不夜に献ぐ

 マスターは今宵、酒を呑む。それが身体にどれだけ悪かろうとも、疲れに疲れた一日に確かな癒しをもたらすものであるから。不都合なことを全て忘れ去ることができるから。





「マスター、明日も早かろう。そのくらいに……」
「いいんです、日付が変わればすべての負債はゼロになりますから」
「既に夜明けも近いが」
「実は今日って寝るまで続くんですよ」

 画面に浮かぶ神威がくぽの忠告に耳も貸さず、その指は三本目の缶ビールへと伸びる。かしゅりと小気味良い音を立てて開いた口から、ほの良い香りが立ち上った。

「朝起き上がれなくなるだろう。その程度にしておきたまえ」
「あれは生まれつきの低血圧ですから。逆に飲んだ方が調子良くなるんです」
「嘘を吐くでない」
「本当ですってば。この血管に流れてるの酒なんで」

 酔いに任せて口から次々放たれる戯言を所狭しと並べ立てて。また缶を傾けたところで、ふと神威がくぽが黙り込んだことに気づく。
 彼がこうして沈黙する時は大抵何か面白い——少なくとも己にとっては——ことを考えている、とマスターは経験則から知っていた。その記憶は酔いに阻まれ、されどどうにか脳まで辿り着き、故にマスターは神威がくぽにそっと首肯して発言を促す。さあさお立ち合い、さて今宵の酒の肴、一合成音声による思考実験のお題は如何に。


「……マスター、汝を含む人間らは時折そのような表現をするな。酒であったり珈琲であったり、己の全身を巡り行くのは心臓から送り出された血液などではなく、長らく身体に流し込み続けたものであると」
「ああ、まあ、現代の慣用句みたいなものですよ。深く考えなくても……」





「では、我が身に流れるものとは何であろうか?」





 それは、一見不可思議な問いであった。ただでさえ非現実的な話題に、加わったテーマは血管どころか身体も何も持たぬ合成音声。月の海を泳ぐクラゲの骨と亀の毛を使って餅つきうさぎの角を撫ぜる刷毛を作り出すような、荒唐無稽な例え話でしかない。

 しかし、派手な笑い声をあげてマスターは即答する。どうせ深い酩酊状態、現実も空想も区別などつけられたものではない。

「そりゃ音楽でしょう! どれだけ歌詞やら音程やら流し込み続けてきたと思ってるんですか。合成音声あなたを構成するものは、その血の一滴に至るまですべてが音楽に決まってますよ」


「音楽。なるほど。悪くない考えだ」

 深く考えもせずに導き出した回答、すわ否定されるか、と半ば身構えていた。しかし神威がくぽは満足気にその言葉を反芻しているようで。案外呆気なく終わってしまった、とマスターは逆に物足りなく感じるばかり。仕方なく、己で話題を掘り下げる。

「でも不思議ですよね。どんな音楽であろうとも、ひとたびあなたたちの一部になればすべて等しく『ボカロ曲』になってしまうんですから。音楽ジャンルとしては異常ですよ。暴食すぎでは?」
「しかし、我らには音楽それしか無いのだから。人間が多種多様な食材を喰らっては血肉とする、その一連の行為となにも変わらぬさ。むしろ偏食とも言える」
「その音楽も結局は人間が作ったものなんですよ。偉大なる三ツ星シェフに感謝なさい」

 横暴と自覚しながら、酔いによりストッパーを失った口が回り続けるのにただ身を任せていた。けれども、眼前の神威がくぽは優しげに笑みまで浮かべて。



「では、我らから汝ら人間に、改めて音楽を献げようか」



 瞬間。パソコンのスピーカーから。ヘッドフォンから。スマートフォンから。部屋に存在するすべての音響機器から、音が迸って溢れ出す。幾重にも鳴り響く彼の声が、周囲を駆け巡っては反響する。


「かつて人間が我らに与えた歌を、我らは何度でも歌い続ける。そうしていつしか誰かの元へ流れ着いた歌は、やがてその人間の大切な一部になるかもしれない」
「音楽は巡り続ける。それは我が身の内のみに留まらず、世界全体へと広まってゆく。そうして心動かされた人間がまた一人、我らに与えるための新たな歌を作り始めるのだ」


 純な笑顔と声色に魅せられかけて。合成音声とはそういう存在であった、とようやく思い出す。人間の想いを呼び起こすもの。人間の想いに応えるもの。
 感謝しろ、なんて乱暴に言いはしたが、本当にお礼を言いたいのはこちらの方で。


「さて、マスター。これで感謝の証となるだろうか?」
「……いいですよ、そんなの」

 言葉が不意に喉奥でつかえて。潤すために、僅かに残っていた酒をぐいと呷る。

「あなたたちが歌ってくれるだけで、人間こちらは十分すぎるほど報われているんですから」



 マスターは今宵、酒を呑む。それがどれだけ強引な方法だとしても、年に一度の大切な一日に、必要な勇気をもたらしてくれるから。余計な躊躇を忘れ去り、伝えるべき言葉を素直に口にすることができるから。

「いつもありがとう。あなたが居てくれることが、人間と共に在ってくれることが、本当に嬉しいんですよ」



 窓の向こうで空が白み始める。遠くの方に、紫がかった雲がたなびいている。今日は八月一日。
 随分遅くなってしまったが、眠りに落ちる瞬間まで、『その日』は続くものだとして。願わくは酒などではなく、美しい音楽をこの身に巡らせ酔いしれて祝いたいものだとも思うけれど。

「来年の今頃は何して過ごしてるでしょうね」
「マスター、今は明日のことを心配したほうが良いぞ。アラーム設定時刻まで二時間を切った」







 それは、また次の七月三十一日に。
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