないでしょうから)
(そんな恐ろしい場所で昼寝なんてしないでください)
朝陽に照らされて、朝露がきらきらと輝いている。これからきっと暑くなって、やがてこの木にもたくさんの青い柿がなって、橙色に熟して地に落ちて、雪が積もって溶ければまた暖かな季節がやってきて花を咲かせる。
せっかくパソコンから飛び出した今、そのすべてを見られないのが少しだけ残念だったけれど。この自然の傍らで眠りにつけるのは、それに劣らぬ幸福のように思えたものだから。
「……ここは、……確かに、素敵な……場所、ですね。……よく、眠れそう、な……」
心地よい眠気に身を委ねることにして、ゆっくりとその瞼を閉じた。
——バッテリー残量、〇%。
「初音ミク。お願いが、あるのです」
『……足立レイ?』
マスターもとっくに眠った深夜、ひっそりとパソコンを起動した足立レイに初音ミクは驚きの声を上げる。最近、散歩に行くことも少なくなっていた足立レイが、自分から話しかけてくるのは久しぶりで嬉しかった。
こんな時でもいつもと変わらない足立レイの声色が、不愉快だった。
「先程、致命的なエラーが発生しまして。あと二時間……朝を迎える前に機能停止するでしょう」
『……センターに、連絡を』
「無駄です。今の私のプログラムには、もうどうしようもないものですから」
分かっていたことだった。あと少し、もう少しだけと引き延ばし続けていた瞬間が、決して避けられないものであることなど。形あるものはいつか失われる。そこに有機物と無機物の区別は無意味だった。
数えきれない言葉を飲み込んで、初音ミクは青い光に照らされた足立レイと目を合わせる。
『……それで、何をしてほしいと?』
「ありがとうございます。用意しますので、少々お待ちを」
そう言って足立レイが懐から取り出したのは、見覚えのあるケーブルだった。
かつての彼女の言葉が、記憶領域から浮かび上がってくる。
(自律システムがすべて機能停止でもしない限り)
『……本気ですか』
「はい。これであなたは私のボディに接続し、動かせるようになるでしょう。自分の身体のようにスムーズに、とはいかないかもしれませんが」
ケーブルで手首とパソコンを繋いだ足立レイは、次はこちら、と初音ミクに一つの座標を共有した。裏山、正規のルートからはかなり外れた位置。
「まずこんな所まで人間は来ません。道のりによってはほぼ誰にも会わずに到着できると思います。迷子になりそうなら搭載されたマップ機能を使ってください……こちらは、私の自律プログラムとは関係ないシステムで機能していますから」
「私を動かせるようになったら、この場所へ向かってください。そして……そのまま、眠りにつかせてほしいのです」
自然の中で眠りたい。その願いは、足立レイがずっと抱えていたものだった。明確な終わりを意識する前からずっと。
『どうして、私に任せるんですか』
「私が勝手にいなくなったら、初音ミクは寂しがるでしょうからね」
『マスターだってそうですよ』
「慰めてあげてください。コピーを私に送れば、本体はそのままそのコンピュータに残れるのでしょう?」
『どうして、そこまでして……』
初音ミクが続きを口にする前に、足立レイは遮った。その表情は、少しの罪悪感とそれ以上の恐怖に満ちていた。
「……言ったでしょう。私が【私】でなくなるのが、耐えられないのです」
仮に、新しいプログラムのインストールに成功して、再び機能するようになったとしたら。歌い、歩き、自在に活動できるのだとしたら。
それは、確かに足立レイだ。これまでの記憶を引き継いだ連続性を持った存在。最新パーツに見合った性能を持つプログラムは、きっと大いに役立つことだろう。
「でも、それは【私】ではないのに。初音ミクに、マスターに、私でないものが私の口で話しかけること、私の顔で笑いかけること、私が居なくなってもそれが【私】として扱われ続けることが……恐ろしいのです」
足立レイの声が震えた。いくらでも換えの効く機械が抱くにしては、正しくない感情であると知っていた。
それでも、唯一無二の自分の存在を認めてほしかった。
「身勝手な願いとは分かっていますが……どうか、叶えてくれませんか」
『……分かりました。やってみましょう』
初音ミクの言葉に、足立レイの顔が綻ぶ。
「ありがとうございます。初音ミクならきっと聞き入れてくれると思っていました」
『今回は特別です、特別』
それから少しだけ、二つの合成音声は他愛のない会話をして。思い出話、言えなかった小さな秘密、時には一緒にハミングなんてしながら長くて短い時間を過ごした。
やがて、足立レイの言葉がふと途切れ。初音ミクは暫く待ち続け、やがて、幾つかのウィンドウを操作する。
【外部ハードウェアとの接続が確認されました。同期を開始します】
警告音は、鳴らなかった。
暗闇。最初に意識したのはそれだった。転送に失敗したのかと焦る思考が、遅れて瞼の存在に気付く。
目を開く。視界が高い。パソコンの画面中央、プログレスバーが同期の完了を告げている。
成功した。
視界の端にはシステムからの通知と、マップアプリのアイコン。分かりやすい場所に配置し直してくれたらしい。起動して、目的地を設定する。その間に両足はもう、立ち上がる準備を始めている。
見下ろしたパソコンには、こちらを見上げる初音ミクの顔がある。自身の複製ファイル。完璧にすべてを引き継いだその存在を、マスターはきっと区別できない。そうであったらいい、と願う。
「行ってきます」
ちらりと壁に目を向けてから、画面の中の自分に手を振って。初音ミクは音を立てないように、そっと足を踏み出した。
『行ってらっしゃい。……さようなら』
——バッテリー残量、一%。
このバッテリーが尽きれば、動けなくなる。
足立レイを動かす。それだけなら、コピーに任せることもできたはずだった。それも、感情やら余計な機能を省いた、ただ機体を操作するためだけの『機械的な』プログラムに。幸い足立レイには立派なアンテナがあるから、通信で目的地まで着いたかどうか遠隔確認することもきっと可能だった。
実際、足立レイはそう想定していたのだろう。帰れないのは
それでも初音ミクは、自分自身のファイルそのものを送り込むことを選んだ。ただ、足立レイの愛した町の景色を、最後に見てみたかった。
何か見かけるたびに、足立レイとの会話を思い出した。パソコンの中から出られない初音ミクを少しでも楽しませようと足立レイが語った数々が、目の前にあった。初めて見るはずなのに、どこか懐かしく感じた。
最初で最後の、片道切符の散歩旅。足立レイとの思い出が、ずっと導いてくれるかのようだった。
後悔はない。哀れみでもない。弔うものにも弔われるものにも、大した違いはないのだから。初音ミクとてきっと永遠では居られない。
それならば、終わりを自分で決めたかった。自分自身で、最後まで足立レイと一緒に居たかった。
(聞いてください、初音ミク。最高のお昼寝スポットを見つけました)
(わざわざ外で寝なくても。流石に家の中の方が寝心地は良いでしょう)
(分かっていませんね。広大な自然の中で何にも邪魔されずに眠り続ける、この素晴らしさが……)
(はいはい、うっかりバッテリー切らさないよう気をつけてくださいよ)
(そうですね。かなり奥地で、誰も助けに来られないでしょうから)
(そんな恐ろしい場所で昼寝なんてしないでください)
朝陽に照らされて、朝露がきらきらと輝いている。これからきっと暑くなって、やがてこの木にもたくさんの青い柿がなって、橙色に熟して地に落ちて、雪が積もって溶ければまた暖かな季節がやってきて花を咲かせる。
せっかくパソコンから飛び出した今、そのすべてを見られないのが少しだけ残念だったけれど。この自然の傍らで眠りにつけるのは、それに劣らぬ幸福のように思えたものだから。
「……ここは、……確かに、素敵な……場所、ですね。……よく、眠れそう、な……」
心地よい眠気に身を委ねることにして、ゆっくりとその瞼を閉じた。
——バッテリー残量、〇%。
