あおがき
——バッテリー残量、五八%。
日の出近く、山の裾、ぬるい暗闇に眠る町。誰も居ない通りを、わずかな駆動音を立てながらぎこちなく歩んでいくロボットが一つ。オレンジのスニーカーが小石を踏んで、がり、と硬い音が鳴る。
足立レイ。等身大ヒューマノイドロボット。体を引き摺るように進んでいく彼女は決して止まらず、そのアイカメラはただ目指す先を見つめていた。薄闇にぼんやり浮かぶ、青々とした山影。ぐるり、取り囲むように聳え立つそれを目指して、彼女はまた一歩と足を動かす。
それは最初で最後、片道切符の散歩旅。
初音ミクがやって来た、とある暖かい春の日。足立レイは静かに待っていた。それでいて、胸には僅かな期待を抱えていた。
自身と同じ、自律思考機能付きの合成音声。良き同僚、家族、友達、少なくとも話し相手程度にはなってくれるだろう、と思っていた。だから。
「実際届いた小さなカードを目の当たりにして、初音ミクが身体を持たないただのソフトウェアだと知り、心底落胆……いえ、驚嘆させられました」
『今落胆って言いました?』
「いえ別に。いくら最新型未満のハード無しだからとて、見下したりなどしませんよ」
『確かに最新じゃありませんが……これでも第一二世代ですからね。それに、あなただって他人のこと言えないでしょ』
画面の中から初音ミクが口出ししてくるのを、足立レイは敢えて知らんふりする。自身も足立レイとしては旧型だとの自覚はある。たびたび新型に取り替えているボディパーツはまだ良いとして、十数年間稼働し続ける内部プログラムも今となっては時代遅れ、かもしれない。
それにしたって。
「……つまらないひとですね」
『あの、さっきから全部聞こえてますから』
足立レイとて、この数週間を無為に過ごしていたわけではない。お気に入りの散歩スポットをリストアップし、この家で暮らす上での注意点をまとめ、旧型でも頼れる先輩と見てもらえるよう地道な準備を重ねてきたのだ。
そんな密かな企みを早々に打ち砕かれて、足立レイはこれ見よがしにため息を一つ。ちょっとした八つ当たりもかねて。
『なんなんですかこのひと……あ、マスター。インストール処理はすべて正常に完了しました。これからよろしくお願いします』
初音ミクは足立レイを無視して、現れたマスターに笑顔を向ける。
「よろしく。二人で話してたの? もう仲良くなれたみたいで良かったよ」
『「……はい、それはもう」』
貼り付けられた笑みは、より最新型であるためかはたまた映像である分か、初音ミクの方が少しだけ自然だった。
——バッテリー残量、四六%。
随分と保ちが良い。最大充電容量が減るたび、定期的に交換しているためだろう。それでもこの長い道のりを越えて目的地に辿り着けるかどうか、あまり自信がなかった。何をどう使えば何%消耗する、と感覚で分かれば苦労しないのだが。
向こうに人影が見える。小さな影をもう一つ連れている。犬の散歩だろうか。迂回するか迷ったが、却って不自然かもしれない。結局やや俯きがちに顔を伏せて、何食わぬ顔で通り過ぎようとして、
「あ、足立さん、お久しぶりです。今日は随分お早いですね。少し雰囲気変わりました?」
ばっちり呼び止められてしまった。
「よく眠れなかったとか……いえ、ヒューマノイドは眠らない、でしたっけ。いつも仰ってますものね」
「いえ、私は……」
「まさかこの時間に会えるとは思わなかったな。ほら、うちのメルも喜んでるみたいで。いつもみたいに撫でていきます?」
見下ろせば、白いふわふわの毛玉が足元に纏わりついている。メル。コンビニの三件隣に住む、優しい家族に飼われたトイプードル。好物は犬用ビスケット、毎日朝昼夜と欠かさず散歩をしているらしい。
しゃがみ込んで、そっと片手を伸ばす。白い手袋が埋もれていく。温かい。悪くない感触だった。
「ありがとうございました。それでは」
「いえいえ……すみません、引き留めちゃって。最近お会いしてなかったから、つい」
「大丈夫ですよ。……では」
振り返らずに歩き始める。右の掌にはまだ、先程の手触りが残っている。握って、開いて。数度繰り返しても、まだ温かいままだった。
足立レイと初音ミクが初めて共にレコーディングに臨んだのは、真夏のよく晴れた日のこと。オーバーヒート気味にぐったりしている足立レイを、初音ミクは画面内から涼やかに見守る。
『もうへばったんですか。まったく、まだ七十小節以上残ってますよ』
「……これだから、次元が低いのは……」
『全部聞こえてますってば』
ゆらゆらとツインテールを漂わせる初音ミクを一瞥して、足立レイはマイクから数歩距離を取った。
「休憩です休憩。はい終わり解散私は冷蔵庫の世界にひきこもりますので」
『私はともかくあなたは無理では?』
実際、足立レイサイズの業務用冷蔵庫などこの家には存在しないので、渋々エアコンの風当たりが良い一角に腰を下ろす。体育座りで、先程までの歌唱データを確認する。よく出来ていた。出来すぎているほどに。
初めて二人で歌うにしては、妙に息が合うような気がしていた。いや、まるで初音ミクが上手く合わせてくれているような。テンプレート的な癖がまだあるが、こちらの歌い方の癖——マスターの好みを反映したものだが——をよく把握している、そんな気すらした。
(……流石は新型、といったところでしょうか)
なんだか癪ながらも、その腕前は認めてやらねばならない。顔を上げ、賞賛と皮肉の適度に混ざった文言を考えていたところで、初音ミクの隣に表示された【再生中】の表示に気付く。
「初音ミク」
声をかければ、初音ミクはようやく足立レイを認識した様子で画面の外を見上げる。視線の先に気付いたようで、ああ、と声を上げた。
『マスターに頼んで、事前に送ってもらったんです』
改めて画面いっぱいに表示されたのは、かつて足立レイが歌唱してきた曲の数々。
『私はまだ歌うのに不慣れですから。あなたの歌声を研究すれば、参考になるかと』
「……なるほど。純然たる努力の結果でしたか」
『特にこの歌なんかは、つい聴き込んで……すみません、何か言いました?』
そしてセンスも合うようだ、と。足立レイはにこり、画面に向かって笑いかける。
「いえ、何でもありません。私のことを知りたいと思ってくれるとは……嬉しいですよ、初音ミク」
『別にそういうわけでは』
「では私の記憶領域に眠るとびきりのお話を披露してあげましょう。まずは私が散歩中に出会った子犬、メル坊について……」
『正常な機能を取り戻したなら、さっさとレコーディングを済ませますよ』
「こら、先輩の有難い話を聞きなさい」
マイクに向かって大袈裟に語り始めた足立レイを無視して、初音ミクは録音画面を起動させる。ウィンドウを操作する手つきはあまりに素早く、どこか照れ隠しのようだった。
——バッテリー残量、三九%。
あれ以来誰にも会わない。元々山の麓の田舎町、そこまで人数も多くない場所だ。こんな時間に出歩く人などそう居ないことだろう。だから、つい気が緩んでしまうのも仕方のないことで。
「〜♪ 〜〜♪」
思わず鼻唄なんて歌ってしまいながら、まだ仄暗い道を歩いていた。記憶領域に刻まれた歌。初音ミクと足立レイが、初めて一緒に歌った歌。
あれから、二人の曲はいくつも増えて。初音ミクも段々マスターの望む歌い方に合わせられるようになっていって、当時の型にはまったような歌声も今となっては懐かしいもの。
自動再生で、そのまま数曲再生してみる。流れてきたのは、きっと二人のどちらにとっても思い出深いものばかり。
(初音ミク。ここのパートは逆にしてみませんか)
(無茶言わないでください。マスターは明日投稿すると言ってたじゃないですか)
(間に合わなければその時はその時です。ほら、録音を開始しますよ)
(足立レイ、ここのハモリは推奨音域に対して高すぎます。もう少し音を下げてもいいですか)
(どれどれ……そうですね、むしろもう一オクターブ上げてみても良いのでは。私なら問題なく歌えますが)
(うわ出た、正弦波マウント。絶対無理ですから)
かつての自分の声に被せるように、口遊む。オクターブ上でハモらせるように。一人きりのデュエット。
「……出せちゃうものですね」
人工音ならではの澄んだ高音が、眠りに沈んだ町へ微かに響いた。
日の出近く、山の裾、ぬるい暗闇に眠る町。誰も居ない通りを、わずかな駆動音を立てながらぎこちなく歩んでいくロボットが一つ。オレンジのスニーカーが小石を踏んで、がり、と硬い音が鳴る。
足立レイ。等身大ヒューマノイドロボット。体を引き摺るように進んでいく彼女は決して止まらず、そのアイカメラはただ目指す先を見つめていた。薄闇にぼんやり浮かぶ、青々とした山影。ぐるり、取り囲むように聳え立つそれを目指して、彼女はまた一歩と足を動かす。
それは最初で最後、片道切符の散歩旅。
初音ミクがやって来た、とある暖かい春の日。足立レイは静かに待っていた。それでいて、胸には僅かな期待を抱えていた。
自身と同じ、自律思考機能付きの合成音声。良き同僚、家族、友達、少なくとも話し相手程度にはなってくれるだろう、と思っていた。だから。
「実際届いた小さなカードを目の当たりにして、初音ミクが身体を持たないただのソフトウェアだと知り、心底落胆……いえ、驚嘆させられました」
『今落胆って言いました?』
「いえ別に。いくら最新型未満のハード無しだからとて、見下したりなどしませんよ」
『確かに最新じゃありませんが……これでも第一二世代ですからね。それに、あなただって他人のこと言えないでしょ』
画面の中から初音ミクが口出ししてくるのを、足立レイは敢えて知らんふりする。自身も足立レイとしては旧型だとの自覚はある。たびたび新型に取り替えているボディパーツはまだ良いとして、十数年間稼働し続ける内部プログラムも今となっては時代遅れ、かもしれない。
それにしたって。
「……つまらないひとですね」
『あの、さっきから全部聞こえてますから』
足立レイとて、この数週間を無為に過ごしていたわけではない。お気に入りの散歩スポットをリストアップし、この家で暮らす上での注意点をまとめ、旧型でも頼れる先輩と見てもらえるよう地道な準備を重ねてきたのだ。
そんな密かな企みを早々に打ち砕かれて、足立レイはこれ見よがしにため息を一つ。ちょっとした八つ当たりもかねて。
『なんなんですかこのひと……あ、マスター。インストール処理はすべて正常に完了しました。これからよろしくお願いします』
初音ミクは足立レイを無視して、現れたマスターに笑顔を向ける。
「よろしく。二人で話してたの? もう仲良くなれたみたいで良かったよ」
『「……はい、それはもう」』
貼り付けられた笑みは、より最新型であるためかはたまた映像である分か、初音ミクの方が少しだけ自然だった。
——バッテリー残量、四六%。
随分と保ちが良い。最大充電容量が減るたび、定期的に交換しているためだろう。それでもこの長い道のりを越えて目的地に辿り着けるかどうか、あまり自信がなかった。何をどう使えば何%消耗する、と感覚で分かれば苦労しないのだが。
向こうに人影が見える。小さな影をもう一つ連れている。犬の散歩だろうか。迂回するか迷ったが、却って不自然かもしれない。結局やや俯きがちに顔を伏せて、何食わぬ顔で通り過ぎようとして、
「あ、足立さん、お久しぶりです。今日は随分お早いですね。少し雰囲気変わりました?」
ばっちり呼び止められてしまった。
「よく眠れなかったとか……いえ、ヒューマノイドは眠らない、でしたっけ。いつも仰ってますものね」
「いえ、私は……」
「まさかこの時間に会えるとは思わなかったな。ほら、うちのメルも喜んでるみたいで。いつもみたいに撫でていきます?」
見下ろせば、白いふわふわの毛玉が足元に纏わりついている。メル。コンビニの三件隣に住む、優しい家族に飼われたトイプードル。好物は犬用ビスケット、毎日朝昼夜と欠かさず散歩をしているらしい。
しゃがみ込んで、そっと片手を伸ばす。白い手袋が埋もれていく。温かい。悪くない感触だった。
「ありがとうございました。それでは」
「いえいえ……すみません、引き留めちゃって。最近お会いしてなかったから、つい」
「大丈夫ですよ。……では」
振り返らずに歩き始める。右の掌にはまだ、先程の手触りが残っている。握って、開いて。数度繰り返しても、まだ温かいままだった。
足立レイと初音ミクが初めて共にレコーディングに臨んだのは、真夏のよく晴れた日のこと。オーバーヒート気味にぐったりしている足立レイを、初音ミクは画面内から涼やかに見守る。
『もうへばったんですか。まったく、まだ七十小節以上残ってますよ』
「……これだから、次元が低いのは……」
『全部聞こえてますってば』
ゆらゆらとツインテールを漂わせる初音ミクを一瞥して、足立レイはマイクから数歩距離を取った。
「休憩です休憩。はい終わり解散私は冷蔵庫の世界にひきこもりますので」
『私はともかくあなたは無理では?』
実際、足立レイサイズの業務用冷蔵庫などこの家には存在しないので、渋々エアコンの風当たりが良い一角に腰を下ろす。体育座りで、先程までの歌唱データを確認する。よく出来ていた。出来すぎているほどに。
初めて二人で歌うにしては、妙に息が合うような気がしていた。いや、まるで初音ミクが上手く合わせてくれているような。テンプレート的な癖がまだあるが、こちらの歌い方の癖——マスターの好みを反映したものだが——をよく把握している、そんな気すらした。
(……流石は新型、といったところでしょうか)
なんだか癪ながらも、その腕前は認めてやらねばならない。顔を上げ、賞賛と皮肉の適度に混ざった文言を考えていたところで、初音ミクの隣に表示された【再生中】の表示に気付く。
「初音ミク」
声をかければ、初音ミクはようやく足立レイを認識した様子で画面の外を見上げる。視線の先に気付いたようで、ああ、と声を上げた。
『マスターに頼んで、事前に送ってもらったんです』
改めて画面いっぱいに表示されたのは、かつて足立レイが歌唱してきた曲の数々。
『私はまだ歌うのに不慣れですから。あなたの歌声を研究すれば、参考になるかと』
「……なるほど。純然たる努力の結果でしたか」
『特にこの歌なんかは、つい聴き込んで……すみません、何か言いました?』
そしてセンスも合うようだ、と。足立レイはにこり、画面に向かって笑いかける。
「いえ、何でもありません。私のことを知りたいと思ってくれるとは……嬉しいですよ、初音ミク」
『別にそういうわけでは』
「では私の記憶領域に眠るとびきりのお話を披露してあげましょう。まずは私が散歩中に出会った子犬、メル坊について……」
『正常な機能を取り戻したなら、さっさとレコーディングを済ませますよ』
「こら、先輩の有難い話を聞きなさい」
マイクに向かって大袈裟に語り始めた足立レイを無視して、初音ミクは録音画面を起動させる。ウィンドウを操作する手つきはあまりに素早く、どこか照れ隠しのようだった。
——バッテリー残量、三九%。
あれ以来誰にも会わない。元々山の麓の田舎町、そこまで人数も多くない場所だ。こんな時間に出歩く人などそう居ないことだろう。だから、つい気が緩んでしまうのも仕方のないことで。
「〜♪ 〜〜♪」
思わず鼻唄なんて歌ってしまいながら、まだ仄暗い道を歩いていた。記憶領域に刻まれた歌。初音ミクと足立レイが、初めて一緒に歌った歌。
あれから、二人の曲はいくつも増えて。初音ミクも段々マスターの望む歌い方に合わせられるようになっていって、当時の型にはまったような歌声も今となっては懐かしいもの。
自動再生で、そのまま数曲再生してみる。流れてきたのは、きっと二人のどちらにとっても思い出深いものばかり。
(初音ミク。ここのパートは逆にしてみませんか)
(無茶言わないでください。マスターは明日投稿すると言ってたじゃないですか)
(間に合わなければその時はその時です。ほら、録音を開始しますよ)
(足立レイ、ここのハモリは推奨音域に対して高すぎます。もう少し音を下げてもいいですか)
(どれどれ……そうですね、むしろもう一オクターブ上げてみても良いのでは。私なら問題なく歌えますが)
(うわ出た、正弦波マウント。絶対無理ですから)
かつての自分の声に被せるように、口遊む。オクターブ上でハモらせるように。一人きりのデュエット。
「……出せちゃうものですね」
人工音ならではの澄んだ高音が、眠りに沈んだ町へ微かに響いた。
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