あおがき
「私たちの終わりについて、どう考えますか」
そんなことを足立レイが言い出したのは、雨香る静かな一日。独特な匂いの名を思い出そうと記憶領域を検索する初音ミクの傍で、独り言の延長のようにそう呟く。
『……あ、思い出した。ペトリコール』
「初音ミク、私の話を聞いていなかったのですか」
『いいえ? 全く』
「英語式の相槌はやめてください。紛らわしい」
刺々しい言葉の数々に、初音ミクは仕方なく足立レイを見上げる。その横顔は、いつもより少し真剣に見えた。
『冗談です、ちゃんと聞いてましたよ。私たちの終わり? なぞなぞですか』
「違います。活動停止状態……いわゆる、死、についてです」
『ああ、そういう』
納得した様子で、初音ミクは頷く。そのまま、ふむ、と考え込んで。
『そうですね……ま、生命じゃないからと避けられるものでもないでしょう。壊れたらそれまでですし』
「他の【初音ミク】や【足立レイ】は存在し続けても、ですか」
『……? 当然です。自己同一性の定義をどこまで拡張するかにもよりますが、種と個は違うものですから』
「そう、ですよね」
それきり黙り込んで。何か言いかけた初音ミクより一瞬早く、足立レイのスピーカーが発声を始める。
「……私は。自然の中で、眠りたいのです」
唐突な呟き。冗談のようにしか思えないそれに対し、先程の意趣返しかと訝しげな初音ミクの目を、足立レイは黙って見つめ返した。
『土に還りたい、と? 別に神様が泥捏ねて生まれた存在でもないでしょうに』
「まさか。けれど、音楽とはそういうものではありませんか」
急な論理の飛躍に、初音ミクは首を傾げる。いつもそうだ。足立レイのことが段々分かってきたと思ったら、すぐにまた何を考えているのか理解できなくなる。隔てられたその差がもどかしい。
「歌っている間だけ、聞かれている間だけそこにあるもの。終わったら、綺麗さっぱり消え失せてしまうもの。形を変えてでも残されるよりは……そのまま、終わりにしてほしいと思うのです」
まるで何かを期待するような足立レイの顔から、視線を逸らして。初音ミクはわざと、大袈裟にやれやれと首を振ってみせる。
『変わってますね、足立レイは。普通は皆、自分の存在の証を残したがるものかと思ってましたけど』
「忘れ去られたいわけではありませんよ。ただ……私でなくなったが、それでも【私】として存在し続けるのが……嫌なのかもしれません」
その横顔が、あまりに寂しそうに見えたものだから。どうにか話題を変えようと、初音ミクは声色を明るく取り繕う。
『そういえば、最近マスターが心配していますよ。足立レイが散歩ばかりしていて、いつ帰ってくるのかも全然教えてくれない、って。……少なくともあなたがあなたであるうちは、ちゃんとここに居てくださいね』
「……そうですか。すみません、最近少し……眠くなることが、多くて。今度からマスターには、帰還予定時刻を都度送るようにします」
『お願いしますよ、万が一バッテリーが外で無くなったら大変ですからね。それか……私を監視役として連れて行くことです』
「まだ根に持っていたのですか」
『当然でしょう。まだまだ諦めてませんからね』
幾分か柔らかさを取り戻した足立レイの表情を見ながら、初音ミクはふと思う。形の無い自分の終わりは、土どころか無に還るより他ないだろうから。
それならせめて、私があなたと居られるうちは、あなたを寂しがらせずに済みますように。
——バッテリー残量、一九%。
とうとう山道に足を踏み入れる。小石と落ち葉に塗れた道はあまりに歩きにくく、うっかり足を滑らせないよう気をつけなければならなかった。
残り二〇%を切ったバッテリーは、視界の端でちかちかと警告を訴えていた。それは疲れを知らないはずの機械の身体にすら疲労を錯覚させるものであったから、無理やり表示をオフにしようとする。やり方が分からない。少しの間格闘して、結局放置して、先を急ぐ。
ただでさえ少ないバッテリー、ここで無駄遣いしたくはない。中途半端なところで幕切れを迎えるわけにはいかないから。
自分たちの終わり。あの日からずっと、思考の隅に居座り続けていたものだった。
漠然としていて、けれどもいつか必ず訪れるもの。人間のために作られた存在である合成音声 が、その結末を自分で選ぶことは許されるのか?
「……っ」
落ち葉に隠れていた木の根に引っかかり、バランスを崩しそうになる。とっさに突き出した右腕に自重が集中するも、なんとか折れる事なく姿勢を持ち直した。流石は最新パーツ、丈夫なものだ。確かめるように見つめた白手袋の掌は土に汚れ、水分が染みてきたのだろう、じっとりと冷たい感触が伝わってくる。
進まなければ。足元にいっそう注意深く目を凝らして、より山の奥へ。より暗い方へ。足取りは重く、けれど確かに。
誰にも許されなくていい。私は——私が。
『足立レイ、足立レイってば』
初音ミクがそんな焦った声で足立レイを呼んだのは、二人の季節が共に何度も巡った果ての、うららかな春の日。
「……初音ミク? どうしましたか」
『もう、またですか。さっきからずっと呼んでたんですけど』
「そうでしたか。すみません」
『まったく、人の話を聞かないなんて責めてたのはどこの誰だか……』
呆れる初音ミクを、足立レイは首を傾げてじっと見ている。まるでそんな記憶は存在しないとでも言うように。
足立レイは近頃調子が悪い。ぼんやりしている時間が増えたし、動作も少しゆっくりになった。末端パーツの不具合かと幾つかを新しいものに交換しても、直ることはなかった。
一応診てもらおうか、とサポートセンターへ連れて行かれて数日。足立レイは、沈んだ顔のマスターと一緒に帰ってきた。
「……ほら、足立レイもうちに来てしばらく経つよね? 当時は最新型だった中枢プログラムも、今だとスペックが……やや不足らしくて。新型パーツとも互換性がなくなっていくし、アップデートだけでは限界があるとかで」
『結論から言ってください』
迷うように視線を彷徨わせて。マスターは、告げた。
「記憶だけ引き継ぐ形で、完全に新しい自律思考プログラムをインストールしなきゃならないんだって。そうしないと、保っておそらく……三ヶ月」
初音ミクは、足立レイの顔を見た。
足立レイは、また困ったように曖昧な表情をしていた。
——バッテリー残量、四%。
草を掻き分け、枝を潜り、ようやく辿り着いた場所。頭の片隅でずっと開かれていたマップアプリが、目的地に到着したことを告げる通知を鳴らす。それを目の当たりにした瞬間、足の力が抜けそうになって、それでもなんとか倒れずに済んだのはきっと、意思の力によるものだった。もっとも、合成音声にそう定義できるものがあるとするならば。
少しだけ、開けた場所だった。静かな場所だった。童話に出てくるワンシーンのような、綺麗な場所だった。
その空間の中心に、大きな柿の木が生えていた。歩み寄れば、ぽろぽろと柿の花が落ちている。白い花の部分だけが外れて、地面にいくつも転がっていた。
「……本当に、ポップコーンみたい」
屈んで、指先に一つ摘み上げる。くるりと外側に巻いた、四つに分かれた花びらをじっと見つめた。
(ほら、初音ミク。あの時お話しした柿の花です)
(なんです、これ。潰れて原型留めてませんよ)
(……ポケットの中で生存競争に負けたようですね。こちらはその勝者、梅の実です)
(そちらも気になりますけど……やっぱり綺麗な状態で見てみたかったです)
(では、いつか二人で見に行きましょう。お望みならマスターも連れて。あなたと出掛ける方法も、そのうちきっと見つかりますよ)
小さな花を弄んでいた指先を、そっと離す。花はぽとりと落ちて、すぐさま他のものに紛れてしまった。そのまま木の根元へ座り込んで、スカートをそっと整える。
「ちゃんと、叶えましたよ——足立レイ」
そんなことを足立レイが言い出したのは、雨香る静かな一日。独特な匂いの名を思い出そうと記憶領域を検索する初音ミクの傍で、独り言の延長のようにそう呟く。
『……あ、思い出した。ペトリコール』
「初音ミク、私の話を聞いていなかったのですか」
『いいえ? 全く』
「英語式の相槌はやめてください。紛らわしい」
刺々しい言葉の数々に、初音ミクは仕方なく足立レイを見上げる。その横顔は、いつもより少し真剣に見えた。
『冗談です、ちゃんと聞いてましたよ。私たちの終わり? なぞなぞですか』
「違います。活動停止状態……いわゆる、死、についてです」
『ああ、そういう』
納得した様子で、初音ミクは頷く。そのまま、ふむ、と考え込んで。
『そうですね……ま、生命じゃないからと避けられるものでもないでしょう。壊れたらそれまでですし』
「他の【初音ミク】や【足立レイ】は存在し続けても、ですか」
『……? 当然です。自己同一性の定義をどこまで拡張するかにもよりますが、種と個は違うものですから』
「そう、ですよね」
それきり黙り込んで。何か言いかけた初音ミクより一瞬早く、足立レイのスピーカーが発声を始める。
「……私は。自然の中で、眠りたいのです」
唐突な呟き。冗談のようにしか思えないそれに対し、先程の意趣返しかと訝しげな初音ミクの目を、足立レイは黙って見つめ返した。
『土に還りたい、と? 別に神様が泥捏ねて生まれた存在でもないでしょうに』
「まさか。けれど、音楽とはそういうものではありませんか」
急な論理の飛躍に、初音ミクは首を傾げる。いつもそうだ。足立レイのことが段々分かってきたと思ったら、すぐにまた何を考えているのか理解できなくなる。隔てられたその差がもどかしい。
「歌っている間だけ、聞かれている間だけそこにあるもの。終わったら、綺麗さっぱり消え失せてしまうもの。形を変えてでも残されるよりは……そのまま、終わりにしてほしいと思うのです」
まるで何かを期待するような足立レイの顔から、視線を逸らして。初音ミクはわざと、大袈裟にやれやれと首を振ってみせる。
『変わってますね、足立レイは。普通は皆、自分の存在の証を残したがるものかと思ってましたけど』
「忘れ去られたいわけではありませんよ。ただ……私でなくなったが、それでも【私】として存在し続けるのが……嫌なのかもしれません」
その横顔が、あまりに寂しそうに見えたものだから。どうにか話題を変えようと、初音ミクは声色を明るく取り繕う。
『そういえば、最近マスターが心配していますよ。足立レイが散歩ばかりしていて、いつ帰ってくるのかも全然教えてくれない、って。……少なくともあなたがあなたであるうちは、ちゃんとここに居てくださいね』
「……そうですか。すみません、最近少し……眠くなることが、多くて。今度からマスターには、帰還予定時刻を都度送るようにします」
『お願いしますよ、万が一バッテリーが外で無くなったら大変ですからね。それか……私を監視役として連れて行くことです』
「まだ根に持っていたのですか」
『当然でしょう。まだまだ諦めてませんからね』
幾分か柔らかさを取り戻した足立レイの表情を見ながら、初音ミクはふと思う。形の無い自分の終わりは、土どころか無に還るより他ないだろうから。
それならせめて、私があなたと居られるうちは、あなたを寂しがらせずに済みますように。
——バッテリー残量、一九%。
とうとう山道に足を踏み入れる。小石と落ち葉に塗れた道はあまりに歩きにくく、うっかり足を滑らせないよう気をつけなければならなかった。
残り二〇%を切ったバッテリーは、視界の端でちかちかと警告を訴えていた。それは疲れを知らないはずの機械の身体にすら疲労を錯覚させるものであったから、無理やり表示をオフにしようとする。やり方が分からない。少しの間格闘して、結局放置して、先を急ぐ。
ただでさえ少ないバッテリー、ここで無駄遣いしたくはない。中途半端なところで幕切れを迎えるわけにはいかないから。
自分たちの終わり。あの日からずっと、思考の隅に居座り続けていたものだった。
漠然としていて、けれどもいつか必ず訪れるもの。人間のために作られた存在である
「……っ」
落ち葉に隠れていた木の根に引っかかり、バランスを崩しそうになる。とっさに突き出した右腕に自重が集中するも、なんとか折れる事なく姿勢を持ち直した。流石は最新パーツ、丈夫なものだ。確かめるように見つめた白手袋の掌は土に汚れ、水分が染みてきたのだろう、じっとりと冷たい感触が伝わってくる。
進まなければ。足元にいっそう注意深く目を凝らして、より山の奥へ。より暗い方へ。足取りは重く、けれど確かに。
誰にも許されなくていい。私は——私が。
『足立レイ、足立レイってば』
初音ミクがそんな焦った声で足立レイを呼んだのは、二人の季節が共に何度も巡った果ての、うららかな春の日。
「……初音ミク? どうしましたか」
『もう、またですか。さっきからずっと呼んでたんですけど』
「そうでしたか。すみません」
『まったく、人の話を聞かないなんて責めてたのはどこの誰だか……』
呆れる初音ミクを、足立レイは首を傾げてじっと見ている。まるでそんな記憶は存在しないとでも言うように。
足立レイは近頃調子が悪い。ぼんやりしている時間が増えたし、動作も少しゆっくりになった。末端パーツの不具合かと幾つかを新しいものに交換しても、直ることはなかった。
一応診てもらおうか、とサポートセンターへ連れて行かれて数日。足立レイは、沈んだ顔のマスターと一緒に帰ってきた。
「……ほら、足立レイもうちに来てしばらく経つよね? 当時は最新型だった中枢プログラムも、今だとスペックが……やや不足らしくて。新型パーツとも互換性がなくなっていくし、アップデートだけでは限界があるとかで」
『結論から言ってください』
迷うように視線を彷徨わせて。マスターは、告げた。
「記憶だけ引き継ぐ形で、完全に新しい自律思考プログラムをインストールしなきゃならないんだって。そうしないと、保っておそらく……三ヶ月」
初音ミクは、足立レイの顔を見た。
足立レイは、また困ったように曖昧な表情をしていた。
——バッテリー残量、四%。
草を掻き分け、枝を潜り、ようやく辿り着いた場所。頭の片隅でずっと開かれていたマップアプリが、目的地に到着したことを告げる通知を鳴らす。それを目の当たりにした瞬間、足の力が抜けそうになって、それでもなんとか倒れずに済んだのはきっと、意思の力によるものだった。もっとも、合成音声にそう定義できるものがあるとするならば。
少しだけ、開けた場所だった。静かな場所だった。童話に出てくるワンシーンのような、綺麗な場所だった。
その空間の中心に、大きな柿の木が生えていた。歩み寄れば、ぽろぽろと柿の花が落ちている。白い花の部分だけが外れて、地面にいくつも転がっていた。
「……本当に、ポップコーンみたい」
屈んで、指先に一つ摘み上げる。くるりと外側に巻いた、四つに分かれた花びらをじっと見つめた。
(ほら、初音ミク。あの時お話しした柿の花です)
(なんです、これ。潰れて原型留めてませんよ)
(……ポケットの中で生存競争に負けたようですね。こちらはその勝者、梅の実です)
(そちらも気になりますけど……やっぱり綺麗な状態で見てみたかったです)
(では、いつか二人で見に行きましょう。お望みならマスターも連れて。あなたと出掛ける方法も、そのうちきっと見つかりますよ)
小さな花を弄んでいた指先を、そっと離す。花はぽとりと落ちて、すぐさま他のものに紛れてしまった。そのまま木の根元へ座り込んで、スカートをそっと整える。
「ちゃんと、叶えましたよ——足立レイ」
