てんのむし

『触るな』と人間が言うならば、それは絶対に触ってはいけないものなのだ。


 そう素直に解釈したKAITOは即座に机から距離を取る。

「ごめん、先に言っとけばよかった」

 慌てて近寄ってきたマスターに、彼は気にしないでと首を振った。不注意に手を伸ばした自分が悪かったのだから、と、反省ポイント一追加。千貯まれば地獄行き。逆にマイナス千になれば、天国へ行けるかも。
 それよりこっち、つい先程まで見つめていたものを指差して。

「触らないから教えて。これ、何?」
「……教師やってる友達から押し付けられたんだよ。餌はちゃんと渡すから代わりに飼ってくれ、って。だから散々虫嫌い直しとけって言ったのに」
「虫? 僕、この前コバエ三匹捕まえたけど」
「おお、やるじゃん。でもこれは益虫だから、駆除しちゃ駄目だよ」

 そう言って、マスターは苺パックの蓋をそっと開けてみせる。覗き込んで、KAITOは小さく歓声を上げた。
 敷き詰められたティッシュペーパーの上、緑の葉にちょこんと乗った白いイモムシ。じっと見つめられているような気がして、にこりとKAITOは笑顔を返す。

「この子、カイコって虫だよね! 綺麗な糸を作るって聞いたことあるよ」
「なら話は早い。大体二十日で繭になるらしいから、それまでKAITOも面倒見てやって」
「わかった。それじゃ、これからよろしくね」

 人差し指の先をぴょこりと曲げて、KAITOは小さな同居人に挨拶を一つ。名前は何にしようか、育成日記をつけてみようか。矢継ぎ早に浮かぶアイデア、浮かれすぎだと戒めようにも止まらぬ思考に苦笑するマスターだった。





 あれから数日。嬉々として幼虫の世話に勤しむKAITOは、マスターから直々に『お世話係』の称号を賜っていた。
 新しく生じた仕事の新鮮さと別の生き物に触れ合う喜びにすっかり魅入られたらしい彼は、毎日暇を見つけてはインターネットデータベースに接続し、蚕についての知識をインプットしている。

「知ってた、マスター? 蚕って一匹二匹じゃなくて、一頭二頭で数えるんだって」
「飽きずによく調べるよ。もうあいつの代わりに授業講師やりに行く?」
「だめだよ、僕の本業は歌うことだから。お世話係こっちはあくまで副業だし、これ以上掛け持ちなんてできないよ。ねー、かいちゃん」

 かいちゃん(推定メス・生後四日)に話しかけついで、頭でも撫でようとそっと指を伸ばしたKAITOは、しかし直前で思い留まりその指を引っ込める。マスターの友人がくれたという飼育マニュアルによれば、蚕は熱や刺激に弱いらしい。VOCALOIDに人間ほどの体温はないにしても、あまりべたべた触れるのは良くないだろう。

「名前までつけて……情が移っても知らないよ」
「大丈夫、定命のものはいずれ儚く散りゆく運命さだめってちゃんと知ってるから」
「またファンタジー曲でも聞き漁った?」

 でもなるべく長生きさせてあげるつもりだよ、と意気込むKAITOが涙目でマスターの元に駆け込んだのは、それからわずか三時間後のこと。



「マスター! どうしよう、かいちゃんが!」

 パックごと持ち運ぶわけにもいかず、KAITOは半ば無理やりにマスターを育成部屋へと引っ張り込む。桑の葉の上には、頭を上げた姿勢のままで硬直する幼虫の姿があった。

「全然動かなくなっちゃって……交換できる部品とかってあるかな?」
「機械じゃないんだから。ちょっと待って、今マニュアル見てみる」

 左上をホチキス留めされたA4用紙と睨めっこすること数分、マスターはようやく目当ての情報を探し当てた。どうやら心配いらないようだと告げれば、KAITOは安堵とともにほっと溜息ブレスを吐く。

「脱皮前はこうやって動かなくなるらしい。この辺についてはまだ調べてなかった?」
「最近は地方名が面白くて。蚕のことをおしらさまとかこごじょって名前で呼んでる地域もあるらしいよ」
「雑学より育成知識を学んでおいてほしいんだけど」
「こっちの方が作曲インスピレーションに良さそうなのに」
「次の新曲タイトルが『蚕 名 言 っ て み ろ !』になっても本当にいいんだね?」

 とにかく良かった、順調に育ってくれてるみたいで、とKAITOはようやく胸を撫で下ろす。反省ポイント三追加。お騒がせしました、とマスターに軽く頭を下げた。

「別にいいよ。それよりこの変な姿勢で微動だにしないところ、アップデート中のKAITOにちょっと似てるね」
「え、いつもこんな感じなの? 意識ないし知らないんだけど」

 軽口に反応できる程度の余裕も取り戻せたようで、これにて一件落着。



 翌日一回り大きくなって再び元気に動き出した蚕の前で、二人はハイタッチを交わした。
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