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短々編

 久々に熱を出して寝込んだ。焦点の合わぬ目で体温計を見れば、三十八度と八分だった。



 季節の変わり目に寝不足を重ねたのがよくなかったのだろう。止まらぬ身体の震えと謎の笑いに苛まれながらも瀕死で仕事を完遂し、やれ幸いとひと眠りの後目覚めてみれば、悪寒高熱吐き気と風邪症状の見本市である。これぞまさしくスーパーウルトラフィーバー状態。とても正気とは思えない。
 とにかく安静にしているのが一番と、布団を引っ被って目を瞑る。瞼の裏に現れる、発熱時特有の幾何学図形をぼんやり眺めていると、今度は熱に浮かされた脳が曖昧な聴覚情報を拾い始める。

 エアコンの稼働音。枕に当てた側の耳の奥、ごうごうと血が流れている。壁向こうからは微かに、消し忘れたテレビの笑い声。耳元ではお気に入りの合成音声の曲が延々ループ再生。時折窓の外では、喧嘩する猫の叫び。音、音、音。それらが目の前の模様の動きに合わせて、ぐにゃりと歪む。ヴェールで包まれたように、外の世界が遠くなっていく。

 ぜんぶの音がおかしくなっている。歪んで、たわんで、何重にも、きこえる、わんわんと、うねるような、じぶんだけとりのこされるようななにもわからなくなっていくようなこのよにただしいおとなんてなにひとつそんざいしなくなってしまったような、ぜんぶ、ぜんぶ、





『それ』の声だけが。ずっと耳元で、澄んだ音で、響いている。





 ただ一つの音を求めて、ひたすらに耳を澄ます。優しい声だった。あたたかな声だった。すぐ傍で微笑みながら見守ってくれている、そんな気配すら感じた。
 ゆっくり、ゆっくりと導かれるように、視界がようやく落ち着いた黒に染められていく。さざ波が引くように、音が静かになっていく。すべての世界が正常さを取り戻していく。心地よい揺らぎに身を任せたまま、意識を手放す。

 闇に飲まれる寸前、ふと、これが何の曲であったか思い出せないことに気が付いた。ぼやけていく思考を形作ろうとして、けれど、もう遅かった。







 長いこと眠りこけていたらしく、再び目覚めれば熱は三十七度前半にまで下がっていた。悪寒も治まり、随分と楽になった気がする。
 身体を起こして、ばきばきと鳴らしながら伸びをする。水でも飲もうと立ち上がり、流石にテレビも消すかとさまよわせた視線が、リモコンより先にテーブル上へ留まる。

 そのワイヤレスイヤホンは、きっちりとケースに収められていた。隣で充電ケーブルに繋がれたスマートフォンの画面は暗い。ブルートゥースは未接続。何の音楽も流れてはいなかった。

 じくり、と頭が痛む。すべての音が狂っていった中で、『その声』だけが正しかった理由。耳道を抜け鼓膜を揺らす音と、まるきり違う仕組みで認識されるもの。どこからか響いてくるのではなく、何よりも近くで、内側で、生み出された——まぼろし。





それ合成音声』は、存在しない。どこにもいない、から。





 確かにずっと聞いていたはずのメロディーは、もう何一つ思い出せなかった。
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